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池上本門寺とシニフィアン シニフィエ

①②

3月の終わりの日曜日に池上本門寺に花見に行った。
実を言うと、本門寺に前に行ったのは数年前の正月以来のことで、本門寺に桜があるかさえも知らなかったのであるが、偶然寄ってみたら見事な桜があったというのが本当のところであった。
本門寺の魅力は境内の広大さである。建造物は幾つもあるが、いずれも間隔がゆったりと建てられており、スペースにゆとりがあるのが、ちまちまとした都会の日常とかけ離れて清々しいのである。桜もところ狭しと咲くのではなく、各々の樹が堂々とゆったりと咲き誇っているのが見る者の気持ちをおおらかにしてくれるし、木の下で酒を飲んだりする花見客の喧騒が無いのもいい。それでも参道沿いにはいくつかの屋台も並びなんとなく映画の「寅さん」を思い起こさせるのどけさもあった。
大きな駐車場が境内にあり、しかも無料であり、年寄の花見には誠に好都合な所であったのである。

③

桜を見て、もののあわれを感じたと言った友人もいたし、古来より咲き、散る桜に様々な思いを託した賢人も少なくはないが、小生は今年は何の感慨も無しに、ただ美しいと鑑賞した。それは現在の自分がいかにストレスが少なく平穏な日常を過ごしているかの証のように思え、嬉しかったのである。
すっかりこころ洗われて、心に余裕が出来たのか、環状7号線が国道246号線に近くなった時に、ふと懐かしい「シニフィアン・シニフィエ」が三宿にあることを思い出した。

④

シニフィアン・シニフィエはパン職人で知らぬもののいないカリスマパン職人志賀勝栄さんのお店の名前である。
そのお店には行ったことはないが、シニフィアン・シニフィエの志賀勝栄さんとは5,6年前までは毎月一度は一緒にご飯を食べた仲であったからである。

小生が7,8年前に群馬県の精神病院で精神科の研修をしていたときに、志賀さんが病院のパン工房の監修、指導のボランティアをされており、毎月一回は、にわかパン職人になった病院職員の教育に尋ねて来られていたので、その時はいつも焼きたてのパンをごちそうになり、時には職員(群馬のオバサン)の打った手打ちうどんをパン工房で一緒に食べたりしたことがあったからである。時には夕食にお誘いしたこともあった。
あの穏やかな風貌、人柄から、誰にも負けない日本一と評価の高いパンを創り出すエネルギ―を想像するのは難しい。
名前のシニフィアン・シニフィエとは哲学用語であり、一度その意味を尋ねたことがあったが、「ソシュールの言語学の、、、、」と言葉を濁されたのは、小生に話したところで理解出来ないだろうと見透かされたに違いあるまい。
フランス語でシニフィアンは「意味を表しているもの(文字や音声)」でありシニフィエは「意味されている内容(意味内容や概念)」であるから、その二つが出合い一体になったところつまりシーニュsigne、記号としてのパンが彼の目指すパンの位置づけであるのだろうか。

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パンはぺイザンに代表されるヨーロッパの田舎パンのように、生地がモチモチとして香り高いパンであり、市井の凡百のパンと一線を画すのは、パンの持つ品格であると思う。
値段が高級であることもあるが、パンとしての存在感からして違うのである。
お店ではパンは切り売りされているので、少人数でも何種類も買うことが出来、小生たちはバゲットの他にドライフルーツが入ったパン・オ・ヴァン、ナッツの入ったピカンなど数点を買い求めてきた。
お店に並んでいた客の大半は、昨今は倹約志向の強いと言われる若い人たちで、ケーキに遜色のない高価格にも拘らず気前よく買う姿は、本当にいいものにはお金を使うという合理的なワイズスペンディングというものを教えられた気持になった。

志賀さんは酵母に拘り、小麦粉に拘り、加水量と発酵時間に拘り、発酵で産まれる気泡に拘りながらのパン作りに、終わりのない挑戦を続けておられ、昨年には今まで数十年の全てのパン作り、レシピをリセットされたという。

おそらく65歳は過ぎておられようから、小生自身の生き方、在り方を省み、比べてみると、彼のどこからそのエネルギー、気迫が生れるのか面食らうばかりである。
おそらくそれは彼が自分の店をシニフィアン・シニフィエと名付けたあたりに所以があるのだろうと考えるのだが、彼自身からはその片鱗すらうかがうことが出来ないのである。

日生劇場「黒蜥蜴」観劇と銀座「茂松」

① ②

年に数回のことであるが、妻に誘われて観劇に行く。1月某日、日生劇場で公演されていた「黒蜥蜴」の観劇に行った。
観劇は妻の招待であるが、夕飯は驕ることになっているので、BS朝日の「土居善晴の美食探訪」で紹介され、気になっていた銀座「茂松」に行ってみた。

演出家デヴィッド・ルヴォ‐は三島由紀夫と歌舞伎を通して日本を理解し、日本でもTPT(シアタープロジェクト東京)の芸術監督を務めるなどして活発に活動しているトニー賞受賞の世界的演出家であるが、この度は女優中谷美紀とミュージカル俳優井上芳雄を配して、満を侍して三島由紀夫の戯曲「黒蜥蜴」を演出した。

黒蜥蜴は、江戸川乱歩原作の耽美的な女賊ものの探偵小説であるが、三島由紀夫が気に入って戯曲化し丸山(現三輪)明宏主演、深作欣司監督で映画化され有名になった。
他にも映画や舞台化されているが、クールで知的な美貌と高貴な品性と耽美的な色香とカリスマ性を併せ持つ黒蜥蜴役は中谷美紀が歴代最高と評判も高く、明智小五郎の井上芳雄もはまり役と評価は高かった。

私立探偵である明智は犯罪や犯人自身を憎んでいるわけではなく、犯罪から顧客を守り犯人検挙をビジネスとして取り組んでいるだけであるから、ある意味、自分に対峙する犯罪者の本当の理解者であるかもしれないし、ましてや犯罪が巧妙であればあるほど犯罪者を好敵手としてリスペクトするのも自然である。
その相手が圧倒的な美貌と知性と品性を持つ女性であるなら、敵愾心が恋心に発展しても不思議ではないし、黒蜥蜴も、超エリート並みの知性と男前な美貌を持ちながらアウトサイダー的に生きる明智に心惹かれるのも務べなるかなであろう。
戯曲「黒蜥蜴」が唯の恋愛サスペンスもので終わらないのは、愛する相手を殺してこそ本当の恋は成就するという少しグロテスクでもある耽美性があるからであろう。三島の耽美的なサディズム、エロチシズムは「サロメ」や「黒蜥蜴」に共通する「愛するものを殺して、その首や身体に接吻するイメージ」にこそ現れている。

「美しく存在すること」に道徳功利性を排して最高の価値を置き、「私は美しく美そのものであるから、私が存在すること自体が存在理由である」と言うに相応しい女性がいるとしても、多くは白痴美であろうから、もし黒蜥蜴のように、絶対的な美貌に加え最高の知性と品性とエロスをも備えているとしたら、小生も今更ながらにしても人生を棒に振って惜しくはないと思うに違いない。

女優中谷美紀は黒蜥蜴のイメージを見事に体現していたと思う。黒蜥蜴が中谷美紀か、中谷美紀が黒蜥蜴かという程、成りきっていたようにも見えた。
中谷美紀という女優は、失礼ながら、出自も学歴・成育歴も括目に値するものは無く、テレビで見る限りではオーラも感じなかったが、黒蜥蜴と言う役を得て、彼女の隠れた天性のものが表出したのか、あるいはこれまでの努力の結実かは分からないが、とにかく黒蜥蜴の知的で品位のある美貌、エキセントリックなエロチシズムを感じさせる雰囲気を見事に演じていたと思う。
その意味でも彼女を選んだデヴィッド・ルヴォ‐はさすがに慧眼であると思った。
またドアという舞台装置を巧みに使い、物語をテンポよく展開させていくところなども感心した演出であった。

すっかり舞台の魅力に心奪われた3時間であったが、終わって会場の外に出ると未だ陽は高く、茂松の予約時間には間があったので、しばらくご無沙汰の『すし家』に顔を出しご機嫌伺いの挨拶をしたり、近くのカフェでチョコレートパフェを食べたりして時間を潰した。

③

 

④

 

茂松は銀座6丁目の少々くたびれたビルの4階にあったが、何でも炭火を使うため排煙管を設置する必要があり、それらの工事が出来る物件ということでそのビルになったということである。
噂どおりの妙齢の美人女将に迎えられ、カウンターの端っこに座った。目の前には見事な七輪コンロや沢山の土鍋(伊賀焼か?)が並べられ、大型の蒸し器までが陶器で出来ていたのには驚いた。

子持ちわかめ、宇類、とんぶりの酢味噌和え

子持ちわかめ、宇類、とんぶりの酢味噌和え

赤飯にカラスミかけ

赤飯にカラスミかけ

ワカサギ、海老芋、カボチャの揚げ物

ワカサギ、海老芋、カボチャの揚げ物

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若竹煮

若竹煮

黒ムツと牛蒡の炊き込みご飯

黒ムツと牛蒡の炊き込みご飯

料理は、正直言って,主人の仁王様のような大柄な体格にも似て、やや大味な直球勝負な味であった。すべての料理に共通して言えるのだが、味がしっかりしていて濃いのである。
私たちは自腹族であるから一番廉価なコースを食べたが、隣のおそらく他腹族と思しき人たちは上級コースを頼んでいたので、例えば刺身が河豚であったり、焼き物の魚の種類が違っていたが、茂松の味を知る入門編としては、廉価なコースで十分であると思った。
料理で最も印象深く、これは余所にはないなと思わせたのは最後に出された炊き込みご飯であった。当日は黒ムツと牛蒡の炊き込みご飯で、これは絶品であった。二人分にしては多過ぎる量で、かなり残したので、もったいないから貰って帰ろうかと思っていたところ、残りは御土産にしますと機先を制せられた。

土居の番組「美食探訪」では「茂松」には一時間を当てて放送し、土居も茂松の料理を絶賛していたが、果たしてそこまでの評価か微妙であると思ったが、所詮はテレビという制約の中でのグルメ評であり、トモサトユウヤのように自己愛的に辛口過激な批評をしても始まらないであろう。

茂松はカウンター8席くらいと個室がひとつあるが、それを板前の主人と奥方の美人女将、二人で切り盛りするには限界があり、料理の間隔が間延びするのはまだしも、主人が調理に奥に消えてしまい、しばしば板場からしばらく居なくなってしまうのはいただけないと感じた。

それでも帰りがけは、主人がわざわざ炊き込みご飯の入ったお土産の折を下げて、エレベーター前で見送りをしてくれ、いたく恐縮したのであった。 

辻井伸行プレミアムコンサートと遅いディナー

a b

2月中旬にサントリーホールで辻井伸行のピアノコンサートがあったので行ってみた。
大和証券が顧客にために企画したプレミアムコンサートであったので、観客は全員大和証券の顧客の招待客であった。
従って小生のように日頃はクラシック音楽には縁の無いような人も少なくなかったようで多少は気が楽であった。
小生にはチケット2枚が与えられていたが、なんせ由緒正しいクラシック鑑賞などほぼ初めての経験であったので、ピアノをする友人に付き添いをお願いして行った。
当日は、サントリ―ホールは全館貸切になっており、小ホールの方は、開演前に飲み物や軽食が用意されていて、小生達が行った時は開演30分前だったが、食べ物はあらかた片付いていて、かろうじてシャンパンとサンドイッチの残りものを探しだし意地汚く食べた。

コンサートは、前半は辻井伸行のピアノ・ソロのリサイタルで、後半は角田鋼亮の指揮で東京交響楽団との協奏曲で構成されていた。
前半の曲目は、ショパン:英雄ポロネーズ、ドビュッシー:月の光、ラヴェル:水の流れ、リスト:ラ・カンパネラで後半はメンデスルゾーン:序曲《フィガルの洞窟》作品26、グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16、であった。

いずれも門外漢の小生でも、どこかで聞いたような記憶のあるような旋律のもので、特にラ・カンパネラはかつてテレビのフジ子・ヘミングのドキュメント番組を見て、演奏の難解さを知っていたので、ひときわ関心も高く聞いた。果たして辻井のラ・カンパネラが、どれくらい優れた演奏なのか小生には判断も出来なかったが、とにかく信じられない速さの旋律に圧倒された。
このような楽器の演奏とか、体操競技とか、今回のオリンピックのスケートやスキーの競技を見ると、小生には天地がひっくり返っても、100回くらい死ぬほどの練習をしても万分の一も出来ないであろう別次元のことのように思え、現代が音楽や運動の能力だけで評価されない世界で本当に良かったと安堵いたのであった。

辻井は、コンサートの終わりにはお決まりのアンコール拍手でなんどもステージに呼び戻され、結局それに応えて2曲もサービスして演奏したが、辻井は視力障害があり歩行もままならぬのだから、何度も何度もアンコールを強いるのは、観客が無神経な気がしたが、それは気の回しすぎであろうか。

今回のコンサートのスポンサーであった大和証券は、ご存知の方も多いと思うが、テレビコマーシャルが、ジャズを複数のプレーヤーがリレーでつないで演奏するものでひときわセンスが良いと思う。
小生は決して熱心な投資家ではないが、いわゆる資産株と言われる安定したものを預金がわりに少々持っているが、それでもMUFJMS証券では損を出すばかりで,それにその間の対応も極めて不親切、杜撰であったので、テレビコマーシャルが気に入っていた大和証券に乗り換えたばかりであった。取引が始まったばかりの新規の客であったため、飴を与えておこうと思われ招待されたのであろうが、それでもこの粋な企画に参加出来て良かったと思った。
大和証券の社長が音楽好きで、その趣味もあって、例のコマーシャルも、今回のような顧客サービスも企画されているらしいが、企業も結局はトップの人となりが大事だと思う。
小生は車が好きな方だが、トヨタ車は趣味に合わず乗ったことはないが、トヨタという会社は嫌いではない。トヨタの今の社長が、自らハンドルを握りラリーを走り、根っからの車好きであることが伝わってくるからである。それに小生に似て三河人(トヨタ自動車は愛知三河で創業した豊田織機が原点である)の朴訥さが見えるからである。

公演が終わってから食事をしようと思ってネットで探したが、近隣の殆どの店のラストオーダーが21時で間に合わない。芝居でもそうだが、開演前に夕食をとる余裕はなく、終わった後では間にあわないということが少なくない。生活習慣が違うからヨーロッパと比べても仕方ないかもしれないが、わが国もそろそろラストオーダーの遅い真っ当なレストランがもう少し増えて来ても良いのではないかと思う。
仕方ないから馴染でワガママがきく、紀尾井町の「オー・プロヴァンソー」を予約しておいて遅いディナーを摂った。

北海道産毛蟹と雲丹、茄子とタプナードのムース ホワイトバルサミコのゼリー

北海道産毛蟹と雲丹、茄子とタプナードのムース ホワイトバルサミコのゼリー

車海老と山菜 バーニャカウダソースに見立てたカブとニンニクのピュレ ふきのとうのオイルソー

車海老と山菜 バーニャカウダソースに見立てたカブとニンニクのピュレ ふきのとうのオイルソー

フォアグラのポワレと牛蒡 ペリグーソース

フォアグラのポワレと牛蒡 ペリグーソース

京都中勢以さんの熟成肉の但馬牛すね肉と牛タンの赤ワイン煮 オレンジ風味

京都中勢以さんの熟成肉の但馬牛すね肉と牛タンの赤ワイン煮 オレンジ風味

プロヴァンソーの訪問は2か月ぶりで、前のメートルドテルが辞めていて、当時のス―が昇格していたが、中野シェフの料理は変わらず美味しかった。ここであれば、悪いとは思いながらも一皿づつをシェアしながら多種類のメニュをオーダーできるのも大きな魅力である。それに食べた料理のメニュを後日メールで教えてくれる親切さがある。
諸兄もご経験あろうと思うが、食べた料理を写メに残しても、それが何という料理であったか記憶にとどめておくのは容易ではなく、ブログに載せようとする時にはもうすっかり忘れていたり混乱しているものである。
今回も、せっかく新人メートルドテルがメールで送ってくれたので、その気持ちに応えて当日の2月のメニュを載せておこうと思う。

プロヴァンソーのハヤシライス〈ブフェブルギニオン)

プロヴァンソーのハヤシライス〈ブフェブルギニオン)

伊予柑のマリネ フロマージュブランのババロア オレンジのソルベと泡

伊予柑のマリネ フロマージュブランのババロア オレンジのソルベと泡

赤いベリーのパルフェ仕立て ミルクアイスとシャンペンのエスプーマ

赤いベリーのパルフェ仕立て ミルクアイスとシャンペンのエスプーマ

3月になると、また恒例の春のアスパラガス尽くしのスペッシャリテが始まるそうだが、毎年それだけは食べそこなわないようにしている。
プロヴァンソーの春のホワイトアスパラコースは小生お薦めの「美食の一皿」である。

タカラヅカ公演『ひかりふる路』を観た。

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年に一度くらいは、家族サービスでタカラヅカ観劇に付きあう。もちろん東京の日比谷の劇場ではありますが。
この度は、雪組公演『ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロビスピエール』を観に行った。レヴュ-は『SUPER VOYAGER!―希望の海へー』であった。
雪組の新トップ男役の望海風斗、女役の真彩希帆のお披露目公演とのことであり、ファンには期待も大きかったようだ。
タカラヅカ公演のミュージカルで、ストーリーの持つ意味がどれ程重要性を持つかは分からないが、演出の生田大和は、ロビスピエールに歴史に登場しない架空の恋人を作り上げ、革命というものに内包するロマン性を上手く作り上げていたように思えた。
フランス革命は女性の存在なくしては成り立たなかった、と多くの研究者に言われるところであるが、生田には、おそらくジャコバン派の中心的革命家の一人マーラーを暗殺しジロンド派壊滅の道を開いた「暗殺の天使」と言われるシャルロット・コルデとロビスピエールを暗殺未遂したセシル・ルノーという、もともと市井の名も無い二人の女性がヒロイン、マリー・アンヌのモデルのイメージにあったのではないかと思われた。

 

家人は、宝塚でも他の演劇でも、観劇に行く場合は必ず予習をする生真面目さがあり、今回は安達正勝著「物語フランス革命」中公新書(1963)を読んでいたので、小生は公演後に、それを借りて読んだ。
というのも、ロビスピエールやダントンの名前くらいは、高校の世界史で習ってかろうじて覚えてはいたが、フランス革命の経緯をすっかり忘れていたし、そう言えば、世界史の教師がフランス革命のところはやけに力を入れて話していたことを、観劇後に思い出したからである。
「物語フランンス革命」は大変面白かった。革命はそもそも王政を打倒しようとするものではなく、最後はギロチンにかけられたルイ16世は実は大変生真面目な名君で、当初は革命の理念に理解を示していたことや、皮肉にも彼はギロチンの発明者であり、それも人道的な見地からの発明であったことなど、まさに物語として面白いエピソードが幾つも載っていた。

革命は時代の要請によって必然性を持って起きるが、実践するのはあくまで人間であるから、人間の本性が出るのか、その性から自由になれないのか、多くは似たような現象を呈し、経過をとるもののようだ。
フランス革命、ロシヤ革命、中国の一連の革命や金日成の北朝鮮においても、我が国の明治維新でも、小さくは日本赤軍の運動でも、共通した臭いのようなものがある。
始めは正義感からの崇高な理念、革命思想があるが、思想はやがて偏狭化し排他的になり、組織は内輪もめを起こし、同士討ちが始まる。行動はどんどん先鋭化し、狂気が理性を上回って行く。権力は独裁化し恐怖政治となり、人民のための革命は人民を弾圧し搾取し始めるのである。そして社会の秩序は乱れ、「九月虐殺事件」のような風評で偶発的なヒステリックな虐殺事件が起きるのである。
やがて革命はナポレオンのような新しい独裁者を迎えて終焉して行くが、革命というものは、例え無血革命と言えども少なからず血が伴い、無辜、無実の人々が多数犠牲になるのが常である。

理想や大義のためにはある程度の犠牲はやむをえないという考えも、犠牲を伴う大義は存在しないという考えも理があるが、どちらをとるかは、自分を犠牲者側に置くか、置かないかによって立場が決まるのだろう。

ロビスピエールは、共和制国家実現という理想のために「祖国を愛する、私欲を持たない、全体のために自己犠牲をいとわない」という「美徳」によって恐怖政治を正当化しようとしたが、自己犠牲を強いる側に居たのが自己矛盾であり、結局悲劇でもあった。

それでもフランス革命の意義は、高校の世界史の教師が力説したように、世界史上に燦然と輝くと思う。
「国民主権、三権分立、法の下での平等、思想宗教の自由」などの近代民主国家の根本原理はすべてフランス革命に依るものであり、その恩恵のもとで曲がりなりにも我々は民主主義の社会に居られるのである。

(話はずれるが、タカラズカと高校の繋がりで言うと、小生の出身校である名古屋の某男子校は「カズラカタ」という劇団を持っており、タカラズカ公演を模して同じ演目を一般公演しているそうである。美少年が多いせいか、中京地区ではご婦人の評判も高くプレミアチケットも入手困難と聞く。)

一方で革命は、理想と現実の狭間で多くの矛盾を包含して行く。
おそらく大義を唱える者というものは、それに伴う犠牲を自ら率先して負うことでしか大義の説得力を持たないのではないかと小生は思うが、どうだろうか。

例えば今、日本で戦争の出来る国の大義を言う者は、いざ戦争になれば、まず自分が、自分の息子が先陣を切って戦場に行くことを宣言し、原発再開の大義をいうものは、まず自分と家族が原発の所在地に住むことを宣言しなければ、本当には支持も信頼も得ないのではないだろうか。

タカラヅカは、公演を見せることで小生が思ったような面倒なことを考えるヒントを与えようとは決して意図してはいないだろうが、なぜかフランス革命を題材にした公演(「ベルサイユのバラ」「スカーレット・ビンバーネル」「1789」など)が多いし、またそれがヒットもするのである。
革命には、男女を問わず、精神の高揚、情念の発露を促し血を騒がすようなロマンを感じ取らせる何ものかがあるのかもしれないが、実はタカラヅカ公演自体が本来的に観客の心に何か残るものを期しているのかもしれない。

  

だからこそ、タカラヅカ公演が二部構成になっていて、終わりは華やかなレヴューでハッピーな気分にしてくれるのはそんな配慮かも知れない、と最近になって思うようになったのである。

三枝成彰のオペラ「狂おしき真夏の一日」初日に行った

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縁あって、鳴り物入りで始まったオペラ・ブッファ「狂おしき真夏の一日」を東京文化会館に観劇に行った。三枝成彰が「フィガロの結婚」へのオマージュとして作曲し、台本を作家・林真理子に演出を作詞家・秋元康に依頼し喜歌劇として作り上げられたもので、三枝の8作目のオペラと言うことである。

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日本のオペラ界では有名な豪華キャスト勢揃いのうえ、舞台美術が日本画家の千住博、大友直人が日本フィルを指揮するというきらびやかな顔ぶれとあって、協賛企業もトヨタ自動車、NTTデータ、セイコー、三菱商事、ヤマハ、帝国ホテルと超有名企業が揃っていた。
小生は、友人が合唱を担当した六本木男声合唱団(団長三枝成彰)のメンバーであった縁でお付き合いで見に行ったに過ぎず、オペラはもとより、音楽という世界に全くの門外漢であるから、このオペラの凄さと言うか、日本のオペラ界における価値と言うか位置づけは皆目分からないが、ただ秋元康、林真理子、千住博と言うメンバーを見ただけで一種の胡散臭い方向性が見えて、少々気がそがれたのも事実であった。

果たして、「狂おしき真夏の一日」の台本のストーリーは退屈なものであった。
地方の零落した病院の医師一家の自堕落、奔放な恋愛模様をコミカルに描いているが、一体作者は何を言いたいのか、よく伝わらないままであった。

オペラは椿姫にしろ蝶々夫人にしろ、そもそもストーリーは陳腐で退屈なものであるのが相場だが、かつて一度だけイタリアオペラを見たことがあるが、観衆に何らかの感動を呼ぶのは歌手の歌唱力や演出の芸術性なのかと思ったが、その意味でも、小生には余り強く心に残るものではなかった。
D
大手マスコミ傘下の劇評家はこぞって、そのメンバーのユニークさを讃え、作品の評価も高いからきっと傑作なのだろうが、果たして万円以上のチケットを買って観るに相応しいかどうかは、見る側個人の文化度によるのだろうが小生には正直コスパは良いとは思えなかった。
初日でもあったせいだろうが招待客と思しき著名人も散見されたが、それも少々うんざりで、作品に没頭出来なかった理由であったかもしれない。小生の斜め前の席には安倍首相夫人が友人と秘書官とSPとでお出ましで、するとすかさず林真理子女史が挨拶に現れるという具合で、小生には同じ非日常でも余り好ましい光景ではなかったのだ。

三枝自身の弁によれば、オペラは趣味であり、そのために彼はこれまでに60億をも費やしたとのことであるが、この一作にもウン億円の費用が掛かり、それを個人の力で集め、実現してしまうのは、やはりすごいことであるとしか言いようがない。多くのタニマチを引き付ける彼の人間力は、小生には想像することすらできないのである。

元々「持っている人」が、さらに「持っている人」を周りに集めることで実現出来るのがオペラと言う芸術(道楽?)なのかもしれないから、元来小生には縁の無い場違いなものであったのだと納得したものであった。

ほんとうに真夏らしい時期に夏休みを取ろうと、、、

ニッコウキスゲ

車山


夏休みをいつとるかは、毎年悩ましい問題ではある。
今は宮仕えの身ではないから、いつでも休めるのだが、うまくとらないと梅雨明け前の豪雨に当ったり、山ではニッコウキスゲが枯れてしまっていて夏山の勢いを感じられなく寂しい思いをしたりする。
そこで今年は、もう梅雨は開けている確率が高く、最も夏らしい時期として7月24日から31日までを夏休みにと7月始めには決めておいた。

今年は梅雨明け前に猛暑が来て6月下旬から真夏日が始まったが、幸い7月20日頃には梅雨明け宣言があった。東京は連日酷暑が予想され、今年の計画は当りだとほくそ笑んで、蓼科の山荘にいそいそと出かけたまではよかったのだが、25日から低気圧が接近すると梅雨前線が南下し山は連日雨模様になってしまった。

到着した当日は、それでもスーパ―「自由農園」の買い出しと荷物の搬入時は、雨が止んで幸運ではあったが、滞在した1週間で晴れた日は一日も無く、雨時々曇りか、終日雨という天気模様であった。

雨が降る

役に立ったベッド


雨は雨でしっとりとして決して嫌いではないのだが、真夏の、青い空に入道雲が立ち上る様子や、じりじりと肌を焦がすような夏の強い太陽を期待して行ったものだから、それなりに落胆した。
毎日ゴロゴロして寝て過ごし、午後になると近くの日帰り温泉に行くのが日課となるような静かな夏休みになったのである。
お蔭で春に導入したベッドは極めて有難く有益であった。

北沢氏と

職人館の窓辺からの眺め


それでも一日は望月の里に下りて、前回グルマンライフの「料理マスタ―ズ」(2017.8.1グルマンライフ)でお話した北沢正和氏の職人館に行ってみた。
職人館に前回行ったのは一昨年の5月の連休であったからもう2年半ぶりになる。当時はオーナーの北沢氏が料理マスターズ・ブロンズ賞を取っていることなどは知らなかったが、今回は昨年シルバー賞を受賞されたのを知っていたので、そのお祝いを述べた所、本人はもうとっくの昔に過ぎた過去の昔話のように、いつもと変わらず飄々としていたのが印象的であった。
卓越した料理人が、田舎でその地域共同体とうまく交わり暮らしていくことの大変さからか、彼の顔の深い皺には孤独感がさらに増したようにも見受けられた。
聞くところによると、同じような志で地産の食材にこだわるフレンチレストランやカフェ、チーズ工房、旅館の料理人が望月や佐久、小諸におり、彼等と連携して手作りのコミュニティ誌を発行したりして、村興し町興しに尽力しているが、地元住民との息は必ずしも合っているとは言えないようである。
それもあってか、北沢氏は、東京での農産省関係の会合や地方の町、村興しのアドバイザリー、講演活動に力を注いでいるようである。

その多忙さのせいだろうか、料理の切れが今一つになった印象であった。
初めの頃の、「地元野菜のパリパリサラダ」の感動的なサラダの美味さが消えてしまったようであった。野菜の種類は時期により変動するだろうが、問題はドレッシングの使い方である。

小生は、店の料理の質は、そこのサラダの質とパラレルの関係だと常々思っているのだが、要はドレッシングを多過ぎず、少な過ぎず、野菜本来の質感、味覚を損なわないように万遍なくコーティングさせるような「こだわり」が、料理全般にも通ずるものと思うからである。野菜本来の味が消えていたり、パリパリ感が無いような、かといってただの生野菜をサラダとして出すようでは、料理全般への気遣い、こだわりもしれていると思うからであるが、諸兄のご意見はいかがであろうか?

村の野菜のパリパリサラダ

村の豆腐

村のお米のリゾット

地元十割玄蕎麦


今回の職人館のサラダは、残念ながら過剰なドレッシングがお皿の底に溜まっている状態で、野菜も弾力が損なわれていた。おそらく北沢氏本人ではない雇の料理人(バイト?)が作ったものであろうが、それでもそれを出してしまっては、オーナーの責任なのである。
早く気付いて欲しいと願うばかりである。
気のせいか、「村の豆の村豆腐」も、かつてのあの鼻腔の嗅神経や舌の味蕾(味覚神経)を覚醒させる様な「豆の匂い、豆の味わい」が薄れたような気がした。
蕎麦は、10割石臼引き玄蕎麦で、前と変わらずとても美味しかった。この八ヶ岳東西南北の周辺、東信地方では、蕎麦は蓼科プール平下の「しもさか」とこの「職人館」が双璧であろうと思う。

春日荘お風呂

春日温泉

長門牧場

絶品ソフトクリーム


帰りに、すぐ近くにある春日温泉の「国民宿舎春日荘」に寄り、立ち寄りの湯を楽しんだ。100パーセント源泉かけ流しの弱アルカリ性単純泉、「美肌の湯」であった。
ちなみに日帰りの湯の料金は、なぜか佐久地方は500円、茅野地方は700円が相場となっている。
風呂場から、北八ヶ岳北端に当る山麓の長閑な春日温泉の町並みが望めて、こころ安らいだのである。
そして私たちは、白樺湖への峠道にある長門牧場のソフトクリームを忘れることは決してなかったのである。

帰る日は快晴


さて、皮肉なことに、最終日の帰京当日は朝から良く晴れ、待ちに待った夏らしい一日になりそうであったが、時すでに遅く、心を鬼にして荷物を積んで、戸締りをして帰路に着いたのである。

このような不運は、これまでの人生を振り返っても、まま、よくあることなので、最近は、「ついていない、運が悪い」などと嘆くこともなく、滅法気にならなくなったのである。

一方家人は、帰路の車中、その日のタカラヅカ公演に間に合うかが唯一の関心事であった。

年を取るのも悪いことばかりではない、と思いつつ今年の夏休みは静かに終わったのであった。

半世紀ぶりのテント劇―花園神社、新宿梁山泊「腰巻おぼろー妖鯨編」を観た

この5月11~21日まで下北沢小劇場でシュヴァ―ヴ作『シェフェレ』の主役をやって燃え尽き症候群になっていた友人の女優K.L.嬢の誘いを受けて、6月の末に、花園神社の境内に紫テントを張って上演している劇団「新宿梁山泊」の30周年公演『腰巻おぼろー妖鯨編』を見に行った。
テントで上演するいわゆるアングラ演劇の類を見るのは、実に50年ぶりのことであった。

演目名からして唐十郎の状況劇場・赤テントを想起させたが、事実、『腰巻おぼろー妖鯨編』は、唐十郎が42年前の1975年に上野不忍の池の赤テントで5時間に及ぶ大作を上演したものを、唐の演劇論の後継者を自認する演出家の金守珍が3時間3幕に短縮し編成し直したものであった。
唐十郎が1963年に状況劇場を旗揚げし、新宿・花園神社境内に赤テントを立て「腰巻お仙―義理人情いろはにほてと編」を上演し、周辺の町内と揉めて、退去を余儀なくされ上野で上演した時代の作品であるから、当然60年代の実存主義の色合いが強く、ドタバタ劇ではあるが基本的には不条理劇なのであろうが、小生にはストーリーは皆目追えず、この芝居の主張は一体何なのかよく分からなかった。劇中で、「ある」のか「いる」のかが問われていたり、ヘミングウェイのキリマンジャロの雪が意味深に使われていたりしたが、当時の、日本経済が正に高度成長の頂点に向って邁進して行く中で、70年安保の激しい政治運動で挫折し、多くの若者が自分の存在や生きる方向性を見失った状況が重なり、まさに実存が重く問われた時代背景が読み取れるものではあった。
ストーリーはよく理解できなかったが、場面、場面の台詞回しは面白く、特に古参俳優の大久保鷹の演技は円熟し枯れた妙味があり、多くの観客を引き付けるものがあった。

テント劇場と言っても50年前と比べると、設備環境は数段良くなっており、舞台は立派に出来ていたし、桟敷席には座布団が敷いてあり、指定席は雛壇で、椅子にはクッションも付いており、お尻が痛くなることも無かった。また昔と違って場内禁煙で、時代の変化を感じさせるものであった。

芝居の最後には、お決まりの、舞台の背景が突如開き新宿の夜景をバックに噴水のような水柱が何本も立上がるのは迫力もあり図らずも感動してしまった。また大きな鯨の尾ッポの周りに女優たちが人魚姿のコスチュームで水しぶきを浴びる演出も場違いに妖艶というかセクシー?な演出で楽しかった。

テント興業というからには、もっと野性的というか暴力的な雰囲気かと思って出かけて行ったのだが、至って上品なもので、観客のヤジや掛け声も無く、一体この芝居をテントでやる意味があるのかとさえ思ったりした。(逆に、今の国会こそ野次の応酬で、時に乱闘もあり、テントでやるにふさわしいと思った。)

演出の金守珍

最古参の大久保鷹

 

「新宿梁山泊」は、唐十郎の弟子にあたる金守珍が1987年に創立した劇団で、唐十郎の状況劇場や唐組とは直接の関係はないらしいし、それに当時とは時代も違うので、危険な雰囲気が消えているのも当然かもしれないが、唐十郎といえば、寺山修二の天井桟敷への殴り込み乱闘事件やゴールデン街での包丁を振り回しての数々の立ち回りや、芝居の最中に客と殴り合うとかの伝説が余りのも喧伝されているので、少々拍子抜けしたのも事実であった。

思えば、あの頃(1960年代)は、暴力が日常性を持った時代であったのかもしれない。新左翼に限らず、権力に暴力で抵抗するという構図は一種のヒロイックさを持って見られる社会的風潮があったのだ。
小生が大学に入学し上京した1965年頃は新宿は本当に自由な街であった。どこで何をしようが警察権力が規制したり取り締まるということは殆どなかった。どこで群れ騒ごうが、東口のロータリーで朝まで寝ていようが、コマ劇場前の池に飛び込もうが、まさに“”状況の中でどうするかの選択は自由”であったのだ。
それでいて、街中が無秩序であったとか治安が悪かったということではなかった。不思議と自然に平衡・均衡がとれていたのである。

1967年の10.21新宿騒乱事件の後、新宿駅西口地下広場のフォークソング集会すら弾圧されるようになってからは、新宿はすっかり変わってしまった。自由が規制され弾圧されたのだ。歩道は歩くところであると警察に規制されれば、やがて若者は歩道で立止まることはやめ、すっかり従順になってしまった。そして猥雑で自由であった歌舞伎町はヤクザのはびこる単なる風俗の街になってしまった。
当時は紀伊国屋や風月堂は新しい文化の発信基地であり、新宿、渋谷のPIT-INやDIG,DUGなどのモダンジャズ喫茶や天井桟敷、赤テント、黒テントなどのアングラ劇場には世の中に背を向けた学生やヒッピー気取りの若者で溢れていた。銀座や六本木にはアイビールックで軟派のミユキ族もいたりもしたが、新宿の泥臭い若者カルチャーが世の中を圧倒していたのである。

今回の「腰巻おぼろー妖鯨編」の舞台美術、広告ポスターを担当している宇野亜喜良も、当時は横尾忠則と並んで彗星のように登場してきた非体制の超人気のイラストレーターであり、新しい芸術の表現者でもあった。小生の記憶では、横尾忠則は主として天井桟敷のポスターや平凡パンチ、東映の任侠映画で活躍していたが、宇野亜喜良は繊細な線描画で朝日ジャーナルの高橋和己の小説の挿絵などを書いたりしていたが、やがてロマンティックで何処か退廃的でエロチックな少女像でサイケデリック、ピーコック革命と称したモードの寵児になった。現在80歳をゆうに過ぎても、彼の独特な少女画はロスゴリ趣味的な少年少女、青年たちにとても人気があり、ポスターや舞台美術、美術展などでなお幅広く活躍している。

小生は、新宿には自由が無くなった、と思うようになってから、つまり1970年前後から新宿にはすっかり行かなくなってしまった。少なくとも夜は全くと言ってよいほど足を踏み入れることはない。昔を知っているだけに、空気が余りに違ってしまい、つまらないのである。
日中なら、伊勢丹地下の食品売り場と、東口の眼鏡の和真だけには時々行きはする。その2か所には他に替えがたい長所があるからである。小生には、その他には行くべきところはもはや無いのである。

しかし、花園神社に又テントが張られるのであれば、再訪はありかも知れない。
それほどにテント劇は小生のノスタルジーをくすぐったのである。
それは単に青春の日々をセンチメンタルに反芻するためだけかもしれないが、
それよりも、それだけ小生も十分に歳をとり、老い先短いという証拠なのだろう。

黄金連休は恒例の山荘開きに行ったー岡本太郎の「透明庵」と、老いては感謝のこころ

もうだいぶ前の話になってしまったが、今年も5月の連休は蓼科の山荘に小屋開きに行った。

小生は4月26日から5月8日まで12泊13日間、妻は後から電車で来て後半の7日間を滞在した。つまり前半の6日間は一人で、殆ど誰とも会わずに過ごしたことになる。食料は肉魚の生鮮食品は東京から持参し、野菜・果物や乳製品、飲み物は中央道・諏訪南インターから山荘までの途中にある原村の自由農園という地産地消型スーパーマーケットで買って山に登るから、滞在中は原則、自給自足で買い物に出ることも殆ど無い。従って一人でいる間は一言も口を利く必要もないという訳だ。

そこでこの大量の自由時間をどうするかだ。

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由もあり過ぎると厄介なものにもなるらしい。

小生は、例年は、日頃集中できない大部作の本を持って行き一気の読破することにしていたが、今年は一日一冊見当の本を持参した。
しかしながら、今年は20数年ぶりというか、この山荘を入手して以来の大掃除をしたので、殆ど読書をせずに過ごした。元来、ここでの掃除、飯の支度は小生の仕事と決まった約束事であり、従って一人で掃除をするのに何ら違和感はないのである。

我が山荘暮らしにも今年は大きな変化があった。
初めてベッドを入れたのである。もう布団では寝起きが腰、膝に辛い歳になったのである。
丁度、息子が海外勤務から帰った時に持ち帰り、その後使わずに家においてあったキングサイズのマットレスがあったので、それを再利用しようと考えたのである。そこでベッドフレームをヤフオクで落札し、蓼科に着く翌日の配送にしておき、その次の日にマットレスが届く手配にしておいたが、いざセットしてみるとマットレスの厚さが想定したより厚く、高さが畳から70cm以上になってしまい、横になるのも容易ではなかったのである。考えあぐねた末、結局マットレスは東京に戻すことにしたのだが、キングサイズというのはシングル2個分で200cm四方となり、雨戸、ガラス戸、障子、襖を外さないと搬入出できないし、重さも100㎏近くあり、大変な作業が徒労になってしまった。
本当に宅急便(今回はヤマト家財宅急便)の人はよくやってくれました。このシステムを創業した小倉昌男氏と現場のスタッフにはただ感謝あるのみである。

そしてスマホで新しいマットレスを購入し事なきを得たのだが、信州の山奥に居ながらにして、必要なマットレスを注文し翌日にはそれが届くという社会の変化には改めて驚いたのである。
アップルのスティーブ・ジョブスとアマゾンのジョフ・べゾス、それにクロネコの小倉昌男の社会功績はノーベル賞に値すると思う。

ベッドを入れるのに、家具の移動や諸々の始末がいったのだが、その時に書棚にあった山崎省三著「回想の芸術家たち」をふと手にしたので読み直してみた。
思えば息子が中学二年の時に初めて親子二人でドライブ旅行に出かけ、北アルプスの立山室堂に行った帰りに、ここに寄ってみたのが、この山荘を手に入れるきっかけになった。当時私たちは伊豆函南町に終末ハウスを持っていたのだが、息子が「ここの方が落ち着くね」と言ったのをオーナーの山崎氏が聞き及び、その息子の言葉が決め手になって小生に譲る決心をされたと後日知った。
山崎氏は、当時「芸術新潮」の編集長を退いたばかりの頃で、少々健康を崩し、山での生活が困難になって来ており、茅葺の独特の美意識で作られた個性的な建物の後継者を探しておられたのである。

幾度か山荘やご自宅を訪ね、お話しを伺うと、山荘には幾多の芸術家が訪問し、その都度、襖に画や書を残されて行ったとのことで、実際に全部の襖には多種多様の襖絵が描かれていた。なかでもヘンテコな字で「透明庵」と書かれた襖があり、それは岡本太郎が、この山荘を初めて訪問した時に、山荘を命名して書いたものとのことであった。
岡本太郎は諏訪地方の伝説や古墳・埴輪が大変好きで、しばしば来ては長逗留したという。
彼が1996年に亡くなると、この襖の書?画?も青山の自宅、今の岡本太郎記念館に移され、現在も保管されているそうである。
山崎氏もこの山荘を小生に譲ってから数年後に鬼籍に入られたが、その直前に「回想の芸術家たち」という著書を上梓され、その中に岡本太郎との経緯が詳しく書かれている。

今は信州でおそらく一軒だけになった茅葺のこの古びた山荘は、もともとは「透明庵」という屋号のついた物語性に富んだ建物なのである。上の写真で太郎が座っている部屋の現在が下の写真である。

山崎氏はその後、日経新聞(2007.1.18)のコラム「交遊抄」で国立西洋美術館館長(当時)の建畠哲氏によって惜しまれ追悼された。偶然見つけ切り抜いて置いた。

小生の今年の山仕事は、ベッドの設置の他に、長年放ってあった暖炉周りの道具を囲炉裏近くの壁に取り付けたのと、入り口の御止の白樺の枝を新調したことであった。

この細い枝2本を切り出すのに、ヘミングウエイの「老人と海」の老人のように疲労困憊し精根尽き果ててしまい、今さらながら我が肉体の衰えに驚愕したのであった。

そんなカンやで6日間が過ぎ、準備万端整ったところに、妻は悠然と中央線茅野駅に降り立ったのである。小生は多少の人恋しさもあって、喜び勇んで迎えの車を飛ばし、後半の一週間が始まったのであるが、苦労して整えたベッドに布団が並べて敷かれることはなかったのである。
妻は布団を並べるどころか、同じ部屋に寝ることさえ拒否したのである。

それもこれも身から出た錆びというか小生の所業のせいであろうかと反省しつつも、我が身に憐憫の情を禁じえなかったのであるが、ふと永六輔の名言を思い出し心を鎮めたのであった。

永六輔曰く、
十代はセックスで夫婦、二十代は愛で夫婦、三十代は努力して夫婦、四十代は我慢の夫婦。五十代は諦めの夫婦。六十代はお互い感謝で夫婦。

つまり双方が感謝の境地に至らないと、60過ぎては熟年離婚も避けられぬ、ということなのか。

私が妻に心より感謝しているのは言うまでもないことでありますが、果たして妻がどう思っているかは、限りなく心もとないのであります。

「誤解」―阿佐ヶ谷アルシェに行った

友人が出演すると言うので、阿佐ヶ谷アルシェという小さな劇場に観劇に行った。
阿佐ヶ谷は2年前に「山猫軒」というレストランに行って以来であった。
阿佐ヶ谷駅からパールセンタ―街というアーケード商店街をしばらく行き、狭い横道に入ると小さな地下劇場があった。路地には数名の中年の男性がいて、いかにもそれらしい雰囲気を漂わせながら案内をしていた。

お向かいにあった土間敷きのような粗末な殺風景な部屋が事務所なのか、そこでチケットを扱い、何人かの客が、パイプ椅子に座って開場を待っていた。
ここでも、例によって中高年のご婦人方である。ダウンを着込んでいくつもの袋を下げている
小生は昔アングラを見て歩いた頃を思い出した。最近の経験では、中野ザ・ポケットや下高井戸のHTS劇場がそれに近いかもしれない。あるいは、例えは悪いが、昭和の時代、地方の温泉街で、怪しい映画(ブルーフィルム)を見せる会場に似た、ぬるい世間の秩序からちょっと外れた雰囲気を醸し出していた。

さて演目はカミュの「誤解」。カミュの不条理作品、「異邦人」「シーシュポスの神話」「カリギュラ」に続く戯曲である。
学生時代は異邦人を読んで、作品の中に不条理を理解しようとしたが、所詮は頭でっかちであった。今やわが人生を振り返り、なんと不条理の連続であったことかと、カミュの言いたいことが、カミュ以上に分かる年になった。カミュの不条理は基本、悲劇とされるが、小生には憤怒の感情しか湧いてこない。

企画・製作は阿佐ヶ谷アルシェのオーナーの岩崎直人、演出は立川三貴とあった。俳優は演劇集団「円」のメンバー4人に友人の女優K.L.が一人加わって5名であった。
オーナーは、おそらく演劇が好きで好きで、とうとう劇場まで持ってしまい、年に数回は自分で企画制作し、人を集め公演を行っているとのではないかと思わせた。
下北沢の本多劇場も草創期はこんな雰囲気であったかもしれないし、現在、阿佐ヶ谷や高円寺,中野あたりに集積している小劇場も皆このような雰囲気なのだろうかと思った。
ここを思えば、本多劇場やシアタートラムもシアターχも大劇場である。

お芝居は、言葉の重みを深く考え過ぎなければ、比較的分かりやすいものであった。ストーリーは省くが、役者は一様に声が大きくまるでシャウトするかのようで、数メートル先の所に座っていると、耳につんざくようであり、補聴器が響いて辛かった。
もっとも、ダウンを着込んで着ぶくれしたご婦人方はそれも子守唄であるかのように熟眠されていた。(なぜか始まるとすぐに入眠されます。入場料だって安くはないのに、これも不条理?)

後日、K.L嬢に会った時の話では、この演出が、演劇集団「円」に合わせたものか、演出家の演劇観によるものか、俳優は皆大声を張り上げる、彼女曰く新劇風の旧い演出で、自分には納得がいかず、とうとう楽日前日にはケンカになったとのことであった。確かに芝居の最後のシーンで、K.Lが長いセリフを一人で演じるところがあったが、そこはまさにカミュが、自分の一番言いたい所、彼のメッセージ性の強いところなので、もう少し静かに淡々と語るのも良かったかもしれないと思ったりもした。

プロデューサーはプロデューサーなりに、演出家は演出家なりに、俳優は俳優なりに考えがあり、もちろんそれなりのヒエラルキーは保たれているのだろうが、おそらく関係者全員が芝居が好きで仕方ない人ばかりなので、皆一家言を持ち、芝居の本質にかかわるようなところではつい意見の違いが衝突を生むのだろうか。

常に真剣に向き合うものを持って生きている人の不条理とは何か、少し気にはなったが、それを友人に聞けば、また冷ややかに馬鹿にされそうだからやめて、次は何が観たいか、何が食べたいかと、いつもの話題に戻ってしまった。

かつては、そのようなややこしい話は学生の最も得意な分野であったが、現在の学生は、何事も深みには入り込まず、燃えず、クールになってしまったので、今や熱く語るのは、皆昭和の人間ばかりになってしまったようである。

K.L.嬢は未だ若いが、ヨーロッパ人の血が流れているせいか、今どきの若者とは異質なのである。

芝居の帰りには阿佐ヶ谷商店街で、土産に揚げたてさつま揚げとイチゴ大福を買った。
久しぶりに乗った中央線では、それにしても、あの固いパイプ椅子での観劇は、尻の肉も落ちた年寄りにはもう無理かもしれないなと思ったりした。
車窓には、冬の長い西日が射し込んでいて,やけに眩しかったのを憶えている。

ビジネスリーダーたちの生け花展―「日本に届ける―次世代に送る言葉」を生け花に

生花展の案内

 

昔は花嫁修業の一つだった生け花も今は中年男性たちの習いごとにもなっているらしい。
そんな彼らの展覧会が銀座のポーラミュージアムアネックスであったので、近くのトラヤ帽子店に行くついでに見に行った。
友人が出展しているので、そのお付き合いでもあったのだが、男が年を取ってから「花を生ける」ということに内心興味もあったのだ。
小生は、花を生けるのは、もともと嫌いではない。はるか昔のことではあるが、小学生の頃は母親が持たせてくれた切り花を教室で生けたりしていたし、今でも客人がある時などは、青山の「フーガ」に花を買いに行き、玄関先に生けたりすることもある。
花の系統としては、華道家の川瀬敏郎のフアンであるし、泰秀雄や白洲正子、菅原匠の「花生け」に対する考えの違いなどを読んでは面白いと思ったりする。

古来、生け花は能や茶事と並んで武士の嗜みでもあったと言う。
漢学儒学は言うに及ばず書画、和歌をたしなみ、骨董鑑賞から作庭の意匠までと一流の武士に求められた教養の深さは当代の一流ビジネスマンの遠く及ばない奥深いものであった。

書はおそらく漢字・平仮名の独特の文化であろうが、花を生け愛でる風習は洋の東西を問わず全世界にあると思われるが、日本の生花はそこに自然の美を感じ、生ける所作にも精神性を見出し、「華道」として精神修養の手段にまで昇華しているのが、欧米のフラワーアレンジメントとは根本的に違う所である。

主催団体フラワージャパンの代表が草月流の流派であったせいかどうか、今回の「ビジネスリーダーたちのいけばな展」はメッセージ性に富んだものであった。
出品者たちがその思いを作品で十分に伝えきったかどうか別にしても、少なくとも主催者側の趣旨は「現在の日本のビジネスリーダーたちが次世代に送る言葉」を生け花で表現するというものであった。
案内書を読むと、少々大上段で、よくある成功者たちの人生哲学、人生訓ぽくて、ミニ稲盛集団かと辟易する思いも無くは無かったが、行ってみてその作品群の完成度の高さにまずは驚いた。

出品者は皆それなりに社会的な立場のある人達ばかりだから、許可なく、テーマとメッセージと作品とを照合してお見せすることははばかれるが、諸氏が忙しい合間にちょこちょこと習い、ちょこちょこと作ったとは到底思えないのだが、如何であろうか?

小生も、自分が生けた花を人前に公表するかどうかは別にして、少々真面目に生け花を習うのも老後の楽しみとしては悪くはないかもしれないと思いながら会場を後にした。

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