ぶんか村シアタアーコクーンで、演劇集団“阿佐ヶ谷スパイダース”が、長塚圭史の演出で『あかいくらやみー天狗党幻譚』を公演したので、観劇に行った。文化村は久しぶり、約一年ぶりの訪問である。
主演が小栗旬なせいか若い女性ファンが多く、チケットが手に入りにくいとの下馬評であったが、たまたま、出演の中堅所の俳優さんが家人のクリニックの患者さんで、よい席を手配して下さったので、群馬の銘酒“水芭蕉”と、おつなさんの稲荷ずしを手土産に出かけた。
おつな寿司は、2月に本多劇場に行った時の差し入れで評判がよかったので、今回もわざわざ当日、六本木まで買いに行った。
難解な芝居であった。
筋が追えないのである。
天狗党事件という日本史で聞いたことがある、という程度にしか知らない事件をテーマに、時相が現代とも交互しながら進むのでストーリーが追えないのである。
原典が山田風太郎の『摩群の通過』だから、前もって読んでおくといいとアドバイスを受けていたが、あいにく本屋に欠本で予習しないで行ったのがまずかったのだろう。
幕末の維新の頃の出来事であり、大河ドラマの八重の桜にも通ずる話である。
水戸藩の尊王攘夷派が天狗党を結成し決起したのだが、賊軍扱いされ、揚句の果てに、頼みにした尊王の筆頭、徳川慶喜が天狗党討伐軍の大将になるなど、失意、絶望の内に京都に向かうのであるが、途中で捕まり全員が斬首されるという悲劇的事件の顛末が、上洛途中に立ち寄ったという群馬、伊香保温泉の旅館を中心にドタバタと展開するのである。
作者が何が言いたかったかは分かりませんでしたが、僕が感じたことは以下のようなことでした。
まずは、世の中、時代を問わず、生きていく上で、理不尽な裏切り行為はつきものであるという事。
下が上を裏切る、上が下を裏切る。仲間が仲間を裏切ることは、事情は一方的で単純では無いにしても、理不尽な裏切りは、いつでもどこにでも確実に存在する。
実は生きていくうえで、これが一番こたえるのである。
次は、組織というものは、特に鉄の団結を誓ったような組織は、運動の目的の正当性、合目性を失っても、動きだした運動は止められない習性を持つものだという事。
全滅と分かっていても、突き進んでいくしかなくなるという恐ろしい習性です。
第二次大戦の日本軍のインパール、ノモンハン戦線を始め、多くの戦場が、兵隊の命より、軍上層部が自分達の戦略的失敗、無能さを隠すためもあってか、絶望的な戦争を全滅するまで続けた訳ですし、僕がかすかに経験した60?70年代にかけての学生運動でも、もはや何の展望もないのに、最後の決戦をやるわけです。
ただし組織の上層部は、組織の温存を図る為と言い、自分たちは突撃はせず身を隠すのです。
軍隊も他の権力組織も同じようなもので、洋の東西を問わず、きっと古の昔から権力志向の強い人間の行動パターンは決まっているのです。
権力者達は、常に自分たちは安全地帯にいるものです。突撃は最後尾で、撤退は先頭に立つのが彼らの習性なのです。
そして今、憲法を変えようなんて連中も、自分たちはどう転んでも安全地帯にいることを前提にしているのです。
私達は、安全地帯を持たない者として、また安全地帯は決して与えられない運命にある者として、物事を判断しなければ、とんでもない目に合うことは必定ですよ。
昨日(2013.6.16)テレビ朝日で、国から見事に捨てられた沖縄の僻村のドキュメンタリー(ごく小さな、四方を米軍基地で囲まれた村の村民がオスプレーのヘリポート反対で座り込みをしたら、子供までが、道交法違反で国から訴えられた。)をやっていましたが、それが明日のわが身でないという保証は何処にもないという事です。