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高崎市タワー美術館

高崎駅東口を出ると日本一の家電量販店ヤマダ電機の本社ビルの威容が眩しい。

それに対峙するかのように高崎市タワー美術館があります。

 

ここは東京の広尾に移った山種美術館の系列で、基本的に山種の企画が巡回して来るので、日本美術では非常にハイレベルな展示をします。

[高崎市美術館に引き続き、またもや高崎市の文化度の高さを見直しました。]催事については垂れ幕が下がっており、遠くからもよく分かります。

6月30日から9月30日までは陶芸家の濱田庄司展をやっていました。

近いからいつでも行けると思うと、結局見逃すものですが、今回はぎりぎりの日曜の夕方に行きました。

招待券を持参したのですが、受け付けに65歳以上は無料とあり、これからは出入り自由と分かり、高崎市はやはり偉いと感じ入りました。

東京都も都民の税金で尖閣列島なんか買おうとするのではなく、税の余力(取り過ぎ]があるなら広く都民の文化の普及に使って欲しいものです。

知事の個人的な政治的信条に都民の税金を使うなんて、公私混同も甚だしくないか、やるんなら個人のお金でやれば、「どうぞお好きにすれば」、の話で済みますが。こんな(傲慢)体質だから、裏取引で身内への利益誘導を疑われても[週刊朝日9月21日号]仕方ないだろう。

前の東京オリンピック誘致活動費の疑惑もあったし。

最も個人心理学の創始者アドラーによれば、善い悪い、好き嫌いは決定論的に初めに自分の心のなかでは決めてあり、理由は後から都合のよい事を見つけて理屈を付けているだけだという。

そうとすれば、私はただ単に、石原親子が嫌いなだけになるが、それはそれで、外れてはいない、虫が好かないのは事実だからだ。

一方、濱田庄司は理屈抜きで好きで、益子の益子参考館、駒場の日本民芸館、倉敷民芸館、などに足を運んでいます。

10年以上前に栃木県立美術館でも特別企画があり,見に行った記憶があります。

その折、駅から向かうバスで財布を落とした悔しい思い出もあります。

濱田庄司から僕が連想する言葉は、益子、流し描き、サトウキビの絵付け、茅葺き屋根の古民家、民芸、柳宗悦、河井寛次朗、バーナードリーチ、英国スリップウエア、田舎者を思わせる風貌と丸メガネにもんぺ姿、実はダンディなモダニスト、新宿の「とんかつや」、飛騨高山の料理店「寿々や」といったところでしょうか。

京都の河井寛次朗記念館

 

最近、色んなテレビ番組に出て、やたら何にでも詳しく、したり顔でだみ声で解説してみせる、(悪意で見れば、薄い知識を台本の付け焼刃で100倍にも膨らまして見せる)山田某0朗氏の様にはなりたくないので、解説本やネットで調べたような蘊蓄は述べませんが、濱田庄司に関わる個人的な思いをお話します。

まず今回の展示ですが、あの色んな意味で有名になった安宅コレクションを元に作った大阪東洋陶磁器美術館の中の堀尾幹雄コレクションを中心に展示されているものでした。

という訳で、コレクションの主体が茶碗であり、濱田らしい豪快な大皿は余りありませんでした。

濱田窯の作品(私物)

 

日本民芸館でいつも圧倒される、あの不思議なエネルギーをもらうには少々迫力不足であったというのが正直なところです。

それでも大判の角皿は目を見張る作品が幾つも並んでいました。

濱田の作品は,指描き、流描きに代表される、感覚だけで一気に絵付けをする豪快さにあるように見え、それがまた大きな魅力でもありますが、実は彼は現東工大出のインテリで特に釉薬にかけては化学的な研究に基づいた緻密な計算があるといわれています。

そのせいか、彼の作品は細部まできちんと計算された彼らしいprincipleが手を抜くことなく表れています。

英語が達者で、バーナードリーチと英国での作陶やスリップウエアの研究、民芸の国際展での活動でも知られています。

?宗悦の民芸運動は白樺派のお金持ちの道楽のようにも見えますが、柳の選んだ作品は、悔しくとも、どれもが共通して僕の心を打つものがあります。

小鹿田焼き(私物)

心のどこの琴線に触れるのか分かりませんが、好きで持っている沖縄の壺屋焼きも、いつか出雲の玉造温泉に行った時、タクシーの窓から偶然見つけて飛び込んだ温泉窯の陶器も、それが民芸に関わるものであることを知ったのはかなり後になってからのことでした。

壺や焼き(私物)

壺屋焼き扁壺金城作(私物)

温泉焼(私物)

 

沖縄の紅方も静岡の芹沢銈輔の染色も同様です。

学生時代に、美術大学の助手をしていた女友達が連れて行ってくれた新宿靖国通り沿いの歌舞伎町の入り口にあった、とんかつ屋(名前は忘れました。]の器が全部益子焼でインテリアも装飾品も民芸調のもの(今思えば濱田の大皿があったかも)で、初めて民芸というものに触れた感動は後々まで私の美的感覚に大きな影響を与えました。

同じ頃、飛騨高山の近くに親の小さな山荘があったこともあり、夏休みになると高山まで遊びに行ったものですが、そこで見つけた郷土料理店「寿々や」は正に民芸を飛騨高山風に洗練させた雰囲気の店で、高山ならではの料理も良かったが、そこの若女将(お嬢さん)が、嵯峨美智子(最近亡くなった山田五十鈴の娘で、若くして夭折した)の妖艶さと吉永小百合の気品を(すみません、良い例えが浮かびません、僕より古い人は原節子という所でしょうが)合わせたような和服の似合う超絶美人で、その雰囲気に触れたくて毎年よく通いました。(彼女は、その後の私の人生における、女性の理想像の一つのモデルになりました。)

ところがある年の夏、彼女が忽然と消えてしまいました。

私は傷心の果て、それ以降は足が遠のいてしまいましたが、後日談として、彼女は東京青山の骨董通りの古美術商に見染められ結婚したと聞きました。

そのまた後日談として、10年ほど前、骨董通りのその店Mを探しあて、知らぬ顔して訪れた事があります。

その結果は?今ここでお話する勇気はありません。

古より万人が言うとうりで、やはり行かなければ良かった、、、。

なお高山には同名の店は現存しますが、全く非なるものです。[寿々やさん、ごめんなさい]。

濱田庄司から青二才の恋心へと、なぜ話が繋がるんだと、いぶかる方もおられるでしょうが、青春時代とは脈絡に論理性は欠けるものだとお許し願いたい。

最後に弟子であった島岡達三のエッセイから。

島岡は、今は人間国宝になった陶芸家ですが、濱田曰く「島岡は結果が見え過ぎて安全な道ばかり選びすぎる。もっと冒険をしなければ行けない。」「どんな良い陶工になるかと思ったが案外だったな」「陶工の中で人柄も良く作る物も素晴らしいのが最上で、とても嫌な奴だが良いものを作ると言うのが二番目で、人柄は良いが作品はどうもというのが続き、最低は人も作品も駄目ということになる。島岡は何番目かな」と言われたそうである。

若い形成外科医の諸君には肝に銘じてほしいものです。

私自身は一番目だろうと妄想していますが、巷では二番目か四番目という噂らしい。

最も、二番目というのも私の幻聴かも知れません。

濱田は文化勲章をもらった誰もが認める陶芸家、芸術家ですが、好んで陶工と呼ぶ所に、その人間性、心意気が伝わってきます。

彼は美のモダニストとも「生活そのものが芸術」であったと呼ばれるような、私から見れば自律機能をフル回転させた理想的な人生を送りました。

因みに、私はバーナードリーチの繊細な哲学的で詩人の様な作品も、劣らず大好きです。

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