国道246号線青山通りと骨董通り、それに通称ブティック通りと根津美術館通りに囲まれた南青山の一角及びその周辺が最近大きく変わろうとしている。
僕は、なぜかこの界隈には昔からなじみが深いが、東京オリンピックの翌年に田舎から上京したので、さすがに都電が青山通りを走っているのは見たことはないが、未だ道路工事などでその余韻が多く残っていたのは覚えている。
青山通りの北側には、当時としては珍しく深夜までやっていたことで有名なユアーズというスーパーマーケットがあった。お店の前にコンクリートに刻印された有名人の足形が置いてあり、店では有名な芸能人も良く見かけた。青山ケンネルは当時から今でもあるが、国連大学や子供の城は無論相当後のことである。
1970年頃には表参道との交差点にはアンデルセンという広島の製パン会社のアンテナショップが出来、一階のパン屋は、今では地方でも普通になった、店内でパンを焼いて店頭に並べトレイで客がとるというスタイルのはしりではなかったかと思う。二階は、北欧料理と称して、ビーフシチューにきし麺のようなヌードルが付いたものや、スモークサーモンのオープンサンドなど当時としては随分お洒落なものを出していた。
ちなみにここは、田舎少年であった僕にとっては特別なハレの食事の場であった。アンデルセンは今でも営業しているが、何の変哲もない軽食喫茶のような業態になっていて、昔を知る者には隔世の感がある。
神戸のドンクがバゲットを売り出したのもこの界隈であった。当時はフランスパンと言って珍しく、包装紙のデザインもお洒落で随分と人気があった。丁度ヴァンジャケットの紙袋が人気があったように、当時はお洒落アイテムが絶対的に少なかったのだろう。
このころから原宿は若者の街になった。それまでの原宿は、大人たちのお忍びの遊び場であったように思う。コ―ポオリンピアの一階にある割烹では「重よし」などは当時の面影を残している。
しばらくして洋服のワールドがスパイラルビルを建てた。地下にCAYというタイ料理屋が出来、舞台ではタイの民族舞踊ショーを見せていた。生春巻きやトムヤムクン、パクチーの入ったパッタイ、グリーンカレーなど初めて体験するスタイリッシュで本格的なタイ料理屋であり、エスニック料理ブームの幕開けであったように思う。今でもCAYはあるが、個性のない洋風居酒屋のようになっている。2階は展示ホールとセンスのいい雑貨やになっているので、小物好きにはお薦めである。
表参道が青山通りを突っ切って根津美術館に向かう通りをブティック通りと、いつから言うようになったかは知らないが、1970年代半ば頃にはフロムファーストビルが出来、三宅イッセイやケンゾーの店が入った。もう無くなったがアルファキュービックというブランドは当時は大層人気があった。BARBASというメンズブランドが僕のお気に入りで、それを機にして僕はイタリア好き小僧のデビューを果たしたが、ここも10年位で店を閉めた。地下にはポアソンルージュというフレンチや、名前は忘れたが当時格式が高いことでで有名だったリストランテがあり、近くのヨックモックやフィガロに人が集まりだした。10年後には安藤忠雄設計のコレッチオーネが出来ると、周辺の道路の両側に中小のブランドの路面店が並ぶようになった。コレッチオーネはどのテナントも永続きせず、頻繁に入れ替わった。今はスペース貸しをしているようである。
その後青山通りの近くにコムデギャルソンやプラダ、ミュウミュウ、カルティエが出来るとまぎれもなく一流のブティック通りになった。するとこの通りと骨董通りを結ぶ狭い道沿いにイタリアンのレストランヒロや洋書の島田書店、眼鏡のアランミクリなど様々な業種の店が並び始めた。
そのうちに、どういう訳か、あのあか抜けない、三河が本社のトヨタがブティック通りにレクサスカフェショップを出した。
今はCICADAを中心にCity shopをはじめ、お洒落なレストランやファッションや雑貨のセレクトショップで溢れるようになった。
意外なことにこの一画に福井県のアンテナショップがある。その隣には三国の、超有名な越前かに料理の望洋楼がある。小生は未だ未体験であるが、動けるうちに一度は泊りに行きたいと思っている海に突き出た料理旅館の出店である。
今は更に墓地下通り(外苑西通り)に向けて広がりつつあるようであるが、和菓子の紅谷を入ったところにバーサードラジオが出来たのは1990年代後半くらいかと思う。さらに3丁目寄りの路地には個性的なオヤジがいた居酒屋「岡田」があり、ここには似つかわしくない青学の美人JDがいつも数名バイトをしていた。店がはねると皆と一緒に藤村俊二がやっていたワインバー「おひょい」にいったものであった。ここは今でも営業しているが、亭主が故人になり、昔の勢いはない。
この界隈には今こそワインバーが幾つもあるが、昔は居酒屋や飲み屋の類は他にはなかった。しかし不思議なことに東京で初めてスナックというものが出来たのはこの地であった。そこには当時の人気深夜番組11PMが終わると松岡きっこが良く顔を出していた。
最近ではパイナップルケーキのサニーヒルズが出来、隈研吾の独特の建築も手伝って人気になっている。実はここでの試食はケーキの丸ごとがお茶と一緒に無料で供されるのである。(ただし食べ逃げは、品位に欠けますよ)
ノリピー事件で話題になったスキーのジローの奥には三ツ星カンテサンスのスーシェフが開いた人気のフレンチ、フロリレージュがあったが、今は移転した。
この南青山辺りはお店の浮沈も激しく、知らぬ間に消える店があれば突然湧き出でる店も多い。
南青山のこの界隈は、銀座でも六本木でも麻布でもない、また原宿、表参道でもない独特などこにもない特有な雰囲気がある。健康的で健全な感じの(毒にも薬にもならないような)若者が集まる、猥雑さや淫靡さの微塵もない湿度の低い都会の仮想空間とでもいうのだろうか、大人の高級ブランド志向ではないがお洒落が好きで、伊勢丹では飽き足らない、ちょっと知的でモード好きな都会的な男の子、女の子が集まっている街とでも言えようか。
最近はご多分にもれずアジア系外国人も見かけるようになったが、そこにチョイワル系の中年男もヤンジー系の老人もうまく溶け込んでいる街といえば、自嘲的に自画自賛するにしてもほめ過ぎだろうか。