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井上ひさしの遺言の反戦劇、「父と暮らせば」

父と暮らせばポスター

父と暮らせばポスター

 注目された70年談話は、取り巻き官僚と、太鼓持ち御用有識者が作り上げた、安倍首相の意向を取り入れたが、かと言って揚げ足を取られぬよう露骨ではなく、いかようにでも解釈できる、言ってみれば誰もが否定しにくい主語のない一般論にして、美辞麗句で飾りたてて述べるに留まり、アジア、欧米、我が国の国民にも等しく心に響かない空虚なものになった。
一方、翌日の戦没者追悼式において、天皇は、「より深い反省」「国民の平和の存続の希望」を明記する言葉を述べられ、世界に政府とのバランスを発信された。

 NHKの人気番組「ひょっこりひょうたん島」でメジャーデビューした、作家の井上ひさしは、1962年に取材で広島を訪れ、原爆の惨状に衝撃を受け反戦の固い決意を示すべく、いわば『喪の仕事』として三つの戯曲を残している。一つは1994年に、広島の原爆を扱った「父と暮らせば」を、2013年には、沖縄の地上戦を扱った「木の上の軍隊」を作り、そして三つ目の作品が,井上の遺志を継いだ山田洋次監督によって長崎の被爆を扱った映画『母と暮らせば』となってこの12月には放映される予定になっている。
これらは、井上の「戦後命の3部作」といわれ、井上の確固たる反核、反戦への使命感から出来上がったものである。井上自身が完成させた戯曲は「父と暮らせば』一作であり、後は病気に倒れて未完であった「木の上の軍隊」を、井上の遺志を継いだ蓬莱竜太が脚本にし、栗山民也演出で作り上げた。(2015.1.7.CASA=AF参照

 そして、井上と交流のあった映画監督の山田洋次が、井上の遺志を汲んで、長崎の原爆を扱った『母と暮らせば』を作ったのである。

 父と暮らせば」は初演が1994年で、こまつ座がいわば劇団の使命感で今日まで再演を続けている看板演目である。娘、美津江役も‘すまいけい‘、斎藤とも子、西尾マリ、今回の栗田桃子と変わってきている。

 井上は存命中は、再演を繰り返すたびに毎回、「原爆とは人類にとって何であるか」を問い、「生きること」を伝える「前口上」を述べたと言うが、今は初演の際の井上の挨拶がプログラムthe座84号に掲載されている。

こまつ座雑誌、the座84号

こまつ座雑誌、the座84号

あの時の被災者たちは、核の存在から逃れることの出来ない
二十世紀後半の世界中の人間を代表して、
地獄の火で焼かれたのだ。
だから被害者意識からではなく、
世界54億の人間の一人として、
あの地獄を知っていながら、
「知らないふり」をすることは、
何にもまして罪深いことだと考えるから
書くのである。
おそらく私の一生は、
ヒロシマとナガサキを書き終えた時に
終わるだろう。
この作品はそのシリーズの第一作である。
どうかご覧になって下さい。       

             井上ひさし

 

 物語は,広島の原爆で父親を亡くした一人娘が、多くの肉親、友人が死んでいく中で、自分一人が生き残った自責の念があるところに、恋愛をし、結婚しようとしている自分を、自分だけが幸せになっていいのかとの罪悪感にさいなまれるのであるが、それに対して、父親が霊になって現れ、「そうではない、残ったものは幸せになっていいのだ。」と娘のもう一つの心理を代弁、弁護する形で進行する。二人の会話の中で、実際の被爆者の声を基にした原爆の残酷さ、被災者の悲惨さが、二人の葛藤と共に語られていく。

井上は「こまつ座通信」「the座」の中で繰り返し、一般市民の目線から戦争の悲惨さ、人間の理不尽さを説き、反戦の思想を語り続けている。

 この作品を書くに至った動機について、このように言っている。

一つは昭和天皇が「原爆投下は、広島市民には気の毒であったがやむを得ないことであった(1975年10月31日)。」といった一言と、中曽根康弘首相が、広島の原爆養護老人ホームを訪ねた際、「病は気から、根性さえしっかりしていれば病気は逃げて行く(1983年8月6日]。」と語ったことに切れて、これはどうしても書かなければと思ったからだという。

 被爆者達は一瞬にして世界が割れるような爆風と数千度に及ぶ高熱を体験し、たとえ熱傷による生命の危機から脱しても、次いで吐き気、出血、口内炎に襲われ、ここも乗り切れば2,3週目で脱毛、貧血、白血球減少が始まり、3年目で白内障、6年目で白血病がピークになり、その後も繰り返すケロイドの潰瘍形成と痂皮化、全身のどうしようもないだるさと疼痛に襲われ、70年後の現在でも原爆症後遺症で亡くなっていく人は絶えることはない。最初だけではなく何度となく繰り返して襲う苦痛と絶望感は、まさに生き地獄のように映り、原爆投下の非人間性を憎み、糾弾している。

 そして原爆投下のカラクリについても言及している。
 1945年7月17日に米、英、ソ連がポツダムで終戦協議をした際、日本では宮廷グループが終戦の意向で動いていることを察知したアメリカは、終戦を先送りする為に、日本が受諾できないように天皇の身分保障については触れないように工作をした。
 なぜなら、前日にニューメキシコ州のアラモコードの砂漠で核実験に成功したアメリカは、原爆を日本に実際に投下して原爆の威力を世界に誇示し、戦後交渉を有利に運ぼうとしたからである。片やソ連も終戦前に日本に参戦しておきたかったので利害が一致したのである。
 そして7月26日にポツダム宣言が発せられると、「天皇の身分保障が無い。」と、日本の戦争指導者達は、まんまとその策略に乗り、黙殺することで原爆投下の時間的余裕を与えてしまったのである。

 日本の戦争指導者にとって国家とは、「天皇の赤子」と呼んだ一般国民では決してなく、天皇と軍であった。その証拠に日本軍は、戦禍になると一般国民を盾にして我先にと退却した事実はあっても(沖縄の地上戦、満州のソ連侵攻から敗戦撤退時、富山大空襲時の軍の動きなどの例がある。)、軍が目の前の国民を守ろうとした歴史的事実はない。
 権力が守るのは、権力と権力の構成員であって、決して一般国民ではないことは忘れてはならない重要な歴史的教訓である。

 また、国家、国家と叫ぶ者ほど利己的であることを示す事例にも枚挙の暇もないが、
 そこから学べば、現在の政府及びその取り巻き連中も同類である可能性は高い。
 くしくも70年談話では安倍首相も歴史から学ぶべきだと言っているではないか。

 本当に歴史から学ぶとするなら、全国の子供たちに、広島か長崎を見学することを義務教育の一環として義務付けたらどうか。日本の反核のメッセージとしてこれほどアッピールするものもないだろうと思うが。

 井上がこの芝居でいわんとするところは、被爆者の切ない言葉を世界中に広めなければ、というメッセージであり、同時に国家や時の政治指導者という権力者は、いざという時には、いかに国民をナイガシロにするか、というメッセージである。
それら権力者から自らを守るためには一般国民は、「記憶せよ。抗議せよ。そして生き延びよ。」(イギリスの歴史学者エドワード・トムソンの言葉から)を実行するしかないと言っている。

 そして私は思う。
 戦争は、生き残ることが不正義であり、生き続けることが卑怯であると自責するように仕向ける。
 「生きる」という、人間としての究極の最低限の権利、尊厳すら否定する社会が正義であるはずはない。
 従ってそんな戦争を可能にする社会が正義でないことは自明のことなのだ。

 

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