この頃急に春めいて来て、風も少々艶めかしい匂いになったので、誘われるかのように外に出て、近所のオーバカナルへランチに行ってみました。
紀尾井の森を通り抜けていくのですが、森には、まださすがに新緑の気配はありませんが、スミレのようなお花畑があり、びっくりしました。また別の一群には里山でよく見るカタクリの花のような花も咲いていました。
都会のど真ん中で、、、自然の力はやはり、偉大です。
オーバカナルの前には清水谷公園がありますので、ちょっと覗いてみると、春を告げる花々があちらこちらに咲いていて、日曜日ということもあって、春の日差しを楽しむ人々が三々五々散策をしていました。
オーバカナルもテラス席は満席で、昼間からワインを飲む人も多く、道端にはマセラティやカマロのオープンカーも停まっていたりして、なかなかいい雰囲気を出していました。今頃は、きっと絵画館前の銀杏並木にあるセランも同じように自慢の車が横付けにされているんだろうなと、ちょっと懐かしく思い出されました。
都市会館ホールの脇道が梅見坂公園で、こちらにも足を伸ばすと、名前のように、最期の梅や枝垂れ桜が一部咲きで見られました。
東京には自然が無いと思いがちですが、ちょっとした緑でもよく観察すれば、いろんな季節が見えるものです。冬に葉が落ちれば、もう新芽は出ていますし、ましてや春になれば、新芽のエネルギーに満ち溢れてきます。
新緑の森に入ると息が詰まるような、エネルギーに圧倒されますが、そんな体験も都内でも十分に味わうことはできます。
この辺りですと、神宮外苑は無論のこと、明治神宮の参道も根津美術館も恰好の場所です。
もちろん大自然の森とは違いますが、全く手つかずではないという魅力もあるものです。野性味に変えて、ちょっと洗練された手の入った自然も魅力的です。
素材勝負の田舎の美人より、多少美貌は劣っても、垢抜けた感じの都会の女性が素敵に感じるのと同じかもしれませんね。
そういう意味では、目黒の自然教育園は、武蔵野の百姓女が頬かむりを取っただけのような自然がしっかり残されている唯一の森かもしれませんね。(例えが適当ではなく、陳謝します。)
そうこうしているうちに、春本番になり、すぐに五月の連休が来て、また蓼科の小屋開きに行くことになりますが、数年に渡りブログを書いていると、「そのことは、ついこの前に書いたのに、もう一年たったのか」と本当に驚きます。
いつも思うのですが、神様は、何故人間には植物のように、新緑から紅葉へ、そしてまた新緑へという短い循環を寿命の中に入れてくれなかったのでしょうか。
毎年とは言いませんが、人生に何度かの春と夏をくれれば、なんと人生は楽しいことだろうかと思います。
時空というモノが、一方向で不可逆的であるのは、神が人間に与えたお仕置きなのでしょうか。それとも人間には哲学が必要不可欠とお考えになった結果なのでしょうか。