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京都に夏が来る。・・・・近くて遠い所。

京都は誰に聞いても好きだという。
僕も好きである。
出来る事なら住みたいと思う。

しかし京都への思いは複雑多様である。

修学旅行で行った時は、絵葉書のまんまだなと思った。

大学時代に例のゴールデン街の悪友と行った時は、排他的で人を馬鹿にしながら、ちゃっかり商売をしている最悪の観光地だと思った。(先斗町でぼったくりバーに捕まった)

家族旅行で初めて俵屋に泊った時は、味噌汁が甘くて驚き、都の上品さを知った。(ちなみに私は三河の八丁味噌で育った)

それから数えきれない程、何度も行ったが、その時々の状況で思いは違い、千差万別である。

結局、今になって思うのは、要は京都は日本人(自分)の心の故郷、憧れであり、行けば必ず、不本意ながらも、どこか心を揺さぶられる所だと思う。

京都は空気も道端の石っころも違うのだろう。

パリに住んで、半年くらい経った時、パリの何でもない裏通りを歩いていて、何とも言えない郷愁を感じた事があった。

この気持ちは一体何だろうと、ふと考えた時、ああ、ここは京都なんだ、京都と同じ時空なんだ、と思ったものだ。

パリがそうであるように、京都も、路地裏からの、すべての佇まいが京都である。

 

むしろ有名な観光地ではなく、何でもない日常こそが京都であることが、京都の凄さであると思う。

口先でお世辞や綺麗事を言いながらも、先を読みながら巧みに生き抜いた2000年の歴史は半端であるはずが無い。

 

貴船の川床

京都は、京都の通人と遊ばないと面白くないと言われる。
京都は二面性の町であり、二重人格と言うか
多重世界を持っている。
観光客、一見の客として遊んでいるなら、いかにして金を巻き上げようかの対象でしかない。

群馬では見せない
顔です


一方内側に入れれば、これほど居心地が良く楽しめる大人の世界は無い。(らしい)
 
 

嵐山鵜飼い舟遊び


女性の立ち居振る舞いが美しいし、物事のことわりとわきまえ、たしなみを知っている大人の世界である。(様にみえる)

 
 

ここ2年程、縁あって祇園祭に行った。

山鉾の巡行も美しいが、宵山に町を練り歩きチマキを買うのもいい。

深夜までコンチキチンの鐘が響くが、いつの日かその鐘を、すだれ障子の風越しに、畳に横になりながらウトウトと遠くに聞きたいものである。(これは私の妄想です)

思い出の情景をいくつか載せます。(これは実写です)

チマキ

山鉾、四条御池の大曲、ホテル京都オ―クラから.

祇園祭宵山、スカルの帯です.

 

京都は僕にとっては大事な所です。

だから、行くからにはそれなりの・・・・・・。

何かが壊れてしまうのは怖いのです。

したがって僕の京都は近いけど遠いのです。

 

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