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溺れた犬を皆で叩いて首を取って、サア、それからどうするのか?

舛添前都知事の数々の不正追及がだんだん虐めの様相を呈してきていた。溺れる犬が叩かれても叩かれても沈まないものだから、半分は意地になって、マスコミが総出で息の根が止まるまで叩きまくった感があった。タフな舛添氏もとうとうギブアップしたが、さあそれでどうしようというのか?
結局マスコミや都民は何をしたかったのか?辞めてくれさえすれば良かったのか?
小生はその真意を聞きたい気持ちである。
彼は疑惑についてはダンマリを決め込んで(これは自民の指示でそうしたという説が有力であるが)消えてしまったが、これで、彼が最後まで振る舞いの醜い、ゲスな男であったことを肝に銘じて、彼が二度と世間に顔を出せないようにすれば、ま、制裁にはなるだろう。
彼は、本日正式に辞職したが、早くもこの話は風化し始めたようである。そこで、この騒動で小生が違和感を持ったことをいくつか述べておこうと思う。

1)日本のマスコミ及び国民は発達障害か?
子供の精神発達を論ずる発達心理学では、1歳から3歳頃に分離個体化の時期を迎えるという。その時期に、親からの分離という課題をのり超えると、とりあえずは健康で正常な成人に向かって次のステップに成長して行けるという。
乳幼児は「おっぱいをくれる良い母親」と、「おっぱいをくれない悪い母親」を別の存在として認識している、つまり同一人物のある面、ある部分しか対象に出来ず、良いか悪い、白か黒、all or none の判断しかできないが(部分対象関係)、段々それが同一の人物であると分かるようになり色々な態度をとる母親全体を対象とするようになる(全体対象関係)。

日本のマスコミは、ある人物の悪(弱み)を見つけると、すべてを真っ黒にしないと気が済まず、そのように扱うのが常である。特に、相手が逆らえないとみるとヒステリックに攻め立てる。最近では、東京オリンピックのエンブレム盗作問題がそうであった。

一般に物事の認識、判断が常に一面的であることが多く、「白か黒か」「all or none 」の二分法になる傾向が強い。多面多層から全体像を客観視するのが苦手である。
日本国民も同様であり、このマスコミの手法に容易に同調する。

日本国民の社会文化、政治的意識の成熟度は、精神でいう所の部分対象関係の発達レベルといえよう。人ではこの構造が残った精神病理を「境界性人格構造」と言い、症状としてはパーソナリティ障害の典型である「境界性(ボーダーライン)パ-ソナリティ障害」を呈する。情緒面や対人関係で極端から極端に走る変動の激しさと、周囲に対する操作的な態度を特徴とするものであり、自我の統合性が崩壊した、いわゆる統合失調症に親和性のある性格である。
日本のマスコミ及び国民性は未だ分離個体化以前の未成熟の段階であるか、あるいは成熟の仕方を誤ったボーダーラインの状態であるかのどちらかであると言うのが小生の見立てである。そして日本のマスコミは基本的には異様であるとは、世界のマスコミがが良く指摘することでもある。

2)舛添氏の本質を見抜けなかった有権者・都民の責任について―
舛添氏の偏ったsekoi 精神性、裏表の二面性、注目を浴びていたい演技性パーソナリティ、虚言癖、屁理屈、負け惜しみにも近い幼稚な論理展開力、これらについてはラプラスの妄想でもしばしば取り上げて(2014.2.10.,2015.6.24.,2015.8.12.,2016.5.18)来たが、「朝まで生テレビ」でみせた論理展開性(歴史認識に関する討論で、「あなたはそれを自分自身の目でみたのですか?」とやり込める程度の論理性)や厚労大臣時代の言動(消えた年金問題で、「横領した社保庁の役人は犯罪者であるから、最期の一円、一人まで必ず摘発して刑務所に入れる、と見得を切ったが、結果としてうやむやにし、一人も逮捕しなかった。)を見れば、十分予想のついたことである。
その程度の知事を選んだのはその程度の我々都民なのであると自戒しなければ、また同じことの繰り返しになる。早くも東国原英夫氏とか鈴木大地氏とかの名前が取り沙汰されて不安な雰囲気である。このレベルの芸能、スポーツ関係者を知事の選択肢にあげなければならない選挙をするために舛添氏の首をとったのか?と言いたい。
彼等を選ぶくらいなら、タダで働くと言った舛添氏に続投させた方が、まだましなくらいではないかと小生はつい思ってしまう。
ホリエモン氏が勘違いして出馬してこないともいえないが、あの五重不倫の乙武氏がタイミングよく退却していてくれて、都民にとってはラッキーであったと思う。彼が無傷で出てくれば、間違いなく当確だっただろう。

3)公明党の老獪な党利党略について
今回のどたばた劇の終焉は、結局公明党の党利優先の戦略に自民が引っ張られた形になった。公明党にとって国会と都議会で与党でいることが至上命題であるから、ここで自民に付き合っていて参議院選挙で足を引っ張られる訳には行かなかったのであろう。選挙で結果的に、自民が少し減り、公明がそれを補う形になれば、自民はもはやいいように操れると思っているのではないか。(衆参同時選挙を思いとどませたように)
つまり舛添氏の不正とか資質を問題にしたのではなく、参議院選挙に不利に働くから辞職を迫ったに過ぎない。それも自民に抜け駆けして対世論の点数を稼いだ。都議会総務委員会での集中審議では、時間稼ぎをして評判の悪かった自民党都議に比べ、歯切れの良かった公明党女性議員の方が誰が見ても見栄えが良かった。つまり公明党は、選挙で選ぶ人(都民)のためではなく、選ばれた人(都議及び政党-公明党)のためにすべてを決めたということだ。

4)知事公用車の不正使用、超豪華海外視察旅行について
湯河原の私邸に公用車で毎週通っていたことが問題にされた。毎週末、行政のトップが行政区を留守にするというのは、確かに問題であるが、公用車を24時間自由に使う位は良いのではないかと小生は思った。毎夕5時退庁を守り通して、実務は殆どしなかったという青島幸雄元知事(「俺は本当はなりたくはなかった」と言っていたそうである)や、週2回ほどしか登庁しなかったという石原慎太郎元知事に比べれば、美術館巡りはしても、彼らに比べれば一応仕事はしていたようだし、知事職は、どこまでが公用で、どこからが私用かというけじめのつくようなものでもあるまいから、セキュリティのことを考えればその方が都民のためにも経済的ではないかと思うからだ。また、公用車となれば、無分別に女性を乗せて移動することもないだろうから、私生活の乱れが都政に悪影響を与える可能性も減り、良かったのではないかと思う。文春もきっと別荘での行動は相当チェックしていたであろうから、彼は別荘ではお行儀が良かったものと思われる。もし、これに女性問題が絡めば、もっと結論は早かったに違いない。

豪華海外視察旅行については、お役人が慣例に従って立てたプランに従っていた、というのが本当の所ではないかと小生は思う。ただ、前任者達より回数が多すぎた。役人は前例、慣例を基本とするから、トップからの命令でもなければ、今回はレベルを落として行きましょう、とは言わないだろうし、役人もおこぼれ頂戴で一緒にいい思いが出来るから、税金を倹約しようなどと思うはずもないからだ。公表されてはいないが、海外視察旅行でファーストクラスに乗ったのは、おそらく知事だけではあるまいし、最低でも全員がビジネスクラスで行ったのではないか、と思う。公金、人の金、税金で良い思いをしたのは決して知事だけではない筈だと小生は邪推するのである。

Sekosa では見劣りしない猪瀬前知事は石原元知事を見習っただけというだろうし、結局税金を湯水のように使いだした元祖石原元知事の会計報告をマスコミは調べ直して公表するのがフェアではなかったかと思うのである。
彼の公私混同ぶりは、都民の税金で尖閣列島を買うと決めたことで想像できるように、我々の常識をはるかに逸脱しているのである。

重ねて言うが、1916年の前回オリンピック誘致運動では100億単位の金が使途不明のままである。
マスコミはそれを知りながら、放置したのである。
石原氏の恫喝に身をすくめたようである。
日本のマスコミは強いものには決して吠えない習性があるようだ。

甘利明前大臣の口利き疑惑は、物証が揃っていながら、何故追及の手を緩めたのか?
小渕優子議員の政治資金疑惑は、明らかな証拠隠滅がありながら、何故不問に付されたのか?
なぜかマスコミは知らん顔である。理由は知らないが、今回とは誰が見ても平等さに欠ける。

5)公私混同、政治資金流用疑惑について
Sekoi と酷評され、品格を下げた公私混同、政治資金私的流用については、額が少ないのが侘しい話になった。やるんならもっと大きくやれよ、と言いたくなったのは小生だけではあるまい。
ところで、追求したマスコミ関係者の皆さんは、社旗を立てたハイヤーに乗り慣れているようだが、時に私用で使ったことが、全く無いと言えるのだろうか?ましてや企業の社長や役員なら、純粋な社用以外の支払いを会社経費で落としたことのない人などいないのではないかと思うが如何であろうか。確かに使ったのは、公金ではないかもしれないが、そのsamosisa や倫理性に置いては基本的に大差ないのではないか。

6)第三者委員会という私設弁護団の醜態
これは噴飯ものであった。疑惑を追及される人が自分で雇った弁護士が第三者であるはずもないのは自明なことである。案の上、トンでもハップンな報告書を提出した。
問題は、こんな委員会を報告書を出すまで曲がりなりにも認め、時間を浪費させたマスコミの姿勢である。端から否定して、本当の第三者委員会を作る方向に行くべきではなかったか。都議会での百条委員会は自公がつくらせないと分かっていたから、なおさらそのように世論を喚起すべきではなかったか。
それにしてもあの元特捜副部長と称する弁護士と部下の弁護士はひどかった。「事実確認などは意味がないから必要ない」、と居丈高に居直るのだから。名前を出したら調査にかかわると言って名前を秘匿してきたが、ヒアリングもしないで雇い主の言葉をそのまま信じるような弁護士の名前を守る必要が本当にあったのだろうか?いずれにしても、舛添氏は弁護士の選択は間違わなかったが、世論の風向きは読み違えたようだ。

7)新都知事候補者について
与党、野党からも何人かの候補者の名前が上がってきている。正直うんざりな顔ばかりである。殆ど何も期待のしようがないような人物ばかりである。
知事になろうというような人のパーソナリティは、「マスゾエ気質」が何処かにあるであろうが、それでも当選するには、とにかく知名度が必要なのも事実なのである。
今の選挙制度では結局人気投票になってしまうが、それが民主主義の限界と言うのなら、選挙制度の工夫をするしかないのであろうか。
現行の知事の直接選挙制が、レベルの低いスキャンダルで失職するような人物しか選べないのなら、総理大臣を選ぶ間接選挙制も選択肢に入るだろうし、衆愚政治を防ぐために被選挙権に今より限定的な条件を付けるのも一法かもしれないと思うのだ。
しかしこれは憲法改正より難しいだろう。
それにしても結局は、有権者、選ぶ側の問題であろう。

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