ホームへ戻る

Car Life

SUV系その3―957型ポルシェカイエンターボ

レインジローバーに10年以上乗って、路上で危険な思いを再三して、家人の命令でカイエンに乗り換えた。これを買うちょっと前まで911ターボに乗っており、ターボラグでいやな思いがあったが、カイエンほど図体がでかいと、4800ccはないと、やはり、ターボでないと思うように走らないのではないかと勝手な思いこみで、ターボにした。

カイエンターボー蕎麦や『島田藪』の前で

911に勝るとも劣らない良い車でしたよ。良く走るし、運転の取り回しもいい。それに荷物は載るし、何処にでも行ける。レインジローバーはあの雲の上を行くような独特の乗り心地で勝るが、俊敏性でははるかに劣る。

カイエンターボー蓼科山荘前で

カイエンターボー蓼科で


この車には思わぬところでケチがついたが、その後も4年ほど乗り続け8万キロでまた同じカイエンターボに乗り換えた。5年、8万キロの割には思いのほか高値の下取りで嬉しかった思い出がある。

さてそのケチについてであるが、任意保険にまつわる話であり、当事者は日本興亜損保の自動車保険である。

あれは4年前の春の学会の時であったが、例年、学会には少なくとも5、6題は演題を発表しており、もちろん自分で全部するわけではなく、若い先生に振り分けて発表してもらうのだが、原稿の準備はかなり手入れをするので、学会前には同時に沢山の仕事を抱えることになり、頭の切り替えがうまく出来ないと、つまり意識でいえば前意識が、記憶でいえばワーキングメモリーがうまく働かないと、いわゆる高次脳機能がうまく作用しないと、同時にいくつもの仕事はこなせない。

その年は、なぜか能率が悪いなあと、愚痴を言いながらやっていたのだが、学会中に交通事故を起こし、それも停まっているタクシーをよけきれずバンバーを当てるというような、通常では考えられないような事故であり、どうも様子が変だということで、脳のMRIを撮ってみたら見事な右大脳基底核の脳梗塞が見つかったという訳である。

即入院となったのだが、その間に車の修理を頼んだのだが、記憶にある事故以外の損傷があちこちにあり、修理代は200万を超えるほどになっていた。
家のガレージにも傷があり、事故の後、いくつかぶつけて帰宅したようなのだが、本人には全く記憶がない。
学会前にはすでに脳梗塞にかかっており、そのために高次脳機能が低下していたと思われ、空間認知能力が障害され事故を起こし、また記憶障害のためにいくつかの自損事故を覚えていなかったのも脳梗塞のためと思われたし、主治医の脳外科の教授の診断もそうであった。

にもかかわらず日本興亜損保は、タクシーの修理分は払うが、当方の車分は、どこまでがタクシー事故分か判別出来ないし自損事故は証明できないからと言って、当方の分は一切払わないとした。そのように契約書に記載があるというのが言い分なのだが、タクシー事故は警察に届けてあるし、自損分を不可抗力の病気による事故でも面倒見ないのでは保険の意味をなさないとして、裁判で争ったが、結局タクシー事故分相当の15万程度の支払いで終わり、180万以上は自腹になった。

この間の日本興亜の対応は失礼際まる横柄なものであり、極めて不愉快であった。

さて、みなさんはどう思われるでしょうか。保険会社はどこも似たようなものと思われると思いますが、私が形成外科時代(形成外科は交通事故の手術が多く保険会社が支払う自費診療が多いのですが)、に何かと文句をつけて支払いが悪かったのも日本興亜であったし、病院によっては日本興亜の患者は受けないというところもあったくらいでしたよ。

これは私が体験した事実です。どうぞ保険に入る際には、契約書によくご注意され、会社も選択されることをお勧めします。

冬の蓼科でDSC00353

ラグジュアリ系―その2 アーデンビトルボARDEN JAGUAR DIMLER 40 BITURBO

かって、車が世の男の頑張りの源泉にもなりえた頃、アーデンというジャガーのチューンメーカーの車が日本にもあった。

BMWのアルピナのようなものである。

ジャガーがまだ栄光を放っていたころで、ダイムラーのダブルシックスなんてのは親父の最高のころがし車であった頃のコトデス。

ダブルシックスのアーデンウッドになると、内装のほとんどがローズウッドで貼られており、もう車ではなかったように思ったものだ。

その少し廉価版でダイムラー40のアーデンバージョンがあり、ターボが2機ついており、したがってbiturboビトルボと呼ばれていた。

車高は低く、ホイールはオーゼットが奢られており、中央にはお洒落な七宝焼きのエンブレムがはめられていた。

とにかく美しくセクシーであり、形に惚れて買うことになった。

通常のジャガーの倍くらいしたが、さすが簡単には売れず新古車となり、それを叩いて買った。

外装は黒、内装は薄いミルクコーヒー色で、ローズウッドがふんだんに使われており座席の後ろにはピクニックテーブルが着いていた。

シートはもちろんロールスと同じ最高級のコノリーレザーが張られていた。

石川島播磨のターボは強力で、かかると怒涛のごとく走った。

但し、ジャガーのブレーキもシャーシーもそれについていけず、直進はめっぽう早いが制御に不安があり怖い思いをした。

またタイヤが扁平過ぎたのか、車が常に左右にぶれるので、真っ直ぐコントロールするのに神経をすり減らしたものだ。

ま、若気の至りというか、アウトローにあこがれて乗ったようなもので、ナンバーは1か8であってこそ相応しいような車であったが、さすがにそこまではしなかった。

今ならするが。

この車に乗った頃は私も若く、生気にあふれ怖いものなど何もないような錯覚をしていた時代で、遊んでいても痛快であった。

当時、フレンチのひらまつが星条旗通りにラフェットというビストロを出しており、そこにアーデンを横付けして通ったものだ。

まだ飲酒運転が出来た時代のことだ。

アーデンに首を突っ込んで、平松氏がセクシーだ、セクシーだと言っていつも羨んだものだが、当時は私もセクシーさで売っており、よく一緒に遊んだものでしたよ。

当時は遊ぶのに忙しかったようで写真が一枚しか残っておらず、それも遠景の息子付の一枚で、この車の美しさをお見せ出来ないのが残念です。

アーデン唯一の一枚

平松氏は医者にちょっとあこがれがあり、私はスターシェフにあこがれがあり、お互いの名前の入った白衣を交換したりしたバカなことも平気で出来た、若い頃の、と言ってもちょいワル?おやじのころの思い出です。

アーデンのカテゴリーは私的にはヴィジュアル系なんですが、ジャガーの本来の性格からしてラグジュアリー系に入ました。

ともあれ私の若気の至りの一台である。

 

アーデンパンフから

アーデンパンフから

アーデンのロゴマーク

 

スポーツカー系その2―Porsche911 996型 Carrera 4

 

ポルシェ911(きゅういちいち、Nine-Eleven)はポルシェ356の後継モデルで1964年の初代モデルを901型と呼ぶ。

996型は5代目に当たり、30年ぶりのフルモデルチェンジをして、空冷エンジンが水冷エンジンになり、当時は多いに話題になったものである。

もっとも私にとっては初めての911であったし、2台乗った928はもともと水冷であったから違和感は感じなかった。

928に比べ二回りほど小さく感じ、トリ回しがいいし、4駆で足回りも安定し、格段に乗りやすかった。

996carerra4

996carerra4

 

息子が免許証を取ってから初めて購入した車で、これ以来ナンバーは、私と息子の誕生日を合わせて0516になった。

この後911ターボにも乗ったが、息子の意見では、カレラ4が一番良かったとの評価である。

ボディカラーはナス紺のミッドナイトブルーで、インテリアはベージュにし、見た目はきれいで良い選択と思ったが、ベージュのダッシュボードはフロントグラスに反射してしまい、正面の視野を遮り、実際は乗りにくかったように思う。

3年くらい乗り3万キロで次の下取りに出したと思う。

ポルシェの価格は‘かけそば’値段で、オプションは殆どついていないので、たぬきだ、オカメだ、天ぷらだの如く、ナビをつけ、キセノンランプだ、電動シートだ、レザーシートだとしていくとすぐに数百万かかってしまい、この車も1500万近くなったと思う。

ところが下取り価格はかけそば値段がベースになるのだから、ポルシェはずるい商売していると思ったものだ。(さすがに今はナビは標準装備になっているようだが。)

この車は、息子にとっては大学生活にベタに結びつく思い出の多い車なのだろうが、私にはこの車の記憶というか思い出はなぜか希薄で印象にあまり残っていない。

大きな事故も事件もなかったせいなのだろう。

従って家人にとっては幸福な車の一台であったのは間違いないのである。

別に深い意味はありません。

蓼科で

斜め後ろがベストビュー

我ながらキホン似合ってませんね。

 

ASTON MARTIN DB2/4 その2―ミッレミリアを走る

ミッレミリアと言ってもイタリアのではなく、日本のラ・フェスタ・ミッレミリアのことであるが、車を手に入れたその年に参加した。

公式パンフ

このラリーはイタリアのミッレミリアに認定された国際的な格付けがあるため、車もF.I.V.A.(国際クラシックカー連盟)の認定を受けなければいけないとか、所有者は個人名でなければいけない(つまりローン中とか法人名義はダメ)とか、手続きがいろいろ面倒であった。

そこで車を輸入したディーラー(社長)のスポンサーになり(参加費用は結構高い)、co-driverに登録させ、一切の手続きは任せることにして、私は殿様が狩りに行くような殿様気分で通すことにした。

本番の1ヶ月ほど前にプレミーティングと称する予行練習が、箱根の山の上ホテルで1泊2日であり、新参者でもあり我々も参加することにした。

そこで初めて、競技は,速さではなく、正確さを競うものだと知った。

CPと呼ばれる、決められた距離を指定された時間で如何に誤差を少なく走るかを競うのである。

結果、時間は100分の1秒を争うことになるので、navigatorはストップウオッチを睨みつつ、driverはタイヤがCPのラインを超えるのを正確に知る必要が生じてくる。

体を乗り出して見るわけにも行けないので、車に印を付けたりして、いろいろ工夫をするわけなのであるが、僕のco?driver(ディーラー社長)はラリーについて知ったかぶりをしていたが、それすら知っておらず、プレミーティングでは恥をかく程の散々の結果で終わった。が、本番に向けては、大いに勉強になった。

本番では、数十メートルから数キロメートルのいろいろな距離のCPが4日間で100箇所くらい設定されているのである。

さてラリー本番は10月の上旬であったが、問題が一つ発生した。

当時私が所属していた大学の医局が、形成外科学会を主催することになっており、日にちが重なったのだ。

多少は迷った?が、ラリーを取った。

但し最終日は会長主催のパーティが有り、私はその司会を担当しており(当時私はそこの助教授であった。)、それをサボることは出来なかったので、ラリー最終日はドライバーを交代してもらい、茂木から東京に戻った。

driverの希望者はいくらでもいたのだ。

従って私は、出発地点の原宿明治神宮表参道での見送りの栄誉は受けたが、終着地点の横浜元町商店街での凱旋行進の感激は味っていない。

ラリーは明治神宮原宿口をスタートし、出来たばかりの六本木ヒルズで顔見世をした後、一路東北道で郡山まで走り、福島会津磐梯周辺、米沢を周回し、帰りは栃木のツインクル茂木に立ち寄りコースを全力疾走してタイムレースをして、茨木、千葉から海ほたる経由で横浜、鎌倉、箱根に至る1600キロであった。

気が遠くなるような退屈な田舎道のワンデリングもあったが、大方は風光明媚な楽しいコース設定であり、夜は、毎晩ワイン飲み放題の宴会があり、日頃接する機会のないような方たち(大概は個人会社経営のオヤジ達)と交流ができ、人見知りの私でもそこそこ楽しかった。

成績は107台中30位とまあ健闘した。(私の時点では20位であったゾ。)

ラリー後、アストンが頑張りすぎて調子を崩しガレージに入ったり、また私がある事情で2年間ほど運転が出来なかったりで、参加は一回きりで終わってしまい、やがてアストンも手放してしまった。

日本のラ・フェスタ・ミッレミリアも私が参加した数年後に、組織運営委員会の内輪もめでミッレミリアの冠を取られてしまい終了してしまったが、2年前にラ・フェスタ・アウトゥンノと名前を変えて再開したと聞くが、参加者もタレントが増えてテレビ番組化してしまい、かってのように数寄者の集まりという内輪の雰囲気は消えつつあるようだ。

所で、アストンマーチンDB24は手放してしまったが、今となっては心から後悔している。

失ってその価値、良さがひしひしと身に染みて分かったのである。

別れてから、その良さが分かった女性のようなものというとわかり易い例えの様だが、実はそのような経験は私にはありません。

想像だけの話ですよ。

次の車が欲しくて手放しておきながら、まるで別れた女に未練タラタラのようでは恥ずかしながら、誠に様になりませんです。

ただ旧車は、近々の車と違い、おいそれと買いなおすことができないのですよ。

今ある,ほんの僅かな数だけしかないのですから。

それに旧車の世間は狭く、あの車は今はどこの誰それが持っているとかの噂はすぐに耳に入って来る。

それが未練を引く結果となり、また切なくなるのだ。

まあオーバーにいえば、茶道具の名物を数寄者達が欲しがった様に似ているかもしれない。

世界の不景気にかかわらず、(だからこそか、投資の対象になり)旧車は値上がりを続けており、ましてやこちらは今や半隠居の身、買い戻すなんてことは到底叶わず、また以前のように写真を見てはため息を付くばかりです。

今は、アストンマーチンDB2mark?やフェラーリ250GTOなどの超ビンテージカーを夢想しつつ、ジャンボ宝くじ売り場に並ぶ老残の日々に甘んじているのであります。

スタートゲイトをくぐって

出発前。受験生の付添いのような家人

神宮境内で出番待ち

明治神宮からスタート

チェックポイントでの歓迎風景

マラソン選手のような気持ち

大内宿で休憩

 

農道を走る

茂木ツインクルでの疾走

茂木での疾走

ガレージに張っている記念のポスター

参加IDカード

 

デザイン(ヴィジュアル)系―その2 ASTON MARTIN DB2/4 1954

見てくれに弱いのは男の常。

この車は、まだ英国からの貨物船の中にあるうちに、つまり現物を見ず、試乗もせずに一枚の写真を見ただけで買ってしまった。

一目ぼれしたのだからどうしようもない。

旧車のディーラーの社長達は自己愛の強い、
俺が一番みたいな人が多く、基本的に客を見下している。

私を見て、お客さんはMGかオースチンヒーレー辺りが順当ですよ、と言うから、どうもしっくりこない。

元来自尊心が高いのが欠点なのであるよ、わたしゃ。

ポルシェ911ターボの新車で出向いていても鼻にもかけてくれやしない。

それに私は車本専門店のリンドバーグでクラシックカーの雑誌や本を見ていて、目ばかり肥えて、よくあるライトウエイトでは気が乗らなかったのだ。

赤羽橋にあった麻生自動車の3、4階にはアストンマーチンの垂涎ものがゴロゴロあったが、多くはお寺さんか塾の経営者(隠れ金持ちの常連。
脱税の常連でもあるらしいが。)が所有している保管車であって、
たまの売り物にはボンドカーもあったが、それはそれで雲上値段で検討の対象になりもしなかった。

そんな折、リンドバーグで買った本の中で見たことのあったアストンマーチンDB2/4の写真を見せられたのである。

まさに運命的出会いであったといっていい。(ちなみに妻とも運命的出会いでしたよ。)それに当時はまだ、手の届く値段であった。

そして、いざ現物が来てみると、予想以上に美しい。

ヒップのラインはこの上もなく怪しくも悩しいのである。

カラーもブリティッシュレーシーンググリーンで完璧な塗装。

これはかなり珍しい事象ではありませんか。

写真で見て期待に胸膨らませ、いざお目にかかるとかなりの頻度で奈落に落ちるのが世の慣いで、その現象はほとんど公理とも言える程ですので、この車の場合は超レアな事象であったと言えます。

エンジンも英国でOH,メンテされており、業者からは何もせずに渡されたが、絶好調でレーサーのようないい音を吹かせてよく走り、何の問題もなかった。

もちろんパワステ、エアコンはなく夏は大変だし、冬はチョークを引いて、
外にバッテリーを繋げて始動するなど多少の問題あったが、それはそれで小悪魔に手を焼くようなもので、それも楽しみのうちでありましたよ。

問題があるとすれば、乗っていて、人の視線が気になることぐらいですが、それもどこかで悪い気がしないのは、素敵な麗人を連れて歩く時と同じですよ、恐縮ですが。

この車の顛末はまた書きますので、
今回はこの美しい車の姿をたっぷり見てください。

ASTONMARTINDB24

ハンドル、インパネはオリジナルのまま

V6エンジンルームはシンプルでスカスカ

オリジナルのシート

シューティングブレイク仕様

表参道で

表参道で

表参道で

表参道ヒルズ前

鍵のオリジナルのバッジ

勉強した写真本

本にあったDB24

本にあったDB24

 

ASTONMARTIN DB24

ASTONMARTIN DB24

?

SUV系―その2  レンジローバー4.6HES

蓼科に家を買って、しばらくはポルシェ928Sで行っていましたが、
秋も11月半ばになると、もう間もなく凍るから、いつ雪になるかもしれないので、それなりの車で来たほうがいいですよと、管理を頼んでいた地元の建築会社のH氏に言われ、ではどうせ買うなら4駆にしようということになり、いろいろ考えた末、どういう成り行きか、英国車で4駆のロールスと言われていたレンジローバーに不埒にも一度は乗ってみようということになった。

冬の蓼科山荘にて

ちょうどレンジローバーが全車種、大幅に値下げし、
また価格据え置きローンを始めて、買いやすくなっていたのも弾みをつけた格好となり、4.6HESという最高クラスを買ってしまった。

当時モーガンも持っていたので英国車が並ぶという満足感も高かった。

この車は、エアサスペンジョンで、まるで雲の上を行くような独特な
乗り心地で、また乗り降りの際には、車高を7センチほど下げられるという、優れた機能がついていて便利であり、女の子には特に好評であった。

右ハンドル車は久しぶりでもあり、慣れないうちは、よく左側に幅寄せしてはヒヤリとしたり、擦ったりで、また屋外の貸し駐車場に置いていたこともあり、すぐに乱暴に乗るようになり、いつも傷だらけで乗っていた。

SUVは、荷物もたくさん乗るし、放り投げるように入れればよく、
レンジローバーもとにかく便利で重宝な車であった。

リアのドアが二つに分かれて上下に観音開きに開くようになっており、
下段のドアは腰掛になり、ピクニックでは便利であった。

何年目かの冬のこと、新しいスノウタイヤに替えたばかりで油断してか、
新雪が積もる山道でスリップし、道脇の川の土手に落ち、斜面でかろうじて止まったことがあった。

日も暮れており、通りかかる車もなく、遭難するかと思ったが、バックで何とか自力で脱出でき、さすがレンジローバーと感心したりした。

この車も長寿であった。

10年以上乗り、13,4万キロ走ったのではないかと思う。

とうとう最後は突然前ぶれもなくエンストするようになった。

信号の交差点の中の右折車線で止まってしまった時は後続車にピーピーやられて困ったのだが、目の先にいたパトカーは何も助けてくれず、
知らん顔であった。

多分交通課のパトではなかったのかもしれないが、皆が困っているのだから、交通整理くらいしてくれてもいいのではないかと心底腹が立ったが、
お廻り(さん)なんて、しょせんそんな程度の仕事しかしない人種と思わなければいけなかったのだ。

私の経験では、金を盗まれたくらいでは、被害届の書類だけは作るが、
それが済めば仕事は終わったかのように捜査なんてこれっぽっちもしやしない。

そのDNAは、その後の度重なるストーカー殺人事件でも、見事に引きつがれていることが露呈した。

最近は、さぼってたことがバレルからといって、書類すら作らないのがいるらしい。

所で、マスコミの下馬評では、もうじき政府は阿部政権になるらしいが、
彼の下では、もっと無責任な警察になるだろうな。

彼は戦争になったら一番最初に逃げ出しそうだもの。

口だけ勇ましいのは大体相場は決まっている。

彼には前科もあるし。

そんな政府では、警察もバカにして弛緩しきって、仕事なんかしないに決まっている。

ましてや、阿部氏のあの鳥類の嘴のような口元と、オウムがさえずるような受け売り的な話し方では、自ずとその胆力、知力の程度も明らかとは思いませんか。

そういえばもう一人の元民主党の元総理もあの血迷った振る舞いは、
ほとんど病的な判断力の欠如としか言いようがなく、日本国の名誉のためにも、私のいる群馬病院のストレスケア病棟に入院された方がいいのではないでしょうか。

我が国にはどうして人物がいなくなってしまったのでしょうかねえ。

政治家も、役人も今以上に、身体を張って仕事をしなくなる時代になれば、警察だけが働くとは、とても思えないでしょう。

ヘタをすると独善で頑迷な自己愛性パーソナリティ障害の元太陽族、
前都知事殿が総理になる可能性もあるなんて、本当に悪夢だから、
この話はもうやめましょう。

話はそれましたが、家人も老骨のローバーに同乗していて、
そんな嫌な思いをしばしば体験したので、間もなく、
車を買い換えるように厳命が下り、私は身を切る思いで、泣く泣く?渋々?(勇躍?)様々な思いが染み付いたローバーを手放すことになり、我が家の長寿のレンジローバーの命脈も尽きたのでした。

レインジローバー4.6HES

レインジローバー4.6HES

 

ラグジュアリー系その1―MERCEDES 450SLC1976年モデル

今回はカテゴリー:ラグジュアリー系のその?.としてベンツ450SLCを取り上げます。

この車は私がフランスから帰って2台目になる車です。

留学前には出向先の長野の飯田で買ったアウディ100クーペに乗っていて、それを残して出掛けたので、留守の間は放置状態(実家に置いていたので、父親がたまにはエンジンをかけてはいてくれたらしいのだが)になっていたために、帰国後は走っても調子が出ず、諦めて、学生時代からの憧れの車の一つであった日産のフェアレディZに買い換えました。

これはかなり気に入って乗っていたのですが、残念なことに息子がすぐに車酔いしてしまうのと、成長につれ2人乗りでは不便なのとで、家族優先の高邁な思想の元で中古のベンツを買うことにしたのです。

カーライフに登場したバイト先の救急病院の院長と付き合いのあった浜田山の外車ディーラー、リンカーンモータースから5年物の450SLCを今では考えられない位高額で買いました。

福井九頭竜ダムにて

日本はバブルに入ろうとする頃で、当時の外車屋は飛ぶ鳥を落とす勢いで強気な商売をしていた訳です。また今ほどベンツの中古の玉も少なかった時代でもありました。

医療は世間のバブルとは全く無関係な世界で、私がベンツを選んだのもバブルとは勿論関係無く、息子が親戚に乗せてもらったベンツでは車酔いしなかったという親バカ体験から来ているにすぎません。

私の車とバブルの関係でいえば、買った方は無関係でも、売った方は大いに関係していた訳で、当時はメルセデスもBMW(当時はベェーエムヴェーと呼んでました。)も直営の〇〇ジャパンという組織は無く、せいぜいヤナセがベンツの総代理店をしている位で、今でいう並行物という差別感情も殆ど無く、外車ディーラーという今で言う並行輸入業者は大変羽振りが良かったのです。

リンカーンモータースのT社長も例外ではなかったようです。

また、当時はベンツも今では想像もつかない程のステイタスシンボルであり、不動産バブルで浮かれた間口一間の不動産屋の親父でさえも、こぞってベンツを乗りまわしていましたから、T社長は笑いが止まらない程儲かるよ、と言って、当時のバブルのあだ花、レースクイーンを追いかけていましたね。

あのバブルというのは一体何だったんでしょうねえ。

一般に、日頃から頭を使って楽しむという事とは無縁の人達が、にわかにお金を持つと、することは限られる様で、俗に車道楽、〇〇〇道楽というもののようです。

ま、金に物を言わせて、、というか。

敬愛する、タレントのなぎら健壱が、自らの多くの趣味を問われて、喝破していましたよ。

『仕事は結果が求められるもの、趣味は結果を求めないもの、道楽はお金さえあれば手に入る楽しみを言い、趣味はお金だけでは手に入らない楽しみを言う』と。

確かに、バブルはたくさんの道楽者を産みましたが、文化の芽となるような趣味人は育てませんでしたね。

450SLC-前

450SLC-斜め後

450SLC-斜め前

 

スポーツカー系―PORSCHE 928,928S

スポーツカーのカテゴリーに入る車その1です。

ポルシェ928という、911とは趣を異にした車が最近までありましたが、
もうご存知ない人の方が多いかもしれませんね。

スポーツカーというには少しズータイがでかい。

スポーティグランツーリスモという方がより正確と言えるような車ですが、
私が初めて乗ったポルシェですのでスポーツカー系に入れました。

928

古い写真から見ると息子が未だ幼稚園に行くかどうかの頃のようです。
そういえば、この車に補助輪の付いた
子供自転車を乗っけて、砧公園に自転車を教えに行った思い出があります。

ハッチバックのように後ろのドアが上がりますのでなんとか後部座席に乗せられたのです。

 

928

その際つけた、センターコンソールの革の傷は、その後懐かしい記念として残りました。丁度、丈比べの柱の傷のように。

 

 

高山渋草焼窯元で

当時はまだポルシェジャパンはなく、
三和自動車Mizwa Motorsが総代理店で、あちこちに特約店があり、これはそのひとつ浜田山にあったリンカーンモータースの個性的(アコギな)な社長の口車に乗せられ買ったようなものです。

 

距離は2000キロしか出ていなく、青山のビルの地下駐車場に特注の
フェルトのボディカバーが掛けられ、宝物のように大事そうに保管されていました。

 

ナス紺に塗りかえた

色は柿色の赤で、見たことのないような上品な色でしたが、後になってこの色が物議を
醸し、濃紺に塗り替えることになりました。
この車で大学に通勤し駐車場に停めることを上司が許さなかったのです。

 

928

何処かへ家族でドライブ旅行に行った時、
息子がシートの前に立っていて、はずみで頭がフロントグラスにあたり、割れたことがありました。
蜘蛛の巣のよう亀裂が入ったのです。

 

その時は、ポルシェのガラスがもろいのか、息子の頭が硬いのか多少悩みました。

928はポルシェが、総力を挙げて開発した、911を超えるフラッグシップカーで、未来的な新しい機能がいくつもついて、さすがに良く出来ており、長距離を高速で飛ばすにはもってこいでした。

4年ほど乗ると、外装が、日本でした再塗装が悪いのか、日焼けしたようにやれてきたので、思い切って新車に乗り換えることにしました。

当時の自分の収入から考えると常人では考えられない決断で、
家人に言わせると、この日から我が家のキリギリス生活は始まったといいます。(これがどの寓話に由来するかは実は私は知りません。)

私がまだほんの子供の頃、世の中は不景気であり、親父はろくに給料も入れてないのに、当時の高級カメラのマミヤの箱型の2眼レフ6×6(当時の給料の3倍くらいしたのではないか)を買ってきてしまい、母親に散々罵られていた情景を、その時フラッシュバックのように思い出した記憶があります。

今思えば、確かに大学の勤務医が928の新車を買うなんて正気の沙汰ではなかったのです。

ともあれ、内装もオールレザーにし、フルオプションのオーダーで、
来るまでに小一年かかりました。

928S

928S

色は小さなカラー見本で決めなければならず、散々迷ったあげく、名前は忘れましたが、曇天下ではシルバー、日光が当たるとシャンパンゴールドに近くなる、基本はシルバーメタリック系のカラーを選びました。

928S

928Sと928との決定的な違いは、エンジン音が静かになり、あのお腹の底に響くような重低音が消えてしまったことです。
個人的には残念でしたが、近所の住民は歓迎しました。

その頃、350キロほど離れた長野県飯田市の脳神経外科病院に月一回手術に行っており、その足として大変重宝しました。

そこの院長は、以前より928を所有しており、「どうだい3時間では来たかい?」と、聞かれると返事に困ったものです。

当時の私の運転作法は、前方車両と取締りの目をかいくぐり、可能な限り前に出る、早く走るというもので、平均170、80キロで飛ばしており、流石に「2時間かからなかった。」とは言えませんでした。

中央道はところどころに長い直線距離が有り、特に伊那北、伊奈インターの間は長い直線の下り登りになっており時速250キロオーバーで飛ばしたものです。

揚力が働けば飛びそうな勢いです。(もう時効と思っての告白ですが。)

100キロと比べると、視野が半分位になり流石に生きた心地はありませんでしたが。

但し、ここの上り(東京方面)車線にはオービスがありますからお気を付けください。

この車はおよそ10年間乗り続け、息子が18才になり免許を取った時譲ったので、老いてから若葉マークをつけて走っていました。

最後は下取り車にもならず、廃車になりました。

かように気に入ったものには、深く永くとことん愛情を注ぐというのが私の優しい性分なのです。

そういえば、最近の開高建の評伝によれば、開高建も、《旅の途中で馬は乗り換えない》と言って人や物を大事にしたらしいですよ。

箱根ピクニックガーデンにて

箱根ピクニックガーデンにて

八ヶ岳高原ホテル

 

 

 

 

 

デザイン系―1.モーガン+8,4/4


今回はデザイン系の?としてモーガンを取り上げます。

モーガンの様なクラシックなスタイルのオープンカーは
学生時代からの憧れでした。

伊丹十三が、未だ伊丹一三といっていた頃、
旧いMGか何かのオープンカーにカッコ良く乗って、
週刊プレイボーイかなんかに載っていると、
ポットでの田舎少年には眩し過ぎるほど、
かっこよく映った。

そんな遠い潜在意識が目覚めたのが、
1998年頃で、1年前の走行10000キロの+8のグレーメタリックーの中古をモーガンオート高野で買った。

メーター類はすべて白の丸目のクラシック調にし、レーシングスクリーン、ダッシュミラーを付け、
当然リトラクタブルウインドウにしました。

ホイールはステンレススポークをおごり
ピッカピカの新車以上に綺麗に仕上がり
大変満足のいく出来栄えになりました。
エンジンは4600ccのフォード製で
レインジローバーと同じでした。

車重が軽い分、加速は良いし、軽快に走りましたよ。

しかし基本的に設計が古い。
路面の振動をよく拾い、乗り心地は決していいとは言えず、またオープンは風で疲れて,遠乗りは簡単ではありません。

おまけに家族は運転はおろか、誰も一緒には乗ろうとはしません。

我が家のモーガンは始めから前途多難でした。

それに見慣れて来ると、モーガンの後方の
デザイン、リアヴューが直線的過ぎて気に なるようになってきた。

 

前方の見事な曲線の優美さが微塵もない。

それにクラシック調ではあるがクラシックカーではない。


当時、尾山台の車の専門書店リンドバーグでクラシックカーの本を漁り、
あちこちの旧車屋を見歩いており、たまたま麻布自動車にジャガーE type S1を見に行った時、これが今に入ってきますよ、といって写真を見せられたのが1954年のアストンマーチンDB2/4だった。

これは1目惚れだった。

実物が未だ貨物船の中にあるうちに即決した。
それで我が家のモーガンプラスエイトは下取りの運命になり、
1年余の短い命でした。

それから10数年経ち、アストンマーチンDB2/4も私のガレージから消えると、
またぞろクラシック系の車が欲しくなり、(しかも安心して、いつでもどこへでも乗り出せる車で)モーガンオートイワセ(オーナーが高野氏から岩瀬氏に変わった)辺りに顔を出していると、

オールドイングリッシュホワイトの4/4があり、排気量は1600であったが、
もはやモーガンでガンガン走る歳でもないから良いかと思い、それを買いました。

今度は殆どオリジナルのままで、(2台目の余裕でしょうか。)
ただ新作のモーガンオリジナルの鞄だけは着けました。

この車は、今は高崎の貸しガレージに入っていますが乗る機会が全くない。

ボディカバーをしっかりかけていることもあり、
乗り出すのに手間が掛かる、
モーガンのスタイルが高崎の町にうまく溶け込めない感が強く、
気がそがれる、などで、1年以上経っても800キロしか出ていない。

この車の唯一の思い出は、
通りがかりの女子高生達が、
『おじさんの車カッコイイー』と言って、
手を振ってくれたくらいな事です。

次の車が決まるまで冬眠状態が続きそうです。

車を持つということ

車を所有する動機はひと様々だろう。

単なる移動手段と考えるなら、動けばよいわけで、
安くて故障しなければ良い事になる。

また、機械としてのこだわりで評価する人も多い。
メカニックオタクである。

モータースポーツの手段、道具としての観点から見る人もいるだろう。

また一方でファッションと同じようにとらえる見方もある訳で、
そうなるとそれなりのブランド志向が出てくる。
それは衣服と同じで、ただ暖が取れればいいのなら、
春秋、夏、冬用が3着あれば10年はもつ。
確かにそれに近い合理主義者もいるが、
そんな人と一緒にいても楽しいとは思わないなあ。
好みは違ってもいいが、自分のスタイルにはこだわる人が僕は好きだ。

僕のスタンスは、基本的にはライフスタイルの一部と考えている。
いかように生活するかの一部分である。
どんな家に住み、どんな格好をし、どんな食事をし、どんな友人を持ち、
どんな事に歓びを見つけ、楽しいとして生活をするかの一部でしかない。
それらがトータルで自分のライフスタイルになろう。

時折、車だけにはこだわるが、後はどうでもいいというような生活をする人が
昔はいたが、どっか違うだろうと思ったし、傍から見ていても、
余りにバランスを欠いて美的ではない。

自分のスタイルなんかどうでもいいと思う人がいるかもしれないが、
すべてに頓着せず暮らすのも一つのスタイルであるし、
それはそれで個性を主張していると思う。

本当に自分のライフスタイルに無関心なのは、一種の社会性の欠如であり
精神障害の一種に近いのではないかとさえ思う。
内密だが、率直に言えば、ライフスタイルとは、自分の好みの女性にも通じるものがあろう。

僕は自分のコンプレックスの裏返しにオシャレにそれなりに投資をしてきたし、
還暦をとうに過ぎてもオシャレをすることが好きだ。
だからオシャレに興味のないような(そんな人はいないか。そう見せているだけか、
極端にセンスが悪いだけなのかもしれない。)ご婦人には年齢を問わず興味がわかない。

食事に誘っても、全くの普段道理の恰好で平気で来るような気遣いの出来ない子
(別にいいものを着て来て欲しいと言ってるわけではないよ。
フェイクでいいから普段とは違うアクセサリーを付けてくるとか、
髪型や化粧の仕方をちょっと変えて来るとか)は2度目は気が乗らないなあ。

男性でも成人したら、いつ、どこででもジャケット位は着るくらいの気遣い
(それは遊び心に通ずるものでもある)は必要と思う。
そして、それは結局は自分の本業の仕事での振る舞いにも通じるものになってくるであろうから、メリハリの利かない人には、気のきいた仕事は出来ないのではないかとさえ勘ぐっている。

さて、私のカーライフですが、先にお話しましたように、
これからは乗った年代順に車を語るのはよします。
そこでカテゴリーに分けて、順不同で私の乗った車について語ります。
カテゴリーを以下の4つに分けることにします。

1)スポーツカー系(僕がスポーツカーと見なした車)

2)デザイン系、ヴィジュアル系(見た目が美しい系、形が好きで買った車)

3)ラグジュアリー系(豪奢さに背伸びして買った車、多分僕には不釣り合いであった車)

4)SUV系(オフロード系)

最後にお断りしますが、私は何事も写真に記録するという、
趣味、習慣が無く、10年以上前のものは、車の実写はせいぜい
使い捨てカメラのもので、映像は悪いです。
全くないものもたくさんあります。

見て頂きながら誠に恐縮です、心からお詫びいたします。

 

ログイン