*安倍政権のダメージコントロール第二の矢―沖縄との一時休戦
今になって、新国立競技場問題が安保法案強行採決の矛先をごまかす政治利用と野党が言うようになった。その政治的センスだから、第二の矢が放たれたとは誰も言わないが、政府が辺野古湾埋め立て工事を一ヵ月間中止して、沖縄米軍基地辺野古移転問題を翁長沖縄知事と議論を深めたいと提案した。残念なことに翁長知事が、振興予算3000億円獲得に気がそがれたのか、それに乗ってしまったのである。
これこそ安保法制反対の世論を押さえ、法案を通しやすくする第二のダメージコントロールそのものなのだ。あるいは辺野古移設の予備的なダメージコントロールを兼ねている。
翁長沖縄知事は、「辺野古移設を決めた前知事の判断に瑕疵があった」という第三者委員会の意見書を盾に、埋め立て作業の認可取り消しを切り札にちらつかせていたのを、一か月間凍結すると応じてしまったのである。
翁長知事は、基地問題は、思想の左右を超えた沖縄県民全体の問題であるとし、オール沖縄の闘争形態を作りあげた力量の持ち主であるから、今こそ埋め立て工事の認可を取下げて政府と真正面から対立することによって、沖縄の基地問題は安保法制の集団的自衛権に直接関連する日本全体の安全保障の問題そのものであるということを本土の日本国民に突き付け、同じ土俵に乗せて、オール日本の闘争形態にしてこそ活路が開けると思わなかったのであろうか。
オール沖縄の闘争原理をオール日本に誘導してこそ勝利の展望が開けると私は思うし、日本の安全保障問題が国民的関心事にある今こそ、その絶好の機会であるにも関わらず、翁長知事は自ら道を閉してしまった。
おそらくではあるが、翁長知事を始め沖縄県民は自分たちがオール沖縄でまとまったようには、本土日本人がオール日本で沖縄と協調するとは思えなかったからではないか、と思う。
それは琉球王国から日本に併合されて以来の彼我の歴史から学べば当然の感覚と言えるものだろう。
ハイテク化した現代の軍備では、沖縄にどれだけ戦略的軍事価値があるかは米国国防省自体が疑問視している位だから、沖縄米軍基地の南洋諸島米国領への国外移転も夢のような話でもあるまい。
米国が本当に欲しているのは、基地を置く場所ではなく米国の極東軍事予算の肩代わりなのだ。基地をオキナワにおけば、日本が思いやり予算で米軍基地の費用を肩代わりしてくれるからこそ、沖縄は重要な意味を持つのではないかと憶測する。
なぜ日本政府はこれ等のバランス感覚を持たず、辺野古移転に固執するのか、あるいはダイレクトに基地の返還交渉をしないのか私には不思議でならないし、何処かに深謀遠慮があるのかもしれないが、私にはそこらへんは読めない。
休戦一ヵ月がたてば、政府は沖縄の民意は十分聞いたとして九牛の一毛も譲歩することなく、既定路線で強硬に押し通して来るであろう。
なぜならば、安保法制さえ通してしまえば、政府は国民世論など気にする必要が無くなるし、ましてや沖縄の世論など顧みるはずもないからだ。
有史以来今日まで、歴代の日本の政治権力は沖縄に対して差別的で冷淡である。(少しは天皇の所作を見習うべきと思う。)沖縄は、日本政府や沖縄にヘイトスピーチを浴びせるような低劣な本土の日本人に、もっと怒りをぶつけて当然だと思う。(ぶつけて戦うべきだと思う。)
沖縄が、第二の成田にならないことを痛切に願う。そうなっては沖縄が余りに悲し過ぎる。
*舛添都知事のスタンドプレー―言えた義理か?文科省非難
新国立競技場問題で、舛添都知事の発言のトーンが高い。文科省の所轄担当局長を首にするか下村文科相大臣が辞任するか、いずれかにしないと示しがつかない、ガバナンスが維持できないというのだ。その言自体はもっともなことで異論はないが、舛添さん、あなたに言われたくはないよ、と言いたいのは私だけではあるまい。
(結局、局長が更迭され、下村大臣は生き残った。)
厚労省の年金不明問題で、民主党政権下で厚労大臣に抜擢された舛添氏は「一円たりとも、一人たりとも不正は許さない、必ず明らかにして責任をとらす。」と大見得を切ったのに、年金は大量の未解決金が残ったまま、結局一人たりとも役人に責任をとらせずに尻切れトンボに終わってしまった事を私達は未だ忘れていない。
新国立競技場の都の整備費負担では力んで見せたが、今回の豹変ぶりを見ると、元々裏では手を握っていた可能性が高い。
彼は、官位名誉を求め、自分の政治信条を変節するのに逡巡の無い人で(自民党から民主党に移って厚労大臣になり、民主から自民に戻って都知事になった。)、スタンドプレーを好む底の浅い人物であるということを良く覚えておこう。
*五輪エンブレム問題―五輪組織委員会のリスク管理の甘さ
東京オリンピックのロゴマーク、エンブレムがベルギーの美術館のエンブレムに酷似しているとして、当のベルギーのデザイナーが、東京オリンピックのエンブレムは日本人デザイナーの盗作によるものとして使用差し止めをIOCに申し入れをした。聞き入れなければ訴訟をするという。
デザインというものは、とかくよく似たものが出るものであるから(過去にもJRや東電のロゴでも同じような事が起きた。)、日本の五輪組織委員会は、このような事態を当然想定しておくべきであったと思う。
例えば、採用を決定する際に、デザイナーには「今後類似したデザインの存在が明らかになった場合は、無条件で白紙に戻す」と言うような条件を付けておけば良いのである。そうすれば、盗作であろうがなかろうが、撤回し再度選び直せば良いだけである。
デザインというものは、これでなければならないという本質は無いのであるから、変更するのに目くじらを立てる必要もないのだ。
さて、これはさておき、オリンピック組織委員会が、マタゾロへまをしでかすのではと心配(期待?)するのは私だけではないだろう。
なぜなら組織委員長は誰あろう、森喜朗元首相で下村文科相も重要メンバーに残っているのだから。
*酒鬼薔薇聖斗、少年Aの著書[絶歌」を演出した狡猾編集者―幻冬社見城徹社長の正体
少年Aが小学生の首を切断して学校の校門の上に曝したショッキングな事件は、多くの人々の記憶に残っていることと思う。その異常な犯人に事件の暴露本を書くように薦めた幻冬舎社長の見城徹氏は、不思議なことに自社で発行せずに、太田出版に版元を譲った。
「売れる本が良い本である」と言うことが社是でもあるかのように、際物も含めベストセラー作りに秀でた見城氏にしてはおかしな行動ではないかと思ったが、案に相して、このような著書を被害者の家族の同意も得ずに出版した、あるいは少年Aの事件後のインモラルな言動から、出版に対する社会的、倫理的責任が問題になり、太田出版に対する非難轟轟の声に続き、取り扱いを断る書店も現れてきた。
幻冬舎は、このような事態を予測して、非難の矢面に立つのを避けたのであろうが、では、彼がどのように利益の分け前にあずかったかは興味のあるところである。彼を少しでも知っていれば、儲け話に、ただ指をくわえてみている男とは到底思えないからである。良識人ぶって体面を保ちつつ、利得だけは取るというのが、昨今の出版人の本性なのであろうか。
現在の出版界は、今や編集者が作家を育てて稼ぐというような時代は終わって、収益の大半は、自費出版と言う罠で、出版社自身は全く売る気のない本をライターを使って書かせて、出来た本の一定部数を著者に買い取らせて上前を稼ぐと言う、半ばダマシ商法で生き残るような時代である。
出版社には、もはや言論を扱う矜持も何もないのである。
ちなみに小生は「絶歌」は読んでいない。本の著者、少年Aや編集者の意図を思うと、とても読む気が起こらないからである。
*ギリシャ問題はEU(欧州連合)理念のデザインの失敗である―ソヴィエト連邦にも似て早晩破綻するだろう
少し古い話になるが、ギリシャ財政破たん問題では、金を借りた方が、倹約もしないでいて、借金を棒引きにしろだの、金をさらに貸せと言い張っているようで、日本ではギリシャを悪者にする世論が一部で醸成されたよう思う。
EUが成立した一番の要因は、アメリカや中国、日本を中心としたアジア経済圏に対抗して行くにはドイツやフランスが一国単位では、もはや対抗できない状況になって、大きな市場圏を作る必要があったからである。そこでヨーロッパの主要国が連合して一つの市場になり、ユーロを共通通貨にして連合国間の為替制度も廃止してしまった。これがドイツを一強とする格差を拡大させたのである。先進工業国のドイツが輸出を伸ばしマルクが強くなってもユーロで決済すれば、為替で調整されることは無いのだから、ドイツは太る一方で、貧国は益々貧しくなる構造になっているのである。
日本が経済成長を始めた時に円は1ドル360円に固定されていたが、それでは日本が余りに有利であると変動制に移行させられ、現在の120円前後になったが、ドイツは360円のままで貿易をやっているようなものだからだ。
ギリシャ経済の窮乏は、いわばEUの仕組みの犠牲であるとして、補償を求めるギリシャの言い分は確かにあるようだ。だからこそEUはギリシャを見捨てることが出来なかったのだ。
ドイツはいくらか負担してでも、EUを堅持するメリットの方が大きいのだ。
これは、本質的にEUの仕組みのデザインの失敗であろうから、社会主義が破綻したソヴィエト連邦のように、早晩EUも崩壊すると私は予想する。