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空耳妄言③ ―空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*テロは弱者の戦争である
 世界中の国家がテロとの戦いを表明し、テロを憎まなければ人に非ずのような風潮である。

ISIL(イスラム国)が日本人を殺害してからは、我が国でも一層その機運は高まった。
しかし、テロはそれほど一方的に非難されるべきものか、少し見方を変えれば、チョットどこかおかしいと思うのは、決して私だけではないと思う。
 なぜなら、テロとの戦いと言いながら正当化しているが、テロリストによる犠牲者の数百~数千倍の民間人がイラクやアフガニスタンでは米国の無人爆撃機や特殊部隊の犠牲になっているからである。

 彼等は、欧米人の一人の命は中東の民間人の命の数百倍に相当するかのような感覚である。

 テロリズムの概念は、国家の権威者やその支持者が、政治的あるいはその他の敵対者を非合法化し、更に国家が敵対者への武力行使を合法化するために使用されるものである(ウィキペディアから)、とある。
 テロは、弱い立場の組織、国家の存続をかけた戦いであり、つまりは戦争なのである。毛沢東もカストロもあのネルソンマンデラでさえ、かつてはテロリストと呼ばれたが、勝てば救国の英雄になるのである。

 戦争であるから、戦闘の仕方をあげつらって非難しても始まらないことは歴史の教えるところである。旧日本軍の特攻隊は、立場が変われば、自爆テロであろうし、アメリカは日本の大都市の殆どを無差別に絨毯爆撃して、数百万の市井の日本国民を殺したうえ、原爆を投下し、民族殲滅を図るようなことさえした。

 大量の優れた殺戮手段を持つ国家との戦いで、弱者が選ぶのはテロ以外に戦闘手段は無いのである。無差別に攻撃を仕掛け、一般人を巻き込んでくるのは卑怯と言えば、卑怯、非人道的と言えばそうかも知れないが、戦争とは本来、相手を殺し勝利することが目的であるから、戦術の方法を非難しても意味のないことと言えるだろう。

 元々人道的な戦争など存在しないのだ。

 従って、戦術としてのテロを人道的に非難してみたり憎んでみたところで意味の無いことであり、問題は、戦場が確定しない、前線無き戦争をどのように戦うかという戦略戦術の問題なのである。

 テロとの戦いを、うまくプロパガンダに利用して、国民に何が本当の実態なのかを教えずに、戦争をしやすい国家に誘導しようとしている、どこかの国の首相がいる。この前のイスラム国による日本人拉致殺害事件では、国民に対する国家の責任を放棄しておきながら、国民を守るためと称して軍備増強にはなぜか熱心である。
 日本の美しい国土を守ると力んでみせながら、何故か原発再開には熱心である。
 国民の利益より、自分の政治的野望が常に優先してきたことは、既に見てきたが、なぜそれほど、国民の大半が支持する憲法を改変してまで戦争の準備をしたがるのか、その本音、意図が愚昧な僕にはよくわからない。

 アベノミクスで名目上の景気は回復してきているから、すべての悪弊は雪が積もったかのように隠されているが、雪が解けて一体何が露呈するか、そしてそれが原発廃棄物のように、黒い袋に詰められ蓄積するばかりで、永久に処理され尽くされないようなものであるという恐ろしい悪夢を見るのは私だけでしょうか。

 テロ組織が勝利するには森や海になってテロリストをかくまう市民の支持が不可欠であり、それはイスラム国では非現実的と思うが、欧米からもイスラム国に参入者が絶えないというのも不気味な話である。それは我々が、オーム真理教の思想を理解せずオームのテロだけを糾弾していても、オームは無くならないように、我々がイスラム教徒を理解していないのに過ぎないのか知れないと思うのである。

 

*群馬大学病院の術後患者死亡頻発事件についてー臨床医学低迷の理由
 春の学会シーズンが来て、私のところにも日本形成外科学会学術集会のプログラムが来た。学会のプログラムを見て思うのは、その内容にエネルギーが感じられないことである。何年も似たようなテーマが繰り返されシンポジウムが組まれ、一般演題にも見るべきものはほとんどない。要は、トピックスとなるものが無いのである。

多分、これは形成外科に限らず、ほかの臨床科も同じようなものであろうと思う。
かくも臨床系医学会が低迷する理由は何か?

 群馬大学医学部付属病院では手術の下手な外科医が、何人もの患者を犠牲にした。大学はなぜこのような事態を見過ごしてきたか。もっとも議論されねばならないのはこの一点であろう。

 これらの二つの問題は根っこが同じような気がしてならないのである。

 要は、組織の直接の指導責任者である教授の無能ぶりに原因があるのではないかと思うからである。
 教授に、この人物(部下)にそれだけの力量があるかどうかを判断する能力が無いのである。
 臨床的な力の無いものが、教授になれば、部下の臨床力など判断しようがないし、強い指導力など発揮できるはずもないのである。
 教授になる前に業績があり、それを更に発展させるために教授というポジションを得ようとするのではなく、教授になることだけが目的のような人物がなるから、なっても何をしていいかわからない。指導するにも学問の先端状況がつかめていないのだから、指導のしようがない。

 私が長年経験し、見聞して来たところでは、そんな印象が強い。

 臨床、研究が好きで、それなりの業績を持つ人ももちろんいるが、教授選考は、その担当科目ではない、いわば門外漢の集まりである教授会が選考するのだから、勢い論文の評価に頼らざるを得ない。そうすると、インパクトファクタ―(点数)の高い基礎系のジャーナルに論文が載る基礎系研究を得意とする者が有利になり、臨床科でありながら、臨床を得意にしない基礎研究を得意とする者が教授として並ぶようになる。

 しかし、基礎でもきちんと業績を持つ人はそれなりの見識があるからよいが、問題は、何にも無く、世渡り上手だけでなってしまう人種がいることである。
 なることだけが、目的だから、カリスマ性も指導力もないし、自分が何をすべきかもわからないから、ただ権威だけを振りかざすことになる。
この手の人種は、名誉欲だけは人一倍強いから、彼らは次に何をするか?
 学会の重鎮の腰ぎんちゃくになり、学会や大学内での役職というポストを求めるのである。
 新設医学部ラッシュがあったりして教授ポストも倍増したから、順番から溢れるものが出てくるようになると、新しい学会をどんどん作ってポストを割り振ることになるのである。
 また不必要に増やした学会を維持させるために何をするか?
 簡単なことである。学会参加と引き換えに、00認定医という資格を乱発し会員の確保に努めるのである。
 彼等は、役員としての待遇を確保するから良いが、末端会員は、一つあれば済むような臨床科でも4つも5つも学会費用を払わなければならないようになった。
 そして、学術集会というイベントでは会員から高額な参加費を集め、余剰金を作りかつての会長経験者達を夫婦で招待し、物見遊山させるのである。これは、いずれその役得が自分に回ってくるものだから、会員からいくら非難されても、どの会長もやめようとしないのである。

 この程度の能力と識見の人物が仕切る大学医学部は臨床の進歩を引っ張る学問的な発信基地になりうるかはなはだ疑問である。
 自身に臨床を発展させる能力も、指導しようとする意欲も無いので、優秀な人物が、突然変異的に出現し独走しようものなら、火の粉が降りかかるのを防ぎ、保身のために倫理委員会を作り規制にかかるのである。が、成功の果実にはしっかり食らいつく習性が強いのも彼らの特徴である。
 倫理委員会は,臨床家が自らの首を絞めるようなものであるが、彼らは臨床の進歩には直接関与しないのだから、何も不都合など生じないのである。

 と、いうような見慣れた景色が、群馬病院事件を機に妄想されたのである。

 教授達の能力の低迷と倫理委員会の強化で臨床の進歩は大きく損なわれていくであろうことは明らかである。

 我々が忘れてはならないのは、臨床の進歩の最初の一歩の決断は、常にいつでも非倫理的な要素を持つモノなのである、ということである。

 

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