ISIL(自称イスラム国)のヨルダン人パイロット捕虜とヨルダンのテロリスト死刑囚捕虜との交換交渉が膠着状態になった時、僕は後藤氏が危ない思った。
その段階でイスラム国の有効な手段は、パイロットよりも後藤氏殺害の方であると思ったからだ。
なぜなら日本は米英の圧力に屈して,身代金を払う気はなさそうだし、日本人の命ではヨルダンも動かないとわかれば、後藤氏はもうカードとして使う価値がなくなっていたからだ。
それに日本なら軍事的な反撃を受ける可能性も低いし、後藤氏の方が国際的に与えるインパクトが強いからだ。
じつは昨夜は胸騒ぎがしてか、明け方まで眠れなかった。
今は後藤氏のあの透徹した強い眼差しを思い浮かべると悲しみと怒りで手が震えるばかりだ。
後藤氏は自ら自己責任だと遺言を残したが、
僕は、彼は日本国に殺されたのだと思う。
人類は原始の昔、各々が勝手に狩りをして、生計を立てていたが、生活の安定と安全を守るには単独より群れをなして行動するほうが得策とわかり、やがて家族が一族、部族、人種となりあるいは、村、町、藩県、と集団の単位を大きくしていき、最終的には、世界中の人びとは国家を最大の行動単位として国際的な交流をすることで、自らの生活の安定と生命の安全を図るようになった。
そしてその国家制度を維持するために国民は税を納め、共通のインフラ、生活基盤を作り、あるいは暴力装置として警察、軍を作り命と生活の安全を守ってもらうように、国家に委託した。
つまり国民は生活と生命を守ってもらう、という条件で国家と暗黙の契約をして税を収め、法を作りそれを守ることで契約が成り立っているのである。
その国家が、自国民の運命や命を他国に任せてしまうようであれば、それは国家といえるのだろうか?
そして国家と国民の契約関係が真っ当に守られているかを監視することこそマスコミの使命だと思っている。
にも関わらず、今回の事件では「今は国家的な困難時であるから、皆が政府のやり方に口出しをするのは止めて、国民は一致団結して政府を信じて見守ることが大事だ」という風潮がマスコミ自身の口から起きた。
今起きている真実を多方面から報道することを自粛し、国民が何が正しくて、どうすべきかを考え判断する機会を封じるように作用した事実は、日本のマスコミ自体が、無用の長物であるばかりか害悪でさえあることを曝け出したのである。
安倍首相は今回のイスラム国人質事件では少なくとも2つの過ち(罪)というか国民への背信行為をおかした。
一つは、日本がテロ国家と認定して敵対すると表明しているイスラム国に二人の日本国民が人質になっている状態を承知しながら、イスラム国と戦争状態にある敵方の国々を得意顔で訪問し、盛んに連帯を表明し、2億ドルの資金を援助すると世界に向けて発信したことだ。
これでは人質は好きにしてくれといわんばかりではないか。
イスラム国が、「Abeなめるなよ」、と思うのも当然であろう。多分その意思表示が、最初の72時間予告であったのではないか。
そしてその本気度を示すために湯川氏の頸は切断された。
日本国民が身代金の期限が72時間では短すぎるではないかと、いぶかった理由は、この間の事情を政府に教えてもらっていなかったためである。
もう一つは、狂信的で残虐なテロ集団であろうと、相手はイスラム教を唯一最高の教義として讃え敬い、政治的な盟主よりもイスラム学者の方を尊敬し、耳を傾けるというイスラム教徒であるという事実を敢えて無視したことである
日本のイスラム教研究者は当初そのようなことを相次いで発言していたし、実際、中東のイスラム教徒からも尊敬されていると言われるイスラム学者の同志社大学の中田考氏や一部のフリージャーナリストは自らがイスラム教徒であることを明らかにして、だからこそ交渉の可能性があると提案し、単身でも赴くと意思表示をしたのだ。
しかし政府は、何らかの意図で、その提案、意見を無視して、直接交渉の窓口を自ら閉じてしまったのである。(安倍政府のメンツのためか?)
また中東の政府関係者(もと外交官であったりテロ対策関係者や政府系エネルギー関連の研究所などの研究員)は積極的に政府の対応を支持し、プロパガンダを行なった。
またマスコミはそのような宗教がらみの交渉ルートが残されていることを一切話題に載せず抹殺してきた。
そして安倍政府は、口先だけは「万全を期して情報収集をし分析をしている。最大限にやれることは全てやっている。」と言いながら、実効あることは何もせず、最後は全てをヨルダン政府に丸投げして傍観し続けた。
そして予測された悲劇は起こった。後藤氏の頸も切断されたのだ。
最初に画像で登場した時の、あの動じない力強い眼光は、処刑の時も面影は残していたが、どこか絶望的で悲しげであり、首にナイフが当ると静かに目は閉じられた。
安倍首相が何故そのような行動をとったかの分析は、今後の日本を見る上で重要だ。
僕はひとえに彼の持つ宿痾の売名、功名心によるのではないかと思っている。
国民の生活より自分の政治的野望の方が優先することは昨年の年末解散総選挙で分かったが、今回の行動で、それは国民の命よりも優先させることが明らかになった。
異次元の経済政策、アベノミクス、戦後レジームの転換、地球儀俯瞰的外交、積極的平和主義など大言壮語的な美辞麗句が好きである。
これは、ひとえに自身の自信の無さからくるコンプレックスの裏返しである。(対象は歴代の首相、とりわけ祖父岸信介に対する劣等コンプレックス)
この程度の人物である首相の意向によって命を落とすことは、太平洋戦争の時に、愚昧で卑怯卑劣な陸軍中枢参謀達の功名心の為に前線に送られ犬のように戦死して行った日本兵(これは昭和史の事実を丹念に調査したノンフィクション作家の保坂正康、歴史作家の半藤一利の証言による。)と同じではないか。
日本のマスコミ当事者たちは、2015年2月1日が、自らの意識の低さと使命感の欠如で、一人の崇高なジャーナリストを殺した日と恥じて記憶するがよいだろう。
そして今後テレビに登場して発言するのなら、君達の淀んだ目をくり抜いて、後藤氏のような透徹した眼光を装備してカメラを見るが良い。そうでなければ日本国民(少なくとも僕)は、君たちをもはや一切信用することはないだろう。