ホームへ戻る

ノーベル物理学賞-好きこそものの上手なれ、暗黙知と創発

 今年のノーベル物理学賞は青色ダイオードの開発と実用化に目途を付けた日本の3名の工学研究者が受賞した。
 世界初の原理の発明とか全く新しい理論的な概念を作り上げたのではなく、先人の作った原理に基づいて、それを物として開発し、実用化に導き世の中に大きな貢献をしたことが評価された。

 今までの日本人の物理学賞受賞とちょっと違う。

 中間子と言う素粒子の存在を予測し1935年に受賞した湯川秀樹、電子と光子と言う素粒子同士がどんな作用を及ぼしあうのか、そのメカニズムを「くりこみ理論」と言う画期的な理論で説明し1965年に受賞した朝永振一郎、2002年ニュートリノの存在を実証した小柴昌俊、素粒子に重さがある事を解明した「対象性の自発的な破れ」理論で、2008年に受賞した南部陽一郎、同じく素粒子を構成するクォークが6種類である事を予言した益川敏英、小林誠などなど。
共通するところは、いずれも理論物理学の分野で、若い日に、頭脳と紙とペン一本で築いた革新的な理論が、後になり実験的に証明され、受賞に至ったものでる。設備もお金もかからない理論だけで獲得したものであった。

 科学が人類に貢献するには、まず理論のブレークスルーがあって、それを実用化するための膨大な時間と費用をかけて実用化に向けての実験研究が行われる。費用もそうであろうが、気の遠くなるような地道な作業には強い意志と根気が必要となるに違いない。

 それを支えた動機となったモチベーションは違っても、「好きなことを一途に」と言うのが、今までの共通した受賞理由として述べられて来たように思う。

 昔から「好きこそものの上手なれ」と言い、本当に好きなことでなければモノにならない、とも言われ、物事を成すには好きであるという、強制されない自発意思が必要であることはよく言われることである。
 壁に突き当った時に、好きでもない事、言われて渋云やっているようなことでは、壁を突き破ることが出来ないからであろう。

 創造することは、偶然の発見とは異なり、単純な思考経路からは生まれない。A+BはCとなるというような、誰もが思いつく線型的な思考経路ではなく、非線形的な複雑系な思考、「創発」と呼ばれるヒラメキこそが重要なのである。これに対を成す言葉に「暗黙知」と言うのがある。

 創発とは、「カオス理論」「複雑系」と言った新しい学問の中で使われる概念で、簡単に言うと、沢山の部分が相互作用することで、全体としての新しい作用がうまれる現象の事である。ゲシュタルト心理学では「全体は部分の総和以上である」と表現します。
 そして暗黙知とは、私達が「わかった!」とひらめいた時に、身体の中で起きている何か、身体の中で起きるプロセスや活動メカニズムの事を言います。部分に注目したら、いつの間にか全体が見えてしまう構造、「部分から全体へ」、まさに創発が起きる時に働くプロセスを暗黙知と言います。

 たとえば、現代文明を支える量子物理学の発達の歴史を見ても創発がいかにに大きく関わったかを知ることが出来る。

 製鉄所の技師であったプランクは、鉄の温度を正確に知る必要から、溶けた鉄がどんな温度でどんな光を放つのかを調べているうちに、光のエネルギーは連続ではなく整数倍の飛び飛びの値を取るとしないとうまく説明できないことが分かり、「光のエネルギーは連続的ではなく、ある単位を基準にした整数倍の値だけを取る」と言うエネルギー量子仮説を発表した。これはそれまでの「すべての物理量は連続的に変化する」となっていたニュートン以来の物理学の常識に見切りをつけるもので、新しい価値観の量子物理学への始まりになりました。これはまさしく、データを見ているうちに、暗黙知が働き、既成概念を越える創発が起きたと言えます。
 アインシュタインはこれにヒントを得て、光の正体はエネルギーを持った粒子の集まりとする光量子仮説と言う理論を打ち立てます。これも光は波であるという決着のついていた従来の説を覆すものでした。ここでも線型の思考経路では出てこない創発が起きています。
 さらには、量子理論実証派の大御所であるボーアは、ラザフォードが示した原子模型が、なぜ崩壊しないかと言う難題を解決するのに、中学校の数学教師バルマーが真空放電させた水素の四つの線スペクトルの波長の間に規則性があることに気が付き、バルマー系列と言う数列を作っていたことを偶然知り、そこから「ボーアの量子条件」を一気に完成し量子論の基礎を作ったし、ボーアは何故そうなるかの説明はせず、そう決まってるのだよ、と大胆に開き直ったが、ド・ブロイは、「光は波であるが粒子でもある」としたアインシュタインの発想を逆転させ、「電子は粒子であるが波でもある」とすれば全部説明がつくとし「物質波」の概念を創った。
これらは暗黙知が働き創発に至った典型的な例であるが、ノーベル賞の対象になるような自然科学の業績は、殆ど全部が、この様な暗黙知、創発の過程で生まれるのではないかと思われる。
 このような創発が出来る人は、なぜか多くが規格外の人、型破りの人で、社会的には不器用な人が多いように見られるが、(2008年の益川さんや、今回の中村さんにもうかがえる様に。)そのような人を上手く育てるような社会が日本のような資源の無い国には必要ではないかと思う。

 そのためには、利益に直結しない基礎科学の研究者を大事にして、ポスドク(博士課程を修了した者)と言われる人が海外に流れないようにしなければならない。

 私事で恐縮だが、僕の甥も薬学部大学院を出たが、研究生活のポストが無くアメリカに留学(有給で生活は出来る。)し、最初の研究論文がネイチャーに採用されたが、それくらいの者でも日本では就職が難しいのである。

 シンガポールのように日本も金融のハブになるのがいいとかの意見もあるが、日本人は中国人とは違い、根本的に商売人向きではないし、優れた頭脳と勤勉な国民性からすれば、『創発と物作り』を天職とするべきであろう。

 ましてやカジノでテラ銭を稼ごうなんていう一部の政治家のケチな発想は、真っ当な日本人があるべき方向を見誤らせる、足元を見失った恥ずべき発想であると思う。

 個人が、企業が、社会が、国家が何に依拠して発展していくべきか方向性を見定めることは、持続可能性を維持する上で最も重要なことではないか。

 独創的な物作りで発展してきた企業の経営者が初心を忘れると、どのようになるかは最近のソニーの凋落が、よく教えてくれている。

 これは、個人も同じであるように思う。自分が人よりわずかでも優れている点を自覚し、それを成長させることに注力し、分を心得て生きるのが人生の秘訣ではないかと、最近は自戒を込めてそう思うようになった。

 確かに多方面で抜きんでた仕事を幾つもこなす天才もいるが、殆どの人は才能の総和は限定的であると思うからである。

 敬愛する東北大学の西澤潤一先生は「独創するは我にあり」と言う名著があるが、十指に余るノーベル賞クラスの優れた業績を上げ、何回となくノーベル賞最短の人と言われながら、未だに果たしていない。
 今回の発光ダイオードの基礎理論を作ったのも西澤先生であり、今回なぜ彼が同時受賞にならなかったかをいぶかる人も多い。

 しかし、才能や努力に対する評価や対価は決して平等ではないように思える。

 そんな世俗的な評価を求めないのが、本当に好きになってやる仕事なのだろう。

 だから西澤先生は泣き言は言わないで、多くの成果を残せたのだろうと思う。

 

ログイン