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空耳妄言⑩-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

*高市発言に沈黙する日本のマスコミーどこまで舐められても反応しない日本のマスコミの呆れた機能停止状態

高市早苗総務大臣が、日本のテレビ局の報道姿勢に「政治的公平性」なるものを求めて干渉する発言を2月以来繰り返している。「政治的公平性に反する番組を繰り返し流した場合、総務大臣の権限で放送局に電波停止を命じることもありうる」という発言を繰り返し、マスコミを恫喝した。

そもそも放送が公平かどうかは政府が決めることでもあるまいし、放送が公平である必要があるかどうかも分からない。

権力者というものは、権力をいつまでも維持しようとする本能があり、その為には国民を抑圧するのはおろか、ともすれば戦争へと暴走もしかねないものである。
国民は自由平等と平和を享受する権利があり、それを守るためには政治権力を常に監視できる社会装置が必要であり、それをマスコミに託しているのである。
従ってマスコミの報道の自由、言論の自由を守ることは、我々の当然の権利とわが身を守ることでもあることは、小中学生でも知っている理屈である。

この政治権力側からの干渉に対してテレビ局サイドからの反論も抗議も聞こえてこないのは異様であるし、国民からの怒りの声も上がらないのは不思議な現象であるが、元々政権擁護を公言してはばからない今の大手マスコミが世論を誘導しているとすれば、それも不思議なことでもないであろうし、3月の年度末で、比較的政権批判的な発言の多い報道キャスターが相次いで降板するのも、テレビ局側の自主規制なのであろう。

このような事態に日本の、殆どのジャーナリストや評論家達が報道の自由の危機を懸念する声を上げないのが異常であると、イギリスの「ガーディアン」『エコノミスト』、アメリカの「ワシントンポスト」など外国のメディアが記事を書いている。
在日外国メディア特派員も「外国人記者は見た日本 イン ザ ワールド」で、一様に日本のマスコミの異常さを指摘した。
これは先に原発問題の時にも指摘したように、日本のジャーナリズムは機能不全であると警告しているのである。

マスコミという媒体は権力に対して中立であれとか、反対意見を言うなら対案を出せ、というような声が、世論から、あるいは権力側から喧伝されるが、それは間違いなく権力の挑発でありワナでもある。
マスコミは政党ではないのだから、マニュフェストを提示する義務も必要も無いのだ。

そして、もし一旦にしろ政権支持を表明すれば、権力側から提供される密の味を覚えて、牙を抜かれてしまうに違いあるまい。
現状はまさにそのような状況であり、そうであるからこそ権力はカサにきてマスコミを支配下に置こうとするのである。
私達国民は、著明なジャーナリストや評論家たちが、「総理との食事会に招かれた(俺も偉くなったもんだ)」と、得意げに話すのを見るにつけ、「オイオイ、そんなことで大丈夫かよ」と思ったりするのだ。

福島の原発事故の時に、「今は国難有事であるからマスコミも政府批判は控えるべきだ」という論調がマスコミの内部から起きたが、これはトンデモナイ考えだ。それでは先の戦争の時に、今は国家存亡の危機だとして反戦思想をひっこめ、戦争を支持し、戦況を正確に報道せず国民の判断を誤らせ、結果として多くの国民の命を無駄死にさせた、権力の走狗に成り下がった大政翼賛新聞と化した大手新聞と同じことになるのではないか。

マスコミは権力に対して常に批判、抵抗の姿勢を崩さず、権力に都合の悪い情報、権力が隠したがるような情報をどんどん暴露すればいいのであり、それが最も大事な役目でなのである。その情報の評価判断は国民が、あらゆる方向から多彩多様な情報を得て自立的に自由に判断すればよいのであり、それでようやく権力とのバランスがとれるのである。

マスコミに元より公平中立性など必要のないことなのである。
マスコミは政府の肩を持つ義理などないはずだし、常に批判だけしていればよいのである。そしてマスコミが主導して政府と国民世論のバランスをとる必要など、これっぽちもないのである。それは不必要なばかりか害悪ですらあることは我が国の歴史の教えるところでもある。

*乙武氏の不倫騒動―さわやかビジネススマイルの欺瞞と裏切り

乙武洋匡氏は2000年に「五体不満足」というベストセラーで世に出て、その後一貫として、障害にもめげない爽やかなスマイルで、スポーツから広く社会評論までコメンテーターとして人気を博してきて、東京都の教育委員になったり、次の参議院選挙では自民党からの立候補が有力視されていたが、今回の複数の不倫報道でいささか雲行きが変わってきた。

小生は障害者を差別、特別視しないことに少しも異論はないので、障害者なのに、、、、障害者だから、、、というつもりは毛頭ない。従って乙武氏が品行方正でなければならないという理由もないし、障害者が健常者と同じように性欲があるのも至極当然であると思うし、相手が見つかれば不倫をしても一向におかしくはないと思う。そのかわり、その結果責任も特別扱いする必要もなく、世論の指弾も同様に受けるしかないだろうと思う。

不倫騒動の謝罪コメントに妻が登場するのはいかにも小細工めいて不自然だし、この時ばかりは障害者であることを陰に陽に、言い訳のようにする(手が無いという不自由さは健常者には分からないこともあるというのだ)のも潔くないと思う。

車イスを押して援助する人をポーターというらしいが、ポーターは身体運動の不自由さを支援するだけでなく、下半身の面倒まで見るものなのか、というような世評が広まれば、ボランティアにも敬遠され、車いすを押すことに抵抗感がでれば普通の一般の障害者には大変な迷惑がかかるなんてことは彼の明晰な頭脳の隅っこにもなかったのだろうか。

おそらく、これも自分は広く国民の支持を得ているという驕りから来る、イクメン不倫のM議員と同じく[ヒューブリス(傲慢)症候群]なのだろう。
要は彼は、自分は特別であり、自分の行為が一般の障害者にどのように迷惑をかけるのかを思いやる理性もない(というか、俺はお前たちとは違うんだ、という意識があるようにうかがえるのだ。)ただ自己愛の強い権力志向的な人格なようである。そして人並み外れた性欲の持ち主で、女性をつい性の対象にしか見れない、本性はアンフェミニスチックでアンヒューマニスチックな人格の持ち主なようである。
その一端は、過日報道された、銀座のレストランの入店騒動でも見て取れるのであるが、その時はまだ店側の落ち度として片付けられたが、今回ばかりは相手だけのせいにはできないだろう。

あの爽やかな言動と所作、スマイルは謂わばビジネス用であり、それに乗せられて彼を国会議員にでもした時には、手の付けられないセクハラ議員になったであろうことは、今になってみれば想像に難くない。

乙武夫妻は、目の前まで来た国会議員としての将来を失うのが耐えられず、そのためには夫婦が和解したと言わざるを得ないのだろうが、果たして国民の目はそれほど節穴でもあるまいとおもうが、、。おそらくそのうちに又弁明の機会を作って登場してくると予測するがいかがだろう?

とにもかくにも、この一件は何ともグロテスクな人間模様であったと感じたのは小生だけであろうか。

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