車をとりまく環境がこうも急激に変わろうとはだれも思わなかったのではないか。
僕たちの世代は、多くは車好きで、スーパーカーに憧れて大人になり、長じては、カッコイイ、速い車を持つために働いてきたようなものだ。
憧れだった車を手に入れることで、仕事のやりがいすら覚えたのである。
僕が若い現役の頃は、孔雀が美しい羽根でメスを誘うように、車が無ければ羽根のない孔雀のようなものだという強迫観念すらあったような時代であった。
僕もご多分にもれず、父親の払い下げから始まり、スポーツカーはフェアレディから、モーガン、ポルシェ、フェラーリと乗り継ぎ、SUVはレンジローバー、カイエン、セダンはアウディ、メルセデス、ジャガー、ロールス、ベントレーと乗り(いずれも中古車であるよ。)、時には1954年製アストンマーチンDB24に乗ってクラシックカーラリーのミッレミリアにも参加したりした。
車はまさに速さと美しさ(カッコよさ)のみが命と思って来た。
ところが、地球規模の環境汚染の問題から、CO2規制が強化されクリーンエンジンの時代になり、あのカッコ悪いプリウスがもてはやされる時代が来た。今は世界中でハイブリットは当たり前になり、時代は電気自動車の時代に突入しようとしている
電気自動車も、トルクも馬力ももはやガソリンエンジンンに遜色なく、EVのF1レースも行われる時代になった。残る問題は連続走行距離の延長と充電時間の短縮とスタンドのインフラの整備だけとなってきた。
トヨタを代表とする日本のメーカーの技術力の優秀さを考えれば、それらの問題も早晩解決されると思われる。
あのトヨタが、今までの政治に関与しないという社訓、伝統を打ち捨てて、安倍政権にすり寄ってまで、水素燃料電池自動車社会の実現を目指す本気度をみれば、もはや勝負はついたようなもので、ガソリン自動車はもう風前の灯と言えるだろう。
一方で旧車の人気は高く、ヴィンテージカーは急激な値上がりであるという。特にスポーツカーに人気が集中していて、フェラーリのディーノでさえ今は数千万はくだらないというし、デイトナにいたっては数年前には2,3千万からあったのが今はゆうに億は超えるという。アメ車ですらスポーツカーには高値がつき,すぐにさばけると、旧知の中古外車ディーラーは言う。
これからのガソリン自動車の運命やいかに?
私の意見はこうである。
自動車のエンジンは、早晩ガソリンから電気に変わるだろうと思う。それも水素を使った究極のクリーンエンジンになるだろう。
しかも運転は自動運転になり、自動車は、私達をまるで荷物のように運ぶ運搬手段、人間主体に考えれば、移動手段になっていくのではないか。自動運転車と自主運転車の共存が難しくなり、下手をすると将来は、車を自分で運転することが禁じられる時代が来るかもしれない。
そうすれば飲酒運転も自然に無くなることになっていいのかもしれないが。
かつて馬は、人間の単なる移動手段として、あるいは労働の使役としてあったが、やがて特権階級の愛玩物として名馬が珍重されるようになったり、娯楽として競馬が行われるようになった。乗るものから見るものに変ったのだ。
ガソリン自動車も、一部の好事家の趣味として残り、新車は性能をあげて行くだろうが、数が出ないから価格は無制限に上がっていくだろう。それらがレースとして見世物になるか、あるいは自らはサーキットで運転して楽しむ愛玩物になっていくのではないか。
既存の車の一部はコレクションの対象として残るだろうが、そうなるとスピードだけでは生き残れなくなるだろう。電気自動車は速さも進歩して行くだろうから(自動運転になれば、世の中はもう過酷なほどのスピードはもう求めなくなるだろうが)、早いだけのガソリン車では価値が低くなり、結局美しい芸術性の高い手作りのような車のみが珍重され生き残っていくのではないか。もちろん数が多い量産車では駄目だ。
電気自動車が普及すれば、政府もガソリン自動車の走行禁止などを言い出しかねないから、そうなると自家用ジェット並みになり、自分でサーキットを作ってしまうような超富裕層しか持てなくなるのかもしれない。
ま、僕の生きている内はなんとかガソリンも手に入るだろうから、今の車を大事に乗っておれば、我が人生はそこそこ運転も愉しめそうだが、その先は全く不確定だ。
ひょっとして今の若い人の車離れは、直観がもたらす彼等の無意識の心理が、車の未来を見通して、そうさせているのかもしれないね。
そうなると、自動車各社がやっているfun to driveのキャンペーンも効果がないということか。
時代は、自分達が意識しているより、確実の早く進んでいるのかもしれない。