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Car Life

ジープに乗ってー2

さて、また飯田時代の続きである。

なぜも飯田が続くかと言うと、私の医者人生の中で、この頃が最も楽しく、
思い出しても気分が沈むことが無いからである。

飯田駅の近くに、今は駒ケ根市に移転してしまいましたが
「丸富」という旨い蕎麦屋があった。
そこの、「しらびそそばの鴨せいろ」は私のそば歴でベスト3に入ります。
[ちなみに一位は断トツで静岡島田のやぶ宮本、2位以下は柏の竹やぶ、
蓼科しもさか、白州おきな等]

飯田駅は愛知県豊橋市と長野県辰野町を結ぶ飯田線の中核駅です。
飯田線は景観を誇る日本有数の鉄道で、途中には信長を有名にした
長篠の戦いの古戦場駅もあります。

飯田線

こうして現代は鉄道で三河と信州は繋がっていますが、
昔は天竜川を使って交易があったようで、塩も文化も船で運ばれたようです。

五平餅

三河と南信地区の方言はよく似ており、また手作りの手筒花火の風習や、
木片にごはん潰して貼り付けて、味噌だれをつけて焼く五平もちなど食文化も
共通するものがあります。

 

手筒花火

飯田の短い夏は、
行くのを惜しむかの様に毎晩のようにどこかの神社で花火が上がっていました。

 

 

飯田の病院でよく聞いた言葉に、
水のきれいな所は美人が多い、と水準の低い僕が見ても美形とは言い難い
看護師さんから良く聞かされました。

近くに川のきれいな阿知村という辺鄙なところがありますが、
確かに美人が多かった。
特にスタイルがいい。
ほらではないのである。

ちなみに近隣の水美人は飯田に集まってくるので、
飯田の夜は六本木以上の美女ぞろいであります。
これは絶対保証付き。(最終確認は本年4月)

群馬は水が悪いのかなあ、、、、温泉はいいのに。

Audi100Coupe

一年の予定を半年延ばし、
楽しい日々も終わりに近づいたので,東京用に車を買い換えました。

アウディ100クーペのツードアファウストバックの比較的数のないスタイリッシュな車で、カラーが茄子紺のメタリックで気に入りました。
もちろん中古車です。

 

何でも前オーナーは隣町の有名なウナギ屋の店主で、
そのウナギ屋でいつも1時間以上待たされながら、
勤務医では新車は買えないなあ、と複雑な気持ちになっていましたよ。

さてこうして4年に及ぶ、外科研修を終えて大学病院の形成外科に戻ることになります。

これから私の怒涛の車遍歴が始まる訳ですが、
これを時系列に書いていくと、
私の生活歴が余りに露わになり、
何かと不都合も生じる恐れがあります。(家庭平和主義者です、私は)

従って今後は私の履歴書風な書き方は止めます。
At rondomに、時に一挙に車を載せることもあります。
お楽しみに。

ジープに乗ってー1

南アルプスと中央アルプスの狭間を伊那谷と呼び、中央を天竜川が流れ、
山麓にへばりつくように、いくつかの小さい町がある。

今ではリンゴ並木の他に人形劇、時計台でヨーロッパのアルプスの街ふうの雰囲気を売り物にしている飯田市もその一つで、飯田市立病院が私の出向先であった。

リンゴの花

赴任した6月は、残雪を残したアルプスを背に白いリンゴの花が町の至る所に咲く最も爽やかな季節で、私はひとたまりもなく飯田が好きになってしまった。

市の北端から自転車に乗ると南端まで、つまり川岸まで一度もペダルを漕がずについてしまうという斜面の町である。

町の名産と言えば、イナゴやザザムシ(何かの幼虫)の佃煮くらいで、
楽しみと言えば山へ行く位しかない。

そこで早速、三菱のジープを買いました。

1977年 jeepの宣伝ポスター

4駆、SUV時代の先駆けと言うより、実用を考えれば必然的帰結であった。

当時は違法だったが、当然ロールバーを付けましたよ。

役人がでっち上げた改造車違反の罪より、自分の命を優先するのは憲法の保障する生きる権利であろうが、と開き直って。

ジープは一切の無駄をそぎ落とし、エンジンにタイヤが付いているような車で、
故障しようにも故障する箇所が無い。

夏暑く、冬は寒いと思われがちだが、春夏秋は基本オープンで乗り、
真夏の日中はドアを外して天幕の天井だけ付ければ日傘をさしては走るようなもので、さほど暑くは無い。

まして信州の日陰は涼しい。

雨の日は乗らずに歩けばよい。

冬は暖房が良く効き全く問題ない。

後にモーガンを持ったが、モーガンも同様である。

日本の夏はビキニトップ(高野オリジナル)を付けるが正解。

民芸の柳宗悦の息子のプロダクトデザイナーの柳宗理は、ジープを最もデザイン性に優れた車として、本人も長年愛用したそうである。

さて、都会から来た市立病院の若い外科の先生(不肖私メ)は、患者でもあった
営林署の署長の許可をもらって、アルプスの奥深くまで見事に張り巡らされた
国有林道を毎日曜日にはせっせと駆け巡ったわけである。

ちなみにこれら林道は材木を運び出すために巨額の国費を使って作られたものではあるが、すでに林業は衰退し、殆ど利用されてこなかったものである。

天竜川下り

しかしその御蔭で私は深山の奥深くまで車で行くことが出来、自然の壮大かつ細やかな迫力に圧倒され続けたのでした。
特に錦繍の秋は、四方を紅葉の屏風に囲まれて立つと、その美しさに自分のリアリティを失う程、精神医学で言う解離、離人症体験をする程でした。

急流の沢に掛かった昔のトロッコ軌道の跡は2本の丸太橋のようなもので、
そこをジープで渡った時は、命がけでスリルを味わいましたよ。

今なら絶対にそんな真似はしません。出来ません。

渡渉のイメージ写真

格好付けて天竜川の中も走ってみた。

販売店の話ではタイヤが隠れる位までは大丈夫ですよ、というのを真に受けて川遊びをして国道に出ると、全くブレーキが効かなくて真っ青になりましたよ。

PL法違反だよ全く。

ブレーキパッドが濡れちゃうんだろうね。

ある峰の峠をいくつも越えていくと(最近亡くなった原田芳雄が撮った村歌舞伎の
映画で有名になった)大鹿村に出た事がある。

峠を越える

その村の生活ぶりを見ると、一世紀くらいタイムスリップした気持ちになったものである。(大鹿村は下町の江戸っ子を気どるタレント峰〇太の出身地でもある。)

信州は、秋になればキノコとジビエの季節である。

雉、山鳩、イノシシ、熊は言うに及ばず山シギ、野鴨、ウズラ、モズク、日本カモシカなども裏では食べ放題である。

傘がコブシ大の松茸を籠一杯焼いて食べると数日間は吐く息が松茸臭くなり閉口するなんて、諸兄はおそらく存知ありますまい。

2台目の貰下げセドリック

2年たち、中部地方の新設医大の付属病院の外科のレジデントになって外科系の研修に行くことになった。

また立場はフレッシュマンに戻ったわけで、給料はゼロではなかったものの、生活出来る程は無く、実家から通う事になった。

車もまたもオヤジのもらい下げである。
セドリックの4ドアデラックス。
オヤジの買い替えのサイクルに合った訳である。

外科の研修医、特に卒業生のいない大学病院の一年生は大変であった。

朝6時に出かけ、帰るのは夜中の1時2時である。

しかも脳外科では週に2,3回は当直でした。

初めて研修医の実情を目の当たりにしたオヤジは、労働基準法違反だ、と本気で怒っていたのを思い出します。

あげく給料はウチの工員より安いと、理由もなく怒っていました。

でもそれが当時の研修医の全国共通でしたよ。

当の私は、仕事が充実しており、さほど不満もなく仕事を楽しんでいました。

その時に面倒を見てくれた若い教授、助教授方とはその後も今日までお付き合いが続いており、立場は違えども、共に苦労した感があるのだろうと思います。

ところで、愛知県のど真ん中、私の実家の隣には市の名前まで変えてしまった世界のトヨタ〈挙母(コロモ)市から豊田市に〉があり、その周辺の人民は何らかのトヨタの影響(恩恵)を受けており、トヨタ車に乗るのが常道でした。

しかしオヤジは一度もトヨタ車には乗らなかったし、社用にも買わなかった。

同じ三河で商売をするオヤジの矜持だったのかもしれません。

似ても何の役にも立たない、そんな遺伝子だけ引き継いでしまって、私はどれだけ割を食ってきた事か。

それから2年半後、南信州の病院に出向となり、ようやく自活出来る医師に成れたのである。

さあ、いよいよローンも組めるぞ、、、。

 

中古セドリックで青山に暮らす。

さて、大学を卒業し形成外科に入局し、少し経つと、先輩が住んでいた青山の住まいを譲り受け、住むことになった。

ガレージ付きということでもあり、また青山3丁目から大学病院のある信濃町まで適当な交通手段が無く歩くには少し遠いという事もあり、オヤジのお古の車を貰い受け、まがりなりにもマイカーを持つことになった。

 

セドリックハードトップであった。

?当時は車は最新モデルに乗っていないと中古を買ったと思われる風潮があり、2年も3年も乗り続けるのは潔良しとしなかったのだ。

東京の車事情は知らなかったが、少なくとも田舎ではそうであった。

だからオーナー族は毎年のように買い変えねばならなかったし、また事実、車の耐久性も今とは比較にならないヒドイものだったよ。

特にタイヤは信じられないくらいパンクしたよ。

室内にいると日常的に花火の弾けるようなパーンという音が聞こえたものだ。

パンクの音だ。

車がステイタスであった懐かしい時代の事であるが、当時のオーナー族はその見栄の見返りで、年中慣らし運転をしていたわけである。

弱冠20代半ばで、青山3丁目にすむとはフトドキな奴と思われるだろうが、見ると聞くでは大違いで、実情は青山VANの裏辺りにあった、ある耳鼻科のクリニックで手術の助手と、術後の患者の面倒をみるという条件で、クリニックの3階に居候させてもらうというものだった。

当時の医者のなりたては、基本的に丁稚であり、無給だったので、背に腹は代えられなかったというところが真実なのだよ。

入院患者の病院食が賄いで付いており、現在のように病院と自宅を行き来するだけの生活なら、なかなか良い条件だったに違いない。

 

また当時は理解出来なかったが、その耳鼻科医院の院長は中耳炎の手術が得意で、今になって思えば側頭骨錐体部を削徐して静脈洞を露出させるという、現在の頭蓋底外科の先駆けの様なラディカルな手術をしていたような気がする。

当時の形成外科は毎日、植皮と瘢痕形成ばかりで、その手術の意味が理解できず、ただの耳鼻科の開業医としか見ておらず、院長先生、大変失礼申し上げました。

 

当時の私はと言えば、既に諦めつつはあるとはいえ、未だ若き血の燃ゆるものがあり 、夜な夜な青山墓地下辺り(キラー通りの延長線)を徘徊しておりました。

阿部譲二がやっていたバーとか、ピーナッツハウス、デザイナーの宇野明良のサイケ調な店などがあり、ちょっとアングラ風な雰囲気もありましたね。
当時の店で今も残っているのは水餃子と日本一麺の日月譚だけですよ。

その頃、近くのビルで爆弾テロがありました。

三菱重工ビル爆破事件です。

未だ70年安保、全共闘運動の余波が残っていた時代でした。

浅間山荘事件もこの頃でした。

この車にまつわる思い出はほとんどありません。

格好は良くないし、足車以外の何物でも無く、ガレージの出し入れに隣の文房具やの車がいつも邪魔していたくらいが思い出です。


私の車遍歴-免許取得以前

私たちの世代は、日本が車社会にようやく入りつつある頃で、共に成長した世代である。

幼少時の記憶では車、と言っても殆どがトラックやオート三輪であったが、何だか荷台の一部に薪を積んでいたなあ(荷物とは別に)。だから車は薪で走るものと思っていた。

木炭自動車と言う名前もあったし?と言うことは、エンジンは蒸気機関だったのかあ?(当時から僕は既にメカ音痴の素因があったのだ。)なんせテレビですら、電気屋の店先か、金持ちの家に行って相撲やプロレスを見せてもらうのが精一杯の時代である。

自家用車なんてものは、知る限りではどの家にもなく、小学校2年の時に、日帰りの家族旅行で初めてハイヤーに乗せてもらい、興奮して絵日記を3枚も書いてしまったくらいである。

トヨペットクラウン

トヨペットクラウン


我が実家の車歴は、私が中2の時(昭和34年)にトヨペットクラウン(あのドアが観音開きのやつで、何年か前にトヨタがレプリカを記念販売したが、本気で買おうかと思ったくらい懐かしい)の中古が来たのが第一号である。

セドリック

セドリック

その後,親父が小金を稼いで、セドリックカスタムの黒いピカピカの新車を買い、“custom”の金色のエンブレムが誇らしげであったことよ。

 

 

ある日、舗装のしていない田舎道を砂塵を上げ走って、
今でいうBBQをしに行った記憶がある。
トランクに七輪と炭とウチワを入れて。

わが親父殿は中々モダンであったのだ。

ジャガーマーク?

ジャガーマーク?


その後、仏映画(多分、死刑台のエレヴェーター)でジャンギャバンがトレンチコートにソフトハットでかっこよく乗っていたジャガーマーク?や,アメ車のマーキュリーもあったことがある。

何代目かのセドリック(僕の高校時代)は無免許でよく乗り回し、事故っては、おまわり(さん)に捕まった。
当時無免許運転と飲酒運転は犯罪行為と言う社会通念は無く、事故でも起こさなけりゃ見つかることは無かったと言っていい。
見つかっても、口頭注意で済んだ時代であったのだ。

ついでに言えば、時代は飛ぶが、医者のフレッシュマン時代にこんなこともあった。

救急病院のバイト当直に行くと、まずは救急止めにして、院長のお伴でお酒を飲みに行く。

院長は路上に停め放題で梯子である。

ある時路駐した車を警察に持って行かれ、警察に電話すると、院長先生とは知らず失礼しました、
なんて署長が謝る始末である。

思い出すにつれ、実にいい先生であった。(自分で様子が変だと思って入院させてくれと大学病院の救急に行ったのに、帰したヤブの為に脳卒中で亡くなった)

当時の鉄火肌の人気女優(今も現役ですが)とお付き合いがあり、一緒に飲むと、いつも坊や扱いされたなあ、当時私は実に無垢であった。

私は深夜に病院に戻り、当直の開始である。

当時は医者の当直は皆泥酔していたものである。

内密だが、私のいた大学病院でもそうであったよ。

晴れて免許をとった頃は、大学に入っており、東京でまさに吉田拓郎や南こうせつの世界で、『神田川』を絵に描いたような、赤ちょうちんと銭湯に通う下宿生活をしていた。

車なんて全く縁がなかった。

ベレットGT

ベレットGT


たまに東京生まれの友人のいすゞベレットGTに乗せてもらうのが得意であった。
当時、車は最高の武器であり、IVYルックで友人とナンパを試みるのだが、上手くいった試しが無かった。

 

 

多分僕たちはKOigakubuというブランドにはおよそ不釣り合いな風貌をしており、VANジャケットが余りに不自然で、怪しまれたに違いない(その代わりゴールデン街でオネーサンにはもてた)。

今ならきっと上手くいっただろうに、40年程早過ぎたのだ。

夏休みに田舎に帰ると、兄が親に買ってもらったブルーバードハードトップを我が物顔に乗り回していた記憶がある。

長男はいいな、と羨ましく思ったものである。

大学を卒業して、初めて自分の車を持ったのだが、それが・・・・・。
[To be continued]

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