大寒も過ぎ、間もなく梅の便りも聞こえようかという時期になり、
今さらで恐縮ですが、我が家のお正月の話をします。
遅くなりましたが、皆様、新年明けましておめでとうございます。
皆様も良いお正月をお迎えたことと思います。
本年もどうぞよろしくお願い致します。
今年の我が家の正月は、十数年ぶりに親子水入らずで過ごしました。
息子は大学生になってからは、毎年正月はバックパッカーで外国旅行に行くようになり、以来家にいたことがなかったのですが、なぜか今年は家に居り、かつ昨年は家族を一人連れてきたので今年は4人での正月になりました。
家人と二人の正月ですと、家人の神経細胞の脱分極が徐々に進み、
いずれ数日で閾値に達し、アクションポテンシャルとなり私に刺激(攻撃)が伝わってくるのですが、今年はうまくすれば避けられるかも、と期待が高まりました。
といっても別段例年より、きばってしたわけでもなく、例年と同じ様に、
ちょっとだけ正月モードにしただけです。
玄関のタイの壺にしめ飾りをかけ、門扉にはミニ門松を括りつけました。
おせちは頑張るときは全部作ったりしたこともありましたが、
最近は年のせいか必要最小限で済ますようになってきました。
今年は家人がこれだけは、と言って作ったものが数点のみで、
小生は姫リンゴのコンポートだけの担当でした。
お重は、出来合いのSサイズを買って済ませました。
一応金沢の有名店のものでしたが、見てくれだけでダメでしたね。
若い頃は、よく食べ歩いていたので、あちこちの料理屋のおせちを予約したものです。
一番印象深いのは、赤坂にあった京料理‘高橋’のおせちです。
もう20年近く前になろうかと思いますが、当時東京には、京都の板前割烹の元祖‘たん熊’育ちの料理人が3人おり、新橋の京味、赤坂の京富士と高橋の名前でやっていました。
京味の西氏が大先輩格で、今やミシュランの☆を超える店として、
予約の取れない超有名店になってしまいました。
京富士は銀座に移り、高橋は消えてしまいました。
高橋は、当時の人気テレビ番組,“料理の鉄人“で和の鉄人を破りましたが、驕ることもなく、格安の値段で淡々と正統京料理を作っていましたね。(ただし、何故か京都だけは二度と戻りたくないと始終言っていましたが。)
気まぐれで、六本木に五合庵という蕎麦屋を出店し上手くいき、蕎麦屋は儲かるし面白いといって、どこよりも料理のうまい粋な蕎麦屋を二人で出そうかと、話が弾み煮詰まってきた時に、突然に文字通り蒸発して消えてしまいました。
それからは京味のおせちをしばらく買っていましたが、京味フアンの方には申し上げにくいが、ことおせちに関しては、高橋が数等優っていましたよ。(桐製のお重は京味の方が粋でしたが、仕事はどだい迫力が違いましたね。)
31日におせちを店に取りに行くと、高橋氏は、暖房を切って冷蔵庫代わりにした店で、小上がりに、精根尽き果てて、ダウンを着たままで、ぶっ倒れていたものです。
当時の職人は気概がありましたねえ。
どんな事情があって突然消えたのかは知らないけど、命あるなら、もうそろそろ出ておいでよ。
なんなら群馬にかくまってあげるから、またあの料理を食べさせてよ。
確かに群馬県人には、あなたの味は分かってもらえないかもしれないけど、何事も時間だから、そのうちには群馬人の味覚も育つと思いますよ。
なんせ伝説の寿司職人、喜久好の清水喜久雄氏は群馬の出身と言っていましたから、捨てたものではないかもです。
さて、正月の3,4日に、息子夫婦の提案で急に温泉に行くことになり、
那須の大丸温泉に四人で行きました。
自分たちは暮れの一週間を沖縄で過ごしてきたので、気が引けたのかも知れませんが、親は子供孝行のつもりで付き合いましたよ。
急なことで、4人で一部屋の、まるで学生の合宿のような旅行になりました。
料理は山宿のこと故、見るべきものはありませんでしたが、そこかしこに料理人の頑張りが見えて、いじらしくも微笑ましい味わいあるものでした。
温泉は、川が温泉になっており、又は、温泉が川になっており、それをせき止めて露天風呂にしてある文句なしのかけ流しで、お湯は硫黄ではなく単純泉の軟泉で、雪の中でも温まる湯加減も最高のお湯でした。
食事が済むと、布団があちこちを向いて敷かれていてびっくりしましたが、かろうじて残された炬燵で、風呂上がりに、持参した生ハムとチーズとワインで、ささやかな二次会をやり、親子の親睦はいやでも深まり、実にいい旅行になりました。
帰りは雪が降りしきる山道でしたが、買い替えたばかりのカイエンのスタッドレスは頼もしく、老兵は育爺(イクジイ)を夢見つつ、徒に助手席でただ惰眠をむさぼるばかりでした。