空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある
*西部邁
あの独特な語り口の保守の論客として一目置かれていた西部邁が1月21日早朝、多摩川に入水自殺した。
60年安保闘争では東大全学連のリーダーであったが、翌年には決別して大学院に進み、その後、社会経済学の東大教授になったが、教員人事で教授会と対立して辞任し、その後はマスコミで活躍し、「朝まで生テレビ」で保守論客としての地位を固めた。
彼の独特な論法、言い回しからは、「君たちは社会とか人間の本質というものがわかっていないんだよ」という声がいつも聞こえていたような気がする。おそらく彼が転向した理由にも繋がるのだろうが、人間の社会的行動は合理的な面と不合理な面の二重性が本質であり、社会も『共同の企て』と「個的な企て」の二重構成であり、いわばユングの言うような相補性で成り立っており、その均衡をとって行くのが慣習や伝統であるとする考えが、彼の保守性の本質ではないかと小生は考える。
保守とはいえ、彼は反権力的で、ある意味でアナーキーな一面もあり、親米、利己的な保守知識層とは一線を隔していた。(おそらく竹中平蔵の類が大嫌いであったろうと思う)
彼は「人間が生きることの意味」を終生問い続け、その視点から社会、経済を論じていた様な気がするが、その生きることの最終章が「自栽」としての自殺ではなかったかと思う。
人は産まれる時は、100パーセント受動的であり、その後の人生もすべてを自分の意思で差配できるわけではない。せめて死ぬ時くらいは、誰の影響も受けずに自分の意思で死んで行きたいと思うのが、小生の人生観であるから、西部が自らの死を自ら裁くと言って死んで行った気持ちがよく理解できる。
救急隊が救命処置をしたらしいが、それはいらぬお節介というもので、彼が死を成就出来て本当に良かったと思っている。(合掌)
小生は、保守の中では例外的に西部は嫌いではなかったが、これでまた好感を強くしたのである。
*野中広務
自民党の元幹事長である野中広務が1月26日、92歳で大往生したが、今の政治状況ではこころ安らかにとはいかなかったであろう。
野中広務と言うと、自民党の重鎮であり国会議員生活も長かったと思っていたが、初当選は57歳と遅咲きで、町会議員、府会議員と地方議員時代が長く、所謂たたき上げの代議士である。自民党にありながら、徹底した反戦、憲法護持派であり、また権力の中枢にあっても弱者目線を忘れることはなかったが、その原点は自らの戦争体験にあると、しばしば語っている。
評論家の加藤周一や作家の野坂昭如や五木寛之の反戦思想もそうであるが、観念ではなく自らの血と汗と涙で覚えた体験は戦争観や国家観を大きく変え決定づけるものである。
我が国から戦争体験者が間もなく居なくなるが、彼等が歴史体験から教える教訓はわれわれ一般国民には明日の我が身の事でもあり、今日も将来も決して忘れてはならぬことであると思う。
*野村沙知代
野村克也元プロ野球選手・監督の沙知代夫人が1月10日に急逝した。
歯に衣着せぬ物言いで、何かと物議を醸す毒舌タレントでもあったが、オシドリ夫婦として知られていた。正直言って、趣味の悪い服装といい、余り知的とは言い難い生活スタイルから好きではなかったが、葬儀後の監督のコメントを聞いて、一種の共依存のようなこんな夫婦も捨てたものではないな、と思った。
「大事なことは女房が全部決めてくれた。ピンチになれば「何とかなるよ」と、いつも励ましてくれた。俺は女房の言う通りにやればすべて上手くいった。だからこれからどうすればよいか途方に暮れるばかりだよ」と、頬を伝わる涙を拭おうともせずに語った姿は印象的であった。
野村監督は、自らを月見草に、長嶋茂雄監督を向日葵に例えて対比していた。
その長嶋監督は誰も家族のいない大豪邸で一人脳梗塞で倒れ、運転手に助け出されたが、今も一緒に住む家族はいないという。
そう考えれば、野村夫妻は、本人の評価や世間評はともあれ、幸せであったに違いあるまいと思うのである。
*「白いバラ」
銀座で唯一の大衆キャバレー「白いバラ」が、86年間の営業を終え1月10日に店じまいをした。
これも平成の終わりを告げる訃報の一つと言えるだろう。
この寂しさは、通った人にしか分からないであろうと思うし、ましてや女房、子供には想像すらできない寂寥感である。
よく、本当に大事なものは、失ってから分かると言うが、もっと通っておけばよかったと今更のように悔やんでいるのは決して小生ばかりではない筈である。