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作曲家・冨田勲が銀河鉄道に乗って宇宙に帰った。―初音ミクに導かれてカムパネルラに会いに行ったのか?

富田勲

5月29日深夜のNHKBSテレビで、[冨田勲の音楽のすべて」というような特集番組をやっていた。
この5月5日に84歳で亡くなったばかりと言うのに、ずいぶん早い特集番組だなと思った。
おそらく番組製作者に冨田の崇拝者が多く、早くから準備も出来ていたのではないかと思われる。
冨田は、シンセサイザー音楽の第一人者として、またNHK大河ドラマや山田洋次監督の映画音楽で一般にも良く知られた有名な作曲家であるが、いわゆる数多いる有名な作曲家とは一味もふた味も違う、誰よりも表現者としての芸術家達に尊敬される作曲家であった。

音楽のことはよくわからないが、たまたま小生と郷里が同じでもあり、また慶応義塾大学医学部とのつながりで個人的なエピソードもあり、また彼の生き方に個人的に尊敬と憧憬の念を持ち続けていたこともあり、その訃報はひとしお悲しく寂しく感じられた。
彼の公式な履歴、業績はどこにでも詳しく記載があるから、ここでは個人的な思いを反芻し一人静かに瞑目しお別れをしようと思う。

富田の生まれたのは愛知県岡崎市本宿町と言う、岡崎市の東の外れの山村であった。旧東海道から少し山間に入った自然薯で有名な辺鄙な里山である。生家は代々医業を営む地方の名家であり、秀才を排出することでも有名な一族でもあった。その冨田家の一族の一人が小生の実家の近所に住んでおり、主人は東大出身でトヨタ自動車の役員をしており、薔薇の垣根越しにピアノの旋律が聞こえてくるような、我が家とは真逆のハイソな文化的な家であった。親の学歴も資産もない普通の市井の市民であった我が家とは深い交流はなく、同家には年の近い子供達が居たが、学校も違い、なぜか遠くから眩しく見ていたような気がする。

地元の話では、冨田家の両親は、勲氏が慶応の医学部に行っているものと信じ切っていたのが、いつの間にか文学部になっており、作曲活動をしていると知って、ずいぶんショックを受けたということになっている。勲氏は愛知県立岡崎高校から慶応義塾高校に編入しているから、大学入学時にごまかしたか、医学部入学後、教養から学部に進む3年生時に文学部に編入したかは定かではないが、おそらく後者であろう。弟の冨田稔氏は慶応医学部生理学教室の俊英であったが、実家の冨田病院を継ぐためにやむなく帰郷し、3代目の院長になっている。
小生が若き日、名古屋の藤田保健衛生大学のレジデントをしていた時に、冨田病院に時々当直のアルバイトに行ったが、それは院長が未だ慶応で研究教育を継続されており病院を留守にするためであり、また病院の別棟に研究室があったのを覚えている。稔氏は現在は医学部の客員教授になっている。想像するに、兄の勲氏が医者になっていてくれれば、田舎の開業医の跡なぞ継がずに大学での研究者の道が続けられただろうにと恨んだのではないか、と思う。

当人は文学部美術史を専攻し、音楽の勉強を始め、全日本合唱連盟の課題曲で優勝すると作曲の道で生きる決意を固め、在学中からNHKの音楽番組で仕事を始めたという。
卒業後はコマーシャル音楽の作編曲、NHKテレビの「日本の素顔」「新日本紀行」「きょうの料理」などのテーマ音楽をはじめ、NHKの大河ドラマ「花の生涯」を始め5作品、手塚治虫のアニメ[ジャングル大帝レオ][リボンの騎士]「ととろ」など幅広く膨大なヒット曲を世に送り出した。

当時のNHKの音楽担当責任者は、「先生の出来上がってきた曲を皆で聞くと、皆な絶句して黙りこくってしまう。それほどいつも想像を超えた素晴らしいものであった。」と述懐している。

冨田はオーケストラ音楽というものを本当に良く理解していて、それを縦横に使いこなして見せたが、オーケストラ音楽と言う伝統の手法に飽き足らず思うようになり、40代に入るとシンセサイザーにのめり込んでいく。器械の取り扱いに相当苦労を重ねながらも電子音による編曲、作曲を実現して、やがてトミタサウンドとして世界的に有名になる。初めの頃は朝から晩までスタジオに籠っても、2週間で数章しか作曲できなかったと息子の冨田勝氏は言っていた。勝氏はコンピュータ科学の学者であり、現在、慶応義塾大学環境情報学部長であり、医学部の教授でもある。

月の光

勲氏は子供の頃から宇宙への憧れが強く、それは平和への思いと重なるのであるが、その思いを表現するには、シンセサイザーしかないと決心し、苦労の末、デビューアルバム[月の光]を制作したのであるが、しかし、このアルバムは日本のレコード会社は取りあってくれず、米RCAレコードからリリースされると、ビルボードのクラシカルチャート第2位にランクインした。これは日本の楽曲では、坂本九の「上を向いて歩こう(sukiyaki)」以来のことであったという。

その後のシンセサイザーによるすべてのアルバムは様々な賞を総なめにし、いずれも数百万枚と言う世界的なヒットとなった。
冨田のシンセサイザーによる作品は、すべての音色作りから、全パートの演奏、録音、編集まで冨田自身の一人の手による制作であり、その精巧さはだれも真似が出来ないものであるという。

ヨーロッパのシンセサイザーの音色の種類に「トミタ」というのがあり、その中の「トミタフルート」というのは、口笛のような、声のような非常に「人」に近いものであり、冨田の感性でしか出来えなかったものとされている。

50代になると立体音響ライブを開催するようになり、オーストリアのリンツでドナウ川両岸と川面とヘリコプターでスピーカーを吊るした空からの正四面体構造の立体音響を作り「トミタサウンドクラウド(音の雲)」を実現し、以後ドナウ川、ハドソン川、長良川で開催し、壮大な音響ライブのイベントを通じて世界平和を訴え続けた。その思いは、子供の頃に、空から米軍機グラマンの機銃掃射に怯え逃げ惑った経験から、空には宇宙からの美しい星の光と音楽が降ってくるような世界がなければならないという強い信念が原点にあるという。冨田少年が見た、灯火管制をしいた戦時中の夜空の星の美しさを終生忘れることが出来なかったと述べている。

60代に入ってから、山田洋次監督の要請に応えて、「たそがれ清兵衛」「武士の一分」「母べえ」「おとうと」など、いくつかの映画音楽を作っている。
山田洋次監督は「自分が映画で言いたいことをすべて理解して音楽で表現してくれた。音楽を聴くだけで、自分の言いたいことが全て伝わっている。彼は外面には出さないが、人間の真理と言うか、人間が生きて行くことの苦しみや悲しみを本当に理解している優しい人であったと思う、」と述べている。

銀河鉄道の夜

イーハトーブ交響曲

70代になると尚美学園大学の教授になり後進の育成に力を注ぎ、そして晩年は彼自身の音楽の集大成として、彼が最も崇拝した宮沢賢治の銀河鉄道の夜から「イーハトーブ交響曲」を完成させる。彼が永年探していたヴォーカルがようやく見つかって、ライブでコラボしたのが、ヴォーカロイド「初音ミク」であった。

ことさら思想的に反戦を唱えるわけではないが、真に身に着いた平和への希求が、彼のすべての音楽の通底になっているように思える

冨田を敬愛した小室哲也は、冨田の本質は「優しさ」にあったと見抜き、それは、大人の分別から来るものではなく、彼の「永遠の童心」の中にあったのではないかと言っている。
その心で宇宙も自然も心の心象風景も何でも自在に描いたが、彼の「永遠の童心」を象徴する存在がヴォーカロイドの初音ミクであり、彼はミクに宮沢賢治の妹トシを重ねていたのではないかと考察している。

富田勲

冨田は人生のライフサイクルを跨いで乗り越えるかのように、年代毎に音楽の節目節目を作ってきた。
テレビの中で述べていた印象的な言葉がある。
「一つのことを終えると、もうこんなつらいことは止めにしようといつも思うのだが、またしばらくすると、やりたいことが出てきてそれにのめり込んでしまう。その繰り返しだった。」と言っていたが、その行為自体はそれほど特異なことではないが、その辛い一つの体験がいつも成功裏に評価され、それが次に繋がって成功の連鎖になって行ったところが凡俗との決定的な違いである。

これだと思ったら、迷わず進む決断力。そして決めたら、どんな努力も惜しまず、手を抜かず、やり抜く強い意志。それに何よりも類まれな才能。すべてに通暁する深い知性。それらに向けられる人々の尊敬の念。結果としての目くるめく、きらびやかな成功体験。冨田は、彼が作曲した「大河の一滴」のような人生を送った人であった。

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