ホームへ戻る

空耳妄言④ ―空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*政府主導の検証委員会の露骨なまやかし
 イスラム国による日本人殺害事件における日本政府の対応に問題は無かったか、を検証する委員会が報告書を提出した。

 「政府の対応に一切問題はなかった」、と言うものである。

 ちなみに委員会のメンバーは有識者が5人とされ、座長が宮永某という元外務官僚である。彼は後藤氏がISに拉致されテレビで報道されていた時、イスラム専門家(元ヨルダン大使館員)としてテレビ各局に出ずっぱりで解説していたから記憶されている人も多いと思うが、一貫して安倍政府の対応を支持し続け、「今は政府批判は止めて国民が一致団結するべきだ」と言い、私などはこれは官邸からの回し者かと思ったほどの人物である。
 彼が座長に決まった時から、検証など名ばかりで、このような結果は決まっていたのである。この政府諮問委員会の座長という役割が彼への報償であったかと納得のいったことである。
 政府が作る諮問委員会などは皆この程度のものである。

 原子力保安委員会が、あの名物委員長の不倫スキャンダルで解体され、出来た原子力規制委員会も、最近は化けの皮が剥がれ、臆面もなく原発再稼働許可を乱発し、今や原子力促進委員会になっている。(TBSサンデーモーニングでの毎日新聞編集委員岸井氏の発言から。)

*安保法制議論の前にはっきりさせるべきことがある。
 いつの間にか集団的自衛権、外国軍隊の後方支援、重要事態法などの11法案が、安全保障法制として閣議を通り、その11法案を物干し竿に吊るして一本として、国会審議にかけられた。

 各々の法案について、やがて形ばかりの国会討論がされ、いずれ強行採決されるのであろうが、その前に国民にははっきりさせておかなければならない重要な問題があるはずである。

 集団的自衛権は、中曽根内閣から小泉内閣まで、憲法違反であるから行使できないというのが自民党政権の見解であった歴史的事実がある。安倍政権は米国の要請にこたえて集団的自衛権を行使したいが、かと言って憲法を変えるのは厄介だから、とりあえずここはゴリでも憲法解釈を変えて、憲法違反ではないことにしよう、として出してきたのが今回の安保関連法制である。

 憲法はまぎれもなく国民の権利を守る、国民のものである。それを一内閣が解釈の変更で、事実上の改憲をしてよいのか、という第一の問題である。

 さらにはこの法案が国会で審議される前に、アメリカの国会で上下院議員を前に、得意満面に、これら法案は夏までには必ず成立させると明言し国際公約をした事である。

 これほど国民の主権が侵され,馬鹿にされたことは明冶立憲以来ないのではないか。

 このところ安倍首相は自分が言ったことは何でも必ず実現させる、出来ると思っているようであるが、これが専制政治でなくて何であろうか?

 沖縄県民が辺野古基地移転に反対の民意を明確に表明しているにも拘らず、それらには一顧だにせず、移転は粛々と行うと言い、民意無視、強行突破の構えである。
 「粛々」とは政治家が好んで使う言葉であるが、これは問答無用の言い換えでもある。

 これらはすべて安倍首相がアメリカにおもねっているの証さである。それは彼の信念なのであろうが、その信念を支える理由が凡人たる僕にはよく分からない。
 彼に深い哲学、歴史観があるようには到底思えないから、動機としては、ゆがんだ選良意識(家柄の良さから、お前たちとは違うぞ)と、自分はポピュリズムには陥らないぞ(国民の人気取はしないぞ)という強がりと、劣等感(エリートの学歴ではない)から来る功名心が織成しているくらいしか思いつかないが、最近では独裁的権力を持った者のもたらす魔物のような心理が働き、さらに分かりにくくなっているようにみえる。

 ところで、沖縄の辺野古移転反対運動がこれから益々強くなると、アメリカの方で辺野古をあきらめる可能性があると思えるのである。基地の地元住民に拒絶されてまで自国の軍隊を置くのは得策ではないと判断するかもしれないし、第一、それでは自国の兵士がかわいそうではないかと思うであろうからである。
 果たしてそのような事態になった時に、政府はなんと言うのだろうか、楽しみである。

 ついでに言えば、今の安保法制改正で、自衛隊員の命がかかる危険が増すのどうのという議論があるが、それは自衛隊に失礼な話だと思う。自衛隊員は戦争要員であるから、もともと命をかける宿命があることは彼らは百も承知だろうし、その覚悟もあるのではないかと思う。
 そんな心配をしてもらうより、彼らが望むのは、働き甲斐(死に甲斐)のある政治環境、国民の支持なり、国民からの愛情が欲しいのではないかと思う。

 自衛隊は誕生以来、常にいびつな存在であり、災害出動では感謝されようとも、国民から疎外感を受けてきている。一国の正当な軍隊として遇されたことないのである。少なくとも自国民からは深い尊敬と信頼を得ない立場で、武器を制限されたまま、防衛のためだけに出兵しろ、と今言われているのである。
 都合のいい時にだけ、先頭に立って死ねというのもあまりにご都合主義と言わねばならないだろう。

 ベトナム戦争やイラク戦争で多くの米兵も死んだが、戦後になって、あの戦争は間違いだったと国民にいわれたのでは本人も遺族もたまらないだろう。今回の安保法制も同じような危惧がある。集団自衛権行使で戦争に行ったが、あれは憲法違反の行動であったと国民から白い目で見られたのでは自衛隊員も浮かばれないであろう。

 我々はこれを機に、日本の安全保障を真剣に考え、自衛隊のあり方について国民的総意を明確にするべき時期ではないかと思う。これが第二の問題である。

 まず我々は、安全保障を外交による平和的手段によるのか、軍事力及び軍事同盟を主体としていくかの基本的な選択をする必要がある。もし現状のように後者で行くのなら、日本も核武装をするのは当然とする考え方が、妥当で説得力があると小生は考える。それゆえ、核武装前提で安保法制を考え、究極の選択をするべきであると思う。

 為政者は、当然なことをまやかさないで正直に説明し国民に選択をさせるべきであろう。

 戦国時代の長篠の戦いでは、武田信玄勢の勇猛果敢な騎馬軍団も織田信長勢の足軽の撃つ鉄砲の前では惨敗したではないか。1000本の非核の通常弾頭ミサイルより、1本の核弾頭ミサイルの方が抑止力は強いのである。「飛び道具とは卑怯なり」と言って刀に拘っていては戦略もたたないのである。それに核武装は、軍事同盟をも有利に運ばせるに違いない。(だからこそ、米国は日本の核武装を恐れているではないか。)同盟国の膨大な軍事費を負担をするより経済性も高いであろう。
 僕は、決して日本の核武装を推奨するものではないが、しかし今のように本音をごまかしつつ軍備増強を図っても国民の利益は一つもないと思うから、政府は正直に将来の展望、戦略構想を説明したうえで、国民投票を行い改憲をして、国民が納得の上で安保法制改定を進めるべきと思うだけである。

 憲法を改変したうえで核武装をして軍事力を強めて行くか、憲法9条を守り軍事を放棄して平和主義で行くかは、あくまでも国民が選択するべきことで、一部の政府の人間が決めることでは断じてないのである。

 

ログイン