ホームへ戻る

空耳妄言⑥空耳のように、聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

安倍内閣、文部科学省の愚民化政策(週刊文春2015.6.25号P136,適菜収のコラム「今週のバカ」を引用、AERA2015.6.29号EYES内田樹を参照して。)

 文科省が、全国86の国立大学に対して、人文科学系の学部は成果が見えにくいから、学部を統廃合して、社会的な要請の高い分野への転換をするように、という通達を出した(6月8日)。安倍首相は、OECD閣僚理事会基調演説で、「だからこそ、私は、教育改革を進めています。学術研究を深めるのではなく、もっと社会のニーズも見据えた、もっと実践的な職業教育を行う」と述べている。その後実際に、IT関連に特化した大学教育機関を作ると発表した。文科省の下村大臣は忠実に安倍首相の意向に沿ったのだろう。

 要は、政府は財界にとって便利な即戦力となる人材を大学を使って量産し「成長戦略に」につなげようというお話。

 教養とか文化、文理の基礎研究の大切さを理解できない、おバカさんによる内閣行政府の異常な教育介入ですね。

 それでなくとも、現在の大学教育カリキュラムでは文理の教養教育が軽視されている。(小生の母校医学部では教養過程は2年間から1年間に短縮されて久しい。)

 欧米の大学ではリべラルアーツ(教養学)が非常に重きを成しているのは、政治、経済界においても、教養のあるなしがリーダーの判断に大きくかかわり、また人間関係を形成する上でも重要と思われているからだとされている。

 これは、逆に言えば、我が国は、算盤学だけが重んじられ、教養は不要であるとする社会であることを示していることなのかもしれない。多分それは、戦後の日本の特異現象であり、ことに小泉政権から安倍政権に至る新自由主義路線において特に顕著になっているのではないかと思う。
 要は教養を重んじない政治、経済の指導者が(漫画しか読まない議員が首相になったり、ポツダム宣言を読んでいないと、日本の首相(現)が平然と答弁出来たりするような政界事情)、教養を必要としない社会を作ろうとしているのである。

 これは、彼等の持論であるグローバル化に逆行しているのではないかと思うが、どうだろう。

 これ等の事情は、私の知る医学会においても全く同様である。医学、それもごく狭い自分の専門領域以外の話題性となると、ゴルフかワイン、利殖話位しか話題も無く、学会の政治(学会の会長、理事長人事などを決めること)はゴルフ場で決まると言われながらも、次世代層はそれに異をとなえるでもなく、ゴルフ離れが進むこのご時世にあっても、いそいそとゴルフの練習に励む体たらくでは、到底人を笑えた義理でもないだろう。

 旧帝大をはじめとする国立大学は、本来エリートの養成機関であり、人材派遣ビジネスではない。成果が出ないという理由で切り捨てるのは、実業界の話であり、すぐに成果の出ない教養教育や基礎研究に長期的に金をかけることが出来るところに大学の存在意義はあるはずである。

 教育に市場原理を導入しようとするおバカな官僚や、財界に媚を売り「教養や学術研究を深める」ことを否定するおバカな政治家が我が国の教育を破壊しようとしているのだ。

 おバカとは無知のことではない。価値判断が出来ないということだ。
 教養とは、正しい大局的判断には必須のものであることが理解できていないのだ。

 民主党政権の時には、スーパーコンピュータの開発予算を巡り、「1番でなくとも、2番でいいではないか」と発言し、自然科学の世界の競争の意義についての無知ぶりをさらけ出した査定委員長を務めた女性議員がいたが、政治家とは皆この程度なのであろうか。
 小学校の運動会でもあるまいし。

 ごく最近では、自民党の青年局の懇話会(安保法制を支持する会)で、自分たちに批判的な新聞社は、広告を制限させて制裁するだの潰してしまえだのと言って盛り上がった議員達にその例を見ることが出来る。また、売れっ子作家にも、らしからぬ常識、教養の無いお調子者がいることが分かった。

 今この国に必要なのは、価値判断のできるエリートの養成である。現状の、東大を頂点とするエリート国立大学がそうなっていないというなら、そうなるように重点投資するだけの話だ。 
 国立大学の運営予算は独立法人化された後、10年で1300億円も削減されているそうである。安倍内閣の言う教育改革とは、予算を削り、大学を専門学校化し、国語より英語を重んじ、国歌、国旗掲揚を強要し、言うことを聞かなければ、補助金を削減して制裁を加え、中高の歴史教科書には権力的に介入するということなのか

 権力を握ったおバカが制度をいじるからおバカが量産されるようになるのだ(と適菜収はいう)。

 実は、従順なおバカ育成こそが、おバカな振り?をした政府の真の狙いなのかも知れないと、小生は秘かに思うのである。

*スポーツ界はどこも金まみれ
 国際サッカ―連盟FIFAの理事たち(おそらく理事長を含む大多数)がワールドカップ大会の開催国決定をめぐって数十億という多額の賄賂を受け取っていた問題が米国で明らかにされ、訴追され、国際的に手配された。

ごく最近になって、日本のサッカー協会も2002年の韓国との共催の際に賄賂として1~2億円程払ったというニュースがスペインで報道され、真偽が問題になっている。状況的には黒と思っている人が多いのではないか。

 スポーツは健全であるべきとする神話が、未だ残っているかどうかは知らないが、わが国ではプロ野球、プロサッカーは言うに及ばず、高校野球から国技である相撲に至るまで、あらゆるスポーツにおいて、プロ、アマを問わず、選手のスカウトから八百長試合まで、すべて金まみれであることは周知の事実である。

 もういい加減にスポーツに健全性やら教育性やら、スポ根と成功物語を美学として持ち込むのは止めたらどうか。
 スポーツは一般芸能と何ら変わるところなく、単なる興行ビジネスなのだ。
 そしてビジネスとしてのガバナンスを社会が監視するくらいが適当であろうと思うのである。

 オリンピックやワールドカップは興業ビジネスとしてあまりに旨味が大きく、利益が多すぎるのが根本的な問題なのだ。
 IOCやFIFAに、世界中の参加国に競技を自腹で中継することを義務化し、開催国決定機関に放映権という莫大な利権を与えないようにする、大会自体に金をかけ過ぎないように規則で縛ることが、まず最初のステップでないかと思う。

 莫大な金が動けば、大きな利権が必ず発生し、石原都知事時代の2016年度オリンピックの立候補の際には数百億円の誘致費用使徒不明金が出たが、結局うやむやになってしまった。

 直近に公表された会計検査院の報告書によれば、昨年度の税金無駄使い改善分は、各種公益財団の予算を中心として約4100億という。これは前年度までは、無駄使いをしていたと公式に認めた額を意味する。(無駄使いの実態はおそらく、この数倍にはなるだろう。)

 税金、年金など公金は、使ったもの勝ち、ババしたもの勝ちというのが、昔からの日本の政治風土なのだろうか。

 

ログイン