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ブロードウェイミュージカル「スウィーニー・トッド」を観たーなんだろうこの気持ちは?

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スウィニー・トッドのプログラム

宮本亜門演出、市村正親、大竹しのぶ主演の人気者コンビのブロードウェイミュージカル「スウィーニー・トッド-フリート街の悪魔の理髪師」公演が東京芸術劇場で行われたので観に行った。
知り合いの女子大生が卒業祝いにリクエストしたので、それに応えて、初めてミュージカルというものを観に行ったのである。

「スウィーニー・トッド-フリート街の悪魔の理髪師」は1979年にブロードウェイで初公演され、2005年までに再々上演を果たし、トニー賞を8部門受賞と言うミュージカルの名作である。

「スウィーニー・トッド」の日本での初演は、ブロードウェイ初演から僅か2年後の1981年で市川染五郎(現松本幸四郎)と鳳蘭が主役で上演している。
宮本亜門が市村正親、大竹しのぶを起用して再演したのが2007年で、その評判が良く2011年、2013年とほぼ同じメンバーで再々上演され、今回が4回目の公演であった。

日本はミュージカル大国らしく、ブロードウエイで評判がいいと世界に先駆けていち早く日本版が上演されるという。商業性に長けた劇団四季はブロードウェイのリメイクの「オペラ座の怪人」「キャッツ」、「ライオンキング」で大成功を収め、今また評判の「アラジン」でヒットを狙っている。

宮本亜門は、それらとは一線を画す演出家で、数々のオリジナルのミュージカルを演出し、中でも「太平洋序曲」はブロードウエイで上演を果たしトニー賞にもノミネートされたし、さらにはヨーロッパでオペラ「魔笛」を初上演し、日本でも新作歌舞伎の演出もし、そのオリジナリティは世界的にも評価が高い。
今回の上演も大人気であり、池袋の芸術劇場は連日満員であったらしい。

小生はミュージカルとかオペラ、歌舞伎、能など舞台芸術の類は殆ど無知で、実体験も、何事も一度くらいは経験しておくか、と思って観に行ったことがある程度のことである。
ミュージカルの類も、宝塚がそれに入るかどうか知らないが、それ以外では、ほぼ初体験と言ってよい恥ずかしい経歴である。

オペラも歌舞伎も、おそらくミュージカルもそうであろうが、話のストーリー性と言うのは極めて単純なもので、ストーリーの展開で何か心に強く感動が残るということは、おそらくほとんど無く、舞台の魅力の殆どが役者個人の演ずる姿形、台詞回し、歌唱力、舞踊の上手さであり、いわば、全体の展開を見るというより、演じるワンシーン、ワンシーンに魅了され感動するのを楽しみに行くようなものであるように思える。
能、歌舞伎やオペラの観客は、ストーリーなどはどうでもいいというか、もう見る前から殆どの人は織り込み済みであり、役者の発するオーラと言うか、その魅力に魅せられて行くのである。だからこそ、同じ公演を何度も何度も観に行くファンが多くいるのである。
おそらく宝塚やミュージカルもそうなのであろう。
(もっとも能に限って演目は、原則一回限りのものではありますが)

従ってスウィーニー・トッドも物語は単純と言うか、特に感動を呼ぶようなモノではなかった。

19世紀半ば頃のロンドンを舞台にした話である。若い美貌の妻を地元の実力者の判事(安崎求)に横恋慕され、無実の罪を着せられ流刑にされたのが主人公の理髪師(市村正親)である。妻は判事に辱めを受け自殺する。15年後にロンドンに戻った主人公はスウィーニー・トッドと名前を変え、大竹しのぶが店主を演ずるロンドン一不味いパイ屋の二階に理髪店を開き、憎っくき判事とその片腕となって悪事を働く役人(斎藤暁)に復讐する機会を待つ。役人が髯を剃りにトッドの理髪店を訪れたのをチャンスとばかりにカミソリで喉を切って殺したが、死体の処理に困ってパイ屋の女主人に相談すると、肉をミンチにしてミートパイにするのはどうかと言われ、賛同してしまう。するとそのパイがロンドン一美味いと評判になりパイ屋は大繁盛する。トッドは肉を提供するために殺人鬼になって来る客を次々に殺しては女主人に渡すようになる、、。

 人がいかに狂気を持つようになるか、言わば正気と狂気の紙一重について、また人に恋をするということが、いかに際限もないもので、身を滅ぼすものであるか、また時には思いが伝わらなく切ないものであるかを、芸達者たちが情感を込めて歌い演じる。
初上演から8年という年月がたち、役者達もそれなりに年を重ね、今は余裕すら感じられる円熟の舞台であったように思えた。

熱烈なカーテンコールが終わって席を立つと、素劇「楢山節考」を見た時の目が滲むような重い気持ちはどこにもなく、かと言って大衆演劇の空虚感もなく、ミュージカルと言う演劇のスタイルが持つ大きな力に圧倒された自分がいた。
そして、10年後の大竹しのぶの演ずるミセス・ラヴェットをもう一度見てみたいと思いながら帰路、地下鉄有楽町線池袋駅に向かって歩いていた。

と同時に、並んで歩いている卒業したての、ほやほやのCAの彼女の10年後はどうなっているのだろうかとフト思ってみたりもした。
10年後に自分がこの世に存在するかどうかも分からないというのに。

奥三河蓬莱峡「はづ合掌」-深山幽谷の絶対静寂の合掌作りの宿

はず合掌

はず合掌

蓬莱峡

蓬莱峡

ゴールデンウィークの初っ端に愛知の老母の見舞いに行った。老人ホームで転倒し大腿頸部骨折を受傷し市民病院で緊急手術を受け、術後リハビリ病院に入院していたからだ。
その帰り道に一泊するに都合の良い宿を、出来れば温泉宿であればと思い東海道筋を探したが、結局2年前に立ち寄った愛知県の東北端にある鳳来峡湯谷温泉をその場所にした。蓬莱峡は深山幽谷でありながら、新東名高速の浜松引佐インターから数十分という足の良さは何ものにも勝ったのである。
それに2年ほど前に、初めて老人ホームの母親を訪ねた際に立ち寄って、その自然の豊かさを大層気に入っていたからでもある。
前回は薬膳料理の「はづ木」に泊まったので、今回は「はづ合掌」という、4軒のはづグループの旅館の中の一軒にした。温泉ではないが、槙原渓谷沿いという立地の良さと、建物が越後の合掌作りの旧家を移築したものであり、部屋数がたった5部屋というのが決め手になった。

一般に、人が宿を決める時はどのような手順で決めるものなのであろうか。
まずは地域、場所であろうか。そして宿の特徴や料金を総合的に判断して決めるものと思われる。ほとんどのホテル、旅館の案内書が地域別になっているのもそのためであろう。行き先が決まれば、宿を、温泉にするか、それも源泉かけ流しを条件にするとか、何よりも料理の良し悪しを優先的に決めるか、あるいは建築の特徴や設えの良さをとるかなど、人様々で、時と場合の好みによるのだろう。

日本の100名宿

日本の100名宿

宿選びは登山好きの、山選びに似ていなくもない。柏井寿の「日本百名宿」というベストセラーになっている光文社新書があるが、そこでは深田久弥の名著[日本百名山]を習い、選考基準に宿の品格、歴史、個性をあげている。人に人格があるように、山には山格があり、宿には「宿格」があるという。宿はは、まず、その品格こそが評価されねばならないという。宿の歴史は、古ければよしとするものではなく、その宿がどのような経緯を経て、今の宿が営まれているかが大事としている。個性は文句なしに重要であり、個性のない宿ほどつまらないものは無いという。
その意味で、全国で地方の斜陽化した高級旅館をリノベー―ションしては、パターン化した、ある意味では没個性的な高級リゾート旅館を展開しているホ○ノリゾートを批判しているが、小生も全くの同感である。

ホールの天井

ホールの天井

ロビー

ロビー

さて、「はづ合掌」は着いてみると、周囲の森林に包まれるかのように大きな合掌作りの建物の頭が顔を出して現れた。太くて大きな柱と梁が、迫力のある存在感を示していたが、暖炉のあるロビーの待合はパブリックなラウンジスペースでもあり、スパーリングワインと梅と柚子のフレッシュジュースがフリードンリンクになって供されていた。

宿泊室内

宿泊室内

部屋の設え

部屋の設え

テラスのラウンジ

テラスのラウンジ

食事処

食事処

僕たちの部屋は一階の一番狭い和室で、おそらく一番廉価な部屋であったのであろうが、それでも二人には広さも十分であり、家具などの設えも民芸調で落ち着いており、サニタリーの設備も行き届き、清潔感に文句はなく満足出来るものであった。おそらく二階の部屋であれば、合掌作りに特徴的な壁と天井が三角形になり梁の柱に締め縄などが見えて風情があったのではないかと想像される。部屋にはテレビなど音の出るものは一切なく、静けさこそがおもてなしという趣向というか配慮があった。

露天風呂

露天風呂

半露天風呂

半露天風呂

風呂は渓流沿いに張り出した石組みの露天風呂と檜の半露天風呂があったが、お湯は湯屋温泉の一画にありながら温泉ではなく薬湯であった。どんな事情でそうなったかは知らないが、それよりも、木漏れ日を受けながら、眼下の岩盤の上を流れる渓流を眺めつつ入るお風呂の快適さが、お湯が温泉ではないことなどどうでも良いと思わせてくれた。
いずれも貸切風呂のシステムであったが、せいぜい5組の客のことだから、何の不自由もなく使えた。

夕食—八寸

夕食—八寸

岩魚の3種盛り

岩魚の3種盛り

焼筍

焼筍

蓬莱牛のステーキ

蓬莱牛のステーキ

食事も、決して山のことだからと言い訳をしないというか、山ならではの食材を生かした格調の高い、丁寧さが良くわかる会席料理であり、日本酒は幻の銘酒と言われる設楽関谷醸造の「空」が置いてあった。

朝食—土鍋ご飯

朝食—土鍋ご飯

小鉢

小鉢

卵焼き

卵焼き

トマト

トマト

朝食も同様に、気持ちのこもったものであった。

ちなみに「はづ合掌」は柏井の「日本の100名宿」の50番目に記載されている。

宇連川

宇連川

川底は岩盤

川底は岩盤

JR飯田線

JR飯田線

飯田線電車

飯田線電車

翌朝は、蓬莱峡、宇連川沿いの散策路を散歩したが、川底は大きな岩盤で敷き詰められたようであり、これは今までどこでも見たことのない独特の渓谷美であり、その川に沿ってJR飯田線が走っている。

長篠城跡

長篠城跡

飯田線線路

飯田線線路

有名な織田信長と武田信玄の長篠の戦いの古戦場跡がある長篠駅はすぐ近くである。時々2両編成の列車がのどかに走って行った。僕はうまく撮れなかったが、おそらく「撮り鉄」にはたまらない垂涎の風景ではないかと思う。

東京へ帰る際に、我々が引佐のインターチェンジに入り、東名と新東名の分岐直前に、新東名高速の掛川平島トンネル内で多重追突による車両炎上事故があり、事故発生を知らせる電光掲示板を見て、とっさに東名高速に迂回し、運よく巻き込まれずに済んだ。おそらくあと数十分も早ければ、7時間の渋滞に巻き込まれたであろうし、もっと運が悪ければ、トンネル内で遭遇し車を捨てて逃げたかもしれない。最悪なら追突事故そのものに巻き込まれたかもしれない。

藪蕎麦宮本

藪蕎麦宮本

島田藪蕎麦カード

島田藪蕎麦カード

しかし我々は、そんなことに思いを馳せることもなく、せっかく東名に来たからにはと、島田インターで降りて、日本一の蕎麦屋と信じる「島田藪蕎麦・宮本」で昼食を摂ることにした。少々待ちはしたが、ここでも運よく当日最後の客として座ることが出来た。
(14:30無くなり次第で終了なのだ)前にも言ったが、宮本の蕎麦は行く度に進化している。行く度に新たな感動があるのだ。蕎麦はあくまでも繊細で、作り手の神経の細やかさが伝わってくるが、蕎麦はしっかり、あくまでも蕎麦である。「これこそが俺が打った蕎麦だ」という自信と風格に溢れている。店内は写真禁止なので、その出来の姿形はお見せ出来ないが、小生の二番手柏の「竹やぶ」とは一段風格が違うし、三番手蓼科の「しもさか」とはおよそ蕎麦の概念が違うだろう。ざるや天ぷらそばは言うに及ばず、今回は山菜の天麩羅が実に絶妙であった。贔屓の天ぷら屋「天真」もかなわない程の出来であったと思う。

人は、運が悪く働くと、大いに嘆き、腹をたてるが、幸運にはさほど感激もせず、当然のように思うものなのだろうか。良く考えれば、我々はトンネル事故に巻き込まれもせず、おまけに島田藪で昼ごはんを食べ、東京まで渋滞知らずで帰れたことは、かなり幸運であったと感謝すべきであるという他あるまい。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

劇団Eastonesの第11回公演が下北沢駅前劇場であったので、その千秋楽に一人で出かけた。知人に熱心に勧められてのことであった。実は一年前にも中野ザ・ポケットでの公演にも行ったので、2回目になる。
正直言うと、前回が余りにも退屈だったので乗り気ではなかったのだが、熱心な勧誘だったので、おそらくチケットの売れが悪くて困っているのだろうと思いお付き合いしたのだ。
しかし出かけてみると、小さな劇場とはいえ、ぎっしり満席であった。開演15分前には、殆どの席も埋まり人息れでムンムンする盛況で、まずそれに驚いた。

お芝居は脚本も、演出も、役者の演技も,いわば独りよがりで、前回同様きわめて平凡で退屈なものであった。
おそらくジャンルは大衆演劇に入るのだろうが、一言でいえば、時間こそ1時間45分と永かったが、子供の頃田舎の神社のお祭りの境内で見た旅芝居に毛が生えたようなものであり、そこには何らかの主張らしきものは微塵もなく、良く言えば大衆娯楽性に徹しているのだろうが、かと言って昔あったエノケンやデン介、藤山寛美やテナモンヤ三度笠、欽ちゃん劇場のような個性的な喜劇性に繋がるようなものもなく、それどころか取ろうとする笑いさえも空回りしており物哀しくさえあった。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

劇団は創立8年目というから、団長はそれなりの年になってから旗揚げしたことになろうが、一体何がしたくて始めたのだろうと最初は訝ったが、まあ、芝居が好きということに尽きるのだろうというのが小生の結論だった。それにしても、自分達が好きという一念でやるには大きなエネルギーが要り大変だろうなとも思い、そこまでやりぬく意思の強さというか気持ちの強さに、まずは感嘆し尊敬もした。
演ずるという行為はそこまで人にエネルギーを与えるものなのだろうか。

年に2回の公演で延べ2週間客を呼んで、たとえ毎日満席でも、生活の足しどころか、持ち出しであろうから、稽古などに取られる時間を考えれば、副業(本業?)は相当頑張らないとやっていけないだろうなと、余計なことながら心配になった。

それにしてもこの程度の劇団に、8年も継続させる多くのファンが付いているのにも驚いた。おそらく一見というより、固定したファンの様であり、小生と同様に劇団員との繋がりの客が多いのであろうか、劇中の笑いの間や掛け合いなど役者との距離の近さがひしひしと伝わってきた。
ここにも直ぐには理解できない芝居好きのフアンの姿があった。

何故芝居なの?-劇団Eastonesの公演「十手ガール捕り物帳」を見て思ったこと

演劇という芸術文化の観点から言えば、この劇団は、とても才能に恵まれているとは言い難いが、それでも決して安くはない入場料を払って支えるフアンがいて、まさに捨てる神あれば、拾う神ありだなあ、と世の中の巡りあわせの妙に感心したりもした。

しかし考えてみれば、小生もまさしくその一員であり、一人の劇団員のバイト先(銀座の、、)で知り合っただけなのに、こうして差し入れを持って電車を乗りかえてまで観劇に出かけるのですから。
いやいや、小生はもう年ですから、ご想像のような二心はありませんよ。
あったところで何の意味も持ちませんから。

劇団1980の素劇『楢山節考』を観てー「老いること」を考える

楢山節考

深沢七郎が1956年に中央公論に発表し新人賞を受賞した「楢山節考」を原作に、関谷幸雄が戯曲化した「素劇楢山節考」を劇団1980が公演したので観に行った。演劇界での評判が高く、原作者も劇団も個性派で、大いに興味をそそられたのである。

深沢七郎は、日劇ミュージックホールに出演したこともあるギタリストでもあるが、1960年に中央公論に発表した「風流夢譚」が、皇室を侮辱したとして右翼が中央公論社長を襲撃した嶋中事件が起きた渦中の人物であるが、同年には旧社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼の少年に講演中に壇上で刺殺されるという事件も起きており、左翼と右翼が殺伐とした雰囲気で対峙していた60年安保の余韻が残る頃であった。小生は未だ中学生であったが、この二つの事件はよく覚えている。
深沢はその後、埼玉でラブミー牧場を経営したり、向島に今川焼き屋「夢屋」を開いたりして人騒がせをしたが、嵐山光三郎や赤瀬川原平らと親交があり、文人らしからぬ波乱の人生を送った。
音楽ではビートルズ、ジミ・ヘンドリックス、ローリングストーンズなどのファンで、葬儀の告別式では、遺言に従って、それらの曲や自ら作詞した楢山節の弾き語りのテープが流れたという。

『楢山節考』は、信州の貧しい寒村で、老人が70歳になると子供が背負って、奥深い楢山に捨てに行くという姥捨ての風習を書いたもので、三島由紀夫が激賞し、文壇に衝撃を与えたことから、1958年木下恵介が映画化し、1983年には今村昌平が再度映画化し、カンヌ映画祭でパルムドール賞を取って世界的にも評価された。
その今村昌平が作った横浜放送映画専門学校の卒業生たちが、1980年に立ち上げたのが劇団1980(イチキュウハチマル)であり、それが今回、素劇『楢山節考』を公演したのである。

キャスト

素劇というのは、舞台装置や美術を使わず、役者の存在だけで表現しようとするもので、「空間は見るものが想像力で補えばよい」とするピーター・ブルックの演劇論「何もない空間」の影響を受けた演劇のスタイルであり、小道具は紐と黒い箱と一枚の布だけで、役者は全員作務衣というか、忍者のような黒装束で演じるので、観客は役者の演技に集中することになり、いわば心理的な転移がおき、舞台と観客席の空間が一体化するのである。
また劇中では、楢山節という民謡の素朴な調べが哀愁のあるギターの音色で奏でられ、物語の切なさと相まって一層感動的であった。役者も全員が気の抜けない迫力のある演技をし、特におりん婆役の星野有里と息子辰平役の藤川一歩は出色であったと思う。

時代はおそらく江戸時代か、せいぜい明治・大正時代までのことであろうが、社会が「老い」にどう向かい合うか、また市場経済以前の貧しい共同体がどのように生き延びていくかというという、時代性を超えたテーマであった。
村人が食べていくには、老人を捨てるしかなかったのである。
熱海の沖合10kmにある初島では水道パイプラインが開通した戦後の最近までは、世帯数を42戸に限定する掟が江戸時代から守られて来たそうである。生活用水が島民の人数を限定したのである。跡取り以外は島から出て行く、外来者の移住は一切受け付けないことで島民は生き延びてきたのである。

共同体社会、いや市民社会においてすら、自らの生活の存続がかかると人権も民主主義も脆いものであることは、昨今のヨーロッパの難民問題を見ればよくわかる。そして常に弱者が犠牲になるのは、今も昔も少しも変わっていない。

この芝居は「老いる」ことのメタファーであったと思う。
一般に演劇は心の中に漠然とあるものを、すっきりと現前化してくれるメタファーである。

そこで現代における「老いること」の意味を考えてみようと思う。
老年期は、人のライフサイクルの最後のステージで、人生の主要な一部門である。成長期(乳幼児、児童期)、成熟期(青年期、成人期)、に続く退縮期に当り、それは老化の予期不安から始まり、確信し、現実のものになる過程である。
身体的老化の定義は、「退縮期において身体の生理的な機能の低下と、ホメオスターシス(体内の変化を定常的に行わせ、外れたら元に戻すシステム:恒常性)の機能が減退すること」となるが、精神的な老化は、心理学、哲学、社会学、宗教も絡み定義しづらい。

現代社会では、信仰に近いほどまでに「若さ」があがめられ、「老いること」は価値の無い、ネガティヴなものになった。かつて老人達は、社会の一時代、家族の一世代を繋いできたものとして畏敬の念でもって遇されたのが、なぜ今日ほどまでに老人が軽んじられるようになったのだろうか。その理由を考察してみる。

1)自然科学の発達は、自然界のすべてのことが因果律で説明でき、人間がコントロール出来るかのような錯覚をもたらした。そこでは人間の営み、生命も、超越的な存在(神)がデザインした宇宙・自然界の一部であるという認識が薄らぎ、「老化も死」も自然界の大きな秩序の中の営みの一部であるという「死の尊厳」が損なわれた。むしろ死は怖いもの、忌まわしきものとなり死の受容を困難にし、従って、死に近い老化もネガティヴなものになった。

2)資本主義の市場経済社会はイノベーションして新しいものを作り、それを市場に出して利潤を追求していく構造である。それは必然的に「新しいもの、若いもの」に価値がある産業文化を生み、イノベーション、利潤を生まない老人は価値を失った。

3)戦後民主主義は、戦前の大家族,家長制度を否定して個人主義、自立主義を取り入れ、核家族化を推進してきた。それは社会の論理としては悪いことではなかったが、家族の論理にまで拡大し、家族の間でしか伝承できないような世代性とか絆のような情緒的な感情を失い、自立できない老人は厄介者になり、老人の存在理由を奪って孤立化させることになった。

4)かつて老人が持っていた英知、長老としての経験知、知恵が、高度情報化社会では価値が無くなり、老人を必要としなくなった。

などが推察できる。

こうしてわが国でも「老いること」は忌まわしい、ネガティヴなメタファーになったが、本来、東洋思想では老化はネガティヴなメタファーではなかった。十牛図の最後の第10図では老人と若者の出会いが描かれており、老若は統合し、そこで新創造物が再生されることを意味している。ユングを始め近代の心理学者や、ボーアなどの量子物理学者では東洋の陰陽思想(相補性)に傾倒する者も少なくないが、アインシュタインの一番弟子であったボームがホログラフィックパラダイムという新しい世界観を提唱し、老いもそのような世界観でとらえるべきとする考えが出てきている。そこでは、「全体から部分へ、部分には全体の総体が存在する」というパラダイムであり、老人を現在の弱体化した肉体を持つ人生の終末の一部分としてみるのではなく、生まれてから成長、成熟し歴史の一時代を継承してきた経験の総体として大きく捉えることが老人のマイナスイメージから活性的なものに変えていくとする考えである。

現代科学は、自然界、社会のあらゆる事象を線形的な考えで捉えることの限界性を明らかにし、複雑系な捉え方、ゲシュタルト心理学のような視点に立って見ることの重要性をいうが、老人に対しても、そのような視点に立ってこそ老人の復権が可能になると思うのである。

楢山節考に話を戻すと、世界に姥捨て山に類似した話はいくつもある。
獲物を求めて移動するエスキモーの部族では犬橇の操作が出来なくなった老人は、橇に寝かせて置き去りにする風習があるそうであるし、南米の狩猟生活をする移動部族では、そこそこの老人になると、老人を木に登らせて、揺すって落ちて来なければ、家族、部族の一員として行動を共にすることを許すが、体力が無くて木から落ちれば、その場で殴殺してしまうという。
これらが真実であろうとなかろうと、私達は、昔も今もそのようなことを何らかの方法で行なっている。例えば今の老人ホームやホスピスでのターミナルケアがそうである。前にも言ったが老人ホームは事実上、親を見捨てることであり、姥捨て山と変わりはしない。

楢山節考では、来世を信じ、死を自然なこととして受け入れ、自ら淡々と楢山に赴くおりん婆と、楢山に行くことを拒み無理やり連れて行かれ崖から突き落とされてしまう銭屋の又やん(原作の源爺さん)が対称的に描かれている。

要は死を受容出来るか、出来ないかの違いである。

それはエリクソン風にいえば、ライフサイクルを一つ一つ躓くことなく乗り越えて来て、最後に人生に感謝して統合、完全性を得ることが出来たかどうかによるとも言えるし、あるいは人間の営みを大きな自然・宇宙的な摂理の基で捉え、死を自然なもの、人間の生は宇宙の大きな時間軸のなかでの一瞬でしかないと考えるかの違いであろう。

これは古来からの東洋的な思想・世界観であり、またそれが現代の量子論が導く世界観でもあるところが面白い。
人類の文明・科学は、この100年で急速に大きく進歩したと思っているが、実はそれはほんの一面のことであり、実体というか本質は、何も変わっていないのではないかと、密かに私は思うのである。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

いつのころからか、花屋に商品として家具がおいてあったり、インテリアショップに食品が並んでいたり、花屋や本屋がカフェを併設したりと、異業種が混在するような業態は珍しく無くなった。考えてみればファッションだって、食事だって花屋にしたって、みなライフスタイルの一つの提案であるのだから、それらを複合して提案するショップがあってもおかしくも不思議でもないのだ。
これらをライフスタイル提案ショップというらしい。

本来、セレクトショップというのは、ある傾向の趣味趣向の人が自分のセンスでセレクトしたものを店に並べ、同好の人がいれば買ってちょうだいとして始めたものだ。だからそこには、ファッションだけでなく、家具から食器・調度品までのインテリアが揃い,洒落た食品が置いてあり、時にはフードコーナーやカフェバーが併設されていたり、しいては好みの車までおいてあるというのが正しい姿ではあるまいかと思い、そのような店を持ちたいものだと真剣に思った時期もあった。

一昔前は、車だけはこだわるが、食べ物は何でもいいという人や、ファッションにはこだわるが、インテリアは無頓着というような人は珍しくはなかったが、昨今はそれらすべてに共通項を持った、ライフスタイル全体に一貫性のある人が増えてきたように思う。

それに合わせるかのようにライフスタイル提案型ビジネスは急成長で、男性誌では、それは車の雑誌から始まった。二玄社の出していた「CAR NAVI」がおそらくそのはしりであろうが、その後「ENGINE」が続いた。(実は同じ編集者が作った雑誌であったのだが。)生活、文化に重きを置いた雑誌では「PEN」や「男の隠れ家」が古く「日経おとなのOFF」が続いた。「GOETHE」「GQjapan」は比較的最近で、洗練されているが、そのカテゴリーであろう。LEON、Gainer,RUDO,MADUROなどのファッション系の雑誌もモダンリビングやCASA BURUTASなどインテリア系の雑誌も、ことごとくファッション、レストラン紹介、新車や新しい雑貨の情報、映画や美術系の記事も載せて、もはや内容的には境界が無くなってきたようである。
したがって、自分の好みの合った雑誌を見つけると、情報集めが一冊で済み、至極便利で楽ちんになったものである。

ちなみに小生の愛読雑誌は00,00,00であり、、、、、、具体名は教えない。
なぜなら自分の情報源がわが身を守る機密情報であるのは国家と同じであるからである。

心理学者アドラーは性格、人格という言葉の代わりにライフスタイルという用語を用いたが、その意味することは「人生目標に向かう線の、その人特有のパターンのこと」であるとし、ライフスタイルを知ることが治療上大きな意味があるとしていることからもライフスタイルはその人の人となりを良く表しているのである。

自己意識に公的自己意識と私的自己意識があるように、ライフスタイルにも他人を意識する公的ライフスタイルと、自分の内的な生活を意識する私的ライフスタイルがあるように思える。外見や生活の仕方、振る舞いなどは公的ライフスタイルで、思想や読書、芸術鑑賞の傾向は私的ライフスタイルであろう。

その私的ライフスタイルの点でいうと、小生はテレビ番組ではブラタモリ(アシスタントの女性アナウンサーがまたいいですね、みな出世して、すぐにいなくなるけど)や新日本風土記(松たか子のナレーションがまたいいですね)、鶴ベイの家族に乾杯、鴨川食堂、様々なジャンルのNHKスペッシャルなどが好きであり、これで受信料拒否は詐欺みたいなものと思いつつも、(幸い)これまでに払う機会に恵まれていません。
最近は若者のテレビ離れのせいか、老人向けの番組、昭和を語るようなノスタルジックなものが多いが、武田鉄也の「昭和グラフィティ」は、やはり司会者が説教くさくていけないし、関口宏の「人生の詩」は徹子の部屋よりはましかという程度のものであり、一般に民放は企画力も制作力も見劣りしますね。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点 今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

さて、右も左もライフスタイルをテーマに商売を始めると、レベルが平準化してつまらなくなるものだが、最近と言っても昨年の暮れであるが、南青山に開店したCity Shopはなお斬新である。吉井雄一という熊さんのような風貌だが、とってもハイセンスなセレクトショップから自分のブランドまでを立ち上げるような優れたデザイナーが作り上げたフード、ファッション&カルチャ―ショップである。
前回のこの欄で南青山を取り上げた時にも登場したが、1階がこだわりグルメサラダのフードショップで2階が高価な一点もののヴィンテージものからcity shopブランドのファッション、100円ショップのようなグッズ、CD、アートブック、雑貨までが並ぶ独特の世界観を呈するショップになっている。
「高級品ばかりが美しいとは限らない、ハイ&ローで、いいものはいい」という強い自信に裏付けられた自己主張のお店なのである。
1階のグルメサラダショップは、ランチプレートが1500円程度で、各種こだわり野菜と肉、魚が5種類選択でき、それにスープにパンが付くというサービスぶりなのである。しかも確かに野菜は飛び切り旨いのである。
もっとも一緒に行った連れの話では、「このボリュームがいつまでもつのかしら?今だけじゃないの?」とのご高察ではありましたが。
さすれば是非、今のうちにお尋ねください。土日のお昼時は並んでいて、なかなか入れませんから、平日のランチタイム前後なら並ぶこともなさそうでお薦めです。夜は行ったことはありませんが、看板を見ると、アルコールも出て、二人以上で食べ放題飲み放題のコースもあるようで、楽しみですね。

今流行のライフスタイル提案型ショップ「CITY SHOP」ー食とファッションの交差点

やはり南青山ははずせませんね。

南青山界隈の変遷-新しくて懐かしい街

空き地にランボルギーニが展示されていた。

空き地にランボルギーニが展示されていた。

ウラカン

ウラカン

 国道246号線青山通りと骨董通り、それに通称ブティック通りと根津美術館通りに囲まれた南青山の一角及びその周辺が最近大きく変わろうとしている。

表参道との交差点

表参道との交差点

 僕は、なぜかこの界隈には昔からなじみが深いが、東京オリンピックの翌年に田舎から上京したので、さすがに都電が青山通りを走っているのは見たことはないが、未だ道路工事などでその余韻が多く残っていたのは覚えている。
 青山通りの北側には、当時としては珍しく深夜までやっていたことで有名なユアーズというスーパーマーケットがあった。お店の前にコンクリートに刻印された有名人の足形が置いてあり、店では有名な芸能人も良く見かけた。青山ケンネルは当時から今でもあるが、国連大学や子供の城は無論相当後のことである。

アンデルセン

アンデルセン

 1970年頃には表参道との交差点にはアンデルセンという広島の製パン会社のアンテナショップが出来、一階のパン屋は、今では地方でも普通になった、店内でパンを焼いて店頭に並べトレイで客がとるというスタイルのはしりではなかったかと思う。二階は、北欧料理と称して、ビーフシチューにきし麺のようなヌードルが付いたものや、スモークサーモンのオープンサンドなど当時としては随分お洒落なものを出していた。
 ちなみにここは、田舎少年であった僕にとっては特別なハレの食事の場であった。アンデルセンは今でも営業しているが、何の変哲もない軽食喫茶のような業態になっていて、昔を知る者には隔世の感がある。
 神戸のドンクがバゲットを売り出したのもこの界隈であった。当時はフランスパンと言って珍しく、包装紙のデザインもお洒落で随分と人気があった。丁度ヴァンジャケットの紙袋が人気があったように、当時はお洒落アイテムが絶対的に少なかったのだろう。
 このころから原宿は若者の街になった。それまでの原宿は、大人たちのお忍びの遊び場であったように思う。コ―ポオリンピアの一階にある割烹では「重よし」などは当時の面影を残している。

スパイラルビル

スパイラルビル

 しばらくして洋服のワールドがスパイラルビルを建てた。地下にCAYというタイ料理屋が出来、舞台ではタイの民族舞踊ショーを見せていた。生春巻きやトムヤムクン、パクチーの入ったパッタイ、グリーンカレーなど初めて体験するスタイリッシュで本格的なタイ料理屋であり、エスニック料理ブームの幕開けであったように思う。今でもCAYはあるが、個性のない洋風居酒屋のようになっている。2階は展示ホールとセンスのいい雑貨やになっているので、小物好きにはお薦めである。

ブティック通り

ブティック通り

 表参道が青山通りを突っ切って根津美術館に向かう通りをブティック通りと、いつから言うようになったかは知らないが、1970年代半ば頃にはフロムファーストビルが出来、三宅イッセイやケンゾーの店が入った。もう無くなったがアルファキュービックというブランドは当時は大層人気があった。BARBASというメンズブランドが僕のお気に入りで、それを機にして僕はイタリア好き小僧のデビューを果たしたが、ここも10年位で店を閉めた。地下にはポアソンルージュというフレンチや、名前は忘れたが当時格式が高いことでで有名だったリストランテがあり、近くのヨックモックやフィガロに人が集まりだした。10年後には安藤忠雄設計のコレッチオーネが出来ると、周辺の道路の両側に中小のブランドの路面店が並ぶようになった。コレッチオーネはどのテナントも永続きせず、頻繁に入れ替わった。今はスペース貸しをしているようである。

プラダ

プラダ

コムデギャルソン

コムデギャルソン

アランミクリ

アランミクリ

 その後青山通りの近くにコムデギャルソンやプラダ、ミュウミュウ、カルティエが出来るとまぎれもなく一流のブティック通りになった。するとこの通りと骨董通りを結ぶ狭い道沿いにイタリアンのレストランヒロや洋書の島田書店、眼鏡のアランミクリなど様々な業種の店が並び始めた。

レクサスカフェ

レクサスカフェ

 そのうちに、どういう訳か、あのあか抜けない、三河が本社のトヨタがブティック通りにレクサスカフェショップを出した。

AVEDA

AVEDA

city shop

city shop

natural costume,wall

natural costume,wall

福井県アンテナショップ

福井県アンテナショップ

 今はCICADAを中心にCity shopをはじめ、お洒落なレストランやファッションや雑貨のセレクトショップで溢れるようになった。

恐竜と顔の大きさ比べ

恐竜と顔の大きさ比べ

サニーヒルズ

サニーヒルズ

 意外なことにこの一画に福井県のアンテナショップがある。その隣には三国の、超有名な越前かに料理の望洋楼がある。小生は未だ未体験であるが、動けるうちに一度は泊りに行きたいと思っている海に突き出た料理旅館の出店である。

 今は更に墓地下通り(外苑西通り)に向けて広がりつつあるようであるが、和菓子の紅谷を入ったところにバーサードラジオが出来たのは1990年代後半くらいかと思う。さらに3丁目寄りの路地には個性的なオヤジがいた居酒屋「岡田」があり、ここには似つかわしくない青学の美人JDがいつも数名バイトをしていた。店がはねると皆と一緒に藤村俊二がやっていたワインバー「おひょい」にいったものであった。ここは今でも営業しているが、亭主が故人になり、昔の勢いはない。

 この界隈には今こそワインバーが幾つもあるが、昔は居酒屋や飲み屋の類は他にはなかった。しかし不思議なことに東京で初めてスナックというものが出来たのはこの地であった。そこには当時の人気深夜番組11PMが終わると松岡きっこが良く顔を出していた。

パイナップルケーキ

パイナップルケーキ

懐かしい焼き物や

懐かしい焼き物や

 最近ではパイナップルケーキのサニーヒルズが出来、隈研吾の独特の建築も手伝って人気になっている。実はここでの試食はケーキの丸ごとがお茶と一緒に無料で供されるのである。(ただし食べ逃げは、品位に欠けますよ)
 ノリピー事件で話題になったスキーのジローの奥には三ツ星カンテサンスのスーシェフが開いた人気のフレンチ、フロリレージュがあったが、今は移転した。

⑳メルクマールのお稲荷さん

 この南青山辺りはお店の浮沈も激しく、知らぬ間に消える店があれば突然湧き出でる店も多い。

 南青山のこの界隈は、銀座でも六本木でも麻布でもない、また原宿、表参道でもない独特などこにもない特有な雰囲気がある。健康的で健全な感じの(毒にも薬にもならないような)若者が集まる、猥雑さや淫靡さの微塵もない湿度の低い都会の仮想空間とでもいうのだろうか、大人の高級ブランド志向ではないがお洒落が好きで、伊勢丹では飽き足らない、ちょっと知的でモード好きな都会的な男の子、女の子が集まっている街とでも言えようか。
 最近はご多分にもれずアジア系外国人も見かけるようになったが、そこにチョイワル系の中年男もヤンジー系の老人もうまく溶け込んでいる街といえば、自嘲的に自画自賛するにしてもほめ過ぎだろうか。

 

正月はテレビ三昧ー私の番組講評

 皆様、新年明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今年のCASA=AFも、恒例となった「正月のテレビ番組」の感想から始めたいと思います。
 以下は、チャンネルをカシャカシャ動かして目に留まったものである。

 *NHK;「ブラタモリ」と「鶴瓶の家族に乾杯」のジョイント番組
 NHKの人気番組である「ブラタモリ」と「鶴瓶の家族に乾杯」をジョイントさせて、そこに今年の大河ドラマ「真田丸」の主人公役の堺雅人を出演させて、大河ドラマの宣伝をはかろうという、NHKには何とも欲張りな番組であったが、やはりこの二人にかかっては、その座持ちの良さや、やり取りの巧妙さに気が取られ、面白くて長時間にも拘らず思わず見てしまった。NHKの思惑にまんまとはまったのである。

 タモリも鶴瓶もデビュー当時は、強烈な下品さが売り物で、二人とも今の番組を持つまではNHKには出入り禁止であったと当人が言っていたが、いざ始めてみると、「家族に乾杯」では、鶴瓶の人柄と間の良いトークが受けて今やNHKの看板番組となっている。小生も日頃、機会があれば、ほとんど見るようにしている。
 「ブラタモリ」は、街歩きの新しい手法を教えて視聴者の興味を引きながらも、タモリのセンス、勘の良さとに支えられて成り立っている番組であるが、多分予想外に人気が出て、長寿番組になったものと思われる。
 街には、知らなければ何でもなく通り過ぎてしまうような所に、地質学的な、あるいは歴史上の色々な痕跡があふれていることを教えてくれ、一か所をブラブラ歩く楽しみ方を教えてくれていて、心が和むのである。
 私達は日頃、余りにせわしく、広く多くのものを観ようとして、結局何も知らず、表層しか見ていないことに気付くのである。それにタモリの教養の深さが随所に滲み出ていて驚くのである。
 同じように人気と評価の高い「たけし」と違ってタモリのすごいところは、一人で番組を引っ張っていける能力があることである。たけしは、多くの番組の司会をしているが、進行役は別に必ずいて、たけしは合の手を入れ盛り上げる役回りであるが、タモリは一人で番組を進行させる力がある。出身が漫才か、一人芸人かの違いもあろうが、根本は教養、知性の差であるような気がしてならない。
 鶴瓶もタモリも、デビュー時と現在の落差の大きさは、二人が成長したのか成熟したのかは知らないが、元々の才能能力はさほど変わらないものだろうから、大いなる才能を有しながらも、芸能界で一定水準に売れるまでは、わざと自分の得意とする路線を変えて角を隠していたのだろう。我々は今になって、ようやくそれに気付かされたのである。

*NHKBS;グレイトトラバース,日本100名山一筆書き踏破
 田中陽希というプロアドベンチャーレーサーが、登山家で随筆家の深田久弥の著書「日本100名山」に載った山々を、人力で一筆書きにルートをとって踏破するという旅の行程をドキュメンタリー風に記録して、2014年に漸次放送したものの一挙に再放送したものであった。地域別に5編からなる全旅程を、正月の2日、3日に渡って、断続的に放送した長時間番組であったが面白くてほとんどを見た。

 山に少しでも興味のある人なら、深田久弥の名著は知っていて、日本の100名山は登山選びの指標にもなっている。

 田中陽希は、南は屋久島の宮之浦岳から北は利尻島の利尻岳までを一筆書きのように連続して、移動距離7800キロメートル,累積標高差10万メートルに及ぶところを陸地は歩いて、湖や海はカヤックを漕いで、人力で208日で踏破したのである。

 田中陽希という、全身が筋肉というバネで出来たような30歳くらいの青年が、ひたすら歩き、登って見せるのである。それもガイドブックの2,3倍のスピードで行くのである。
 イケメンとは程遠いが、色んな場面で朴訥で誠実な人柄が滲み出て、旅が進むに従ってフアンが増えて人気者になって行き、いたる所でフアンの待ち受けを受けうようになり、本人が戸惑う姿も初々しく、また人に接する時の行儀の良さも好ましいし、番組の中で日記の形で本人の心情が吐露されるのも清々しかった。
 時には感極まって本人も涙を流すことがあるが、それを観ている方も思わず涙ぐむという、小生には感動の大きな一編であった。

それにしても、この番組を制作した撮影クルーの力も並み大抵なものではあるまい。どのようにして、この超人に伴走して撮影し記録し続けたのであろうか?上空からの映像はドローンなのだろうか?
 今度はその撮影の様子をドキュメンタリーで是非見たいものである。

 数年前からのNHKの夕方の放送であるが、視聴者の手紙のリクエストによって故郷の思い出の場所を自転車で訪れる、火野正平の「心旅」というNHKの人気番組があるが、これはいけていないと思う。
 こちらはノンフィクションドラマだと言ってしまえば、それまでだが、火野正平が自転車で旅をするというのが売りなのに、どう見ても本当に自転車で走破しているとは思えないのである。走っているのは平らか下りの道ばかりで、第一、汗はかかないし、たまの息切れするシーンも演出っぽくて不自然過ぎるのである。それに主役のタレントの性格の推測するからにして、真面目に走るとはハナから思えないのであるが、手紙を読むシーンには長けているから再放送が繰り返される人気番組になっている。
 多くの視聴者は、彼が本当に自力で走っていると思っているのだろうか?

 読者のリクエストに沿って故郷自慢の場所を訪ねるという、「三宅祐司のふるさと探訪~こだわりの田舎自慢」という民放番組もあるが、最近はこの手が流行のようである。
 こちらは、二番煎じとはいえ三宅祐司のキャラクターで好番組になっていて、小生もフアンの一人である。

*テレビ朝日;ラグビー全国大学選手権準決勝
 東海大と明治大、帝京大と大東大の準決勝戦が秩父宮ラグビー場から実況中継された。

ワールドカップでの日本チームの大活躍で一気に人気が回復したラグビーであるが、80年代は、秩父宮ラグビー場のある外苑前は晴れ着姿の御嬢さんたちで溢れるのが恒例の正月風景でもあったように、松尾や平尾などのスター選手がいて結構人気があったものだ。
 それが1995年の第3回ワールドカップで日本チームが屈辱的な歴史に残る記録的な惨敗をきしてから人気も急降下したが、昨年の五郎丸選手を始めとする日本チームの大活躍で人気も再び急上昇したのである。
 スポーツはやはり、勝たねばならないし、女子のフアンを増やすにはイケメンが必要であることはすべからく歴史の教えるところである。

 ラグビーはルールがややこしく、競技性を楽しむには少し難があるが、ただ見る分でも十分に面白い。基本的には足の速いレスラーを集団で闘わせる様なものであり、そこにボールを介在させて、球技スポーツらしく仕立てていると思えばその本質が良くわかろうというものだ。基本が格闘技であるから、見ている方は血湧き肉躍るのである。

 ローマ時代のコロシアムの格闘技を現代風にしたのがラグビーであり、アメリカンフットボールであると小生は勝手に理解している。

*テレビ東京;「孤独のグルメお正月スペッシャル」
 ここ数年は毎年、正月休みに、「孤独のグルメを」を見るのを楽しみにしていたが、年々、徐々に芝居がかるようになり、今年は、それも限界に来たようで興ざめであった。この番組も、主人公の松重豊も人気が出て、有名になり過ぎたのであろうか。初心忘るるべからずである

*BS1スペッシャル「もう一つのショパンコンクール」
 5年に一度、ショパンの生地であるワルシャワで開催されるピアニストのコンクールで活躍するピアノメーカーの調律師たちの話である。

何ごとも華やかな陽なたの陰にはそれを支える裏方がいるのである。
 コンクールではピアニスト達は使用するピアノを、4つのメーカーのピアノを試しに弾いて選択出来るのだが、ピアノメーカーは自社のピアノをピアニストに選択してもらい、更にはそれを弾いて優勝してもらうのが、今後の社運を賭けた大命題となる為、社を代表する調律師を陣頭に夜を徹してピアノを調律し、また物心両面でピアニストを支援するのである。
 アメリカのスタインウェイ、イタリアのファツオリ、日本のヤマハとカワイの4社の調律師たちのつばぜり合いと、心理的葛藤を、コンクールの20日間のドキュメンタリーに描いていて、シナリオはテンポも良く臨場感もあってなかなかよく出来ていた。
 音楽に疎い小生は、調律師という職業もろくに知らなかったが、絶対音感に長けた天性の才に恵まれたごく一部の人達だけが出来る職業であると思う。それでも彼等には彼等の世界で熾烈な戦いがあり、小生などの住む凡俗の世界と、結局は大差ないことだけは理解できた。

 

初めての東京芸術劇場―アル☆カンパニーの「父よ!」を観た

父よ!

父よ!

愛知県の豊橋市がスポンサーの[とよはし芸術劇場PLAT]がプロデュースし、劇団「ONEOR8」の田村孝祐が演出した、俳優平田満の劇団「アル☆カンパニー」の『父よ』が東京芸術劇場シアターウエストで、2年ぶりに再演(2015.10.2-12)されたので観に行った。池袋にある東京芸術劇場は初めての訪問であった。池袋自体がおそらく20年ぶりということもあってか、その様変わりには驚いた。また地下鉄駅からそのまま芸術劇場に入っていけるアクセスの良さにも感心した。
 「とよはし芸術劇場PLAT」が主催とあるのは、平田満のプロフィールには愛知県生まれと書いてあるが、実際は豊橋市生まれで、その関係があるのかもしれないと推測されるが、本当のところは知らない。

 四人の息子達が、老いた父親の面倒を誰が見るかを決めるために実家に集まって、話し合いをすることで話は展開して行く。
先に逝った母親との回想シーンで父親の意外な一面が暴露されたり、息子たちも語るうちに虚飾が剥がれ、ほんとうの姿が暴かれていく。
 一人が何役もこなして、回想シーンを巧みに取り入れながら進行して行くシナリオの巧みさは、演出家田村孝浩の才能を感じさせるものであった。

舞台シーン

舞台シーン

 喜劇と聞いていたが、人生哀歌であった。僕もそうであるが、おそらく家族を持つものすべてが身につまされる話だ。
 親を思う気持ちはあっても、現実の生活の中では、なかなか両立できない世間のどこにでもある葛藤を描いているが、小劇場出身の個性的な芸達者な俳優たちの競演が、この舞台のただでさえ陰鬱なテーマをコミカルに仕上げ、気分が滅入るのを救ってくれている。
 しかし、コメディタッチで描くからこそ余計に哀しくなる面もあるのも事実だ。
 結局は、肉親の間といえども、いや、それだからこそ一層、人間の孤独が深いものであることを知らされるのである。

出演者

出演者

 ここでは、老老介護、熟年離婚、等の時代性と、親、老人の面倒を見るという普遍的な問題を扱い、世に問うているのである。
 母親の遺言「ケンカは相撲で決めろ」、というのもいい。今日の政府の示す積極的平和主義が戦争を想定して軍拡に参入して行く姿を皮肉っているようでもある。
 そんな終始一貫したネガティブな気分は、最後に父が亡き母(妻)の仏壇の前で手品をするシーンで救われる。夫婦の情愛こそが生きる絆であるかのように、隠れた趣味特技であった手品を燕尾服の正装をしてやってみせるのである。そこで初めて、舞台中では終始会話の中でしか登場しなかった「鳩」が実物として姿を見せ羽ばたいたのである。憎い演出であった。

 僕には、手品のシーンは、まるで父親が能を舞っているかのように思えた。父親がシテとなって母親(妻)の霊を呼び、母親が鳩になってワキを演じたかのように。
 ちょっと感動的であり、感傷的でもあった幕切れであった。

 

ナショナルシアターライブ「The・オーディエンス」を見た-そしてポジティブ心理学について

演劇界の最高峰、イギリス国立劇場ロイヤルナショナルシアターが、厳選した名舞台をデジタル映像化してスクリーンで公開するプロジェクト「ナショナルシアターライブ」の日本公開作品第3弾で、イギリス女王エリザベス2世と歴代の英国首相たちとの謁見で繰り広げられるドラマを描いた「the・オーディエンス」が、昨年の6月に上映されたが、それがこの11月に渋谷のブンカムラ、ル・シネマで一日1回1週間のみ再上映されたので見に行った。
小生は、舞台、映画に関しては、ほとんど何の知識、造詣もなく無教養で恥ずかしいのだが、舞台女優をしているガールフレンド(?)に、「これだけは見なきゃダメ!」と誘われて行ったのである。

「the・オーディエンス」は、映画『クイーン』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したヘレン・ミレンが再びエリザベス2世に扮し、同じくピーターモーガンが脚本を書いた、最高傑作と評判の高かった舞台(トニー賞2部門受賞)の映像化であり、舞台を志す人にはヘレン・ミレンは見逃せない存在らしいのである。

1952年の女王即位以来、毎週行っている歴代英国首相との謁見(オーディエンス)の模様を描いているが、ヘレンが演じる女王の人間味あふれる苦悩、ユーモアは、ウイットに富んだ会話と、巧みな演出で2時間38分と言う長丁場も退屈することはなかった。
女王が毎週決まった曜日にその時の総理大臣を宮殿に招き、国や世界情勢について説明を受ける、その場面が時系列ではなく、時間軸を往ったり来たりしながら進行する。従って女王は若き日の女王から中年、老年を行き来しながら演じるのだが、舞台ならではの早替わりのシーンも見せる。
また映画だからこその演出もあった。脚本家ピーターモーガンへのインタビューが幕間に入っていて、彼の、そして英国民の女王への敬愛ぶりが伝えられたし、女王の衣裳や靴、帽子に至るまでのファッションが紹介され解説もされた。
即位する前の少女エリザベスが時折舞台上に並び、女王と語り合う演出も良かった。
(この演出は当初は小生は気付かず「あの子役は何?」と聞き、連れに笑われたのだが、、。)
王女時代のエリザベスが、「私は一生をかけて、この国の人のために尽くします、」と誓う所や、国民を思い、首相に辛辣な皮肉を言いつつも、「君主は首相を支持することになっている」と繰り返し述べ、立憲君主制を常に重んじるところなどは、ちょっと感動した。
鉄の女宰相と言われたサッチャー元首相とは、基本的にそりが合わなかったようだが、年齢が同じ年であることもあってか、二人の駆け引きは女同士の迫力が真に迫っていたが、ユーモアにもあふれていて見ごたえがあったし、貧困層出身の労働党のウィルソン首相とは、最初は氏育ちが違い過ぎて、ぎこちなかったが、人間性に触れるにつれ互いが胸襟を開くようになり、彼が認知症アルツハイマー病を自覚し、密かに退陣を決め女王に報告した時には、女王が「首相でいるうちに、(首相の)自宅に晩餐に招く様」に頼むところなど、泣かせる場面もあった。

 総じて、エリザベス女王は、国民に寄り添おうとし、思考もどちらかと言うと反戦、リベラルに親和性を感じたが、これは今の天皇、皇后に通じるところがあるような気がしてならなかった。エリザベス女王は、一時国民から疎んじられた英王室を、その国民への献身ぶりで、人気を復活させ、今は多くの英国民の敬愛を受けているが、日本の天皇皇后も、戦没者慰霊に人生をかけ反戦の意思を絶えず表明され、被災地には何よりも優先して出かけ国民に寄り添う姿勢で多くの尊敬敬愛を受けている。

 映画(舞台)は、単に女王と首相たちの掛け合いを演じたばかりではなく、「英国とは」「王室とは」「政治とは」について考える多くの示唆を与えていて、わが国の皇室制度を考える上でも参考になることは多かったように思う。
 英国と日本は、多くの点で対称的だが、長い歴史で君主を抱き、現在でも立憲君主制(あるいはそれに近い制度)を守っていることから、王室と皇室は共通性、類似性が多いのであろうか。

 映画鑑賞は、良いものを見た感動で心地よく終わったのであるが、その後にちょっとしたハプニングがあった。
 映画が終るのが10時近くと判っていたので、彼女が贔屓にしていて、予約しておいてくれた恵比寿のビストロに行った。店の名は『コトラ・バーン』といい、そこのシェフは、今や日本を代表するグランメゾンを率いる『ヒラマツ』の全盛期の頃、今は恵比寿の「モナリザ」のオーナーシェフいなっている河野氏がヒラマツのシェフをしている頃にヒラマツにいて、同期に銀座の「マルディ・グラ」の和知シェフがいるなど華々しい経歴の持ちであり、若き日の平松夫妻を良く知る者として、何かと話題が弾んだのであった。
 コトラ・バーンは、モナリザのすぐ近くで、一人で切り盛りしている小さな店であったが、熟成ハラミ肉のステーキも数種類の前菜もそつなく美味かった。
 遅めの夕食は、殊の外旨かったし、コスパも良く、上機嫌で駅前で帰路のタクシ―に乗ったのだが、運転手に方向が逆と言われ、乗り換えることにして車から降りた。降りてスグに鞄(印伝の巾着袋)をタクシに置き忘れたことに気が付いたが、タクシーは次の客を乗せて出て行ってしまった後で、後ろ姿はみるみる遠ざかり追いかけることも出来なかった。僕たちはタクシーには乗車したわけではないので領収書はないし、雨の中でもあり、会社名も見ていなかった。客待ちをしていた前後のタクシーの運転手に聞くと、個人タクシ―であったと教えてくれたばかりであった。
 袋には財布とスマホが入っており、手元には雨傘の他は1円も、何も残っていなかったのである。
財布には、デートのこと故、多少の金銭は入っていたし、クレジットカードもカードキーも入っていた。それに最近デビューし、ようやく慣れたばかりのスマホもだ。
 白状すれば、財布を落とすのは名人級で今までに何度も経験があったが、一度だって戻ってきたためしはない。あったとすれば、金目のものはすべて抜かれた財布だけが拾われて警察から通報があった位である。従って今回も戻るはずはない、何をしても無駄だ、とすぐに思ったものである。
 このような思考過程を心理学では「学習性無気力」と言うらしいが、まさにマイナス思考である。
 悔やんでいても仕方ないから直ぐにでも、彼女にタクシー代を借りて帰ろうとすると、連れの彼女は、「なんてネガティブな人なの!ここは日本だから戻ってくるよ。戻ると信じて、やれることはすべてやろうよ。今ここで諦めればすべて終わりでしょ!」、と小生を駅前交番に連れて行った。
 ご存知のように、警察と言う所は、事件でもなければ、手続きだけはするが、後は、能動的には何もしないところである。盗難にあっても、被害届だけはやけに丁寧に書かせるくせに、その後は何もしない。ただ様子見をするだけである。これは何回かの盗難被害経験からの実体験からの感想である。その学習から届を出しても無駄だと決めつけていたのである。
 案の定、紛失届を出し終わるのに小一時間を要したのである。

 この間、彼女は、小生のスマホに電話を掛け続けた。運の悪いことに、映画を見るとあって、着信音はマナーモードにしたママになっていた。それでも余りの頻度に気が付いたのか、相手(拾得してくれたタクシーの他の乗客)から電話がかかってきたのである。それも、もう諦めてタクシーに乗って帰路につき、まさに彼女を途中で降ろそうとする時であった。
 彼女は、実に言葉巧みに、電話をくれた相手に謝礼を述べ、連絡が途切れるのを防ぐために相手の電話番号にrecall して確かめたうえで、明日の昼間に、駅で落ち合う手筈をつけてくれたのである。
 そして翌日は、「この際は女の方が、話が簡単に済むから」と言って、一人で鞄を受け取ってくれたのである。結果として奇跡的に、すべてが無事に戻ったのである。
 拾ってくれた人は、結局向うから電話をして来てくれたくらいだから、善い人には違いはないが、忘れ物を運転手に渡さずに持ち帰ったところに、一抹の不安があったので、段取りの打ち合わせはしておいたのであるが、それにしても彼女のポジティブシンキング、行動力にはほとほと感心したのであった。逆に自分が、いかにネガティブ思考に陥っているか多いに反省したのである。
 困った時でも、何とかなるさ、で何とかなってきた経験があれば、学習性オプティミズムにもなろうが、小生のように度重なる失敗体験からは学習性無気力感に落いざるを得なかったとは思うが、それでも日頃の基本的態度がポジティブ志向であれば、違う行動の展開もありえたのだろうと思った。

 最近流行のポジティブ心理学では、ポジティブな認知を形成するアプローチとして、「解決志向アプローチsolution focused approach」を紹介している。そこでは「例外」に基づいた「解決」を創りだし展開するとある。

 鞄を失くしたが、こちらからは、打つ手の施しようがない。唯一の望みは拾った相手が、警察に届けるか、こちらに連絡を取ってくれるしかない。それは経験上絶望的である。
 このようなネガティブな土俵をポジティブな土俵に移行すると「問題A]が「解決」という「目標Å」として認知できるようになる,という。
 それには「例外の質問」でネガティブをポジティブな文脈を変えて問題を捉えなおすリフレ―ミングを行うのである。

 つまり、相手から何らの連絡がないと決めつけていたことが、起こらなかったとき(過去)、起こっていないとき(現在)、起こらずに解決した(未来)後のこと、をイメージして「例外の事態」に関するイメージを膨らませるのである。
 つまり、相手は未だ、気がついていないだけで、気がつけば連絡が来る。(例外)来ればどのように問題は解決するか、とイメージをふくらませることが出来る。
 そうすれば、諦めずにこちらから電話をし続けるだろうし、警察にも届けておこうと思うようになるだろう。
 今回はこの「例外の質問」を無意識に彼女が実践しリフレーミングしてくれたことが、正に功を奏したといえる。

 ポジティブ心理学は、より良い生活、現在のウエルビーイングをさらに超える生活の質を求めるために、人間の長所、強味character strength ,自己効力感、ハーディネスと言う概念を有効に作用させ 利用しようとするこれからの心理学である。
 今回の経験から、ポジティブ心理学は私の言う「AIF自律統合性機能」の実践に深くかかわるものと実感することが出来、僕は彼女から、物質的なものだけでなく、知的にも大きなプレゼントをもらったのである。
 心から感謝します。

 

岡田美術館-箱根の新名所になった日本美術館で琳派展

琳派展パンフ

琳派展パンフ

尾形光琳、雪松群禽図屏風

尾形光琳、雪松群禽図屏風

岡田美術館は、2013年に箱根の小湧園の隣に創業したが、今年の春に、長年行方知らずであった喜多川歌麿の「深川の雪」を所蔵していることで一気に有名になった。国立の美術館が所有するべき国宝級のものを新設の個人美術館が所有していたことで、ちょっと不自然な感じを持った人も多いと思う。そこまで競り勝つ岡田美術館の創設者はいったい何者かと。

 一般に美術館は東京や京都にある国立系か、県立や市立の自治体系なものが当然ながら圧倒的に多いのだが、民間系では、昔の殿様の末裔が運営する徳川美術館や熊本細川家の永青文庫などがあり、旧財閥系では三井美術館や、いくつかの三菱美術館などがある。企業の名前を冠したものでは出光美術館、サントリー美術館、メルシャン美術館、セゾン現代美術館、山種美術館、ベネッセアートサイト直島、ポーラ美術館、などがある。また企業と言うより、事業家個人の色合いがより濃いものでは、民芸のクラボウの大原美術館、古代美術の東武鉄道の根津美術館、東急の五島美術館、日本美術と庭園で有名な足立美術館、ガラスのガレを集めた諏訪の北澤美術館、浮世絵の原宿の太田美術館、現代美術の御殿山の原美術館、人間画に限定した伊豆高原の池田20世紀美術館、などがある。熱海のMOA美術館も、この岡田美術館もこのカテゴリーに入るのだろう。

 岡田美術館の開設者は岡田和生氏といい、ユニバーサルエンターテイメントと言うパチンコ製造会社を主体とする企業のオーナーで、巷間パチンコ王と言われ、日本の高額所得者1位になったりフォーブスの世界の富豪50名にランキングされたりした日本を代表する資産家ということである。
 多くの億単位の名画名品をコレクションするくらいだから、その財力も桁違いなのだろうが、明治から戦前にはそれでも個人コレクターが全国に割拠していたのだが、近年ではそのような人物は少なく、数年前に箱根の開花亭跡に中国、日本美術の巨大美術館ができるというニュースは驚きをもって伝えられ、寂れつつあった箱根小涌谷の新しい観光資源としても大いに期待もされたものであった。
 開設後わずか半年で、まずは歌麿の「深川の雪」で注目を集め全国区になったが、元々、収集品のレベルの高さでも注目されていた。又建物の真正面の外側にドデカイ風神雷神図があることでも耳目を集めていた。

風神雷神図

風神雷神図

風神雷神図

風神雷神図

 風神雷神図はある意味では琳派の象徴的存在でもある。琳派は狩野派のような流派一門の派閥ではなく、同じ画風を良しとする者達が、先人たちの残した画風を模倣しては継承して来たもので、そこには世襲制も師弟関係もない。俵屋宗達の風神雷神図を尾形光琳が100年後に模倣しながらも独自の世界で描き、それをまた100年後に酒井抱一が、さらに数百年を経て現代の福井紅太郎が描いて見せたのがこの風神雷神図である。

 岡田美術館の風神雷神図は、大きすぎて館内で見ると仰ぐばかりで、一幅の絵画として鑑賞することは出来ず、館外からではガラスが反射してはっきりとは見えない。これらのことは設置前から十分予測できた事であろうから、すると、これはただのモニュメントとして、こけおどしの為の看板として描かれ置かれたものに過ぎないのだろうか?
この辺りに岡田美術館の思惑が透けて見えるようでもある。純粋に福井紅太郎の絵画の美術性を愛でるという目的よりも、その大きさで圧倒させようという実業家、岡田氏の商業的野心が見えるのである。

足湯

足湯

足湯

足湯

 それは他にもある。
 館内への入り口では、空港並みの荷物、ボディチェックを受けるが、その目的が、館内の監視員を省くためであろうと察する時、あるいは、名物の足湯では、入湯料500円(入館料には含まれる)にも拘らず、貸しタオル一つなく、一本330円で販売されていることなど体験すると、例えば根津美術館などでは決して感じることのない、そぐわなさ、違和感を感じとるのである。

風化亭

風化亭

庭園入口

庭園入口

 スマホ、デジカメの類は1階の入り口でロッカーに保管させられるので、5階から庭に出てしまうと、屋外での一切の写真も撮れないのである。ここらに至ると美術館のご都合主義が露骨に垣間見えて、少々不愉快になるのは私だけではあるまい。

 館内は非常に暗く、足元が不安になるほどであるが、これが何を目的にしているかは分からないし、館内の案内が不十分で、美術館の全体像が把握しずらく、終日出入り自由といえども、しばらくは戸惑うのである。
ただ、展示の解説ボードはビジュアル的で親切であり、また学芸員の説明も丁寧で好感が持てた。
当日は尾形乾山の焼き物の解説であったが、兄光琳との話にはリアリティがあり勉強にもなった。乾山の需要文化財になった、二つの「透かし彫り反鉢」も、解説の後ではさらに見ごたえが増したのである。

展示場の常設作品も古代の東洋陶器から、中・近世の日本陶磁器、浮世絵、書、琳派の大屏風など圧倒する品揃えである。これだけのものを僅か数十年で収集した岡田氏の美術に関する見識造詣も凄いし、審美眼も凄いと思う。
 大原美術館のように、オーナーの意を受けたアドバイザーやバイヤーが実際には買い集めたのではなく、本人の目利きですべて集めたとすれば、岡田氏は若い頃から財力だけではなく、美術にも相当な研鑽をつまれ見聞、見識、造詣を深めて来たに違いない。その努力は、他の有名個人美術館の誰にも決して負けないものであったに違いないと思うのである。

 広大な敷地に、美しい庭と足湯と言う箱根ならではのサービスがあり、何よりも見ごたえのある美術品が多数揃っており、わが国の一級の美術館であることに何の異論はないが、官公立並みにとは言わないが、入館料(2800円)がいかんせん高すぎると思う。
 食事処のサービスの改善と入館料の改正を是非お願いしたいところである。

お土産のチョコレート

お土産のチョコレート

チョコレートも光琳

チョコレートも光琳

モチーフとなった菊図屏風

モチーフとなった菊図屏風

 

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