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空耳妄言⑮―「量子コンピュータが実現する」、「権力党という存在」など-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

*量子コンピュータ実現に不可欠な技術を東大が開発
正月のNHK BSニュースでとんでもないビッグニュースが流れた。東大の古澤教授グループが、量子コンピュータに不可欠な量子テレポーションを無制限に繰り返す技術の開発に成功したというのだ。
量子コンピュータは現在のコンピュータが100億年かかっても解けないような問題を数分、数時間で解く事も出来るという想像を絶する能力を持った夢のコンピュータと言われ、世界中の研究者がしのぎを削っている中での快挙であった。
この仕事の意義は、単にコンピュータの計算能力が飛躍的に高まったというにとどまらず、量子論の言う「重ねあわせ」と「量子テレポーション」という基本原理を実証し、その実用化に目途を付けたばかりか、宇宙が多数の宇宙の重ね合わせから出来ているという「多世界解釈」に正当性を与えるものと考えられるからだ。

古典物理学(相対性理論を含む)では、物質の状態(位置や運動量)はただ一つに決まっており、未来の状態も現在の状態に基づいて機械的に決まるとしているが、量子論では物質の状態は一つに確定しておらず曖昧であり、未来は複数の可能性があり、どれが実現されるかは確率的に決まるとしている。

シュレディンガーは物質の波動方程式を導いて量子力学を打ち立てたが、その解釈を巡って大きな論争が起きた。ボーア等のコペンハーゲン解釈では、ミクロの世界の物質(素粒子、電子)は見えない時は波の広がりの上のどこかに存在し、観察した時は波動上の位置による確率によって波が収縮して一点の粒子になるとし、観察していない時は電子は何処にあるかは確定されず、様々な場所にいる電子の状態が「重ねあわせ」の状態にあると説明した。
つまり電子の位置は、まるでサイコロを振ってその目に応じて電子の発見場所が決まるかのように確率的に、いわば偶然の要素で決まるとボーアたちは考えたのである。
これに対してアインシュタインは「神様はサイコロ遊びなどしない」と言い、また「量子論が正しいのであれば、月は我々が見たからこそあり、我々が見ていない時はそこにないことになる。我々が見ていない時も月は変わらずに同じ場所にあるはずだ」と言い、物理学は決定論でなければならないとした。
そしてアインシュタインはコペンハーゲン解釈では量子テレポーションという光速を超える速さの瞬間の情報伝達が量子間で起きなければならないことになり、それは相対性理論に反するから成り立たないとする「EPRパラドックス」を提唱し反論したが、アぺスが、ベルの不等式が成り立たないことを証明しアインシュタインが一敗地にまみえた結果になった。

一方、当のシュレディンガーも、ボーアたちのシュレディンガーの波動関数の意味する物質波の実在性を無視する考え方に反発し、電子の波や物質波は実在するとの立場から有名な「シュレディンガーの猫」と言う思考実験で反論し、そこではコペンハーゲン解釈がミクロとマクロの世界を分けて説明する矛盾を突いた。
彼は、波動方程式で1933年にノーベル賞を授賞したが、それでも「自分の人生で量子論に関わったことは悔やみきれない」と、その後の量子論の展開を忌み嫌った。後世は生物学に転じ、1944年には「生命とは何か」という、生命に対する深い洞察を含んだ名著を著し、その本に触発され、DNAの二重らせん構造を解明した分子生物学者のワトソンとクリックは生物学者になったというエピソードがあるほどである。

やがて現在のコンピュータの原理を生み出したフォン・ノイマンがシュレディンガ―の波動方程式では波は数学的に収縮しないことを証明し、コペンハーゲン解釈の言う波の収縮は「観察した人間が『観察したと』意識した途端に波の収縮が起きる」と結論付けたが、物理現象を人間の意識の中で発生させるのは無理があり、一般には受け入れられなかった。

そこで「波は収縮などせず,広がったままなのではないか」と言う考え方が生まれ、「多世界解釈」を生むことになった。
 
コペンハーゲン解釈では、観測される前の原子の位置については、「A点にいる状態」「B点にいる状態」「D点にいる状態」などが一つの原子の中で重なっていて、どこか一カ所だけにいるとは言えないとするものであったが、これに対して多世界解釈では観測する前の電子はどこか一カ所にいると考えるが、その代わりに、私たちの知らないうちに世界が複数に―「電子がA点にいる世界」「電子がB点にいる世界、「電子がD点にいる世界」に―枝分かれしていると考えるのである。

つまりコペンハ―ゲン解釈では一個の原子の中で『物質波上のそれぞれの場所にいる状態が重なっていると考えるが、多世界解釈では「電子がそれぞれの場所にいる世界」が重なって、同時並行的に存在していると考えるのである。
そして私たち観察者自身も、それぞれの世界に枝分かれして存在しており、それぞれの観察者は自分がどの世界にいるかは電子を観測するまでは断定できず、実際に電子を観測して初めて「私は『電子がA点にいる世界』にいるんだな」と判るという解釈である。  
これは、プリンストン大学の大学院生だったエベレットの「パラレルワールド論」が原点になっており、エベレットは量子論が自然界の基本原理であるなら、その原理は宇宙そのものにも適応されるだろうから、量子論に基づいてその可能性の数だけ(コペンハーゲン解釈で言う重ねあわせの数だけ)幾つにも枝分かれして来て、その一つが現在私たちがいる宇宙だと考え、私たちの知らないところに、別の宇宙が幾つも存在し、そこには「もう一人の私」たちが暮らしているとしている。そして「もう一つの宇宙、私たち」を見ることが出来ないのは、一度枝分かれした世界同士は互いに交渉が断たれ物理的に孤立してしまうからだと都合よく説明している。

多世界解釈の説明だと、波の収縮という仮定は要らず、シュレディンガーの猫の、生きている状態と死んでいる状態が重なりあって存在しているという摩訶不思議な矛盾はなくなりミクロとマクロの境界も取れパラドックスはどこにも存在しなくなるのである。

現在のコンピュータは、あらゆる情報を「0」と「1」の2進数の数字に置き換えて演算を行うので、二つの量子ドット(量子の入れ物)では「0」か「1」で情報処理をするが、量子コンピュータでは情報処理の単位に「0と1の重ねあわせの状態」を利用し、0でもあり1でもありで並列演算をするので、「0+0」「0+1」「1+0」「1+1」の4通りの演算を同時並行的に実行することが可能になる。従って量子ビットが10あれば2の10乗、1024通りの演算を一度に出来ることになる。量子ビットの数が増えれば演算能力は飛躍的に向上するが、それには量子間の情報が瞬間的に伝達すること(量子テレポーション)が無制限に繰り返せる技術が必須であり、それを今回古澤教授グループは開発に成功したのである。
古澤教授は1998年に2つの量子間のテレポーションを世界で初めて実現させているが、テレポーションを可能にする量子を連続して作り出せる数に限度があるのが課題であった。それを今回ブレイクスル―したのである。

この分野に門外漢である小生が量子テレポーションに関心があるのは、こころの存在と働き、つまりは心脳問題と関わりがあるからである。膨大な数の脳神経細胞の瞬時同時的な働きは電気信号だけの生理的な作用では説明出来ず、テレポーションのような説明が求められているし、ユングの言う「共時性synchronicity」や「意味のある偶然の一致meaningful coincidence」の説明に有用と思うからである。
事実、ボーアが量子論の示す物質観・自然観を相補性(相容れない筈の二つの事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成しているという考え)という言葉で説明しているが、ユングも意識・無意識、思考・感情、感覚・直観を始め相補的な思考が多い。(ラプラスの妄想「相補性と言う原理」2013.11.20参照)
ユングはまた「パウリの原理」で知られる著明な量子物理学者パウリとも親交があり(パウリはユングのカウンセリングのクライアントでもあった)、シンクロニシティについての「自然現象と心の構造」と言う共著を表すなど量子論への傾倒がみられる のである。

精神医学も心理学、脳科学も科学と言うには未だ面はゆい所があるが、量子コンピュータが実現すれば脳やこころの仕組みなどは革新的な発展が期待出来るし、今話題のAIもIOTも桁違いの進歩をとげるに違いない。

小生は、さほどにこのイノベーションをiPS細胞に勝る重大な出来事と考えるのだが、なぜか日本のメディアは殆ど取り上げていないように見える。NHKBSニュースが一度か二度程放送したに過ぎないようであるが、これは果たして誤報であったのだろうか。
Obokataワールドではないことを切に願うばかりである。

*公明党とは権力党なのか?
都議会の公明党が自民党との連携を解消し、今後は小池都知事と連携していくと発表した。
言うまでもなく、来る都議選を睨んでのことである。都議選で小池知事に刺客候補を立てられないようにして選挙を有利に戦うためと、新しい権力に寄り添うためである。そのために永年連携して組んできた自民党都議会を見限ったのである。

国政でもそうであるが、公明党という政党は、結局、常に権力側につくことを最優先する党派であるということは誰の目にも明らかで、平和主義をいいながら、最後は自民の政策、秘密保護法でも安保法制でも賛成に回るのである。最近のカジノIR法案でも、委員長は反対でも党として反対の立場は表明できず、議員個人の判断にまかせ自主投票にした体たらくである。

このような態度をとる政党は佐藤優が言うところの「権力党」と言うにふさわしいようである。(「僕らの頭脳の鍛え方」必読の教養書400冊、立花隆・佐藤優著、文春新書2009)
思想・信条に関係なく、時の権力から常に外れないように振る舞う権力党員から成る政党のことをいうらしい。
権力党員の条件は、権力の一番中心には入らず、権力に批判的な姿勢を取りながら、必ず権力の内側にいることで、批判者と言っても反体制的、左翼的にはならないことだという。堺屋太一や竹中平蔵などのように閣僚や政府の諮問委員になっては権力党員から脱落する危険性があると言う、権力はいつどこで入れ変わるか分からないからだ。

佐藤が例に挙げているのは、権力党員の典型は評論家の田原総一郎で、どんな時でも自分の立ち位置を確保する。立花隆と決定的に違うのは、立花はインテリゲンツィアだからだと言っている。インテリゲンツィアは、身の安全よりも自分の思想信条を優先し権力にとって都合の悪い存在で、日本には非常に少ないという。
けだし同感である。

彼の定義によれば公明党は権力党と呼ぶべきであろうと小生は思うが(ただし、公明党は常に権力の中枢、内閣に大臣の席を確保するが)、諸兄のご意見は如何なものであろうか。

*年末年始のテレビ番組に思ったこと
例年、小生の年末年始はテレビのチャンネルを動かしながらの寝正月である。
面白い番組があれば何時間でも見る。
今年は全般に不作であったような気がする。新しい企画が無く、最近の企画の焼き直しをするものだから、番組疲労を起こして、何ら新鮮な魅力が感じられないのである。
2年前は、あんなに面白がってみた「孤独のグルメ」も、もう色褪せている。
「酒場放浪記」も「鶴ベイの家族に乾杯」もそうである。

なぜだろうか?この手の番組の面白さは、主役以外が市井の一般人であり、その素人っぽい出会いの驚きが新鮮なのであるが、番組が売れてしまうと、登場する周辺の一般市民も今がテレビ撮影であることに直ぐに気が付き、とたんに素人でなくなり、変に意識した出演者になってしまうからかもしれない。それに主役も、変にすれて(プロがすれるというのもおかしいが)、タレント気取りというかスター気取りの振る舞いを取り始めるのである。酒場放浪記の吉田類や野天風呂を歩く山田べにこなどがその典型で、最近は変に多弁で、主役として仕切りたがるのが鼻につくのである。
「孤独のグルメ」では、もはやすべてを演出にしてドラマ化してしまったようである。

それでも見ごたえのある番組はいくつかはあった。
一つは、NHKBSの「グレートレース」で、第一部は日本アルプス、中央アルプス、南アルプスの主稜線を縦断し富山湾から駿河湾まで250㎞を走破するドキュメンタリーで、第二部はサハラ砂漠を走り抜けるという、信じられない過酷なレースのドキュメンタリーであった。意外だったのは選手の中心は40才前後で、20代はほとんどいなかったことである。体力、気力の最も充実するのは、それくらいなのだろう。

もう一つはNHKBS1スぺシャルで、「欲望の資本主義2017、ルールが変わる」,[伝説の晩餐会にようこそ]などは見ごたえがあった。
時間をかけた力作はやはりNHKの独壇場であるようだ。
前者は、資本が富を独占する‘成長’資本主義の限界を示すもので、後者はゴルバチョフ元ソ連書記長の回顧録であった。
前者の出演者トーマス・セドラチェクの著書「善と悪の経済学」とロバート・B・ライシュの著書「最後の資本主義」は、番組出演を売りにして、素早く正月明けの新聞に大々的に広告が載っていた。
トマ・ピケティの「21世紀の資本」同様に、いずれも高めの本だがベストセラーになるかもしれない。

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