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野坂昭如レクイエムー僕の昭和の終焉

①

野坂昭如が亡くなった。
僕は、決して小説家としての野坂の熱心なフアンではなかったが、彼の無頼でアナーキーな言動が示す、揺るぎなく自己を貫いた『生き様』の崇拝者であった。

 永六輔や故小沢昭一と「中年御三家」と称し、テレビの黎明期からから隆盛期にメディアの世界を巧みに泳ぎ、思うがまま存分に生き抜いたかのようであった。
 デビュー当初につけられた肩書は「元祖プレイボーイ」で、それまでは具象的ではなかったプレイボーイという普通名詞を、黒いサングラスをかけて軽口をまくしたてるスタイルで具現化して固有名詞化して登場した。

昼間の主婦向けのワイドショーに出演しては、「女は人類ではない」と言い放ち、したり顔で常識論、道徳論を述べる、「良識派」と顔に書いてあるような御婦人達をこき下ろした。一方では舌の根も乾かぬうちから、年下のタカラジェンヌに「あなたは神様です。仏様です。」と言って口説いて結婚したという。(夫人談)
常識や道徳が大嫌いであった。つまりみんなが善しとすること、綺麗ごとの裏に見える欺瞞性に我慢できなかったのであろう。

 やがて作詞をしたり小説を書くようになり、「アメリカひじき」「火垂るの墓」で直木賞をとると、インテリ知識人としてもてはやされるようになった。田原総一郎の「朝まで生テレビ」では、論客としての定位置を確保し、様々な問題に対して、常に表層に流れないで根本を突く姿勢を崩さなかった。既存のあらゆる価値をみんな疑い、政治にしろ言論にしろ権力、権威を心から憎み、そこにまつわる胡散臭さを暴露しようとした。しかしディベートで分が悪くなると、照れ笑いを浮かべ「君は偉い」と言いながら相手を認める、潔さもあった。

 黒いサングラスと、シャイで一方的にまくしたてる早口、人目を意識する格好の良い出で立ち(83年の対田中角栄の新潟鞍替え選挙ではボルサリーノを被って雪の中で街頭演説をした)、人前に出る時は常にアルコールの力を借りる、などから見ると、いわゆる公的自己意識(他者に観察される自己の側面に注意を向ける程度)が過剰で対人恐怖症的なところがあったように思えるのであるが、自分と喧嘩して自分を傷つけているかのような繊細過ぎる感受性から自我を守るには、偽悪的に自己愛を演じるしかなかったようにも思えるのである。

 週刊紙の記事によれば、夫人の話として「家にいる時は、ゴミと原稿用紙に囲まれて、いつも同じ服装をしてミノムシのようにじっとしていた」そうである。

 またやりたい放題、言いたい放題の人生のようであったが、雑誌の中で自分のことを、「小心そのもの、他人の表情を常に気にして、怯えつつの世渡り、いい加減、嘘つき、出鱈目が売り物、そして、ときに『だが根は真面目』と言われれば、正体見破られアウトと認めつつ、心中嬉しい気持ちがある。」と自己分析している。常に人並み以上に、演じることで虚実一体となった人生を生きてきたのであろう。

 死亡記事で、アニメ「火垂るの墓」が、あのジブリの高畑勲の作品であったことを初めて知ったし、葬儀で弔辞を読んだ五木寛之が長年の親友であったことも意外であった。
 イラストレーター黒田征太郎が、2003年に野坂が脳梗塞で倒れて以来毎日手書きの絵手紙を送り続けていたというのもいい話であった。永六輔は訃報を知って、放送中に言葉を詰まらせ「もうだめです」と言い、泣いたという。
 無頼派には、それに見合う良い友がいたのである。

 個人的には、小説「エロ事師たち」、歌「黒の舟唄」は、僕を思春期・青年期から成人期に導いた案内書であり、道標にもなった。
 学生時代は、野坂のファンであること自体が異色で稀有な存在であったが、僕にとっては、伊丹一三とは違った次元の、誠に恰好のいい憧れの存在であった。

 数十年後に、野坂が脳梗塞で倒れる直前にNHKホールで最後になるリサイタルがあったが、当時の小生には珍しく、直前にチケットを取り、見に行った事がある。リサイタルなど初めてのことであり、虫の知らせだったのだろうか、最上階の最後尾の席で、野坂は虫のように小さく見えたが、ボルサリーノに長いストールをなびかせマリリンモンロ―ノーリターンを唄った。多分、永六輔だったと思うが、掛け合いのトークは精彩を欠き面白くはなかった。

 野坂が実際にプレイボーイであったかどうかは知らないが、彼のことを本当に理解できた女性がそれほどいたとは到底思えないから、結婚後は、火宅の人になるようなことはなかったし、良き家庭人であったようだ。

 かつての野坂担当の編集者は、自宅に弔問に訪れ「死に顔はとても威厳があった。安らかというより立派な印象であった」と言っている。
 夫人は葬儀の最後に、「母親に抱かれたような美しい穏やかな顔でした」と挨拶したという。

 自分を偽らず、真摯に生き抜いた者だけが持ちうる死に様であったのだろうと思う。

 野坂が戦争体験から直感で感じとり、終生信じて疑わず、一貫して訴え続けた反戦と反原発への思いは、あらためてノーリターンであってはならないと思う。
 合掌。

 

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