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三枝成彰のオペラ「狂おしき真夏の一日」初日に行った

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縁あって、鳴り物入りで始まったオペラ・ブッファ「狂おしき真夏の一日」を東京文化会館に観劇に行った。三枝成彰が「フィガロの結婚」へのオマージュとして作曲し、台本を作家・林真理子に演出を作詞家・秋元康に依頼し喜歌劇として作り上げられたもので、三枝の8作目のオペラと言うことである。

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日本のオペラ界では有名な豪華キャスト勢揃いのうえ、舞台美術が日本画家の千住博、大友直人が日本フィルを指揮するというきらびやかな顔ぶれとあって、協賛企業もトヨタ自動車、NTTデータ、セイコー、三菱商事、ヤマハ、帝国ホテルと超有名企業が揃っていた。
小生は、友人が合唱を担当した六本木男声合唱団(団長三枝成彰)のメンバーであった縁でお付き合いで見に行ったに過ぎず、オペラはもとより、音楽という世界に全くの門外漢であるから、このオペラの凄さと言うか、日本のオペラ界における価値と言うか位置づけは皆目分からないが、ただ秋元康、林真理子、千住博と言うメンバーを見ただけで一種の胡散臭い方向性が見えて、少々気がそがれたのも事実であった。

果たして、「狂おしき真夏の一日」の台本のストーリーは退屈なものであった。
地方の零落した病院の医師一家の自堕落、奔放な恋愛模様をコミカルに描いているが、一体作者は何を言いたいのか、よく伝わらないままであった。

オペラは椿姫にしろ蝶々夫人にしろ、そもそもストーリーは陳腐で退屈なものであるのが相場だが、かつて一度だけイタリアオペラを見たことがあるが、観衆に何らかの感動を呼ぶのは歌手の歌唱力や演出の芸術性なのかと思ったが、その意味でも、小生には余り強く心に残るものではなかった。
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大手マスコミ傘下の劇評家はこぞって、そのメンバーのユニークさを讃え、作品の評価も高いからきっと傑作なのだろうが、果たして万円以上のチケットを買って観るに相応しいかどうかは、見る側個人の文化度によるのだろうが小生には正直コスパは良いとは思えなかった。
初日でもあったせいだろうが招待客と思しき著名人も散見されたが、それも少々うんざりで、作品に没頭出来なかった理由であったかもしれない。小生の斜め前の席には安倍首相夫人が友人と秘書官とSPとでお出ましで、するとすかさず林真理子女史が挨拶に現れるという具合で、小生には同じ非日常でも余り好ましい光景ではなかったのだ。

三枝自身の弁によれば、オペラは趣味であり、そのために彼はこれまでに60億をも費やしたとのことであるが、この一作にもウン億円の費用が掛かり、それを個人の力で集め、実現してしまうのは、やはりすごいことであるとしか言いようがない。多くのタニマチを引き付ける彼の人間力は、小生には想像することすらできないのである。

元々「持っている人」が、さらに「持っている人」を周りに集めることで実現出来るのがオペラと言う芸術(道楽?)なのかもしれないから、元来小生には縁の無い場違いなものであったのだと納得したものであった。

ほんとうに真夏らしい時期に夏休みを取ろうと、、、

ニッコウキスゲ

車山


夏休みをいつとるかは、毎年悩ましい問題ではある。
今は宮仕えの身ではないから、いつでも休めるのだが、うまくとらないと梅雨明け前の豪雨に当ったり、山ではニッコウキスゲが枯れてしまっていて夏山の勢いを感じられなく寂しい思いをしたりする。
そこで今年は、もう梅雨は開けている確率が高く、最も夏らしい時期として7月24日から31日までを夏休みにと7月始めには決めておいた。

今年は梅雨明け前に猛暑が来て6月下旬から真夏日が始まったが、幸い7月20日頃には梅雨明け宣言があった。東京は連日酷暑が予想され、今年の計画は当りだとほくそ笑んで、蓼科の山荘にいそいそと出かけたまではよかったのだが、25日から低気圧が接近すると梅雨前線が南下し山は連日雨模様になってしまった。

到着した当日は、それでもスーパ―「自由農園」の買い出しと荷物の搬入時は、雨が止んで幸運ではあったが、滞在した1週間で晴れた日は一日も無く、雨時々曇りか、終日雨という天気模様であった。

雨が降る

役に立ったベッド


雨は雨でしっとりとして決して嫌いではないのだが、真夏の、青い空に入道雲が立ち上る様子や、じりじりと肌を焦がすような夏の強い太陽を期待して行ったものだから、それなりに落胆した。
毎日ゴロゴロして寝て過ごし、午後になると近くの日帰り温泉に行くのが日課となるような静かな夏休みになったのである。
お蔭で春に導入したベッドは極めて有難く有益であった。

北沢氏と

職人館の窓辺からの眺め


それでも一日は望月の里に下りて、前回グルマンライフの「料理マスタ―ズ」(2017.8.1グルマンライフ)でお話した北沢正和氏の職人館に行ってみた。
職人館に前回行ったのは一昨年の5月の連休であったからもう2年半ぶりになる。当時はオーナーの北沢氏が料理マスターズ・ブロンズ賞を取っていることなどは知らなかったが、今回は昨年シルバー賞を受賞されたのを知っていたので、そのお祝いを述べた所、本人はもうとっくの昔に過ぎた過去の昔話のように、いつもと変わらず飄々としていたのが印象的であった。
卓越した料理人が、田舎でその地域共同体とうまく交わり暮らしていくことの大変さからか、彼の顔の深い皺には孤独感がさらに増したようにも見受けられた。
聞くところによると、同じような志で地産の食材にこだわるフレンチレストランやカフェ、チーズ工房、旅館の料理人が望月や佐久、小諸におり、彼等と連携して手作りのコミュニティ誌を発行したりして、村興し町興しに尽力しているが、地元住民との息は必ずしも合っているとは言えないようである。
それもあってか、北沢氏は、東京での農産省関係の会合や地方の町、村興しのアドバイザリー、講演活動に力を注いでいるようである。

その多忙さのせいだろうか、料理の切れが今一つになった印象であった。
初めの頃の、「地元野菜のパリパリサラダ」の感動的なサラダの美味さが消えてしまったようであった。野菜の種類は時期により変動するだろうが、問題はドレッシングの使い方である。

小生は、店の料理の質は、そこのサラダの質とパラレルの関係だと常々思っているのだが、要はドレッシングを多過ぎず、少な過ぎず、野菜本来の質感、味覚を損なわないように万遍なくコーティングさせるような「こだわり」が、料理全般にも通ずるものと思うからである。野菜本来の味が消えていたり、パリパリ感が無いような、かといってただの生野菜をサラダとして出すようでは、料理全般への気遣い、こだわりもしれていると思うからであるが、諸兄のご意見はいかがであろうか?

村の野菜のパリパリサラダ

村の豆腐

村のお米のリゾット

地元十割玄蕎麦


今回の職人館のサラダは、残念ながら過剰なドレッシングがお皿の底に溜まっている状態で、野菜も弾力が損なわれていた。おそらく北沢氏本人ではない雇の料理人(バイト?)が作ったものであろうが、それでもそれを出してしまっては、オーナーの責任なのである。
早く気付いて欲しいと願うばかりである。
気のせいか、「村の豆の村豆腐」も、かつてのあの鼻腔の嗅神経や舌の味蕾(味覚神経)を覚醒させる様な「豆の匂い、豆の味わい」が薄れたような気がした。
蕎麦は、10割石臼引き玄蕎麦で、前と変わらずとても美味しかった。この八ヶ岳東西南北の周辺、東信地方では、蕎麦は蓼科プール平下の「しもさか」とこの「職人館」が双璧であろうと思う。

春日荘お風呂

春日温泉

長門牧場

絶品ソフトクリーム


帰りに、すぐ近くにある春日温泉の「国民宿舎春日荘」に寄り、立ち寄りの湯を楽しんだ。100パーセント源泉かけ流しの弱アルカリ性単純泉、「美肌の湯」であった。
ちなみに日帰りの湯の料金は、なぜか佐久地方は500円、茅野地方は700円が相場となっている。
風呂場から、北八ヶ岳北端に当る山麓の長閑な春日温泉の町並みが望めて、こころ安らいだのである。
そして私たちは、白樺湖への峠道にある長門牧場のソフトクリームを忘れることは決してなかったのである。

帰る日は快晴


さて、皮肉なことに、最終日の帰京当日は朝から良く晴れ、待ちに待った夏らしい一日になりそうであったが、時すでに遅く、心を鬼にして荷物を積んで、戸締りをして帰路に着いたのである。

このような不運は、これまでの人生を振り返っても、まま、よくあることなので、最近は、「ついていない、運が悪い」などと嘆くこともなく、滅法気にならなくなったのである。

一方家人は、帰路の車中、その日のタカラヅカ公演に間に合うかが唯一の関心事であった。

年を取るのも悪いことばかりではない、と思いつつ今年の夏休みは静かに終わったのであった。

半世紀ぶりのテント劇―花園神社、新宿梁山泊「腰巻おぼろー妖鯨編」を観た

この5月11~21日まで下北沢小劇場でシュヴァ―ヴ作『シェフェレ』の主役をやって燃え尽き症候群になっていた友人の女優K.L.嬢の誘いを受けて、6月の末に、花園神社の境内に紫テントを張って上演している劇団「新宿梁山泊」の30周年公演『腰巻おぼろー妖鯨編』を見に行った。
テントで上演するいわゆるアングラ演劇の類を見るのは、実に50年ぶりのことであった。

演目名からして唐十郎の状況劇場・赤テントを想起させたが、事実、『腰巻おぼろー妖鯨編』は、唐十郎が42年前の1975年に上野不忍の池の赤テントで5時間に及ぶ大作を上演したものを、唐の演劇論の後継者を自認する演出家の金守珍が3時間3幕に短縮し編成し直したものであった。
唐十郎が1963年に状況劇場を旗揚げし、新宿・花園神社境内に赤テントを立て「腰巻お仙―義理人情いろはにほてと編」を上演し、周辺の町内と揉めて、退去を余儀なくされ上野で上演した時代の作品であるから、当然60年代の実存主義の色合いが強く、ドタバタ劇ではあるが基本的には不条理劇なのであろうが、小生にはストーリーは皆目追えず、この芝居の主張は一体何なのかよく分からなかった。劇中で、「ある」のか「いる」のかが問われていたり、ヘミングウェイのキリマンジャロの雪が意味深に使われていたりしたが、当時の、日本経済が正に高度成長の頂点に向って邁進して行く中で、70年安保の激しい政治運動で挫折し、多くの若者が自分の存在や生きる方向性を見失った状況が重なり、まさに実存が重く問われた時代背景が読み取れるものではあった。
ストーリーはよく理解できなかったが、場面、場面の台詞回しは面白く、特に古参俳優の大久保鷹の演技は円熟し枯れた妙味があり、多くの観客を引き付けるものがあった。

テント劇場と言っても50年前と比べると、設備環境は数段良くなっており、舞台は立派に出来ていたし、桟敷席には座布団が敷いてあり、指定席は雛壇で、椅子にはクッションも付いており、お尻が痛くなることも無かった。また昔と違って場内禁煙で、時代の変化を感じさせるものであった。

芝居の最後には、お決まりの、舞台の背景が突如開き新宿の夜景をバックに噴水のような水柱が何本も立上がるのは迫力もあり図らずも感動してしまった。また大きな鯨の尾ッポの周りに女優たちが人魚姿のコスチュームで水しぶきを浴びる演出も場違いに妖艶というかセクシー?な演出で楽しかった。

テント興業というからには、もっと野性的というか暴力的な雰囲気かと思って出かけて行ったのだが、至って上品なもので、観客のヤジや掛け声も無く、一体この芝居をテントでやる意味があるのかとさえ思ったりした。(逆に、今の国会こそ野次の応酬で、時に乱闘もあり、テントでやるにふさわしいと思った。)

演出の金守珍

最古参の大久保鷹

 

「新宿梁山泊」は、唐十郎の弟子にあたる金守珍が1987年に創立した劇団で、唐十郎の状況劇場や唐組とは直接の関係はないらしいし、それに当時とは時代も違うので、危険な雰囲気が消えているのも当然かもしれないが、唐十郎といえば、寺山修二の天井桟敷への殴り込み乱闘事件やゴールデン街での包丁を振り回しての数々の立ち回りや、芝居の最中に客と殴り合うとかの伝説が余りのも喧伝されているので、少々拍子抜けしたのも事実であった。

思えば、あの頃(1960年代)は、暴力が日常性を持った時代であったのかもしれない。新左翼に限らず、権力に暴力で抵抗するという構図は一種のヒロイックさを持って見られる社会的風潮があったのだ。
小生が大学に入学し上京した1965年頃は新宿は本当に自由な街であった。どこで何をしようが警察権力が規制したり取り締まるということは殆どなかった。どこで群れ騒ごうが、東口のロータリーで朝まで寝ていようが、コマ劇場前の池に飛び込もうが、まさに“”状況の中でどうするかの選択は自由”であったのだ。
それでいて、街中が無秩序であったとか治安が悪かったということではなかった。不思議と自然に平衡・均衡がとれていたのである。

1967年の10.21新宿騒乱事件の後、新宿駅西口地下広場のフォークソング集会すら弾圧されるようになってからは、新宿はすっかり変わってしまった。自由が規制され弾圧されたのだ。歩道は歩くところであると警察に規制されれば、やがて若者は歩道で立止まることはやめ、すっかり従順になってしまった。そして猥雑で自由であった歌舞伎町はヤクザのはびこる単なる風俗の街になってしまった。
当時は紀伊国屋や風月堂は新しい文化の発信基地であり、新宿、渋谷のPIT-INやDIG,DUGなどのモダンジャズ喫茶や天井桟敷、赤テント、黒テントなどのアングラ劇場には世の中に背を向けた学生やヒッピー気取りの若者で溢れていた。銀座や六本木にはアイビールックで軟派のミユキ族もいたりもしたが、新宿の泥臭い若者カルチャーが世の中を圧倒していたのである。

今回の「腰巻おぼろー妖鯨編」の舞台美術、広告ポスターを担当している宇野亜喜良も、当時は横尾忠則と並んで彗星のように登場してきた非体制の超人気のイラストレーターであり、新しい芸術の表現者でもあった。小生の記憶では、横尾忠則は主として天井桟敷のポスターや平凡パンチ、東映の任侠映画で活躍していたが、宇野亜喜良は繊細な線描画で朝日ジャーナルの高橋和己の小説の挿絵などを書いたりしていたが、やがてロマンティックで何処か退廃的でエロチックな少女像でサイケデリック、ピーコック革命と称したモードの寵児になった。現在80歳をゆうに過ぎても、彼の独特な少女画はロスゴリ趣味的な少年少女、青年たちにとても人気があり、ポスターや舞台美術、美術展などでなお幅広く活躍している。

小生は、新宿には自由が無くなった、と思うようになってから、つまり1970年前後から新宿にはすっかり行かなくなってしまった。少なくとも夜は全くと言ってよいほど足を踏み入れることはない。昔を知っているだけに、空気が余りに違ってしまい、つまらないのである。
日中なら、伊勢丹地下の食品売り場と、東口の眼鏡の和真だけには時々行きはする。その2か所には他に替えがたい長所があるからである。小生には、その他には行くべきところはもはや無いのである。

しかし、花園神社に又テントが張られるのであれば、再訪はありかも知れない。
それほどにテント劇は小生のノスタルジーをくすぐったのである。
それは単に青春の日々をセンチメンタルに反芻するためだけかもしれないが、
それよりも、それだけ小生も十分に歳をとり、老い先短いという証拠なのだろう。

黄金連休は恒例の山荘開きに行ったー岡本太郎の「透明庵」と、老いては感謝のこころ

もうだいぶ前の話になってしまったが、今年も5月の連休は蓼科の山荘に小屋開きに行った。

小生は4月26日から5月8日まで12泊13日間、妻は後から電車で来て後半の7日間を滞在した。つまり前半の6日間は一人で、殆ど誰とも会わずに過ごしたことになる。食料は肉魚の生鮮食品は東京から持参し、野菜・果物や乳製品、飲み物は中央道・諏訪南インターから山荘までの途中にある原村の自由農園という地産地消型スーパーマーケットで買って山に登るから、滞在中は原則、自給自足で買い物に出ることも殆ど無い。従って一人でいる間は一言も口を利く必要もないという訳だ。

そこでこの大量の自由時間をどうするかだ。

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由もあり過ぎると厄介なものにもなるらしい。

小生は、例年は、日頃集中できない大部作の本を持って行き一気の読破することにしていたが、今年は一日一冊見当の本を持参した。
しかしながら、今年は20数年ぶりというか、この山荘を入手して以来の大掃除をしたので、殆ど読書をせずに過ごした。元来、ここでの掃除、飯の支度は小生の仕事と決まった約束事であり、従って一人で掃除をするのに何ら違和感はないのである。

我が山荘暮らしにも今年は大きな変化があった。
初めてベッドを入れたのである。もう布団では寝起きが腰、膝に辛い歳になったのである。
丁度、息子が海外勤務から帰った時に持ち帰り、その後使わずに家においてあったキングサイズのマットレスがあったので、それを再利用しようと考えたのである。そこでベッドフレームをヤフオクで落札し、蓼科に着く翌日の配送にしておき、その次の日にマットレスが届く手配にしておいたが、いざセットしてみるとマットレスの厚さが想定したより厚く、高さが畳から70cm以上になってしまい、横になるのも容易ではなかったのである。考えあぐねた末、結局マットレスは東京に戻すことにしたのだが、キングサイズというのはシングル2個分で200cm四方となり、雨戸、ガラス戸、障子、襖を外さないと搬入出できないし、重さも100㎏近くあり、大変な作業が徒労になってしまった。
本当に宅急便(今回はヤマト家財宅急便)の人はよくやってくれました。このシステムを創業した小倉昌男氏と現場のスタッフにはただ感謝あるのみである。

そしてスマホで新しいマットレスを購入し事なきを得たのだが、信州の山奥に居ながらにして、必要なマットレスを注文し翌日にはそれが届くという社会の変化には改めて驚いたのである。
アップルのスティーブ・ジョブスとアマゾンのジョフ・べゾス、それにクロネコの小倉昌男の社会功績はノーベル賞に値すると思う。

ベッドを入れるのに、家具の移動や諸々の始末がいったのだが、その時に書棚にあった山崎省三著「回想の芸術家たち」をふと手にしたので読み直してみた。
思えば息子が中学二年の時に初めて親子二人でドライブ旅行に出かけ、北アルプスの立山室堂に行った帰りに、ここに寄ってみたのが、この山荘を手に入れるきっかけになった。当時私たちは伊豆函南町に終末ハウスを持っていたのだが、息子が「ここの方が落ち着くね」と言ったのをオーナーの山崎氏が聞き及び、その息子の言葉が決め手になって小生に譲る決心をされたと後日知った。
山崎氏は、当時「芸術新潮」の編集長を退いたばかりの頃で、少々健康を崩し、山での生活が困難になって来ており、茅葺の独特の美意識で作られた個性的な建物の後継者を探しておられたのである。

幾度か山荘やご自宅を訪ね、お話しを伺うと、山荘には幾多の芸術家が訪問し、その都度、襖に画や書を残されて行ったとのことで、実際に全部の襖には多種多様の襖絵が描かれていた。なかでもヘンテコな字で「透明庵」と書かれた襖があり、それは岡本太郎が、この山荘を初めて訪問した時に、山荘を命名して書いたものとのことであった。
岡本太郎は諏訪地方の伝説や古墳・埴輪が大変好きで、しばしば来ては長逗留したという。
彼が1996年に亡くなると、この襖の書?画?も青山の自宅、今の岡本太郎記念館に移され、現在も保管されているそうである。
山崎氏もこの山荘を小生に譲ってから数年後に鬼籍に入られたが、その直前に「回想の芸術家たち」という著書を上梓され、その中に岡本太郎との経緯が詳しく書かれている。

今は信州でおそらく一軒だけになった茅葺のこの古びた山荘は、もともとは「透明庵」という屋号のついた物語性に富んだ建物なのである。上の写真で太郎が座っている部屋の現在が下の写真である。

山崎氏はその後、日経新聞(2007.1.18)のコラム「交遊抄」で国立西洋美術館館長(当時)の建畠哲氏によって惜しまれ追悼された。偶然見つけ切り抜いて置いた。

小生の今年の山仕事は、ベッドの設置の他に、長年放ってあった暖炉周りの道具を囲炉裏近くの壁に取り付けたのと、入り口の御止の白樺の枝を新調したことであった。

この細い枝2本を切り出すのに、ヘミングウエイの「老人と海」の老人のように疲労困憊し精根尽き果ててしまい、今さらながら我が肉体の衰えに驚愕したのであった。

そんなカンやで6日間が過ぎ、準備万端整ったところに、妻は悠然と中央線茅野駅に降り立ったのである。小生は多少の人恋しさもあって、喜び勇んで迎えの車を飛ばし、後半の一週間が始まったのであるが、苦労して整えたベッドに布団が並べて敷かれることはなかったのである。
妻は布団を並べるどころか、同じ部屋に寝ることさえ拒否したのである。

それもこれも身から出た錆びというか小生の所業のせいであろうかと反省しつつも、我が身に憐憫の情を禁じえなかったのであるが、ふと永六輔の名言を思い出し心を鎮めたのであった。

永六輔曰く、
十代はセックスで夫婦、二十代は愛で夫婦、三十代は努力して夫婦、四十代は我慢の夫婦。五十代は諦めの夫婦。六十代はお互い感謝で夫婦。

つまり双方が感謝の境地に至らないと、60過ぎては熟年離婚も避けられぬ、ということなのか。

私が妻に心より感謝しているのは言うまでもないことでありますが、果たして妻がどう思っているかは、限りなく心もとないのであります。

「誤解」―阿佐ヶ谷アルシェに行った

友人が出演すると言うので、阿佐ヶ谷アルシェという小さな劇場に観劇に行った。
阿佐ヶ谷は2年前に「山猫軒」というレストランに行って以来であった。
阿佐ヶ谷駅からパールセンタ―街というアーケード商店街をしばらく行き、狭い横道に入ると小さな地下劇場があった。路地には数名の中年の男性がいて、いかにもそれらしい雰囲気を漂わせながら案内をしていた。

お向かいにあった土間敷きのような粗末な殺風景な部屋が事務所なのか、そこでチケットを扱い、何人かの客が、パイプ椅子に座って開場を待っていた。
ここでも、例によって中高年のご婦人方である。ダウンを着込んでいくつもの袋を下げている
小生は昔アングラを見て歩いた頃を思い出した。最近の経験では、中野ザ・ポケットや下高井戸のHTS劇場がそれに近いかもしれない。あるいは、例えは悪いが、昭和の時代、地方の温泉街で、怪しい映画(ブルーフィルム)を見せる会場に似た、ぬるい世間の秩序からちょっと外れた雰囲気を醸し出していた。

さて演目はカミュの「誤解」。カミュの不条理作品、「異邦人」「シーシュポスの神話」「カリギュラ」に続く戯曲である。
学生時代は異邦人を読んで、作品の中に不条理を理解しようとしたが、所詮は頭でっかちであった。今やわが人生を振り返り、なんと不条理の連続であったことかと、カミュの言いたいことが、カミュ以上に分かる年になった。カミュの不条理は基本、悲劇とされるが、小生には憤怒の感情しか湧いてこない。

企画・製作は阿佐ヶ谷アルシェのオーナーの岩崎直人、演出は立川三貴とあった。俳優は演劇集団「円」のメンバー4人に友人の女優K.L.が一人加わって5名であった。
オーナーは、おそらく演劇が好きで好きで、とうとう劇場まで持ってしまい、年に数回は自分で企画制作し、人を集め公演を行っているとのではないかと思わせた。
下北沢の本多劇場も草創期はこんな雰囲気であったかもしれないし、現在、阿佐ヶ谷や高円寺,中野あたりに集積している小劇場も皆このような雰囲気なのだろうかと思った。
ここを思えば、本多劇場やシアタートラムもシアターχも大劇場である。

お芝居は、言葉の重みを深く考え過ぎなければ、比較的分かりやすいものであった。ストーリーは省くが、役者は一様に声が大きくまるでシャウトするかのようで、数メートル先の所に座っていると、耳につんざくようであり、補聴器が響いて辛かった。
もっとも、ダウンを着込んで着ぶくれしたご婦人方はそれも子守唄であるかのように熟眠されていた。(なぜか始まるとすぐに入眠されます。入場料だって安くはないのに、これも不条理?)

後日、K.L嬢に会った時の話では、この演出が、演劇集団「円」に合わせたものか、演出家の演劇観によるものか、俳優は皆大声を張り上げる、彼女曰く新劇風の旧い演出で、自分には納得がいかず、とうとう楽日前日にはケンカになったとのことであった。確かに芝居の最後のシーンで、K.Lが長いセリフを一人で演じるところがあったが、そこはまさにカミュが、自分の一番言いたい所、彼のメッセージ性の強いところなので、もう少し静かに淡々と語るのも良かったかもしれないと思ったりもした。

プロデューサーはプロデューサーなりに、演出家は演出家なりに、俳優は俳優なりに考えがあり、もちろんそれなりのヒエラルキーは保たれているのだろうが、おそらく関係者全員が芝居が好きで仕方ない人ばかりなので、皆一家言を持ち、芝居の本質にかかわるようなところではつい意見の違いが衝突を生むのだろうか。

常に真剣に向き合うものを持って生きている人の不条理とは何か、少し気にはなったが、それを友人に聞けば、また冷ややかに馬鹿にされそうだからやめて、次は何が観たいか、何が食べたいかと、いつもの話題に戻ってしまった。

かつては、そのようなややこしい話は学生の最も得意な分野であったが、現在の学生は、何事も深みには入り込まず、燃えず、クールになってしまったので、今や熱く語るのは、皆昭和の人間ばかりになってしまったようである。

K.L.嬢は未だ若いが、ヨーロッパ人の血が流れているせいか、今どきの若者とは異質なのである。

芝居の帰りには阿佐ヶ谷商店街で、土産に揚げたてさつま揚げとイチゴ大福を買った。
久しぶりに乗った中央線では、それにしても、あの固いパイプ椅子での観劇は、尻の肉も落ちた年寄りにはもう無理かもしれないなと思ったりした。
車窓には、冬の長い西日が射し込んでいて,やけに眩しかったのを憶えている。

ビジネスリーダーたちの生け花展―「日本に届ける―次世代に送る言葉」を生け花に

生花展の案内

 

昔は花嫁修業の一つだった生け花も今は中年男性たちの習いごとにもなっているらしい。
そんな彼らの展覧会が銀座のポーラミュージアムアネックスであったので、近くのトラヤ帽子店に行くついでに見に行った。
友人が出展しているので、そのお付き合いでもあったのだが、男が年を取ってから「花を生ける」ということに内心興味もあったのだ。
小生は、花を生けるのは、もともと嫌いではない。はるか昔のことではあるが、小学生の頃は母親が持たせてくれた切り花を教室で生けたりしていたし、今でも客人がある時などは、青山の「フーガ」に花を買いに行き、玄関先に生けたりすることもある。
花の系統としては、華道家の川瀬敏郎のフアンであるし、泰秀雄や白洲正子、菅原匠の「花生け」に対する考えの違いなどを読んでは面白いと思ったりする。

古来、生け花は能や茶事と並んで武士の嗜みでもあったと言う。
漢学儒学は言うに及ばず書画、和歌をたしなみ、骨董鑑賞から作庭の意匠までと一流の武士に求められた教養の深さは当代の一流ビジネスマンの遠く及ばない奥深いものであった。

書はおそらく漢字・平仮名の独特の文化であろうが、花を生け愛でる風習は洋の東西を問わず全世界にあると思われるが、日本の生花はそこに自然の美を感じ、生ける所作にも精神性を見出し、「華道」として精神修養の手段にまで昇華しているのが、欧米のフラワーアレンジメントとは根本的に違う所である。

主催団体フラワージャパンの代表が草月流の流派であったせいかどうか、今回の「ビジネスリーダーたちのいけばな展」はメッセージ性に富んだものであった。
出品者たちがその思いを作品で十分に伝えきったかどうか別にしても、少なくとも主催者側の趣旨は「現在の日本のビジネスリーダーたちが次世代に送る言葉」を生け花で表現するというものであった。
案内書を読むと、少々大上段で、よくある成功者たちの人生哲学、人生訓ぽくて、ミニ稲盛集団かと辟易する思いも無くは無かったが、行ってみてその作品群の完成度の高さにまずは驚いた。

出品者は皆それなりに社会的な立場のある人達ばかりだから、許可なく、テーマとメッセージと作品とを照合してお見せすることははばかれるが、諸氏が忙しい合間にちょこちょこと習い、ちょこちょこと作ったとは到底思えないのだが、如何であろうか?

小生も、自分が生けた花を人前に公表するかどうかは別にして、少々真面目に生け花を習うのも老後の楽しみとしては悪くはないかもしれないと思いながら会場を後にした。

八ヶ岳横断ドライヴといくつかの新しい体験―二回目の夏休み雑記

お盆休みの夏休み第二弾で再び蓼科の山荘に行った。
この期間は、どの別荘にも人が来ており、何となく落ち着きが悪いので、昼間は外出することが多い。そんな過ごし方を20年来していると、もうこの界隈では行くところは行き尽くした感があり、目新しいところはなくなってきた。
そこで地図とにらめっこして、残った穴場を探して何か所かを新規開拓した。
一つは北八ヶ岳連峰を超えて佐久側にある「八千穂高原」に行って、そのまま八千穂町に出て国道141号線を南下して八ヶ岳南端の権現岳山麓を回って帰るというコースである。

蓼科側から佐久側に行くには、北八ヶ岳連峰の茶臼山と高見石の間にある麦草峠を越えて茅野から八千穂町に至る広大な八ヶ岳のすそ野を横断する国道299号線(通称メルヘン街道)を行くのである。峠は標高2000メートルを超える難所である、と言いたいところであるが、道路は2車線のよく整備された舗装道路である。
かつては、当然のことながら、人々がいろんな思いを抱きながら、息を切らせて越えた峠道である。商業の重要なルートであったであろうし、戦国時代には佐久と諏訪の争いの軍用道路にもなったであろう重要な街道である。
私が学生の頃、およそ半世紀前になるが、麦草峠は北八ヶ岳の稜線に出る登山の重要な要所であり、そこにある麦草ヒュッテは多くの登山者のメッカでもあった。
丁度、八ヶ岳本峰縦走の起点となる硫黄岳と根石岳の間にある夏沢峠のようなものである。

余談になるが、私は学生時代の教養課程の2年間の夏休みに、夏沢峠にある山彦山荘の小屋番のアルバイトをしたことがあった。夏山の登山者のガイドと宿泊者の食事の面倒を見たのである。
午後の暇な時間は、峠近くの原生林の枯れ木を伐採して薪割りをした。秋冬の準備をしたのである。私は未だ二十歳前の、アイデンディティを求めて深い昏迷の時期であり、斧を振るう肉体労働が心地よく楽しかった。ふと見上げれば、真っ青な空に入道雲が湧き上がったのを今でも鮮烈に覚えている。

それから10年後には、舗装はされていないが、何とか車が通れる道が開通した。当時、兄の日産ローレルを借りて峠を越えた記憶がある。その時は峠で引き返したか、どこかに抜けたかは記憶にないので、今のように佐久側に開通していたかは定かではない。
今のような舗装2車線の立派な国道になったのがいつのことかは知らないが、現在は蓼科中央高原から峠まではほんの数十分である。
従って、小生が蓼科に小屋を持つようになってからは幾度となく麦草峠には遊びに来た。麦草峠の近くに風光明媚で人気の高い白駒池があり、峠は観光客で溢れてはいるが、一歩道を外れれば、シラビソの原生林やハイ松に高山植物のお花畑があり、そこはまさしく山なのであり、お握りでも持って来れば、いっぱしの登山気分が味わえるのである。

数年前には麦草峠を越えて、佐久側の松原湖に出たことがあった。途中で稲子湯によって入ったが、本澤温泉と同様に鉄分の多い湯でタオルが瞬く間に茶色になった。
4,50年前は、小海線松原湖駅から本澤温泉まで歩き、そこで一泊して硫黄岳、赤岳に登るのが最もポピュラーな登山ルートであった。

私がバイトをしていた夏沢峠の山彦山荘は本澤温泉の経営であったから、週に一度は温泉に入りに下山するのが許されており、その夜は温泉と焼酎の宴会が楽しみであった。8月も終わりになると、山では大きなツガマツタケが採れるのも楽しみであった。もっとも自分で採れるものでもなく、当時、温泉で雑用をしていた発話障害のある使用人の男のみが知る秘密の場所があるとのことであった。当主は熊の毛皮を敷いた囲炉裏の上座に座り、酔っぱらっては、何かをまくし立てていたし、その母親は、つまり先代の女将だが、いつも「つまらんねえ、つまらんねえ」というのが口癖であった。後で聞くと先代当主は、女道楽で、いつも外に女がいて女房を相当泣かせたらしいから、自分は山奥で人と交流することもなく,着のみ着のままで朝から晩まで汗と垢にまみれて飯炊きや炭焼きで働きどうしでは無理からぬことであると、若年ながら納得したものであった。
温泉には沢山の学生のアルバイトがいたが、当主は、小生が医学部の学生であったためか、特別に目をかけてくれた。(当時のことだから佐久の田舎では医者はステータスであったのだろう。)当主の長男は当時日大の学生で2歳ほど年長であった。
本澤温泉は今では、日本一高いところにある「雲上の露天風呂」と硫黄泉の秘湯を売りにして一般にも有名になったが、きっとその長男の次の世代が現在の当主なのであろう。まさに時は光陰矢の如く流れるのである。

八千穂湖

白樺原生林

麦草峠を越えしばらく下って行くと、松原湖高原を経由して小海線松原湖駅に行く480号線(松原湖高原線)と八千穂高原を経由して八千穂駅に行く299号線(メルヘン街道)に分岐する。前回は松原湖ルートを行ったので今回は八千穂高原から小海線八千穂駅を目指すルートを取った。初めての道である。峠を越えると一気に人も車も少なくなるが、道はどうしてなかなか立派なものであった。八千穂高原の八千穂湖周辺は公的施設も充実し、蓼科界隈では見られない静逸な品の良いリゾート地になっていた。自然がうまく保護され残されており、観光地特有の俗化も見られず、湖でルアー釣りをする釣り人と昆虫採集をする親子連れがいるくらいで閑散としていた。
さらに下ると国内一という白樺原生林があったが、白樺湖周辺では到底見られない広大な白樺林であった。何処かジブリのアニメの世界に紛れ込んだような気になった。

八千穂高原では思わぬ拾い物をして、なんだか得をした気分になった。

土牛記念館

松原湖

299号線を下った先の八千穂の町は古い町並が残されており、黒澤酒造の蔵屋敷が整備され観光のスポットになっているようであり、日本画家奥村土牛の記念美術館も併設されていた。

国道141号線は千曲川と小海線に併走するように走っているので、時々小海線の駅舎に立ち寄りながら、一路小淵沢方面に向かった。
途中で松原湖に寄り、湖畔のベンチで持参したお握りで昼ご飯を食べた。ここも白樺湖や女神湖と比べるべくも無く、静かな佇まいであった。

八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳ヒュッテ

小海線野辺山駅

更に南下し海ノ口高原では、かつての家族旅行の思い出の八ヶ岳高原ロッジに寄ってみた。(カーライフ、2012.10,26)息子が小学校入学前の夏休みであったからおよそ30年ぶりである。そこでお茶をして一息入れて、少し下ると野辺山駅である。野辺山は天文台と星の綺麗なことで有名であるが、またJRの標高最高地点に駅があることでも知られている。そこにもついでに寄ってみると、運のいいことに小海線の列車が入ってきた。ホームには、やはり撮り鉄が大勢いたので、小生も一緒にまぎれて写真を撮ったりした。
さらに南下して、141号線を右折して清里美しの森から八ヶ岳高原ラインに入ったが、前走車がのろいのに多少イラつきながらいると、富士見高原で「鹿の湯」の案内を見つけたので、これ幸いにひと風呂浴びることにした。ホテル八峯苑に併設された温泉施設だが、規模の大きさと言い、日帰り客の多さと言い、どちらが本業かというくらいの盛況であった。温泉は時間によって色が変わるというナトリウム・マグネシウム・硫酸塩温泉で、いかにも温泉らしい良い湯であった。
後は通いなれた八ヶ岳エコーラインから白樺湖に向かう道であり、夕方には帰宅した。

全長160キロのドライブであった。
八千穂高原は思いのほか良かったし、懐かしい松原湖や八ヶ岳高原ロッジにも寄れたし小海線沿いのドライブは楽しかった。最後に見知らぬ鹿の湯温泉で疲れを癒せたのもラッキーで、なかなか充実した一日となった。

長円寺

もう一つの発見は茅野市の外れに思わぬ名刹を見つけたことである。
長園寺という真言宗のお寺であったが、どのような縁起、由来のお寺かは勉強していないので知らないが、杉並木の見事さや多くの野仏が並ぶさまからして尋常の寺院ではないことは推察できた。

雲渓荘

更にもう一つの発見は、らしからぬ日帰り温泉を開拓したことである。
信濃毎日新聞社が発行している「信州日帰り湯めぐり」という名著があるが、その中で紹介されている「東信の湯」の部は既にほとんど行き尽くしているが、残したいくつかの一つが、以外にも近場にあったので行ってみたのである。今は上田市になったが、元は小県郡武石村にある「岳の湯温泉・雲渓荘」である。
近頃多い、公営か第三セクターの経営する、田圃や畑の中に忽然とある、似たり寄ったりの相似形のような温泉施設ではなく、山懐に抱かれた堂々の個性的な温泉宿であった。宿泊施設ではあるが、日帰り湯を推奨しているので、遠慮がちに入るという雰囲気はなく、気が楽であった。お湯はアルカリ性単純泉で癖が無く、客も少なく、風呂場は独占状態であった。お土産に野沢菜と地産ポークのひき肉入り「お焼き」を買ってきたが、帰って15分ほど蒸かして食べるとまるで中華の肉まんのような感触ではあったが、中身はまぎれもなくみそ味のお焼きであり、たいそう旨かった。

お焼き

テラスには落ち葉、もう秋が

私は数日の休暇がとれれば、好んで蓼科の山荘に出かけるが、何のためかと問われれば、間違いなく「ストレスを取るため」と答えるようにしている。
人が生きていくために最も重要なことは自律神経のバランスを取ることである。
日常のあらゆる場面でため込んだストレスで交感神経優位になった心身の状態をりラクゼーションして副交感神経を優位に持っていき、免疫力を高めるべくバランスを取ることが山荘の最大の効用であり価値であると思っている。だから少なくとも数日は滞在し、気ままに過ごすことが大事であり、ホテルや旅館ではこうはいかないと思う。第一、費用を考えながらの宿泊ではそれもまたストレスになるだろう。ここでの4,5日の2人での滞在費用は、多少贅沢をしても、「あさば」の一泊一人分に過ぎない。
別に別荘ライフでなくとももちろんよいが、交感神経優位の生活は免疫力が下がり、癌を始め、あらゆる病気のもとになることを承知して、副交感神経を高めるような生活スタイルを取り入れることは健康寿命を延ばす最大唯一の方法であると信じている。スポーツであれ旅行であれ、人に言えないような趣味道楽であれ、自分にあったストレス解消法を見つけることが大事であると思うのである。

島崎藤村の小諸の宿「中棚荘」に日帰りで遊ぶ―今年の夏休み風景

毎年のことながら、いつ夏休みをとるかは悩ましいことである。
基本的に、「これが夏だ!」という実感がわく、入道雲が立ち上がる7月下旬から8月上旬の盛夏に休みをとりたいという気持ちが強いので、梅雨明けがいつごろになるかを当てなければならないからである。休みが梅雨明けの前になったり、梅雨明け直前の豪雨に当ることもあった。
その点では今年は梅雨明けの翌日からというジャストタイミングであった。7月30日から8月4日までが今年の夏休みになった。

マツムシ草

早くも赤とんぼが

蓼科は、車山のニッコウキスゲは跡形もなく終わっており、早くも秋のマツムシ草が咲いていた。今年はあまり動かないことにして、寝てばかりであったが、それでも思い立って、小諸の中棚温泉の中棚荘に日帰りの湯に行ってみた。
島崎藤村が、“小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ”で始まる「千曲川旅情の歌」を書いた宿として有名で、最近は初恋リンゴ風呂で人気がある宿である。
初恋が付くのは、言うまでもなく“まだあげ初めし前髪の,林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の、花ある君と思いけり”の藤村の「初恋」に由来している。
中棚荘は、“暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、千曲川いざよう波の、岸近き宿に登りつ、濁り酒濁れる飲みて、草枕しばし慰む”と読まれた宿である。

中棚荘玄関

裏口

藤村が明治32年から足かけ7年にわたって、英語教師として赴任した小諸義塾の校長であった木村熊二が開湯に尽力した温泉であり、近くには彼の別荘「水明楼」があり、藤村は中棚荘と水明楼に足繁く通ったということである。
場所は小諸城祉懐古園と千曲川にはさまれる所に位置し、宿から千曲川は望めるが、川端にあるわけではない。当時はおそらく旅館と川の間には建物も無く、岸に近い実感があったのだろう。
宿は古く、決して豪華ではないが、手入れの行き届いた、また館主のもてなしの心遣いが感じられる気持ちの良い宿であった。宿泊したわけではないので、本当のところは分からないが、立ち寄りの湯客に対しても宿のもてなしの気持ちは十分わかる感じが良いものであった。

展望風呂

脱衣場は畳敷き

ところで温泉であるが、リンゴ風呂は10月から4月までの季節限定のことであり、当日は普通のお風呂であった。軽く黒色がかった弱アルカリ性低張性温泉で40℃のぬるめの湯で長時間入っていても疲れない良いお湯であった。浴場の脱衣場は畳敷きで、脱衣篭を置く棚は無く、畳の上に置くというのも明治・大正の香りがして風情があった。浴室からは川面は見えなかったが千曲川岸壁が望め、その何処かに千曲川岸壁に建てられた布引観音堂があるはずと思いを巡らせた。

はりこし亭内部

敷地内には築200年という古民家を移築した食事処「はりこし亭」があり、蕎麦やお焼きを食べることが出来る。天井のむき出しになった梁組は我が山荘とは比べようもなく迫力があり見事なものであった。小諸には有名な蕎麦屋がいくつかあるが、ここの蕎麦も特段良くはないが、平均点は超えるものであった。日本画家の伊藤深水が好んだという名物「はりこし饅頭」は、あいにく当日は無く、代わりに北信州の有名店のお焼きが置いてあった。ちなみにネギ味噌のお焼きを食べたが、これはなかなか旨かった。
縁側の外には朝顔が簾がわりに植えられ、田舎の夏に来ている気分を満喫できた。
おそらく鶴川の白洲次郎邸も、今はこんな風情になっているのだろう、と思いを馳せた。
温泉に入って、お腹も満腹になると眠くなったので、そのまま帰ることにして、小諸から浅科村経由で望月町から白樺湖へ登るコースを走った。

浅科村は、佐久から望月町の間にある千曲川沿いの狭い鄙びた街道を走るのだが、それでもよろず屋や豆腐屋とか、蕎麦屋など昔からの店が街道沿いに残っている。
通るたびに気になっていた紫色の古びた電光看板が千曲川にかかる橋のたもとにあるが、今回も未だ残っていた。そこには「スナック遊子」と書いてある。あの「遊子悲しむ」からとったのだろうが、見るたびに、何とも言えない感慨を覚えるのである。
いつか一度は入ってみたい気がする。

イチボ肉500g

手作りルバーブジャムティ

その日は,イチボ肉500gを囲炉裏で焼いてみた。
昨日作ったルバーブジャムで食後のティーを。

小津安二郎の散歩道-蓼科プール平のこと

クリニックのスタッフの福利厚生で蓼科の山荘に行った。
ここは外せないと、蕎麦屋「しもさか」に行ったのだが、こだわりの店主は、11時半開店はきっかり11時半にならないと駐車場の門扉を開いてくれないので、時間調整に、少し離れたところにあるプール平に行ってみた。そこには、日本を代表する映画監督小津安二郎の別荘を2003年に、生誕100年記念事業として、移築して公開している「無芸荘」があるので、そこで時間を潰すことにしたのだ。しかし、あいにくここも閉館中で中には入れなかった。

プール平は、学生時代にインターンでお世話になっていた甲府の病院の別荘があり、その縁で、時々来ていた懐かしい所でもある。昔は蓼科と言えば、東急ハーベストクラブの別荘地とゴルフ場、蓼科湖、ローランサン美術館、そこからせいぜいホテルハイジ、滝の湯、プール平までであった。当時は、おそらくヴィーナスラインもここら辺りまでで、白樺湖は未だ今のように俗化された遊園地やホテルはなかったように思う。やがて5期20年に渡った吉村午良・元長野県知事の時代に、公用地を払い下げ、一大遊園地や観光施設が造られ、すっかり俗化されてしまった。俗化をリードした池の平ホテルの前には吉村元知事の顕彰碑が建っている。

小生は、高1の時に、霧ヶ峰の強清水から八島湿原を経て車山を超えて白樺湖に下りたテント行の経験がある。名古屋の少年達にとっては、初めての登山らしい経験で、日光キスゲが車山一面に咲く中を、重いリュックサックにヒーヒー言いながらも眼下に白樺湖が見えた時の感動は今でも忘れることは出来ない。テントを張った白樺湖畔には、当時は未だ湖の中に多くの白樺の木が立っていて、霧が立ち込めると、幻想的であった。
その体験が、やがて大学時代に山岳部に入る遠因になったように思う。

その思い出の地は、今は無残にぶち壊されている。政治というのは、つくづく大事だと思う。長野県は、やがて、その反省に立ってか田中康夫氏を知事に選んだが、革新県政も間もなく頓挫してしまう。その田中康夫氏も今や、大阪維新の会から参議院選に立候補する変貌ぶりである。

プール平には別荘族の温泉プールがあったのが、その呼び名の由来らしいが、かつては小津の「無芸荘」を始め、小津と脚本仲間であった野田高梧の「雲呼荘」や今村昌平、新藤華人、井上和男などの有名監督達、小津組と呼ばれた、笠智衆や佐田啓二ら往時の有名俳優達の山荘が散在していたという。
現在、古き良き時代の映画や蓼科を懐かしむ「催し」や、小津が野田と一緒に散歩した道が「小津安二郎の散歩道」として道標が立てられ、観光名所化されようとしている。
また雲呼荘に備えられていたノートが「蓼科日記 抄」として刊行され、小津の「早春」以降の「彼岸花」「浮き草」「秋日和」「秋刀魚の味」などの名作が生まれた背景が書かれていて興味深い。
蓼科では、小津は初めの頃は、野田の雲呼荘で共同生活をしていたらしく、野田の妻によれば、『二人は朝九時頃に起床、朝風呂。続いて朝食、二人で酒を3合。午後の一時ころまで昼寝、夕食を美味く食べるために昼食は取らない。それから2時間ほど散歩。夕方四時から六時まで仕事。夕飯は夜の八時まで。酒は二人で「ダイヤ菊」を5合。夜の十二時ころまで仕事」という生活であったという。
映画一本撮るのに2人で一升瓶100本が目安になったという。俳優笠智衆は、自らの回想録の中で、彼等の別荘を見て「なんやら、酒屋さんの裏みたいだなあ」と書いている。
まるで息子のように可愛がられた俳優の佐田啓二は蓼科の別荘からの帰路に自動車事故で亡くなったが、その子供である中井貴恵、中井貴一は蓼科を故郷のように馴染んだという。

「蓼科物語」という本には、生涯独身だった小津のダンディぶりと、多くの女優が引きも切らずに訪れていたという裏話を紹介している。小津が60歳で亡くなると、すぐに隠退してしまった永遠の処女「原節子」もその中の一人に違いあるまい。

無芸荘

 

小津の映画の特徴である、「美しさへのこだわり」、「本物へのこだわり」「同じテーマ、同じキャストにこだわる姿勢」から見ると、別荘にもそれなりの相当な美意識・こだわりがあるかと思うのだが、無芸荘を見てみると、入り口の部屋に囲炉裏が切ってはあるが、座敷も勝手場も風呂も、おそらく当時としても平凡な質素な造りであったように思う。
酒と女性と仕事があれば、もうそれで十分だったのかもしれない。

元々、小津の別荘は、蕎麦屋「しもさか」のすぐ近所にあったが、今は跡形もなく知る人もいないと、蕎麦屋の主人は言う。

「蓼科物語」の中では、戦後間もなくから1980年代の蓼科の様子、今は無き大きな温泉プールやレストラン「コックドール」を紹介しているが、その賑わいと現在との落差には誠に感慨深いものがある。
蓼科を訪れる観光客は、激減していて、この10年でも随分静かになった。観光業の人には申し訳ないが、静けさを求め、自然との触れ合いを求めて、たまに来る者には有難いことではある。

車山高原には、6月の全山が赤く燃える蓮華つつじ、7月は、山をヤマブキ色に覆うニッコウキスゲ、8月は、薄紫がシックなマツムシ草を始め多種多様な高山植物がある。

我が山荘でも、夜は漆黒の闇の中、星は降るように輝かくし、聞こえるのは風の音だけである。

コクーン歌舞伎[四谷怪談]-勘三郎から串田和美へのリレー

プログラム

プログラム

今年もコクーン歌舞伎の季節になり、渋谷コクーン歌舞伎第15弾『四谷怪談』が6月6日から始まったので観に行った。

そもそも「コクーン歌舞伎」は、演出家の串田和美によれば、1994年当時、Bunkamuraシアターコクーンの芸術監督をしていた串田のところへ、松竹から、この劇場で歌舞伎をやれないかという申し出があり、戸惑った彼は四国の金毘羅歌舞伎をやっていた中村勘九郎(故18代中村勘三郎)を訪ね、相談に行ったところ、勘九郎が後日シアターコクーンを見学に来て、その劇場の在り方にインスピレーションを感じ取って、即座に意気投合しコクーン歌舞伎が始まる手筈になったという。串田はシアターコクーンを、観客に開かれた劇空間にしたいと考えていて、一方、勘九郎は、金毘羅歌舞伎の復活に意欲を見せるなど、観客と一体化した江戸の歌舞伎のありようを模索していて、二人がこれからの演劇、歌舞伎の方向性で意見が合うのに時間はかからなかったようである。それに勘九郎の中村屋が歌舞伎の世界では、いわゆる宗家、名門ではなかった事が、彼の革新への情熱を支え、また長老たちとの軋轢も少なく、仕事もしやすかったのではないかと思われる。

配役

配役

コクーン歌舞伎は中村勘三郎が起こした新しい歌舞伎の試みであったことから、中村屋の歌舞伎役者を中心に、また串田が自由劇場の出身であることから笹野高史ら元自由劇場の俳優らが共演するのが慣例となっている。今回は中村扇雀を中心に中村獅童、中村勘九郎、中村七の助が主演クラスを演じている。

演目の「四谷怪談」は、言うまでもなく鶴屋南北作の歌舞伎狂言[東海道四谷怪談]を基に脚本化されたものであるが、コクーン歌舞伎では既に今までに2回上演されており、22年前のコクーン歌舞伎第一弾と10年前の第七弾では、共に演目は[東海道四谷怪談]となっている。第一弾は勘三郎が中心となって演出し、第7弾は勘三郎と串田が別々に脚本、演出を担当し、「北番」「南番」として日替わりにしてみせるという意欲的な試みが行われた。今回の第15弾では、勘三郎亡き後で、演目から東海道を取り、『四谷怪談』としている所にも串田の強い意欲が感じられるのである。

『東海道四谷怪談』は「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた異聞、外伝という体裁で書かれているが、元禄時代に、「於岩稲荷由来書上(お岩伝説)」を基に、不倫の男女が戸板にくぎ付けにされ神田川に流されたという当時の(1825年頃)話題や、砂村隠亡掘りに心中者の死体が流れ着いたという話をとりいれて書かれたものであるという。

「お岩稲荷由来書上」の内容は、貞亨年間(1680年間)、四谷左門町に民谷伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門が婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚し子供をもうけてしまい、そのことを知ったお岩は発狂して死んでしまう。(上役の妾が妊娠したので、伊右衛門に押し付けるために、お岩に毒薬を飲ませ、顔を変形させて別れさせようとしたという説もある)その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者は次々に死んで行き、18人が非業の死をとげ、民谷家滅亡後もその地に住んだ者には必ず奇怪な事件がおきたので妙行寺に稲荷を勧進し追善仏事を行ったら納まった、というのが大方のあらましであるが、「東海道四谷怪談」では、伊右衛門もお岩の実父も、その他の登場人物も多くが主家が切腹断絶された塩谷(浅野)の家来であるという設定で忠臣蔵外伝となっている。
原作は、「浅草境内」~「地獄宿」~「浅草田圃」、「浪宅」~「伊藤家」~「浪宅」、「隠亡掘」、「深川三角屋敷」、「夢」~「蛇山庵室」の5幕からなっている。
ともすれば舞台がお岩の恨みや悲しみに焦点が当てられ、場面でいえば「伊右衛門浪宅」で夫の伊右衛門に裏切られたと知ったお岩が、騙されて飲んだ毒薬のために凄まじい形相に変貌して死に至る場面が強調されがちで、反面、「深川三角屋敷」は脇筋であるとして上演が省かれがちなところであるが、串田は四谷怪談がお岩の恨みや伊右衛門の業悪さだけが強調されるべきではないと考えてか、今回の「四谷怪談」では基本的には原作通りに5幕すべてが入っている。
また通常は、お岩の妹・袖の夫の与茂七が伊右衛門を討って舅と義姉の仇討が成就する大詰めも、大勢の人物が地獄の業火の中に落下してゆく様を見せるなど意欲的な演出も目立ったが、一方、スーツ姿で鞄を持った数名の男性が、時に現れては舞台を右から左に歩き去る演出は、小生には難解であった。それは、プログラムの表紙の写真が、大勢のサラリーマンの中にスーツを着た主演クラスの役者たちが紛れ込んだものであることが、その答えのヒントに違いないと思うのだが、あるいは単純に、色と欲の煩悩が、伊右衛門という悪党だけのものではなく、ごく普通の一般市民もが共有するものであり、四谷怪談のような話も、実は日常どこにでもありうる話である、と言いたいのかもしれないが、それは観た者がそれぞれが答えを出せば良いということなのだろう。

小生は、今回初めて二階席という所を経験したが、さすがに舞台は遠く、セリフも声は聞こえはするが、単語の聞き取りが悪く、終始イライラする思いであった。
人気が高く一階席が取れなかったにせよ、二階席なら次回は御免だなあと正直思った。

しかし、中二階には立ち見の観客も大勢いて、小生は本当の演劇・歌舞伎フアンには程遠い観客であると改めて確信することになった。

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