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八ヶ岳横断ドライヴといくつかの新しい体験―二回目の夏休み雑記

お盆休みの夏休み第二弾で再び蓼科の山荘に行った。
この期間は、どの別荘にも人が来ており、何となく落ち着きが悪いので、昼間は外出することが多い。そんな過ごし方を20年来していると、もうこの界隈では行くところは行き尽くした感があり、目新しいところはなくなってきた。
そこで地図とにらめっこして、残った穴場を探して何か所かを新規開拓した。
一つは北八ヶ岳連峰を超えて佐久側にある「八千穂高原」に行って、そのまま八千穂町に出て国道141号線を南下して八ヶ岳南端の権現岳山麓を回って帰るというコースである。

蓼科側から佐久側に行くには、北八ヶ岳連峰の茶臼山と高見石の間にある麦草峠を越えて茅野から八千穂町に至る広大な八ヶ岳のすそ野を横断する国道299号線(通称メルヘン街道)を行くのである。峠は標高2000メートルを超える難所である、と言いたいところであるが、道路は2車線のよく整備された舗装道路である。
かつては、当然のことながら、人々がいろんな思いを抱きながら、息を切らせて越えた峠道である。商業の重要なルートであったであろうし、戦国時代には佐久と諏訪の争いの軍用道路にもなったであろう重要な街道である。
私が学生の頃、およそ半世紀前になるが、麦草峠は北八ヶ岳の稜線に出る登山の重要な要所であり、そこにある麦草ヒュッテは多くの登山者のメッカでもあった。
丁度、八ヶ岳本峰縦走の起点となる硫黄岳と根石岳の間にある夏沢峠のようなものである。

余談になるが、私は学生時代の教養課程の2年間の夏休みに、夏沢峠にある山彦山荘の小屋番のアルバイトをしたことがあった。夏山の登山者のガイドと宿泊者の食事の面倒を見たのである。
午後の暇な時間は、峠近くの原生林の枯れ木を伐採して薪割りをした。秋冬の準備をしたのである。私は未だ二十歳前の、アイデンディティを求めて深い昏迷の時期であり、斧を振るう肉体労働が心地よく楽しかった。ふと見上げれば、真っ青な空に入道雲が湧き上がったのを今でも鮮烈に覚えている。

それから10年後には、舗装はされていないが、何とか車が通れる道が開通した。当時、兄の日産ローレルを借りて峠を越えた記憶がある。その時は峠で引き返したか、どこかに抜けたかは記憶にないので、今のように佐久側に開通していたかは定かではない。
今のような舗装2車線の立派な国道になったのがいつのことかは知らないが、現在は蓼科中央高原から峠まではほんの数十分である。
従って、小生が蓼科に小屋を持つようになってからは幾度となく麦草峠には遊びに来た。麦草峠の近くに風光明媚で人気の高い白駒池があり、峠は観光客で溢れてはいるが、一歩道を外れれば、シラビソの原生林やハイ松に高山植物のお花畑があり、そこはまさしく山なのであり、お握りでも持って来れば、いっぱしの登山気分が味わえるのである。

数年前には麦草峠を越えて、佐久側の松原湖に出たことがあった。途中で稲子湯によって入ったが、本澤温泉と同様に鉄分の多い湯でタオルが瞬く間に茶色になった。
4,50年前は、小海線松原湖駅から本澤温泉まで歩き、そこで一泊して硫黄岳、赤岳に登るのが最もポピュラーな登山ルートであった。

私がバイトをしていた夏沢峠の山彦山荘は本澤温泉の経営であったから、週に一度は温泉に入りに下山するのが許されており、その夜は温泉と焼酎の宴会が楽しみであった。8月も終わりになると、山では大きなツガマツタケが採れるのも楽しみであった。もっとも自分で採れるものでもなく、当時、温泉で雑用をしていた発話障害のある使用人の男のみが知る秘密の場所があるとのことであった。当主は熊の毛皮を敷いた囲炉裏の上座に座り、酔っぱらっては、何かをまくし立てていたし、その母親は、つまり先代の女将だが、いつも「つまらんねえ、つまらんねえ」というのが口癖であった。後で聞くと先代当主は、女道楽で、いつも外に女がいて女房を相当泣かせたらしいから、自分は山奥で人と交流することもなく,着のみ着のままで朝から晩まで汗と垢にまみれて飯炊きや炭焼きで働きどうしでは無理からぬことであると、若年ながら納得したものであった。
温泉には沢山の学生のアルバイトがいたが、当主は、小生が医学部の学生であったためか、特別に目をかけてくれた。(当時のことだから佐久の田舎では医者はステータスであったのだろう。)当主の長男は当時日大の学生で2歳ほど年長であった。
本澤温泉は今では、日本一高いところにある「雲上の露天風呂」と硫黄泉の秘湯を売りにして一般にも有名になったが、きっとその長男の次の世代が現在の当主なのであろう。まさに時は光陰矢の如く流れるのである。

八千穂湖

白樺原生林

麦草峠を越えしばらく下って行くと、松原湖高原を経由して小海線松原湖駅に行く480号線(松原湖高原線)と八千穂高原を経由して八千穂駅に行く299号線(メルヘン街道)に分岐する。前回は松原湖ルートを行ったので今回は八千穂高原から小海線八千穂駅を目指すルートを取った。初めての道である。峠を越えると一気に人も車も少なくなるが、道はどうしてなかなか立派なものであった。八千穂高原の八千穂湖周辺は公的施設も充実し、蓼科界隈では見られない静逸な品の良いリゾート地になっていた。自然がうまく保護され残されており、観光地特有の俗化も見られず、湖でルアー釣りをする釣り人と昆虫採集をする親子連れがいるくらいで閑散としていた。
さらに下ると国内一という白樺原生林があったが、白樺湖周辺では到底見られない広大な白樺林であった。何処かジブリのアニメの世界に紛れ込んだような気になった。

八千穂高原では思わぬ拾い物をして、なんだか得をした気分になった。

土牛記念館

松原湖

299号線を下った先の八千穂の町は古い町並が残されており、黒澤酒造の蔵屋敷が整備され観光のスポットになっているようであり、日本画家奥村土牛の記念美術館も併設されていた。

国道141号線は千曲川と小海線に併走するように走っているので、時々小海線の駅舎に立ち寄りながら、一路小淵沢方面に向かった。
途中で松原湖に寄り、湖畔のベンチで持参したお握りで昼ご飯を食べた。ここも白樺湖や女神湖と比べるべくも無く、静かな佇まいであった。

八ヶ岳高原ロッジ

八ヶ岳ヒュッテ

小海線野辺山駅

更に南下し海ノ口高原では、かつての家族旅行の思い出の八ヶ岳高原ロッジに寄ってみた。(カーライフ、2012.10,26)息子が小学校入学前の夏休みであったからおよそ30年ぶりである。そこでお茶をして一息入れて、少し下ると野辺山駅である。野辺山は天文台と星の綺麗なことで有名であるが、またJRの標高最高地点に駅があることでも知られている。そこにもついでに寄ってみると、運のいいことに小海線の列車が入ってきた。ホームには、やはり撮り鉄が大勢いたので、小生も一緒にまぎれて写真を撮ったりした。
さらに南下して、141号線を右折して清里美しの森から八ヶ岳高原ラインに入ったが、前走車がのろいのに多少イラつきながらいると、富士見高原で「鹿の湯」の案内を見つけたので、これ幸いにひと風呂浴びることにした。ホテル八峯苑に併設された温泉施設だが、規模の大きさと言い、日帰り客の多さと言い、どちらが本業かというくらいの盛況であった。温泉は時間によって色が変わるというナトリウム・マグネシウム・硫酸塩温泉で、いかにも温泉らしい良い湯であった。
後は通いなれた八ヶ岳エコーラインから白樺湖に向かう道であり、夕方には帰宅した。

全長160キロのドライブであった。
八千穂高原は思いのほか良かったし、懐かしい松原湖や八ヶ岳高原ロッジにも寄れたし小海線沿いのドライブは楽しかった。最後に見知らぬ鹿の湯温泉で疲れを癒せたのもラッキーで、なかなか充実した一日となった。

長円寺

もう一つの発見は茅野市の外れに思わぬ名刹を見つけたことである。
長園寺という真言宗のお寺であったが、どのような縁起、由来のお寺かは勉強していないので知らないが、杉並木の見事さや多くの野仏が並ぶさまからして尋常の寺院ではないことは推察できた。

雲渓荘

更にもう一つの発見は、らしからぬ日帰り温泉を開拓したことである。
信濃毎日新聞社が発行している「信州日帰り湯めぐり」という名著があるが、その中で紹介されている「東信の湯」の部は既にほとんど行き尽くしているが、残したいくつかの一つが、以外にも近場にあったので行ってみたのである。今は上田市になったが、元は小県郡武石村にある「岳の湯温泉・雲渓荘」である。
近頃多い、公営か第三セクターの経営する、田圃や畑の中に忽然とある、似たり寄ったりの相似形のような温泉施設ではなく、山懐に抱かれた堂々の個性的な温泉宿であった。宿泊施設ではあるが、日帰り湯を推奨しているので、遠慮がちに入るという雰囲気はなく、気が楽であった。お湯はアルカリ性単純泉で癖が無く、客も少なく、風呂場は独占状態であった。お土産に野沢菜と地産ポークのひき肉入り「お焼き」を買ってきたが、帰って15分ほど蒸かして食べるとまるで中華の肉まんのような感触ではあったが、中身はまぎれもなくみそ味のお焼きであり、たいそう旨かった。

お焼き

テラスには落ち葉、もう秋が

私は数日の休暇がとれれば、好んで蓼科の山荘に出かけるが、何のためかと問われれば、間違いなく「ストレスを取るため」と答えるようにしている。
人が生きていくために最も重要なことは自律神経のバランスを取ることである。
日常のあらゆる場面でため込んだストレスで交感神経優位になった心身の状態をりラクゼーションして副交感神経を優位に持っていき、免疫力を高めるべくバランスを取ることが山荘の最大の効用であり価値であると思っている。だから少なくとも数日は滞在し、気ままに過ごすことが大事であり、ホテルや旅館ではこうはいかないと思う。第一、費用を考えながらの宿泊ではそれもまたストレスになるだろう。ここでの4,5日の2人での滞在費用は、多少贅沢をしても、「あさば」の一泊一人分に過ぎない。
別に別荘ライフでなくとももちろんよいが、交感神経優位の生活は免疫力が下がり、癌を始め、あらゆる病気のもとになることを承知して、副交感神経を高めるような生活スタイルを取り入れることは健康寿命を延ばす最大唯一の方法であると信じている。スポーツであれ旅行であれ、人に言えないような趣味道楽であれ、自分にあったストレス解消法を見つけることが大事であると思うのである。

島崎藤村の小諸の宿「中棚荘」に日帰りで遊ぶ―今年の夏休み風景

毎年のことながら、いつ夏休みをとるかは悩ましいことである。
基本的に、「これが夏だ!」という実感がわく、入道雲が立ち上がる7月下旬から8月上旬の盛夏に休みをとりたいという気持ちが強いので、梅雨明けがいつごろになるかを当てなければならないからである。休みが梅雨明けの前になったり、梅雨明け直前の豪雨に当ることもあった。
その点では今年は梅雨明けの翌日からというジャストタイミングであった。7月30日から8月4日までが今年の夏休みになった。

マツムシ草

早くも赤とんぼが

蓼科は、車山のニッコウキスゲは跡形もなく終わっており、早くも秋のマツムシ草が咲いていた。今年はあまり動かないことにして、寝てばかりであったが、それでも思い立って、小諸の中棚温泉の中棚荘に日帰りの湯に行ってみた。
島崎藤村が、“小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ”で始まる「千曲川旅情の歌」を書いた宿として有名で、最近は初恋リンゴ風呂で人気がある宿である。
初恋が付くのは、言うまでもなく“まだあげ初めし前髪の,林檎のもとに見えしとき、前にさしたる花櫛の、花ある君と思いけり”の藤村の「初恋」に由来している。
中棚荘は、“暮れ行けば浅間も見えず、歌哀し佐久の草笛、千曲川いざよう波の、岸近き宿に登りつ、濁り酒濁れる飲みて、草枕しばし慰む”と読まれた宿である。

中棚荘玄関

裏口

藤村が明治32年から足かけ7年にわたって、英語教師として赴任した小諸義塾の校長であった木村熊二が開湯に尽力した温泉であり、近くには彼の別荘「水明楼」があり、藤村は中棚荘と水明楼に足繁く通ったということである。
場所は小諸城祉懐古園と千曲川にはさまれる所に位置し、宿から千曲川は望めるが、川端にあるわけではない。当時はおそらく旅館と川の間には建物も無く、岸に近い実感があったのだろう。
宿は古く、決して豪華ではないが、手入れの行き届いた、また館主のもてなしの心遣いが感じられる気持ちの良い宿であった。宿泊したわけではないので、本当のところは分からないが、立ち寄りの湯客に対しても宿のもてなしの気持ちは十分わかる感じが良いものであった。

展望風呂

脱衣場は畳敷き

ところで温泉であるが、リンゴ風呂は10月から4月までの季節限定のことであり、当日は普通のお風呂であった。軽く黒色がかった弱アルカリ性低張性温泉で40℃のぬるめの湯で長時間入っていても疲れない良いお湯であった。浴場の脱衣場は畳敷きで、脱衣篭を置く棚は無く、畳の上に置くというのも明治・大正の香りがして風情があった。浴室からは川面は見えなかったが千曲川岸壁が望め、その何処かに千曲川岸壁に建てられた布引観音堂があるはずと思いを巡らせた。

はりこし亭内部

敷地内には築200年という古民家を移築した食事処「はりこし亭」があり、蕎麦やお焼きを食べることが出来る。天井のむき出しになった梁組は我が山荘とは比べようもなく迫力があり見事なものであった。小諸には有名な蕎麦屋がいくつかあるが、ここの蕎麦も特段良くはないが、平均点は超えるものであった。日本画家の伊藤深水が好んだという名物「はりこし饅頭」は、あいにく当日は無く、代わりに北信州の有名店のお焼きが置いてあった。ちなみにネギ味噌のお焼きを食べたが、これはなかなか旨かった。
縁側の外には朝顔が簾がわりに植えられ、田舎の夏に来ている気分を満喫できた。
おそらく鶴川の白洲次郎邸も、今はこんな風情になっているのだろう、と思いを馳せた。
温泉に入って、お腹も満腹になると眠くなったので、そのまま帰ることにして、小諸から浅科村経由で望月町から白樺湖へ登るコースを走った。

浅科村は、佐久から望月町の間にある千曲川沿いの狭い鄙びた街道を走るのだが、それでもよろず屋や豆腐屋とか、蕎麦屋など昔からの店が街道沿いに残っている。
通るたびに気になっていた紫色の古びた電光看板が千曲川にかかる橋のたもとにあるが、今回も未だ残っていた。そこには「スナック遊子」と書いてある。あの「遊子悲しむ」からとったのだろうが、見るたびに、何とも言えない感慨を覚えるのである。
いつか一度は入ってみたい気がする。

イチボ肉500g

手作りルバーブジャムティ

その日は,イチボ肉500gを囲炉裏で焼いてみた。
昨日作ったルバーブジャムで食後のティーを。

小津安二郎の散歩道-蓼科プール平のこと

クリニックのスタッフの福利厚生で蓼科の山荘に行った。
ここは外せないと、蕎麦屋「しもさか」に行ったのだが、こだわりの店主は、11時半開店はきっかり11時半にならないと駐車場の門扉を開いてくれないので、時間調整に、少し離れたところにあるプール平に行ってみた。そこには、日本を代表する映画監督小津安二郎の別荘を2003年に、生誕100年記念事業として、移築して公開している「無芸荘」があるので、そこで時間を潰すことにしたのだ。しかし、あいにくここも閉館中で中には入れなかった。

プール平は、学生時代にインターンでお世話になっていた甲府の病院の別荘があり、その縁で、時々来ていた懐かしい所でもある。昔は蓼科と言えば、東急ハーベストクラブの別荘地とゴルフ場、蓼科湖、ローランサン美術館、そこからせいぜいホテルハイジ、滝の湯、プール平までであった。当時は、おそらくヴィーナスラインもここら辺りまでで、白樺湖は未だ今のように俗化された遊園地やホテルはなかったように思う。やがて5期20年に渡った吉村午良・元長野県知事の時代に、公用地を払い下げ、一大遊園地や観光施設が造られ、すっかり俗化されてしまった。俗化をリードした池の平ホテルの前には吉村元知事の顕彰碑が建っている。

小生は、高1の時に、霧ヶ峰の強清水から八島湿原を経て車山を超えて白樺湖に下りたテント行の経験がある。名古屋の少年達にとっては、初めての登山らしい経験で、日光キスゲが車山一面に咲く中を、重いリュックサックにヒーヒー言いながらも眼下に白樺湖が見えた時の感動は今でも忘れることは出来ない。テントを張った白樺湖畔には、当時は未だ湖の中に多くの白樺の木が立っていて、霧が立ち込めると、幻想的であった。
その体験が、やがて大学時代に山岳部に入る遠因になったように思う。

その思い出の地は、今は無残にぶち壊されている。政治というのは、つくづく大事だと思う。長野県は、やがて、その反省に立ってか田中康夫氏を知事に選んだが、革新県政も間もなく頓挫してしまう。その田中康夫氏も今や、大阪維新の会から参議院選に立候補する変貌ぶりである。

プール平には別荘族の温泉プールがあったのが、その呼び名の由来らしいが、かつては小津の「無芸荘」を始め、小津と脚本仲間であった野田高梧の「雲呼荘」や今村昌平、新藤華人、井上和男などの有名監督達、小津組と呼ばれた、笠智衆や佐田啓二ら往時の有名俳優達の山荘が散在していたという。
現在、古き良き時代の映画や蓼科を懐かしむ「催し」や、小津が野田と一緒に散歩した道が「小津安二郎の散歩道」として道標が立てられ、観光名所化されようとしている。
また雲呼荘に備えられていたノートが「蓼科日記 抄」として刊行され、小津の「早春」以降の「彼岸花」「浮き草」「秋日和」「秋刀魚の味」などの名作が生まれた背景が書かれていて興味深い。
蓼科では、小津は初めの頃は、野田の雲呼荘で共同生活をしていたらしく、野田の妻によれば、『二人は朝九時頃に起床、朝風呂。続いて朝食、二人で酒を3合。午後の一時ころまで昼寝、夕食を美味く食べるために昼食は取らない。それから2時間ほど散歩。夕方四時から六時まで仕事。夕飯は夜の八時まで。酒は二人で「ダイヤ菊」を5合。夜の十二時ころまで仕事」という生活であったという。
映画一本撮るのに2人で一升瓶100本が目安になったという。俳優笠智衆は、自らの回想録の中で、彼等の別荘を見て「なんやら、酒屋さんの裏みたいだなあ」と書いている。
まるで息子のように可愛がられた俳優の佐田啓二は蓼科の別荘からの帰路に自動車事故で亡くなったが、その子供である中井貴恵、中井貴一は蓼科を故郷のように馴染んだという。

「蓼科物語」という本には、生涯独身だった小津のダンディぶりと、多くの女優が引きも切らずに訪れていたという裏話を紹介している。小津が60歳で亡くなると、すぐに隠退してしまった永遠の処女「原節子」もその中の一人に違いあるまい。

無芸荘

 

小津の映画の特徴である、「美しさへのこだわり」、「本物へのこだわり」「同じテーマ、同じキャストにこだわる姿勢」から見ると、別荘にもそれなりの相当な美意識・こだわりがあるかと思うのだが、無芸荘を見てみると、入り口の部屋に囲炉裏が切ってはあるが、座敷も勝手場も風呂も、おそらく当時としても平凡な質素な造りであったように思う。
酒と女性と仕事があれば、もうそれで十分だったのかもしれない。

元々、小津の別荘は、蕎麦屋「しもさか」のすぐ近所にあったが、今は跡形もなく知る人もいないと、蕎麦屋の主人は言う。

「蓼科物語」の中では、戦後間もなくから1980年代の蓼科の様子、今は無き大きな温泉プールやレストラン「コックドール」を紹介しているが、その賑わいと現在との落差には誠に感慨深いものがある。
蓼科を訪れる観光客は、激減していて、この10年でも随分静かになった。観光業の人には申し訳ないが、静けさを求め、自然との触れ合いを求めて、たまに来る者には有難いことではある。

車山高原には、6月の全山が赤く燃える蓮華つつじ、7月は、山をヤマブキ色に覆うニッコウキスゲ、8月は、薄紫がシックなマツムシ草を始め多種多様な高山植物がある。

我が山荘でも、夜は漆黒の闇の中、星は降るように輝かくし、聞こえるのは風の音だけである。

コクーン歌舞伎[四谷怪談]-勘三郎から串田和美へのリレー

プログラム

プログラム

今年もコクーン歌舞伎の季節になり、渋谷コクーン歌舞伎第15弾『四谷怪談』が6月6日から始まったので観に行った。

そもそも「コクーン歌舞伎」は、演出家の串田和美によれば、1994年当時、Bunkamuraシアターコクーンの芸術監督をしていた串田のところへ、松竹から、この劇場で歌舞伎をやれないかという申し出があり、戸惑った彼は四国の金毘羅歌舞伎をやっていた中村勘九郎(故18代中村勘三郎)を訪ね、相談に行ったところ、勘九郎が後日シアターコクーンを見学に来て、その劇場の在り方にインスピレーションを感じ取って、即座に意気投合しコクーン歌舞伎が始まる手筈になったという。串田はシアターコクーンを、観客に開かれた劇空間にしたいと考えていて、一方、勘九郎は、金毘羅歌舞伎の復活に意欲を見せるなど、観客と一体化した江戸の歌舞伎のありようを模索していて、二人がこれからの演劇、歌舞伎の方向性で意見が合うのに時間はかからなかったようである。それに勘九郎の中村屋が歌舞伎の世界では、いわゆる宗家、名門ではなかった事が、彼の革新への情熱を支え、また長老たちとの軋轢も少なく、仕事もしやすかったのではないかと思われる。

配役

配役

コクーン歌舞伎は中村勘三郎が起こした新しい歌舞伎の試みであったことから、中村屋の歌舞伎役者を中心に、また串田が自由劇場の出身であることから笹野高史ら元自由劇場の俳優らが共演するのが慣例となっている。今回は中村扇雀を中心に中村獅童、中村勘九郎、中村七の助が主演クラスを演じている。

演目の「四谷怪談」は、言うまでもなく鶴屋南北作の歌舞伎狂言[東海道四谷怪談]を基に脚本化されたものであるが、コクーン歌舞伎では既に今までに2回上演されており、22年前のコクーン歌舞伎第一弾と10年前の第七弾では、共に演目は[東海道四谷怪談]となっている。第一弾は勘三郎が中心となって演出し、第7弾は勘三郎と串田が別々に脚本、演出を担当し、「北番」「南番」として日替わりにしてみせるという意欲的な試みが行われた。今回の第15弾では、勘三郎亡き後で、演目から東海道を取り、『四谷怪談』としている所にも串田の強い意欲が感じられるのである。

『東海道四谷怪談』は「仮名手本忠臣蔵」の世界を用いた異聞、外伝という体裁で書かれているが、元禄時代に、「於岩稲荷由来書上(お岩伝説)」を基に、不倫の男女が戸板にくぎ付けにされ神田川に流されたという当時の(1825年頃)話題や、砂村隠亡掘りに心中者の死体が流れ着いたという話をとりいれて書かれたものであるという。

「お岩稲荷由来書上」の内容は、貞亨年間(1680年間)、四谷左門町に民谷伊右衛門(31歳)と妻のお岩(21歳)が住んでいて、伊右衛門が婿養子の身でありながら、上役の娘と重婚し子供をもうけてしまい、そのことを知ったお岩は発狂して死んでしまう。(上役の妾が妊娠したので、伊右衛門に押し付けるために、お岩に毒薬を飲ませ、顔を変形させて別れさせようとしたという説もある)その後、お岩の祟りによって伊右衛門の関係者は次々に死んで行き、18人が非業の死をとげ、民谷家滅亡後もその地に住んだ者には必ず奇怪な事件がおきたので妙行寺に稲荷を勧進し追善仏事を行ったら納まった、というのが大方のあらましであるが、「東海道四谷怪談」では、伊右衛門もお岩の実父も、その他の登場人物も多くが主家が切腹断絶された塩谷(浅野)の家来であるという設定で忠臣蔵外伝となっている。
原作は、「浅草境内」~「地獄宿」~「浅草田圃」、「浪宅」~「伊藤家」~「浪宅」、「隠亡掘」、「深川三角屋敷」、「夢」~「蛇山庵室」の5幕からなっている。
ともすれば舞台がお岩の恨みや悲しみに焦点が当てられ、場面でいえば「伊右衛門浪宅」で夫の伊右衛門に裏切られたと知ったお岩が、騙されて飲んだ毒薬のために凄まじい形相に変貌して死に至る場面が強調されがちで、反面、「深川三角屋敷」は脇筋であるとして上演が省かれがちなところであるが、串田は四谷怪談がお岩の恨みや伊右衛門の業悪さだけが強調されるべきではないと考えてか、今回の「四谷怪談」では基本的には原作通りに5幕すべてが入っている。
また通常は、お岩の妹・袖の夫の与茂七が伊右衛門を討って舅と義姉の仇討が成就する大詰めも、大勢の人物が地獄の業火の中に落下してゆく様を見せるなど意欲的な演出も目立ったが、一方、スーツ姿で鞄を持った数名の男性が、時に現れては舞台を右から左に歩き去る演出は、小生には難解であった。それは、プログラムの表紙の写真が、大勢のサラリーマンの中にスーツを着た主演クラスの役者たちが紛れ込んだものであることが、その答えのヒントに違いないと思うのだが、あるいは単純に、色と欲の煩悩が、伊右衛門という悪党だけのものではなく、ごく普通の一般市民もが共有するものであり、四谷怪談のような話も、実は日常どこにでもありうる話である、と言いたいのかもしれないが、それは観た者がそれぞれが答えを出せば良いということなのだろう。

小生は、今回初めて二階席という所を経験したが、さすがに舞台は遠く、セリフも声は聞こえはするが、単語の聞き取りが悪く、終始イライラする思いであった。
人気が高く一階席が取れなかったにせよ、二階席なら次回は御免だなあと正直思った。

しかし、中二階には立ち見の観客も大勢いて、小生は本当の演劇・歌舞伎フアンには程遠い観客であると改めて確信することになった。

ブロードウェイミュージカル「スウィーニー・トッド」を観たーなんだろうこの気持ちは?

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スウィニー・トッドのプログラム

宮本亜門演出、市村正親、大竹しのぶ主演の人気者コンビのブロードウェイミュージカル「スウィーニー・トッド-フリート街の悪魔の理髪師」公演が東京芸術劇場で行われたので観に行った。
知り合いの女子大生が卒業祝いにリクエストしたので、それに応えて、初めてミュージカルというものを観に行ったのである。

「スウィーニー・トッド-フリート街の悪魔の理髪師」は1979年にブロードウェイで初公演され、2005年までに再々上演を果たし、トニー賞を8部門受賞と言うミュージカルの名作である。

「スウィーニー・トッド」の日本での初演は、ブロードウェイ初演から僅か2年後の1981年で市川染五郎(現松本幸四郎)と鳳蘭が主役で上演している。
宮本亜門が市村正親、大竹しのぶを起用して再演したのが2007年で、その評判が良く2011年、2013年とほぼ同じメンバーで再々上演され、今回が4回目の公演であった。

日本はミュージカル大国らしく、ブロードウエイで評判がいいと世界に先駆けていち早く日本版が上演されるという。商業性に長けた劇団四季はブロードウェイのリメイクの「オペラ座の怪人」「キャッツ」、「ライオンキング」で大成功を収め、今また評判の「アラジン」でヒットを狙っている。

宮本亜門は、それらとは一線を画す演出家で、数々のオリジナルのミュージカルを演出し、中でも「太平洋序曲」はブロードウエイで上演を果たしトニー賞にもノミネートされたし、さらにはヨーロッパでオペラ「魔笛」を初上演し、日本でも新作歌舞伎の演出もし、そのオリジナリティは世界的にも評価が高い。
今回の上演も大人気であり、池袋の芸術劇場は連日満員であったらしい。

小生はミュージカルとかオペラ、歌舞伎、能など舞台芸術の類は殆ど無知で、実体験も、何事も一度くらいは経験しておくか、と思って観に行ったことがある程度のことである。
ミュージカルの類も、宝塚がそれに入るかどうか知らないが、それ以外では、ほぼ初体験と言ってよい恥ずかしい経歴である。

オペラも歌舞伎も、おそらくミュージカルもそうであろうが、話のストーリー性と言うのは極めて単純なもので、ストーリーの展開で何か心に強く感動が残るということは、おそらくほとんど無く、舞台の魅力の殆どが役者個人の演ずる姿形、台詞回し、歌唱力、舞踊の上手さであり、いわば、全体の展開を見るというより、演じるワンシーン、ワンシーンに魅了され感動するのを楽しみに行くようなものであるように思える。
能、歌舞伎やオペラの観客は、ストーリーなどはどうでもいいというか、もう見る前から殆どの人は織り込み済みであり、役者の発するオーラと言うか、その魅力に魅せられて行くのである。だからこそ、同じ公演を何度も何度も観に行くファンが多くいるのである。
おそらく宝塚やミュージカルもそうなのであろう。
(もっとも能に限って演目は、原則一回限りのものではありますが)

従ってスウィーニー・トッドも物語は単純と言うか、特に感動を呼ぶようなモノではなかった。

19世紀半ば頃のロンドンを舞台にした話である。若い美貌の妻を地元の実力者の判事(安崎求)に横恋慕され、無実の罪を着せられ流刑にされたのが主人公の理髪師(市村正親)である。妻は判事に辱めを受け自殺する。15年後にロンドンに戻った主人公はスウィーニー・トッドと名前を変え、大竹しのぶが店主を演ずるロンドン一不味いパイ屋の二階に理髪店を開き、憎っくき判事とその片腕となって悪事を働く役人(斎藤暁)に復讐する機会を待つ。役人が髯を剃りにトッドの理髪店を訪れたのをチャンスとばかりにカミソリで喉を切って殺したが、死体の処理に困ってパイ屋の女主人に相談すると、肉をミンチにしてミートパイにするのはどうかと言われ、賛同してしまう。するとそのパイがロンドン一美味いと評判になりパイ屋は大繁盛する。トッドは肉を提供するために殺人鬼になって来る客を次々に殺しては女主人に渡すようになる、、。

 人がいかに狂気を持つようになるか、言わば正気と狂気の紙一重について、また人に恋をするということが、いかに際限もないもので、身を滅ぼすものであるか、また時には思いが伝わらなく切ないものであるかを、芸達者たちが情感を込めて歌い演じる。
初上演から8年という年月がたち、役者達もそれなりに年を重ね、今は余裕すら感じられる円熟の舞台であったように思えた。

熱烈なカーテンコールが終わって席を立つと、素劇「楢山節考」を見た時の目が滲むような重い気持ちはどこにもなく、かと言って大衆演劇の空虚感もなく、ミュージカルと言う演劇のスタイルが持つ大きな力に圧倒された自分がいた。
そして、10年後の大竹しのぶの演ずるミセス・ラヴェットをもう一度見てみたいと思いながら帰路、地下鉄有楽町線池袋駅に向かって歩いていた。

と同時に、並んで歩いている卒業したての、ほやほやのCAの彼女の10年後はどうなっているのだろうかとフト思ってみたりもした。
10年後に自分がこの世に存在するかどうかも分からないというのに。

奥三河蓬莱峡「はづ合掌」-深山幽谷の絶対静寂の合掌作りの宿

はず合掌

はず合掌

蓬莱峡

蓬莱峡

ゴールデンウィークの初っ端に愛知の老母の見舞いに行った。老人ホームで転倒し大腿頸部骨折を受傷し市民病院で緊急手術を受け、術後リハビリ病院に入院していたからだ。
その帰り道に一泊するに都合の良い宿を、出来れば温泉宿であればと思い東海道筋を探したが、結局2年前に立ち寄った愛知県の東北端にある鳳来峡湯谷温泉をその場所にした。蓬莱峡は深山幽谷でありながら、新東名高速の浜松引佐インターから数十分という足の良さは何ものにも勝ったのである。
それに2年ほど前に、初めて老人ホームの母親を訪ねた際に立ち寄って、その自然の豊かさを大層気に入っていたからでもある。
前回は薬膳料理の「はづ木」に泊まったので、今回は「はづ合掌」という、4軒のはづグループの旅館の中の一軒にした。温泉ではないが、槙原渓谷沿いという立地の良さと、建物が越後の合掌作りの旧家を移築したものであり、部屋数がたった5部屋というのが決め手になった。

一般に、人が宿を決める時はどのような手順で決めるものなのであろうか。
まずは地域、場所であろうか。そして宿の特徴や料金を総合的に判断して決めるものと思われる。ほとんどのホテル、旅館の案内書が地域別になっているのもそのためであろう。行き先が決まれば、宿を、温泉にするか、それも源泉かけ流しを条件にするとか、何よりも料理の良し悪しを優先的に決めるか、あるいは建築の特徴や設えの良さをとるかなど、人様々で、時と場合の好みによるのだろう。

日本の100名宿

日本の100名宿

宿選びは登山好きの、山選びに似ていなくもない。柏井寿の「日本百名宿」というベストセラーになっている光文社新書があるが、そこでは深田久弥の名著[日本百名山]を習い、選考基準に宿の品格、歴史、個性をあげている。人に人格があるように、山には山格があり、宿には「宿格」があるという。宿はは、まず、その品格こそが評価されねばならないという。宿の歴史は、古ければよしとするものではなく、その宿がどのような経緯を経て、今の宿が営まれているかが大事としている。個性は文句なしに重要であり、個性のない宿ほどつまらないものは無いという。
その意味で、全国で地方の斜陽化した高級旅館をリノベー―ションしては、パターン化した、ある意味では没個性的な高級リゾート旅館を展開しているホ○ノリゾートを批判しているが、小生も全くの同感である。

ホールの天井

ホールの天井

ロビー

ロビー

さて、「はづ合掌」は着いてみると、周囲の森林に包まれるかのように大きな合掌作りの建物の頭が顔を出して現れた。太くて大きな柱と梁が、迫力のある存在感を示していたが、暖炉のあるロビーの待合はパブリックなラウンジスペースでもあり、スパーリングワインと梅と柚子のフレッシュジュースがフリードンリンクになって供されていた。

宿泊室内

宿泊室内

部屋の設え

部屋の設え

テラスのラウンジ

テラスのラウンジ

食事処

食事処

僕たちの部屋は一階の一番狭い和室で、おそらく一番廉価な部屋であったのであろうが、それでも二人には広さも十分であり、家具などの設えも民芸調で落ち着いており、サニタリーの設備も行き届き、清潔感に文句はなく満足出来るものであった。おそらく二階の部屋であれば、合掌作りに特徴的な壁と天井が三角形になり梁の柱に締め縄などが見えて風情があったのではないかと想像される。部屋にはテレビなど音の出るものは一切なく、静けさこそがおもてなしという趣向というか配慮があった。

露天風呂

露天風呂

半露天風呂

半露天風呂

風呂は渓流沿いに張り出した石組みの露天風呂と檜の半露天風呂があったが、お湯は湯屋温泉の一画にありながら温泉ではなく薬湯であった。どんな事情でそうなったかは知らないが、それよりも、木漏れ日を受けながら、眼下の岩盤の上を流れる渓流を眺めつつ入るお風呂の快適さが、お湯が温泉ではないことなどどうでも良いと思わせてくれた。
いずれも貸切風呂のシステムであったが、せいぜい5組の客のことだから、何の不自由もなく使えた。

夕食—八寸

夕食—八寸

岩魚の3種盛り

岩魚の3種盛り

焼筍

焼筍

蓬莱牛のステーキ

蓬莱牛のステーキ

食事も、決して山のことだからと言い訳をしないというか、山ならではの食材を生かした格調の高い、丁寧さが良くわかる会席料理であり、日本酒は幻の銘酒と言われる設楽関谷醸造の「空」が置いてあった。

朝食—土鍋ご飯

朝食—土鍋ご飯

小鉢

小鉢

卵焼き

卵焼き

トマト

トマト

朝食も同様に、気持ちのこもったものであった。

ちなみに「はづ合掌」は柏井の「日本の100名宿」の50番目に記載されている。

宇連川

宇連川

川底は岩盤

川底は岩盤

JR飯田線

JR飯田線

飯田線電車

飯田線電車

翌朝は、蓬莱峡、宇連川沿いの散策路を散歩したが、川底は大きな岩盤で敷き詰められたようであり、これは今までどこでも見たことのない独特の渓谷美であり、その川に沿ってJR飯田線が走っている。

長篠城跡

長篠城跡

飯田線線路

飯田線線路

有名な織田信長と武田信玄の長篠の戦いの古戦場跡がある長篠駅はすぐ近くである。時々2両編成の列車がのどかに走って行った。僕はうまく撮れなかったが、おそらく「撮り鉄」にはたまらない垂涎の風景ではないかと思う。

東京へ帰る際に、我々が引佐のインターチェンジに入り、東名と新東名の分岐直前に、新東名高速の掛川平島トンネル内で多重追突による車両炎上事故があり、事故発生を知らせる電光掲示板を見て、とっさに東名高速に迂回し、運よく巻き込まれずに済んだ。おそらくあと数十分も早ければ、7時間の渋滞に巻き込まれたであろうし、もっと運が悪ければ、トンネル内で遭遇し車を捨てて逃げたかもしれない。最悪なら追突事故そのものに巻き込まれたかもしれない。

藪蕎麦宮本

藪蕎麦宮本

島田藪蕎麦カード

島田藪蕎麦カード

しかし我々は、そんなことに思いを馳せることもなく、せっかく東名に来たからにはと、島田インターで降りて、日本一の蕎麦屋と信じる「島田藪蕎麦・宮本」で昼食を摂ることにした。少々待ちはしたが、ここでも運よく当日最後の客として座ることが出来た。
(14:30無くなり次第で終了なのだ)前にも言ったが、宮本の蕎麦は行く度に進化している。行く度に新たな感動があるのだ。蕎麦はあくまでも繊細で、作り手の神経の細やかさが伝わってくるが、蕎麦はしっかり、あくまでも蕎麦である。「これこそが俺が打った蕎麦だ」という自信と風格に溢れている。店内は写真禁止なので、その出来の姿形はお見せ出来ないが、小生の二番手柏の「竹やぶ」とは一段風格が違うし、三番手蓼科の「しもさか」とはおよそ蕎麦の概念が違うだろう。ざるや天ぷらそばは言うに及ばず、今回は山菜の天麩羅が実に絶妙であった。贔屓の天ぷら屋「天真」もかなわない程の出来であったと思う。

人は、運が悪く働くと、大いに嘆き、腹をたてるが、幸運にはさほど感激もせず、当然のように思うものなのだろうか。良く考えれば、我々はトンネル事故に巻き込まれもせず、おまけに島田藪で昼ごはんを食べ、東京まで渋滞知らずで帰れたことは、かなり幸運であったと感謝すべきであるという他あるまい。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

劇団Eastonesの第11回公演が下北沢駅前劇場であったので、その千秋楽に一人で出かけた。知人に熱心に勧められてのことであった。実は一年前にも中野ザ・ポケットでの公演にも行ったので、2回目になる。
正直言うと、前回が余りにも退屈だったので乗り気ではなかったのだが、熱心な勧誘だったので、おそらくチケットの売れが悪くて困っているのだろうと思いお付き合いしたのだ。
しかし出かけてみると、小さな劇場とはいえ、ぎっしり満席であった。開演15分前には、殆どの席も埋まり人息れでムンムンする盛況で、まずそれに驚いた。

お芝居は脚本も、演出も、役者の演技も,いわば独りよがりで、前回同様きわめて平凡で退屈なものであった。
おそらくジャンルは大衆演劇に入るのだろうが、一言でいえば、時間こそ1時間45分と永かったが、子供の頃田舎の神社のお祭りの境内で見た旅芝居に毛が生えたようなものであり、そこには何らかの主張らしきものは微塵もなく、良く言えば大衆娯楽性に徹しているのだろうが、かと言って昔あったエノケンやデン介、藤山寛美やテナモンヤ三度笠、欽ちゃん劇場のような個性的な喜劇性に繋がるようなものもなく、それどころか取ろうとする笑いさえも空回りしており物哀しくさえあった。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

劇団は創立8年目というから、団長はそれなりの年になってから旗揚げしたことになろうが、一体何がしたくて始めたのだろうと最初は訝ったが、まあ、芝居が好きということに尽きるのだろうというのが小生の結論だった。それにしても、自分達が好きという一念でやるには大きなエネルギーが要り大変だろうなとも思い、そこまでやりぬく意思の強さというか気持ちの強さに、まずは感嘆し尊敬もした。
演ずるという行為はそこまで人にエネルギーを与えるものなのだろうか。

年に2回の公演で延べ2週間客を呼んで、たとえ毎日満席でも、生活の足しどころか、持ち出しであろうから、稽古などに取られる時間を考えれば、副業(本業?)は相当頑張らないとやっていけないだろうなと、余計なことながら心配になった。

それにしてもこの程度の劇団に、8年も継続させる多くのファンが付いているのにも驚いた。おそらく一見というより、固定したファンの様であり、小生と同様に劇団員との繋がりの客が多いのであろうか、劇中の笑いの間や掛け合いなど役者との距離の近さがひしひしと伝わってきた。
ここにも直ぐには理解できない芝居好きのフアンの姿があった。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

演劇という芸術文化の観点から言えば、この劇団は、とても才能に恵まれているとは言い難いが、それでも決して安くはない入場料を払って支えるフアンがいて、まさに捨てる神あれば、拾う神ありだなあ、と世の中の巡りあわせの妙に感心したりもした。

しかし考えてみれば、小生もまさしくその一員であり、一人の劇団員のバイト先(銀座の、、)で知り合っただけなのに、こうして差し入れを持って電車を乗りかえてまで観劇に出かけるのですから。
いやいや、小生はもう年ですから、ご想像のような二心はありませんよ。
あったところで何の意味も持ちませんから。

劇団1980の素劇『楢山節考』を観てー「老いること」を考える

楢山節考

深沢七郎が1956年に中央公論に発表し新人賞を受賞した「楢山節考」を原作に、関谷幸雄が戯曲化した「素劇楢山節考」を劇団1980が公演したので観に行った。演劇界での評判が高く、原作者も劇団も個性派で、大いに興味をそそられたのである。

深沢七郎は、日劇ミュージックホールに出演したこともあるギタリストでもあるが、1960年に中央公論に発表した「風流夢譚」が、皇室を侮辱したとして右翼が中央公論社長を襲撃した嶋中事件が起きた渦中の人物であるが、同年には旧社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年に講演中に壇上で刺殺されるという事件も起きており、左翼と右翼が殺伐とした雰囲気で対峙していた60年安保の余韻が残る頃であった。小生は未だ中学生であったが、この二つの事件はよく覚えている。
深沢はその後、埼玉でラブミー牧場を経営したり、向島に今川焼き屋「夢屋」を開いたりして人騒がせをしたが、嵐山光三郎や赤瀬川原平らと親交があり、文人らしからぬ波乱の人生を送った。
音楽ではビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリングストーンズなどのファンで、葬儀の告別式では、遺言に従って、それらの曲や自ら作詞した楢山節の弾き語りのテープが流れたという。

『楢山節考』は、信州の貧しい寒村で、老人が70歳になると子供が背負って、奥深い楢山に捨てに行くという姥捨ての風習を書いたもので、三島由紀夫が激賞し、文壇に衝撃を与えたことから、1958年木下恵介が映画化し、1983年には今村昌平が再度映画化し、カンヌ映画祭でパルムドール賞を取って世界的にも評価された。
その今村昌平が作った横浜放送映画専門学校の卒業生たちが、1980年に立ち上げたのが劇団1980(イチキュウハチマル)であり、それが今回、素劇『楢山節考』を公演したのである。

キャスト

素劇というのは、舞台装置や美術を使わず、役者の存在だけで表現しようとするもので、「空間は見るものが想像力で補えばよい」とするピーター・ブルックの演劇論「何もない空間」の影響を受けた演劇のスタイルであり、小道具は紐と黒い箱と一枚の布だけで、役者は全員作務衣というか、忍者のような黒装束で演じるので、観客は役者の演技に集中することになり、いわば心理的な転移がおき、舞台と観客席の空間が一体化するのである。
また劇中では、楢山節という民謡の素朴な調べが哀愁のあるギターの音色で奏でられ、物語の切なさと相まって一層感動的であった。役者も全員が気の抜けない迫力のある演技をし、特におりん婆役の星野有里と息子辰平役の藤川一歩は出色であったと思う。

時代はおそらく江戸時代か、せいぜい明治・大正時代までのことであろうが、社会が「老い」にどう向かい合うか、また市場経済以前の貧しい共同体がどのように生き延びていくかというという、時代性を超えたテーマであった。
村人が食べていくには、老人を捨てるしかなかったのである。
熱海の沖合10kmにある初島では水道パイプラインが開通した戦後の最近までは、世帯数を42戸に限定する掟が江戸時代から守られて来たそうである。生活用水が島民の人数を限定したのである。跡取り以外は島から出て行く、外来者の移住は一切受け付けないことで島民は生き延びてきたのである。

共同体社会、いや市民社会においてすら、自らの生活の存続がかかると人権も民主主義も脆いものであることは、昨今のヨーロッパの難民問題を見ればよくわかる。そして常に弱者が犠牲になるのは、今も昔も少しも変わっていない。

この芝居は「老いる」ことのメタファーであったと思う。
一般に演劇は心の中に漠然とあるものを、すっきりと現前化してくれるメタファーである。

そこで現代における「老いること」の意味を考えてみようと思う。
老年期は、人のライフサイクルの最後のステージで、人生の主要な一部門である。成長期(乳幼児、児童期)、成熟期(青年期、成人期)、に続く退縮期に当り、それは老化の予期不安から始まり、確信し、現実のものになる過程である。
身体的老化の定義は、「退縮期において身体の生理的な機能の低下と、ホメオスターシス(体内の変化を定常的に行わせ、外れたら元に戻すシステム:恒常性)の機能が減退すること」となるが、精神的な老化は、心理学、哲学、社会学、宗教も絡み定義しづらい。

現代社会では、信仰に近いほどまでに「若さ」があがめられ、「老いること」は価値の無い、ネガティヴなものになった。かつて老人達は、社会の一時代、家族の一世代を繋いできたものとして畏敬の念でもって遇されたのが、なぜ今日ほどまでに老人が軽んじられるようになったのだろうか。その理由を考察してみる。

1)自然科学の発達は、自然界のすべてのことが因果律で説明でき、人間がコントロール出来るかのような錯覚をもたらした。そこでは人間の営み、生命も、超越的な存在(神)がデザインした宇宙・自然界の一部であるという認識が薄らぎ、「老化も死」も自然界の大きな秩序の中の営みの一部であるという「死の尊厳」が損なわれた。むしろ死は怖いもの、忌まわしきものとなり死の受容を困難にし、従って、死に近い老化もネガティヴなものになった。

2)資本主義の市場経済社会はイノベーションして新しいものを作り、それを市場に出して利潤を追求していく構造である。それは必然的に「新しいもの、若いもの」に価値がある産業文化を生み、イノベーション、利潤を生まない老人は価値を失った。

3)戦後民主主義は、戦前の大家族,家長制度を否定して個人主義、自立主義を取り入れ、核家族化を推進してきた。それは社会の論理としては悪いことではなかったが、家族の論理にまで拡大し、家族の間でしか伝承できないような世代性とか絆のような情緒的な感情を失い、自立できない老人は厄介者になり、老人の存在理由を奪って孤立化させることになった。

4)かつて老人が持っていた英知、長老としての経験知、知恵が、高度情報化社会では価値が無くなり、老人を必要としなくなった。

などが推察できる。

こうしてわが国でも「老いること」は忌まわしい、ネガティヴなメタファーになったが、本来、東洋思想では老化はネガティヴなメタファーではなかった。十牛図の最後の第10図では老人と若者の出会いが描かれており、老若は統合し、そこで新創造物が再生されることを意味している。ユングを始め近代の心理学者や、ボーアなどの量子物理学者では東洋の陰陽思想(相補性)に傾倒する者も少なくないが、アインシュタインの一番弟子であったボームがホログラフィックパラダイムという新しい世界観を提唱し、老いもそのような世界観でとらえるべきとする考えが出てきている。そこでは、「全体から部分へ、部分には全体の総体が存在する」というパラダイムであり、老人を現在の弱体化した肉体を持つ人生の終末の一部分としてみるのではなく、生まれてから成長、成熟し歴史の一時代を継承してきた経験の総体として大きく捉えることが老人のマイナスイメージから活性的なものに変えていくとする考えである。

現代科学は、自然界、社会のあらゆる事象を線形的な考えで捉えることの限界性を明らかにし、複雑系な捉え方、ゲシュタルト心理学のような視点に立って見ることの重要性をいうが、老人に対しても、そのような視点に立ってこそ老人の復権が可能になると思うのである。

楢山節考に話を戻すと、世界に姥捨て山に類似した話はいくつもある。
獲物を求めて移動するエスキモーの部族では犬橇の操作が出来なくなった老人は、橇に寝かせて置き去りにする風習があるそうであるし、南米の狩猟生活をする移動部族では、そこそこの老人になると、老人を木に登らせて、揺すって落ちて来なければ、家族、部族の一員として行動を共にすることを許すが、体力が無くて木から落ちれば、その場で殴殺してしまうという。
これらが真実であろうとなかろうと、私達は、昔も今もそのようなことを何らかの方法で行なっている。例えば今の老人ホームやホスピスでのターミナルケアがそうである。前にも言ったが老人ホームは事実上、親を見捨てることであり、姥捨て山と変わりはしない。

楢山節考では、来世を信じ、死を自然なこととして受け入れ、自ら淡々と楢山に赴くおりん婆と、楢山に行くことを拒み無理やり連れて行かれ崖から突き落とされてしまう銭屋の又やん(原作の源爺さん)が対称的に描かれている。

要は死を受容出来るか、出来ないかの違いである。

それはエリクソン風にいえば、ライフサイクルを一つ一つ躓くことなく乗り越えて来て、最後に人生に感謝して統合、完全性を得ることが出来たかどうかによるとも言えるし、あるいは人間の営みを大きな自然・宇宙的な摂理の基で捉え、死を自然なもの、人間の生は宇宙の大きな時間軸のなかでの一瞬でしかないと考えるかの違いであろう。

これは古来からの東洋的な思想・世界観であり、またそれが現代の量子論が導く世界観でもあるところが面白い。
人類の文明・科学は、この100年で急速に大きく進歩したと思っているが、実はそれはほんの一面のことであり、実体というか本質は、何も変わっていないのではないかと、密かに私は思うのである。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

いつのころからか、花屋に商品として家具がおいてあったり、インテリアショップに食品が並んでいたり、花屋や本屋がカフェを併設したりと、異業種が混在するような業態は珍しく無くなった。考えてみればファッションだって、食事だって花屋にしたって、みなライフスタイルの一つの提案であるのだから、それらを複合して提案するショップがあってもおかしくも不思議でもないのだ。
これらをライフスタイル提案ショップというらしい。

本来、セレクトショップというのは、ある傾向の趣味趣向の人が自分のセンスでセレクトしたものを店に並べ、同好の人がいれば買ってちょうだいとして始めたものだ。だからそこには、ファッションだけでなく、家具から食器・調度品までのインテリアが揃い,洒落た食品が置いてあり、時にはフードコーナーやカフェバーが併設されていたり、しいては好みの車までおいてあるというのが正しい姿ではあるまいかと思い、そのような店を持ちたいものだと真剣に思った時期もあった。

一昔前は、車だけはこだわるが、食べ物は何でもいいという人や、ファッションにはこだわるが、インテリアは無頓着というような人は珍しくはなかったが、昨今はそれらすべてに共通項を持った、ライフスタイル全体に一貫性のある人が増えてきたように思う。

それに合わせるかのようにライフスタイル提案型ビジネスは急成長で、男性誌では、それは車の雑誌から始まった。二玄社の出していた「CAR NAVI」がおそらくそのはしりであろうが、その後「ENGINE」が続いた。(実は同じ編集者が作った雑誌であったのだが。)生活、文化に重きを置いた雑誌では「PEN」や「男の隠れ家」が古く「日経おとなのOFF」が続いた。「GOETHE」「GQjapan」は比較的最近で、洗練されているが、そのカテゴリーであろう。LEON、Gainer,RUDO,MADUROなどのファッション系の雑誌もモダンリビングやCASA BURUTASなどインテリア系の雑誌も、ことごとくファッション、レストラン紹介、新車や新しい雑貨の情報、映画や美術系の記事も載せて、もはや内容的には境界が無くなってきたようである。
したがって、自分の好みの合った雑誌を見つけると、情報集めが一冊で済み、至極便利で楽ちんになったものである。

ちなみに小生の愛読雑誌は00,00,00であり、、、、、、具体名は教えない。
なぜなら自分の情報源がわが身を守る機密情報であるのは国家と同じであるからである。

心理学者アドラーは性格、人格という言葉の代わりにライフスタイルという用語を用いたが、その意味することは「人生目標に向かう線の、その人特有のパターンのこと」であるとし、ライフスタイルを知ることが治療上大きな意味があるとしていることからもライフスタイルはその人の人となりを良く表しているのである。

自己意識に公的自己意識と私的自己意識があるように、ライフスタイルにも他人を意識する公的ライフスタイルと、自分の内的な生活を意識する私的ライフスタイルがあるように思える。外見や生活の仕方、振る舞いなどは公的ライフスタイルで、思想や読書、芸術鑑賞の傾向は私的ライフスタイルであろう。

その私的ライフスタイルの点でいうと、小生はテレビ番組ではブラタモリ(アシスタントの女性アナウンサーがまたいいですね、みな出世して、すぐにいなくなるけど)や新日本風土記(松たか子のナレーションがまたいいですね)、鶴ベイの家族に乾杯、鴨川食堂、様々なジャンルのNHKスペッシャルなどが好きであり、これで受信料拒否は詐欺みたいなものと思いつつも、(幸い)これまでに払う機会に恵まれていません。
最近は若者のテレビ離れのせいか、老人向けの番組、昭和を語るようなノスタルジックなものが多いが、武田鉄也の「昭和グラフィティ」は、やはり司会者が説教くさくていけないし、関口宏の「人生の詩」は徹子の部屋よりはましかという程度のものであり、一般に民放は企画力も制作力も見劣りしますね。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点 今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

さて、右も左もライフスタイルをテーマに商売を始めると、レベルが平準化してつまらなくなるものだが、最近と言っても昨年の暮れであるが、南青山に開店したCity Shopはなお斬新である。吉井雄一という熊さんのような風貌だが、とってもハイセンスなセレクトショップから自分のブランドまでを立ち上げるような優れたデザイナーが作り上げたフード、ファッション&カルチャ―ショップである。
前回のこの欄で南青山を取り上げた時にも登場したが、1階がこだわりグルメサラダのフードショップで2階が高価な一点もののヴィンテージものからcity shopブランドのファッション、100円ショップのようなグッズ、CD、アートブック、雑貨までが並ぶ独特の世界観を呈するショップになっている。
「高級品ばかりが美しいとは限らない、ハイ&ローで、いいものはいい」という強い自信に裏付けられた自己主張のお店なのである。
1階のグルメサラダショップは、ランチプレートが1500円程度で、各種こだわり野菜と肉、魚が5種類選択でき、それにスープにパンが付くというサービスぶりなのである。しかも確かに野菜は飛び切り旨いのである。
もっとも一緒に行った連れの話では、「このボリュームがいつまでもつのかしら?今だけじゃないの?」とのご高察ではありましたが。
さすれば是非、今のうちにお尋ねください。土日のお昼時は並んでいて、なかなか入れませんから、平日のランチタイム前後なら並ぶこともなさそうでお薦めです。夜は行ったことはありませんが、看板を見ると、アルコールも出て、二人以上で食べ放題飲み放題のコースもあるようで、楽しみですね。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

やはり南青山ははずせませんね。

南青山界隈の変遷-新しくて懐かしい街

空き地にランボルギーニが展示されていた。

空き地にランボルギーニが展示されていた。

ウラカン

ウラカン

 国道246号線青山通りと骨董通り、それに通称ブティック通りと根津美術館通りに囲まれた南青山の一角及びその周辺が最近大きく変わろうとしている。

表参道との交差点

表参道との交差点

 僕は、なぜかこの界隈には昔からなじみが深いが、東京オリンピックの翌年に田舎から上京したので、さすがに都電が青山通りを走っているのは見たことはないが、未だ道路工事などでその余韻が多く残っていたのは覚えている。
 青山通りの北側には、当時としては珍しく深夜までやっていたことで有名なユアーズというスーパーマーケットがあった。お店の前にコンクリートに刻印された有名人の足形が置いてあり、店では有名な芸能人も良く見かけた。青山ケンネルは当時から今でもあるが、国連大学や子供の城は無論相当後のことである。

アンデルセン

アンデルセン

 1970年頃には表参道との交差点にはアンデルセンという広島の製パン会社のアンテナショップが出来、一階のパン屋は、今では地方でも普通になった、店内でパンを焼いて店頭に並べトレイで客がとるというスタイルのはしりではなかったかと思う。二階は、北欧料理と称して、ビーフシチューにきし麺のようなヌードルが付いたものや、スモークサーモンのオープンサンドなど当時としては随分お洒落なものを出していた。
 ちなみにここは、田舎少年であった僕にとっては特別なハレの食事の場であった。アンデルセンは今でも営業しているが、何の変哲もない軽食喫茶のような業態になっていて、昔を知る者には隔世の感がある。
 神戸のドンクがバゲットを売り出したのもこの界隈であった。当時はフランスパンと言って珍しく、包装紙のデザインもお洒落で随分と人気があった。丁度ヴァンジャケットの紙袋が人気があったように、当時はお洒落アイテムが絶対的に少なかったのだろう。
 このころから原宿は若者の街になった。それまでの原宿は、大人たちのお忍びの遊び場であったように思う。コ―ポオリンピアの一階にある割烹では「重よし」などは当時の面影を残している。

スパイラルビル

スパイラルビル

 しばらくして洋服のワールドがスパイラルビルを建てた。地下にCAYというタイ料理屋が出来、舞台ではタイの民族舞踊ショーを見せていた。生春巻きやトムヤムクン、パクチーの入ったパッタイ、グリーンカレーなど初めて体験するスタイリッシュで本格的なタイ料理屋であり、エスニック料理ブームの幕開けであったように思う。今でもCAYはあるが、個性のない洋風居酒屋のようになっている。2階は展示ホールとセンスのいい雑貨やになっているので、小物好きにはお薦めである。

ブティック通り

ブティック通り

 表参道が青山通りを突っ切って根津美術館に向かう通りをブティック通りと、いつから言うようになったかは知らないが、1970年代半ば頃にはフロムファーストビルが出来、三宅イッセイやケンゾーの店が入った。もう無くなったがアルファキュービックというブランドは当時は大層人気があった。BARBASというメンズブランドが僕のお気に入りで、それを機にして僕はイタリア好き小僧のデビューを果たしたが、ここも10年位で店を閉めた。地下にはポアソンルージュというフレンチや、名前は忘れたが当時格式が高いことでで有名だったリストランテがあり、近くのヨックモックやフィガロに人が集まりだした。10年後には安藤忠雄設計のコレッチオーネが出来ると、周辺の道路の両側に中小のブランドの路面店が並ぶようになった。コレッチオーネはどのテナントも永続きせず、頻繁に入れ替わった。今はスペース貸しをしているようである。

プラダ

プラダ

コムデギャルソン

コムデギャルソン

アランミクリ

アランミクリ

 その後青山通りの近くにコムデギャルソンやプラダ、ミュウミュウ、カルティエが出来るとまぎれもなく一流のブティック通りになった。するとこの通りと骨董通りを結ぶ狭い道沿いにイタリアンのレストランヒロや洋書の島田書店、眼鏡のアランミクリなど様々な業種の店が並び始めた。

レクサスカフェ

レクサスカフェ

 そのうちに、どういう訳か、あのあか抜けない、三河が本社のトヨタがブティック通りにレクサスカフェショップを出した。

AVEDA

AVEDA

city shop

city shop

natural costume,wall

natural costume,wall

福井県アンテナショップ

福井県アンテナショップ

 今はCICADAを中心にCity shopをはじめ、お洒落なレストランやファッションや雑貨のセレクトショップで溢れるようになった。

恐竜と顔の大きさ比べ

恐竜と顔の大きさ比べ

サニーヒルズ

サニーヒルズ

 意外なことにこの一画に福井県のアンテナショップがある。その隣には三国の、超有名な越前かに料理の望洋楼がある。小生は未だ未体験であるが、動けるうちに一度は泊りに行きたいと思っている海に突き出た料理旅館の出店である。

 今は更に墓地下通り(外苑西通り)に向けて広がりつつあるようであるが、和菓子の紅谷を入ったところにバーサードラジオが出来たのは1990年代後半くらいかと思う。さらに3丁目寄りの路地には個性的なオヤジがいた居酒屋「岡田」があり、ここには似つかわしくない青学の美人JDがいつも数名バイトをしていた。店がはねると皆と一緒に藤村俊二がやっていたワインバー「おひょい」にいったものであった。ここは今でも営業しているが、亭主が故人になり、昔の勢いはない。

 この界隈には今こそワインバーが幾つもあるが、昔は居酒屋や飲み屋の類は他にはなかった。しかし不思議なことに東京で初めてスナックというものが出来たのはこの地であった。そこには当時の人気深夜番組11PMが終わると松岡きっこが良く顔を出していた。

パイナップルケーキ

パイナップルケーキ

懐かしい焼き物や

懐かしい焼き物や

 最近ではパイナップルケーキのサニーヒルズが出来、隈研吾の独特の建築も手伝って人気になっている。実はここでの試食はケーキの丸ごとがお茶と一緒に無料で供されるのである。(ただし食べ逃げは、品位に欠けますよ)
 ノリピー事件で話題になったスキーのジローの奥には三ツ星カンテサンスのスーシェフが開いた人気のフレンチ、フロリレージュがあったが、今は移転した。

⑳メルクマールのお稲荷さん

 この南青山辺りはお店の浮沈も激しく、知らぬ間に消える店があれば突然湧き出でる店も多い。

 南青山のこの界隈は、銀座でも六本木でも麻布でもない、また原宿、表参道でもない独特などこにもない特有な雰囲気がある。健康的で健全な感じの(毒にも薬にもならないような)若者が集まる、猥雑さや淫靡さの微塵もない湿度の低い都会の仮想空間とでもいうのだろうか、大人の高級ブランド志向ではないがお洒落が好きで、伊勢丹では飽き足らない、ちょっと知的でモード好きな都会的な男の子、女の子が集まっている街とでも言えようか。
 最近はご多分にもれずアジア系外国人も見かけるようになったが、そこにチョイワル系の中年男もヤンジー系の老人もうまく溶け込んでいる街といえば、自嘲的に自画自賛するにしてもほめ過ぎだろうか。

 

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