最近読んだいくつかの本を紹介して、それをめぐる私見を述べてみたいと思う。自分の読書歴を明かすのは、もっともプライベートな部屋を見せるようで気恥ずかしいところもあるが、ある一人の人間の素の姿を理解するには有効な手段だと思うから、これからも時々やって行こうと考えている。 最近ここ数か月で読んだ本のリストは下記のようになります。その中で印象の強かったものについて述べていきます。これらの本の、すべての著者が自分好みであるという訳ではなく、中には逆に、元来嫌いであるが、その再確認のために読んだというものもあります。
- 鈴木エドワード「神のデザイン哲学」小学館、2013
- 藤森照信「天下無双の建築学入門」ちくま新書、2008
- 竹内薫、竹内さなみ「シュレディンガーの哲学する猫」中公文庫、2009
- 村上陽一郎「人間にとって科学とは何か」新潮社、2010
- 曾野綾子「人間にとって成熟とは何か」幻冬舎文庫、2013
- エマニュエル・ボーヴ「ぼくのともだち」白水ブックス、2013
- 山本義隆「福島の原発事故をめぐって」みすず書房、2011
- 「天野祐吉のCM傑作選』朝日新聞出版、2013
- 佐伯啓思「正義の偽装」新潮新書、2014
- 佐藤光展「精神医療ダークサイド』講談社現代新書、2013
- 西研「哲学のモノサシ」NHK出版、1996
- 福田和也「贅沢入門」PHP研究所、2002
- 「京都人が書いた京都の本」PHP文庫、2008
- 妙木浩之「自我心理学の新展開」ぎょうせい、2010
- 林道義「ユング思想の真髄』朝日新聞社、1998
- 北山修「最後の授業」みすず書房、2010 ? ? ?
- 岸見一郎「アドラー人生を生き抜く心理学」NHKbooks,NHK出版、2010
- ファイヤアーベント「哲学、女、唄、そして、、、、ファイヤアーベント自伝」(村上陽一郎訳)産業図書、1997
- 高岡健、岡村達也『自閉症スぺクトラム」批評社、2005
- デヴィッド・ゴールドバーグ「一般診療科における不安と抑うつ」(中根充文訳)創造出版、2000
- 森則夫ほか「DSM-5虎の巻」日本評論社、2014
- 吉本隆明,ハルノ宵子「開店休業」プレジデント社、2013
- 「dancyu日本一のレシピ」プレジデント社、2013
- ニュートン別冊「未来はすべて決まっているか」ニュートンプレス、2011
- ニュートン別冊「量子論」ニュートンプレス、2009
- ニュートン別冊「光とは何か」ニュートンプレス、2010
- 岸見一郎、古賀史朗「嫌われる勇気」プレジデント者、2014
- 心屋仁之助「折れない自信をつくるシンプルな習慣』朝日新書、2014
3.竹内薫、竹内さなみ「シュレディンガーの哲学する猫」中公文庫、2009
科学哲学という学問領域があることを長いこと知らなかったが、量子論を勉強するようになって始めて知った。
そもそも物理学とは自然現象を数式で表したものであるから、現代物理学(相対論、量子論)を数式でなく(数学が理解できずに)、理解するのも、させるのも容易ではない。
従って、現代物理学を、数式に頼らず、正確に理解させてくれる本を探すのは簡単ではないが、その中でも、都築卓司、佐藤勝彦、村上陽一郎は素人でも理解できる優れた書き手である。本当に優れた科学者と言うのは、優れた解説者でもあるのだろう。佐藤の宇宙のインフレーション説は、この3月に、カルフォルニア大学で宇宙背景放射の重力波の存在が証明されたことにより改めて脚光を浴び、にわかにノーベル賞候補に挙がっている。
最近のサイエンスライターでは、竹内薫がいる。竹内は、専門は理論物理学であるが、組織に属さず、個人商店の研究者であるが、同時にサイエンスライターとして科学評論も手掛け、また現在はテレビの科学番組の司会者やコメンテーターとしても活躍しているマルチタレントでもある。彼の肩書には科学哲学者ともあるので、密かに興味をもっていたが、最近「シュレディンがーの哲学する猫』(中公文庫)と言う文庫本を読んで、科学哲学の片鱗に触れたような気がした。以前より、自らが境界人としての立場もあってか、知識人が文系と理系の両方に精通する必要性を言っていたが、彼の、いわゆる哲学への教養の深さにも驚かされた。本当の知性と言うのは、多様性の広さ、深さであろうし、自らの言葉で発言し、行動することであると思う。かの小林秀雄は近代物理学に造詣が深かったし、物理学者の寺田寅彦は優れた思索家でもあった。哲学者の中村雄二郎は量子論に通じている。竹内薫の「シュレ猫」はウィトゲンシュタインからフッサールの現象学、ハイデガーの存在論まで難解な近代哲学の体系を入門書以上に平易に解説しているほか、自身の思想も あちこちにみられる。この本は妹氏との共著で、全体にストーリー性を持たせてある。
科学と哲学の関係であるが、近代以前は現在の自然科学は自然学、自然哲学と呼ばれ、初期においてはガリレオ・ガリレイ,ルネ・デカルトのように哲学者と自然科学者の境界は曖昧であり、科学研究に、その哲学的基礎を置くのは自然であった。科学的方法とは、誰でも自然を最大の効率で利用できるようにする記述の体系であり、ニュートン物理学はカントによって哲学と整合性をつけていたが、20世紀のアインシュタインの相対性理論から、量子論の出現で、因果律が崩れ、主観、客観の概念が不確かになると、哲学は大きく様変わりし、現象学から実存、存在論、となり、自然科学とは乖離して行った。一方科学そのものを考察する流れが生まれ、「科学哲学」と言う分野が生まれてきた。
科学哲学は、科学が万能ではない事を我々に教え、我々が自惚れないように諭してくれる。我々の科学の進歩は、暗闇で照らす照明器具の機能の能力があがったようなものだ。昔はろうそくの灯であったのが、タングステン電球に、蛍光灯そしてLEDになったようなものだ。確かに昔より、細部まで鮮明に良く見れるようにはなったが、我々が見ている範囲は暗闇で明かりが当たっている部分でしかない。科学が照らしている部分は少しで、照らしていない部分が無限大に残っている。宇宙の始まりや、究極の時空構造、生命、老化、難病、脳と心の問題など科学の手の届かない問題はいくらでもある。だから分かった部分だけに注目して「わたし達はこんなに知っている」と言ったところで思い上がりに過ぎない、と忠告する。
また科学技術の進歩が、市場経済を生み、人間性や、自然を蝕んできたことを科学的な考察で教えてくれる。1960年頃一人の生物学者、レイチェル・カーソンが「沈黙の春」と言う本を書いて、巨大化学薬品会社と政府を相手に孤軍奮闘した。「自然は沈黙した。薄気味悪い。鳥たちはどこに行ってしまったのか。みんな不思議に思い、不吉な予感におびえた。裏庭の餌箱は空っぽだった。ああ鳥がいたと思っても死にかけていた。ブルブルからだを震わせ、飛ぶことも出来なかった。春が来たが沈黙の春だった。」化学薬品による除草,除虫により、自然の微妙なバランスが崩れ共生関係が失われ、魚やリス、ビーバーやトナカイが死滅し、春になっても鳥が鳴かない。自然や動物だけではない、雨によって湖や川に流れ込んだ化学物質を体内に取り込んだ微生物は小魚に食べられた時点で濃縮される。その小魚を大きい魚、さらにその魚を食べた人間へと化学物質の濃度は高まる一方、除草剤を浴びた人間は神経がマヒしてしまう。除草剤を体内に取り込んだ牛のミルクについても話は同じだ。カーソンは、共生関係の破壊、化学物質の濃縮、さらにはDNAの突然変異による耐性の問題までを指摘し、警告を発した。
竹内は、「沈黙の春」については小林秀雄の考察をとり上げて共感し、身近な例として“諫早湾の干潟埋め立て”をあげ、強い口調で反対し役人の暴挙と非難している。
哲学は特殊なものではない。人が実存的に生きる中で、人生に指針を当えてくれるし、不思議なことを真面目に考えようとすれば、人は皆、哲学者である、とも言い、人が哲学し、実存的に生きるよう諭している。
所で、今話題の鳥インフルエンザ問題も、究極的には、何十万羽という桁外れの大量飼育の、鳥の生態系に反した飼育法に原因があるのであろうし、原発も、放射性廃棄物処理という、直接、生死にかかわることながらも未解決のまま問題として残しながら、なし崩しにしているところに根本的な問題があるのだ。つまり根本的に、原理的に原発など作ってはいけないのだ。
これは外科医が手術に当って、起こりうるあらゆる事態を想定し、もし起きたら手の打ちようのない事態が想定されるなら、そんな手術は基本的に行ってはいけないのと同じことだ。
核兵器開発のマンハッタン計画に参加しながらも原爆投下に反対し、ラッセルーアインシュタイン宣言に至る科学者の葛藤や、遺伝子組み換えに対する「アシロマ会議」、IRBの義務化などの科学者の自らの責任に対する社会的な活動がどのようになされたかは(4.村上陽一郎「人間にとって科学とは何か」新潮社、2010)に詳しい。?
竹内はその幅広い知識と教養から来る見識で、科学哲学者として社会に提言をする、いわば社会的責務があると思うが、寡聞にして、そのような意見は知らない。今の所多くは沈黙したままである。少なくとも、「シュレ猫」の初版本を書いた10年前の姿勢は見えてこない。
嫌な言い方だが、政治学者の姜尚中が、かつては政治討論番組で舌鋒鋭く権力を批判していたが、東大教授に抜擢されるや、すっかり矛を収め、「愛の作法」とかの毒も棘もない‘心の本’を書き出し、すっかり豹変したのを、つい連想してしまうのだ。
竹内もNHKのとんでも会長の目が気になるのか、メディアの人気者の地位に執着するのか知らないが、彼自身が沈黙の春にはなっては欲しくないものだ。
あの茂木健一郎ですら、都知事選では反原発候補を応援して選挙カーに乗ったではないか。
また、東大物理を出た、あの元全共闘議長、山本義隆は原発事故後、間もおかず、きちんと意見表明している。(7.山本義隆「福島の原発事故をめぐって―幾つか学び考えたこと」、みすず書房、2011)
科学哲学者が、広い見識から社会に提言をするのをやめ、単なる科学史家、科学評論家に留まるのなら、科学哲学という学問領域の存在意義はどこにあるというのだろうか。
竹内薫の多くの著書の読者であり、ファンでもある立場から、彼の豊かな才能が正しく社会で機能し、社会の方向性を正す中で役立つことを切に願うものである。?