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CASA-AF

南青山界隈の変遷-新しくて懐かしい街

空き地にランボルギーニが展示されていた。

空き地にランボルギーニが展示されていた。

ウラカン

ウラカン

 国道246号線青山通りと骨董通り、それに通称ブティック通りと根津美術館通りに囲まれた南青山の一角及びその周辺が最近大きく変わろうとしている。

表参道との交差点

表参道との交差点

 僕は、なぜかこの界隈には昔からなじみが深いが、東京オリンピックの翌年に田舎から上京したので、さすがに都電が青山通りを走っているのは見たことはないが、未だ道路工事などでその余韻が多く残っていたのは覚えている。
 青山通りの北側には、当時としては珍しく深夜までやっていたことで有名なユアーズというスーパーマーケットがあった。お店の前にコンクリートに刻印された有名人の足形が置いてあり、店では有名な芸能人も良く見かけた。青山ケンネルは当時から今でもあるが、国連大学や子供の城は無論相当後のことである。

アンデルセン

アンデルセン

 1970年頃には表参道との交差点にはアンデルセンという広島の製パン会社のアンテナショップが出来、一階のパン屋は、今では地方でも普通になった、店内でパンを焼いて店頭に並べトレイで客がとるというスタイルのはしりではなかったかと思う。二階は、北欧料理と称して、ビーフシチューにきし麺のようなヌードルが付いたものや、スモークサーモンのオープンサンドなど当時としては随分お洒落なものを出していた。
 ちなみにここは、田舎少年であった僕にとっては特別なハレの食事の場であった。アンデルセンは今でも営業しているが、何の変哲もない軽食喫茶のような業態になっていて、昔を知る者には隔世の感がある。
 神戸のドンクがバゲットを売り出したのもこの界隈であった。当時はフランスパンと言って珍しく、包装紙のデザインもお洒落で随分と人気があった。丁度ヴァンジャケットの紙袋が人気があったように、当時はお洒落アイテムが絶対的に少なかったのだろう。
 このころから原宿は若者の街になった。それまでの原宿は、大人たちのお忍びの遊び場であったように思う。コ―ポオリンピアの一階にある割烹では「重よし」などは当時の面影を残している。

スパイラルビル

スパイラルビル

 しばらくして洋服のワールドがスパイラルビルを建てた。地下にCAYというタイ料理屋が出来、舞台ではタイの民族舞踊ショーを見せていた。生春巻きやトムヤムクン、パクチーの入ったパッタイ、グリーンカレーなど初めて体験するスタイリッシュで本格的なタイ料理屋であり、エスニック料理ブームの幕開けであったように思う。今でもCAYはあるが、個性のない洋風居酒屋のようになっている。2階は展示ホールとセンスのいい雑貨やになっているので、小物好きにはお薦めである。

ブティック通り

ブティック通り

 表参道が青山通りを突っ切って根津美術館に向かう通りをブティック通りと、いつから言うようになったかは知らないが、1970年代半ば頃にはフロムファーストビルが出来、三宅イッセイやケンゾーの店が入った。もう無くなったがアルファキュービックというブランドは当時は大層人気があった。BARBASというメンズブランドが僕のお気に入りで、それを機にして僕はイタリア好き小僧のデビューを果たしたが、ここも10年位で店を閉めた。地下にはポアソンルージュというフレンチや、名前は忘れたが当時格式が高いことでで有名だったリストランテがあり、近くのヨックモックやフィガロに人が集まりだした。10年後には安藤忠雄設計のコレッチオーネが出来ると、周辺の道路の両側に中小のブランドの路面店が並ぶようになった。コレッチオーネはどのテナントも永続きせず、頻繁に入れ替わった。今はスペース貸しをしているようである。

プラダ

プラダ

コムデギャルソン

コムデギャルソン

アランミクリ

アランミクリ

 その後青山通りの近くにコムデギャルソンやプラダ、ミュウミュウ、カルティエが出来るとまぎれもなく一流のブティック通りになった。するとこの通りと骨董通りを結ぶ狭い道沿いにイタリアンのレストランヒロや洋書の島田書店、眼鏡のアランミクリなど様々な業種の店が並び始めた。

レクサスカフェ

レクサスカフェ

 そのうちに、どういう訳か、あのあか抜けない、三河が本社のトヨタがブティック通りにレクサスカフェショップを出した。

AVEDA

AVEDA

city shop

city shop

natural costume,wall

natural costume,wall

福井県アンテナショップ

福井県アンテナショップ

 今はCICADAを中心にCity shopをはじめ、お洒落なレストランやファッションや雑貨のセレクトショップで溢れるようになった。

恐竜と顔の大きさ比べ

恐竜と顔の大きさ比べ

サニーヒルズ

サニーヒルズ

 意外なことにこの一画に福井県のアンテナショップがある。その隣には三国の、超有名な越前かに料理の望洋楼がある。小生は未だ未体験であるが、動けるうちに一度は泊りに行きたいと思っている海に突き出た料理旅館の出店である。

 今は更に墓地下通り(外苑西通り)に向けて広がりつつあるようであるが、和菓子の紅谷を入ったところにバーサードラジオが出来たのは1990年代後半くらいかと思う。さらに3丁目寄りの路地には個性的なオヤジがいた居酒屋「岡田」があり、ここには似つかわしくない青学の美人JDがいつも数名バイトをしていた。店がはねると皆と一緒に藤村俊二がやっていたワインバー「おひょい」にいったものであった。ここは今でも営業しているが、亭主が故人になり、昔の勢いはない。

 この界隈には今こそワインバーが幾つもあるが、昔は居酒屋や飲み屋の類は他にはなかった。しかし不思議なことに東京で初めてスナックというものが出来たのはこの地であった。そこには当時の人気深夜番組11PMが終わると松岡きっこが良く顔を出していた。

パイナップルケーキ

パイナップルケーキ

懐かしい焼き物や

懐かしい焼き物や

 最近ではパイナップルケーキのサニーヒルズが出来、隈研吾の独特の建築も手伝って人気になっている。実はここでの試食はケーキの丸ごとがお茶と一緒に無料で供されるのである。(ただし食べ逃げは、品位に欠けますよ)
 ノリピー事件で話題になったスキーのジローの奥には三ツ星カンテサンスのスーシェフが開いた人気のフレンチ、フロリレージュがあったが、今は移転した。

⑳メルクマールのお稲荷さん

 この南青山辺りはお店の浮沈も激しく、知らぬ間に消える店があれば突然湧き出でる店も多い。

 南青山のこの界隈は、銀座でも六本木でも麻布でもない、また原宿、表参道でもない独特などこにもない特有な雰囲気がある。健康的で健全な感じの(毒にも薬にもならないような)若者が集まる、猥雑さや淫靡さの微塵もない湿度の低い都会の仮想空間とでもいうのだろうか、大人の高級ブランド志向ではないがお洒落が好きで、伊勢丹では飽き足らない、ちょっと知的でモード好きな都会的な男の子、女の子が集まっている街とでも言えようか。
 最近はご多分にもれずアジア系外国人も見かけるようになったが、そこにチョイワル系の中年男もヤンジー系の老人もうまく溶け込んでいる街といえば、自嘲的に自画自賛するにしてもほめ過ぎだろうか。

 

正月はテレビ三昧ー私の番組講評

 皆様、新年明けましておめでとうございます。
 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
 さて、今年のCASA=AFも、恒例となった「正月のテレビ番組」の感想から始めたいと思います。
 以下は、チャンネルをカシャカシャ動かして目に留まったものである。

 *NHK;「ブラタモリ」と「鶴瓶の家族に乾杯」のジョイント番組
 NHKの人気番組である「ブラタモリ」と「鶴瓶の家族に乾杯」をジョイントさせて、そこに今年の大河ドラマ「真田丸」の主人公役の堺雅人を出演させて、大河ドラマの宣伝をはかろうという、NHKには何とも欲張りな番組であったが、やはりこの二人にかかっては、その座持ちの良さや、やり取りの巧妙さに気が取られ、面白くて長時間にも拘らず思わず見てしまった。NHKの思惑にまんまとはまったのである。

 タモリも鶴瓶もデビュー当時は、強烈な下品さが売り物で、二人とも今の番組を持つまではNHKには出入り禁止であったと当人が言っていたが、いざ始めてみると、「家族に乾杯」では、鶴瓶の人柄と間の良いトークが受けて今やNHKの看板番組となっている。小生も日頃、機会があれば、ほとんど見るようにしている。
 「ブラタモリ」は、街歩きの新しい手法を教えて視聴者の興味を引きながらも、タモリのセンス、勘の良さとに支えられて成り立っている番組であるが、多分予想外に人気が出て、長寿番組になったものと思われる。
 街には、知らなければ何でもなく通り過ぎてしまうような所に、地質学的な、あるいは歴史上の色々な痕跡があふれていることを教えてくれ、一か所をブラブラ歩く楽しみ方を教えてくれていて、心が和むのである。
 私達は日頃、余りにせわしく、広く多くのものを観ようとして、結局何も知らず、表層しか見ていないことに気付くのである。それにタモリの教養の深さが随所に滲み出ていて驚くのである。
 同じように人気と評価の高い「たけし」と違ってタモリのすごいところは、一人で番組を引っ張っていける能力があることである。たけしは、多くの番組の司会をしているが、進行役は別に必ずいて、たけしは合の手を入れ盛り上げる役回りであるが、タモリは一人で番組を進行させる力がある。出身が漫才か、一人芸人かの違いもあろうが、根本は教養、知性の差であるような気がしてならない。
 鶴瓶もタモリも、デビュー時と現在の落差の大きさは、二人が成長したのか成熟したのかは知らないが、元々の才能能力はさほど変わらないものだろうから、大いなる才能を有しながらも、芸能界で一定水準に売れるまでは、わざと自分の得意とする路線を変えて角を隠していたのだろう。我々は今になって、ようやくそれに気付かされたのである。

*NHKBS;グレイトトラバース,日本100名山一筆書き踏破
 田中陽希というプロアドベンチャーレーサーが、登山家で随筆家の深田久弥の著書「日本100名山」に載った山々を、人力で一筆書きにルートをとって踏破するという旅の行程をドキュメンタリー風に記録して、2014年に漸次放送したものの一挙に再放送したものであった。地域別に5編からなる全旅程を、正月の2日、3日に渡って、断続的に放送した長時間番組であったが面白くてほとんどを見た。

 山に少しでも興味のある人なら、深田久弥の名著は知っていて、日本の100名山は登山選びの指標にもなっている。

 田中陽希は、南は屋久島の宮之浦岳から北は利尻島の利尻岳までを一筆書きのように連続して、移動距離7800キロメートル,累積標高差10万メートルに及ぶところを陸地は歩いて、湖や海はカヤックを漕いで、人力で208日で踏破したのである。

 田中陽希という、全身が筋肉というバネで出来たような30歳くらいの青年が、ひたすら歩き、登って見せるのである。それもガイドブックの2,3倍のスピードで行くのである。
 イケメンとは程遠いが、色んな場面で朴訥で誠実な人柄が滲み出て、旅が進むに従ってフアンが増えて人気者になって行き、いたる所でフアンの待ち受けを受けうようになり、本人が戸惑う姿も初々しく、また人に接する時の行儀の良さも好ましいし、番組の中で日記の形で本人の心情が吐露されるのも清々しかった。
 時には感極まって本人も涙を流すことがあるが、それを観ている方も思わず涙ぐむという、小生には感動の大きな一編であった。

それにしても、この番組を制作した撮影クルーの力も並み大抵なものではあるまい。どのようにして、この超人に伴走して撮影し記録し続けたのであろうか?上空からの映像はドローンなのだろうか?
 今度はその撮影の様子をドキュメンタリーで是非見たいものである。

 数年前からのNHKの夕方の放送であるが、視聴者の手紙のリクエストによって故郷の思い出の場所を自転車で訪れる、火野正平の「心旅」というNHKの人気番組があるが、これはいけていないと思う。
 こちらはノンフィクションドラマだと言ってしまえば、それまでだが、火野正平が自転車で旅をするというのが売りなのに、どう見ても本当に自転車で走破しているとは思えないのである。走っているのは平らか下りの道ばかりで、第一、汗はかかないし、たまの息切れするシーンも演出っぽくて不自然過ぎるのである。それに主役のタレントの性格の推測するからにして、真面目に走るとはハナから思えないのであるが、手紙を読むシーンには長けているから再放送が繰り返される人気番組になっている。
 多くの視聴者は、彼が本当に自力で走っていると思っているのだろうか?

 読者のリクエストに沿って故郷自慢の場所を訪ねるという、「三宅祐司のふるさと探訪~こだわりの田舎自慢」という民放番組もあるが、最近はこの手が流行のようである。
 こちらは、二番煎じとはいえ三宅祐司のキャラクターで好番組になっていて、小生もフアンの一人である。

*テレビ朝日;ラグビー全国大学選手権準決勝
 東海大と明治大、帝京大と大東大の準決勝戦が秩父宮ラグビー場から実況中継された。

ワールドカップでの日本チームの大活躍で一気に人気が回復したラグビーであるが、80年代は、秩父宮ラグビー場のある外苑前は晴れ着姿の御嬢さんたちで溢れるのが恒例の正月風景でもあったように、松尾や平尾などのスター選手がいて結構人気があったものだ。
 それが1995年の第3回ワールドカップで日本チームが屈辱的な歴史に残る記録的な惨敗をきしてから人気も急降下したが、昨年の五郎丸選手を始めとする日本チームの大活躍で人気も再び急上昇したのである。
 スポーツはやはり、勝たねばならないし、女子のフアンを増やすにはイケメンが必要であることはすべからく歴史の教えるところである。

 ラグビーはルールがややこしく、競技性を楽しむには少し難があるが、ただ見る分でも十分に面白い。基本的には足の速いレスラーを集団で闘わせる様なものであり、そこにボールを介在させて、球技スポーツらしく仕立てていると思えばその本質が良くわかろうというものだ。基本が格闘技であるから、見ている方は血湧き肉躍るのである。

 ローマ時代のコロシアムの格闘技を現代風にしたのがラグビーであり、アメリカンフットボールであると小生は勝手に理解している。

*テレビ東京;「孤独のグルメお正月スペッシャル」
 ここ数年は毎年、正月休みに、「孤独のグルメを」を見るのを楽しみにしていたが、年々、徐々に芝居がかるようになり、今年は、それも限界に来たようで興ざめであった。この番組も、主人公の松重豊も人気が出て、有名になり過ぎたのであろうか。初心忘るるべからずである

*BS1スペッシャル「もう一つのショパンコンクール」
 5年に一度、ショパンの生地であるワルシャワで開催されるピアニストのコンクールで活躍するピアノメーカーの調律師たちの話である。

何ごとも華やかな陽なたの陰にはそれを支える裏方がいるのである。
 コンクールではピアニスト達は使用するピアノを、4つのメーカーのピアノを試しに弾いて選択出来るのだが、ピアノメーカーは自社のピアノをピアニストに選択してもらい、更にはそれを弾いて優勝してもらうのが、今後の社運を賭けた大命題となる為、社を代表する調律師を陣頭に夜を徹してピアノを調律し、また物心両面でピアニストを支援するのである。
 アメリカのスタインウェイ、イタリアのファツオリ、日本のヤマハとカワイの4社の調律師たちのつばぜり合いと、心理的葛藤を、コンクールの20日間のドキュメンタリーに描いていて、シナリオはテンポも良く臨場感もあってなかなかよく出来ていた。
 音楽に疎い小生は、調律師という職業もろくに知らなかったが、絶対音感に長けた天性の才に恵まれたごく一部の人達だけが出来る職業であると思う。それでも彼等には彼等の世界で熾烈な戦いがあり、小生などの住む凡俗の世界と、結局は大差ないことだけは理解できた。

 

初めての東京芸術劇場―アル☆カンパニーの「父よ!」を観た

父よ!

父よ!

愛知県の豊橋市がスポンサーの[とよはし芸術劇場PLAT]がプロデュースし、劇団「ONEOR8」の田村孝祐が演出した、俳優平田満の劇団「アル☆カンパニー」の『父よ』が東京芸術劇場シアターウエストで、2年ぶりに再演(2015.10.2-12)されたので観に行った。池袋にある東京芸術劇場は初めての訪問であった。池袋自体がおそらく20年ぶりということもあってか、その様変わりには驚いた。また地下鉄駅からそのまま芸術劇場に入っていけるアクセスの良さにも感心した。
 「とよはし芸術劇場PLAT」が主催とあるのは、平田満のプロフィールには愛知県生まれと書いてあるが、実際は豊橋市生まれで、その関係があるのかもしれないと推測されるが、本当のところは知らない。

 四人の息子達が、老いた父親の面倒を誰が見るかを決めるために実家に集まって、話し合いをすることで話は展開して行く。
先に逝った母親との回想シーンで父親の意外な一面が暴露されたり、息子たちも語るうちに虚飾が剥がれ、ほんとうの姿が暴かれていく。
 一人が何役もこなして、回想シーンを巧みに取り入れながら進行して行くシナリオの巧みさは、演出家田村孝浩の才能を感じさせるものであった。

舞台シーン

舞台シーン

 喜劇と聞いていたが、人生哀歌であった。僕もそうであるが、おそらく家族を持つものすべてが身につまされる話だ。
 親を思う気持ちはあっても、現実の生活の中では、なかなか両立できない世間のどこにでもある葛藤を描いているが、小劇場出身の個性的な芸達者な俳優たちの競演が、この舞台のただでさえ陰鬱なテーマをコミカルに仕上げ、気分が滅入るのを救ってくれている。
 しかし、コメディタッチで描くからこそ余計に哀しくなる面もあるのも事実だ。
 結局は、肉親の間といえども、いや、それだからこそ一層、人間の孤独が深いものであることを知らされるのである。

出演者

出演者

 ここでは、老老介護、熟年離婚、等の時代性と、親、老人の面倒を見るという普遍的な問題を扱い、世に問うているのである。
 母親の遺言「ケンカは相撲で決めろ」、というのもいい。今日の政府の示す積極的平和主義が戦争を想定して軍拡に参入して行く姿を皮肉っているようでもある。
 そんな終始一貫したネガティブな気分は、最後に父が亡き母(妻)の仏壇の前で手品をするシーンで救われる。夫婦の情愛こそが生きる絆であるかのように、隠れた趣味特技であった手品を燕尾服の正装をしてやってみせるのである。そこで初めて、舞台中では終始会話の中でしか登場しなかった「鳩」が実物として姿を見せ羽ばたいたのである。憎い演出であった。

 僕には、手品のシーンは、まるで父親が能を舞っているかのように思えた。父親がシテとなって母親(妻)の霊を呼び、母親が鳩になってワキを演じたかのように。
 ちょっと感動的であり、感傷的でもあった幕切れであった。

 

ナショナルシアターライブ「The・オーディエンス」を見た-そしてポジティブ心理学について

演劇界の最高峰、イギリス国立劇場ロイヤルナショナルシアターが、厳選した名舞台をデジタル映像化してスクリーンで公開するプロジェクト「ナショナルシアターライブ」の日本公開作品第3弾で、イギリス女王エリザベス2世と歴代の英国首相たちとの謁見で繰り広げられるドラマを描いた「the・オーディエンス」が、昨年の6月に上映されたが、それがこの11月に渋谷のブンカムラ、ル・シネマで一日1回1週間のみ再上映されたので見に行った。
小生は、舞台、映画に関しては、ほとんど何の知識、造詣もなく無教養で恥ずかしいのだが、舞台女優をしているガールフレンド(?)に、「これだけは見なきゃダメ!」と誘われて行ったのである。

「the・オーディエンス」は、映画『クイーン』でアカデミー賞主演女優賞を受賞したヘレン・ミレンが再びエリザベス2世に扮し、同じくピーターモーガンが脚本を書いた、最高傑作と評判の高かった舞台(トニー賞2部門受賞)の映像化であり、舞台を志す人にはヘレン・ミレンは見逃せない存在らしいのである。

1952年の女王即位以来、毎週行っている歴代英国首相との謁見(オーディエンス)の模様を描いているが、ヘレンが演じる女王の人間味あふれる苦悩、ユーモアは、ウイットに富んだ会話と、巧みな演出で2時間38分と言う長丁場も退屈することはなかった。
女王が毎週決まった曜日にその時の総理大臣を宮殿に招き、国や世界情勢について説明を受ける、その場面が時系列ではなく、時間軸を往ったり来たりしながら進行する。従って女王は若き日の女王から中年、老年を行き来しながら演じるのだが、舞台ならではの早替わりのシーンも見せる。
また映画だからこその演出もあった。脚本家ピーターモーガンへのインタビューが幕間に入っていて、彼の、そして英国民の女王への敬愛ぶりが伝えられたし、女王の衣裳や靴、帽子に至るまでのファッションが紹介され解説もされた。
即位する前の少女エリザベスが時折舞台上に並び、女王と語り合う演出も良かった。
(この演出は当初は小生は気付かず「あの子役は何?」と聞き、連れに笑われたのだが、、。)
王女時代のエリザベスが、「私は一生をかけて、この国の人のために尽くします、」と誓う所や、国民を思い、首相に辛辣な皮肉を言いつつも、「君主は首相を支持することになっている」と繰り返し述べ、立憲君主制を常に重んじるところなどは、ちょっと感動した。
鉄の女宰相と言われたサッチャー元首相とは、基本的にそりが合わなかったようだが、年齢が同じ年であることもあってか、二人の駆け引きは女同士の迫力が真に迫っていたが、ユーモアにもあふれていて見ごたえがあったし、貧困層出身の労働党のウィルソン首相とは、最初は氏育ちが違い過ぎて、ぎこちなかったが、人間性に触れるにつれ互いが胸襟を開くようになり、彼が認知症アルツハイマー病を自覚し、密かに退陣を決め女王に報告した時には、女王が「首相でいるうちに、(首相の)自宅に晩餐に招く様」に頼むところなど、泣かせる場面もあった。

 総じて、エリザベス女王は、国民に寄り添おうとし、思考もどちらかと言うと反戦、リベラルに親和性を感じたが、これは今の天皇、皇后に通じるところがあるような気がしてならなかった。エリザベス女王は、一時国民から疎んじられた英王室を、その国民への献身ぶりで、人気を復活させ、今は多くの英国民の敬愛を受けているが、日本の天皇皇后も、戦没者慰霊に人生をかけ反戦の意思を絶えず表明され、被災地には何よりも優先して出かけ国民に寄り添う姿勢で多くの尊敬敬愛を受けている。

 映画(舞台)は、単に女王と首相たちの掛け合いを演じたばかりではなく、「英国とは」「王室とは」「政治とは」について考える多くの示唆を与えていて、わが国の皇室制度を考える上でも参考になることは多かったように思う。
 英国と日本は、多くの点で対称的だが、長い歴史で君主を抱き、現在でも立憲君主制(あるいはそれに近い制度)を守っていることから、王室と皇室は共通性、類似性が多いのであろうか。

 映画鑑賞は、良いものを見た感動で心地よく終わったのであるが、その後にちょっとしたハプニングがあった。
 映画が終るのが10時近くと判っていたので、彼女が贔屓にしていて、予約しておいてくれた恵比寿のビストロに行った。店の名は『コトラ・バーン』といい、そこのシェフは、今や日本を代表するグランメゾンを率いる『ヒラマツ』の全盛期の頃、今は恵比寿の「モナリザ」のオーナーシェフいなっている河野氏がヒラマツのシェフをしている頃にヒラマツにいて、同期に銀座の「マルディ・グラ」の和知シェフがいるなど華々しい経歴の持ちであり、若き日の平松夫妻を良く知る者として、何かと話題が弾んだのであった。
 コトラ・バーンは、モナリザのすぐ近くで、一人で切り盛りしている小さな店であったが、熟成ハラミ肉のステーキも数種類の前菜もそつなく美味かった。
 遅めの夕食は、殊の外旨かったし、コスパも良く、上機嫌で駅前で帰路のタクシ―に乗ったのだが、運転手に方向が逆と言われ、乗り換えることにして車から降りた。降りてスグに鞄(印伝の巾着袋)をタクシに置き忘れたことに気が付いたが、タクシーは次の客を乗せて出て行ってしまった後で、後ろ姿はみるみる遠ざかり追いかけることも出来なかった。僕たちはタクシーには乗車したわけではないので領収書はないし、雨の中でもあり、会社名も見ていなかった。客待ちをしていた前後のタクシーの運転手に聞くと、個人タクシ―であったと教えてくれたばかりであった。
 袋には財布とスマホが入っており、手元には雨傘の他は1円も、何も残っていなかったのである。
財布には、デートのこと故、多少の金銭は入っていたし、クレジットカードもカードキーも入っていた。それに最近デビューし、ようやく慣れたばかりのスマホもだ。
 白状すれば、財布を落とすのは名人級で今までに何度も経験があったが、一度だって戻ってきたためしはない。あったとすれば、金目のものはすべて抜かれた財布だけが拾われて警察から通報があった位である。従って今回も戻るはずはない、何をしても無駄だ、とすぐに思ったものである。
 このような思考過程を心理学では「学習性無気力」と言うらしいが、まさにマイナス思考である。
 悔やんでいても仕方ないから直ぐにでも、彼女にタクシー代を借りて帰ろうとすると、連れの彼女は、「なんてネガティブな人なの!ここは日本だから戻ってくるよ。戻ると信じて、やれることはすべてやろうよ。今ここで諦めればすべて終わりでしょ!」、と小生を駅前交番に連れて行った。
 ご存知のように、警察と言う所は、事件でもなければ、手続きだけはするが、後は、能動的には何もしないところである。盗難にあっても、被害届だけはやけに丁寧に書かせるくせに、その後は何もしない。ただ様子見をするだけである。これは何回かの盗難被害経験からの実体験からの感想である。その学習から届を出しても無駄だと決めつけていたのである。
 案の定、紛失届を出し終わるのに小一時間を要したのである。

 この間、彼女は、小生のスマホに電話を掛け続けた。運の悪いことに、映画を見るとあって、着信音はマナーモードにしたママになっていた。それでも余りの頻度に気が付いたのか、相手(拾得してくれたタクシーの他の乗客)から電話がかかってきたのである。それも、もう諦めてタクシーに乗って帰路につき、まさに彼女を途中で降ろそうとする時であった。
 彼女は、実に言葉巧みに、電話をくれた相手に謝礼を述べ、連絡が途切れるのを防ぐために相手の電話番号にrecall して確かめたうえで、明日の昼間に、駅で落ち合う手筈をつけてくれたのである。
 そして翌日は、「この際は女の方が、話が簡単に済むから」と言って、一人で鞄を受け取ってくれたのである。結果として奇跡的に、すべてが無事に戻ったのである。
 拾ってくれた人は、結局向うから電話をして来てくれたくらいだから、善い人には違いはないが、忘れ物を運転手に渡さずに持ち帰ったところに、一抹の不安があったので、段取りの打ち合わせはしておいたのであるが、それにしても彼女のポジティブシンキング、行動力にはほとほと感心したのであった。逆に自分が、いかにネガティブ思考に陥っているか多いに反省したのである。
 困った時でも、何とかなるさ、で何とかなってきた経験があれば、学習性オプティミズムにもなろうが、小生のように度重なる失敗体験からは学習性無気力感に落いざるを得なかったとは思うが、それでも日頃の基本的態度がポジティブ志向であれば、違う行動の展開もありえたのだろうと思った。

 最近流行のポジティブ心理学では、ポジティブな認知を形成するアプローチとして、「解決志向アプローチsolution focused approach」を紹介している。そこでは「例外」に基づいた「解決」を創りだし展開するとある。

 鞄を失くしたが、こちらからは、打つ手の施しようがない。唯一の望みは拾った相手が、警察に届けるか、こちらに連絡を取ってくれるしかない。それは経験上絶望的である。
 このようなネガティブな土俵をポジティブな土俵に移行すると「問題A]が「解決」という「目標Å」として認知できるようになる,という。
 それには「例外の質問」でネガティブをポジティブな文脈を変えて問題を捉えなおすリフレ―ミングを行うのである。

 つまり、相手から何らの連絡がないと決めつけていたことが、起こらなかったとき(過去)、起こっていないとき(現在)、起こらずに解決した(未来)後のこと、をイメージして「例外の事態」に関するイメージを膨らませるのである。
 つまり、相手は未だ、気がついていないだけで、気がつけば連絡が来る。(例外)来ればどのように問題は解決するか、とイメージをふくらませることが出来る。
 そうすれば、諦めずにこちらから電話をし続けるだろうし、警察にも届けておこうと思うようになるだろう。
 今回はこの「例外の質問」を無意識に彼女が実践しリフレーミングしてくれたことが、正に功を奏したといえる。

 ポジティブ心理学は、より良い生活、現在のウエルビーイングをさらに超える生活の質を求めるために、人間の長所、強味character strength ,自己効力感、ハーディネスと言う概念を有効に作用させ 利用しようとするこれからの心理学である。
 今回の経験から、ポジティブ心理学は私の言う「AIF自律統合性機能」の実践に深くかかわるものと実感することが出来、僕は彼女から、物質的なものだけでなく、知的にも大きなプレゼントをもらったのである。
 心から感謝します。

 

岡田美術館-箱根の新名所になった日本美術館で琳派展

琳派展パンフ

琳派展パンフ

尾形光琳、雪松群禽図屏風

尾形光琳、雪松群禽図屏風

岡田美術館は、2013年に箱根の小湧園の隣に創業したが、今年の春に、長年行方知らずであった喜多川歌麿の「深川の雪」を所蔵していることで一気に有名になった。国立の美術館が所有するべき国宝級のものを新設の個人美術館が所有していたことで、ちょっと不自然な感じを持った人も多いと思う。そこまで競り勝つ岡田美術館の創設者はいったい何者かと。

 一般に美術館は東京や京都にある国立系か、県立や市立の自治体系なものが当然ながら圧倒的に多いのだが、民間系では、昔の殿様の末裔が運営する徳川美術館や熊本細川家の永青文庫などがあり、旧財閥系では三井美術館や、いくつかの三菱美術館などがある。企業の名前を冠したものでは出光美術館、サントリー美術館、メルシャン美術館、セゾン現代美術館、山種美術館、ベネッセアートサイト直島、ポーラ美術館、などがある。また企業と言うより、事業家個人の色合いがより濃いものでは、民芸のクラボウの大原美術館、古代美術の東武鉄道の根津美術館、東急の五島美術館、日本美術と庭園で有名な足立美術館、ガラスのガレを集めた諏訪の北澤美術館、浮世絵の原宿の太田美術館、現代美術の御殿山の原美術館、人間画に限定した伊豆高原の池田20世紀美術館、などがある。熱海のMOA美術館も、この岡田美術館もこのカテゴリーに入るのだろう。

 岡田美術館の開設者は岡田和生氏といい、ユニバーサルエンターテイメントと言うパチンコ製造会社を主体とする企業のオーナーで、巷間パチンコ王と言われ、日本の高額所得者1位になったりフォーブスの世界の富豪50名にランキングされたりした日本を代表する資産家ということである。
 多くの億単位の名画名品をコレクションするくらいだから、その財力も桁違いなのだろうが、明治から戦前にはそれでも個人コレクターが全国に割拠していたのだが、近年ではそのような人物は少なく、数年前に箱根の開花亭跡に中国、日本美術の巨大美術館ができるというニュースは驚きをもって伝えられ、寂れつつあった箱根小涌谷の新しい観光資源としても大いに期待もされたものであった。
 開設後わずか半年で、まずは歌麿の「深川の雪」で注目を集め全国区になったが、元々、収集品のレベルの高さでも注目されていた。又建物の真正面の外側にドデカイ風神雷神図があることでも耳目を集めていた。

風神雷神図

風神雷神図

風神雷神図

風神雷神図

 風神雷神図はある意味では琳派の象徴的存在でもある。琳派は狩野派のような流派一門の派閥ではなく、同じ画風を良しとする者達が、先人たちの残した画風を模倣しては継承して来たもので、そこには世襲制も師弟関係もない。俵屋宗達の風神雷神図を尾形光琳が100年後に模倣しながらも独自の世界で描き、それをまた100年後に酒井抱一が、さらに数百年を経て現代の福井紅太郎が描いて見せたのがこの風神雷神図である。

 岡田美術館の風神雷神図は、大きすぎて館内で見ると仰ぐばかりで、一幅の絵画として鑑賞することは出来ず、館外からではガラスが反射してはっきりとは見えない。これらのことは設置前から十分予測できた事であろうから、すると、これはただのモニュメントとして、こけおどしの為の看板として描かれ置かれたものに過ぎないのだろうか?
この辺りに岡田美術館の思惑が透けて見えるようでもある。純粋に福井紅太郎の絵画の美術性を愛でるという目的よりも、その大きさで圧倒させようという実業家、岡田氏の商業的野心が見えるのである。

足湯

足湯

足湯

足湯

 それは他にもある。
 館内への入り口では、空港並みの荷物、ボディチェックを受けるが、その目的が、館内の監視員を省くためであろうと察する時、あるいは、名物の足湯では、入湯料500円(入館料には含まれる)にも拘らず、貸しタオル一つなく、一本330円で販売されていることなど体験すると、例えば根津美術館などでは決して感じることのない、そぐわなさ、違和感を感じとるのである。

風化亭

風化亭

庭園入口

庭園入口

 スマホ、デジカメの類は1階の入り口でロッカーに保管させられるので、5階から庭に出てしまうと、屋外での一切の写真も撮れないのである。ここらに至ると美術館のご都合主義が露骨に垣間見えて、少々不愉快になるのは私だけではあるまい。

 館内は非常に暗く、足元が不安になるほどであるが、これが何を目的にしているかは分からないし、館内の案内が不十分で、美術館の全体像が把握しずらく、終日出入り自由といえども、しばらくは戸惑うのである。
ただ、展示の解説ボードはビジュアル的で親切であり、また学芸員の説明も丁寧で好感が持てた。
当日は尾形乾山の焼き物の解説であったが、兄光琳との話にはリアリティがあり勉強にもなった。乾山の需要文化財になった、二つの「透かし彫り反鉢」も、解説の後ではさらに見ごたえが増したのである。

展示場の常設作品も古代の東洋陶器から、中・近世の日本陶磁器、浮世絵、書、琳派の大屏風など圧倒する品揃えである。これだけのものを僅か数十年で収集した岡田氏の美術に関する見識造詣も凄いし、審美眼も凄いと思う。
 大原美術館のように、オーナーの意を受けたアドバイザーやバイヤーが実際には買い集めたのではなく、本人の目利きですべて集めたとすれば、岡田氏は若い頃から財力だけではなく、美術にも相当な研鑽をつまれ見聞、見識、造詣を深めて来たに違いない。その努力は、他の有名個人美術館の誰にも決して負けないものであったに違いないと思うのである。

 広大な敷地に、美しい庭と足湯と言う箱根ならではのサービスがあり、何よりも見ごたえのある美術品が多数揃っており、わが国の一級の美術館であることに何の異論はないが、官公立並みにとは言わないが、入館料(2800円)がいかんせん高すぎると思う。
 食事処のサービスの改善と入館料の改正を是非お願いしたいところである。

お土産のチョコレート

お土産のチョコレート

チョコレートも光琳

チョコレートも光琳

モチーフとなった菊図屏風

モチーフとなった菊図屏風

 

リニューアルした扉温泉・明神館―ほんとうの「温泉の癒し」を知る

原村風景

原村風景

山荘の初秋の庭

山荘の初秋の庭

囲炉裏で信州産松茸を焼く

囲炉裏で信州産松茸を焼く

シルバーウイークは5泊5日で蓼科の山荘に行った。春のゴールデンウイーク以来の訪問であった。
夏休みがうまく取れず、今年は霧ヶ峰のニッコウキスゲのお花畑は見ずに終わったが、聞くところによると今年は、ここ数年では最高の咲き具合であったという。ほぼ毎年行っていたというのに、人生は、えてしてそんなものである。(大げさ過ぎか?)
 白樺湖が見えて、到着直前に「去年は何をしたっけ?」という話題になり、昨夏は友人と扉温泉・明神館に行ったことなどを思い出した。(CASA-AF,2014.8.6.)そこで、ひょっとしたらこの連休にキャンセルがあるかもしれないと思い立ち、早速電話してみると、運よく22日に空きがあり、それもお気に入りのベッドの部屋が一つ取れた。
 最近の温泉地の旅館やホテルは、大抵が夜9時過ぎになると留守電になっているが、明神館は夜10時近かったが、普通にフロントが応対してくれており、無事予約が取れたのである。

明神館ロビー

明神館ロビー

フレンチレストラン

フレンチレストラン

和食レストラン

和食レストラン

 今回が3回目の訪問であったが、新たにいくつかの発見があった。
 まずは、この春にリニューアルしてレストランのシステムが変わっていた。先には懐石料理、フランス料理、創作和食の3種類からの選択であり、前者2つの予約競争であったものが、フレンチと和食の2本立てになっており料理が平均化し予約の過当競争は無くなった。レストランの場所も、インテリアの趣もすっかり変わっていた。

夕食の椀

夕食の椀

明神館メニュー

明神館メニュー

朝食のサービス

朝食のサービス

 朝夕食ともに時間の予約制ではなく、夕食は6時から8時までの、朝食は8時から10時までの好きな時間に行けばよいというのも、客本位のサービスであると感じた。(一テーブル、一組であれば、それで済むはずである。)

ラウンジのフリーサービス

ラウンジのフリーサービス

ラウンジのライブラリー

ラウンジのライブラリー

 それとゲストラウンジの存在を初めて知った。パンフレットにもホームぺージにも、館内案内のどこにも載っていない秘密の部屋にラウンジはあった。今回、部屋に通されるとテーブルの上にキーカードと案内書きが置いてあり、客室係の仲居さんからも重ねて説明を受けた。
 3回目以上の訪問客(JTBや一休での予約はカウントされないそうである。)に限定した食前酒のサービスであるが、かなり広めのスペースがあてがわれており、ブッフェ形式でオードブルとシャンパン、ワインが好きに飲めるシステムであった。落ち着いたライブラリーも併設され、サービスは若女将が一人でしていたのも感じが良かった。

 外国のリゾートホテルではこのようなサービスは珍しくはないそうだが、小生は鹿児島、妙見温泉の雅叙苑で体験したのが初めてであった。もっとも、そこではすべての客が対象であり、食後酒のサービスもあった。東屋に囲炉裏が切って在り、それを囲んで、筒切りにした青竹で燗をしたお酒が振る舞われたことを思い出した。

ルレ・エ・シャトー

ルレ・エ・シャトー

明神館

明神館

ルレ・エ・シャトーという世界の一流の個人経営のホテルやレストランのオーナー500名くらいが加盟してるフランスのガイドブックがあるが、日本からはレストラン5軒と旅館6軒が登録されているに過ぎない。ミシュランの三ツ星レストランが、東京で12軒、京都7軒、大阪4軒、神戸2軒を載せているのと比べていかに倍率が高いか、想像がつくというものだ。
 最近は女性誌25anとも連携していて、関連記事を載せるので、ご存知の方も少なくはないと思うが、日本では明神館の他には旅館では、修善寺のあさば、箱根の強羅花壇、山代温泉のべにや無可有、神戸の北野ホテル、谷川温泉の仙寿庵別邸が載っており、レストランでは、オテルド・ミクニ、ラ・ベカス、レストラン-サンパウ、青柳、柏屋が名を連ねている。最近になって、先に述べた雅叙園やヒカリヤ-ニシなど4軒が新たに加わった。ヒカリヤ-ニシは明神館が松本で経営するフレンチレストランであるから、明神館の料理が悪かろうはずはないのである。

 宿のホスピタリティとは居心地の良さに尽きるが、居心地には主観が伴うものであるから、人それぞれによって異なるものであろうが、最低限の共通性はあると思う。
 例えば、清潔感とか、スタッフの応対のマナーの良さなどである。
 小生は決して高級志向ではなく、コストパフォーマンスのバランスを重視するが、それでも修善寺のあさば、那須の二期クラブのフアンであり、湯河原の海石榴や箱根の強羅花壇は苦手な方である。もちろん逆の方もおられようが。

クローゼット

クローゼット

 まずは気配りが建物、家具調度品からサニタリー、カトラリーのすべてに行き届いていることで、しかもそれが自分のセンスに合えば尚よいのである。
 客に対する気遣いも万事に行き届き、かつ押しつけがましくないことが大事である。もてなし側のルールとか美意識を強引に押し付けるのは、それがどんなにハイレベルなものであれ、興ざめになるものだ。
 それに大事なのは、客層である。お客様は神様であっても、オールマイティではないのだから、大声を出したり、傍若無人で無遠慮な振る舞いを見せたり、あるいは家族連れでも、騒ぐ子供に注意できないような客は、二回目は来れないように因果を含めて誘導すべきなのである。そうしておれば、おのずと客層も限定されてくる。

 旅館やレストランが忘れてはいけないことは、使い手、つまり客の方の評価のかなりの部分が、お店の醸し出す雰囲気であることをよく知ることである。お店というものは、店と客が一体となって出来ているということだ。建物や料理などのハードがどんなに良くてもモテナシの心、マナーなどソフトが駄目なら駄目なのである。
 上客とは決して富裕層を指すのではなく、常識と最小限の教養を持った品格のある人達のことだと思う。

 先日こんな体験をした。
 蓼科に向かう中央道のサービスエリアで食事をした時、大変な混雑で、空いたテーブルが見つからず、うろうろしていると、席を譲ってくれて相席のようになった親子連れがいたが、小学校2,3年生くらいの女の子と父親であったが、とても行儀よくオムライスを食べていて、話しあう親子の雰囲気もとても良いものであった。お蔭で私達の食事もサービスエリアとは思えない豊かな味わいになった。
 昨今は、我先にとガサツな家族が目立つばかりで、このような親子連れを見かけることはほとんどない。常識、教養とはこのような場面でよく出るものである。

 旅館のパブリックスペースも同じである。ロビーもお風呂もラウンジも客が雰囲気を作るのであって、高価なインテリアや家具が作るのでは決してないのである。

 レストランのグランメゾンも当初はアラカルトメニューに力を入れているが、少し有名になり、ウエディングを始めるようになると概してだめになる。第一、貸し切り状態を作れば、その一事だけでも一般客に迷惑をかけ、客を軽んじることになるから、ヨーロッパのレストランでは矜持として決してしないものであるのだが、わが国では貸し切りは普通に行われている。
 店側にしてみれば、画一料理が多人数分はけるとなれば、利益率からみて注文があるかどうか判らないようなアラカルトを維持するのがばかばかしく思うようになるから、益々ウエディング中心に経営するようになる。そうなると、結婚式の下見と結婚記念日のサービス料金のそれだけの若い客層が増え、店の雰囲気はすっかり変わり、必然的に常連や一般客は足が遠のくのである。

 旅館であれば、目立たないところは手を抜きがちになるのだが、一流とは、見えないところまで、決して手を抜かないものだ。
 確かに、一般客はそんなに頻回に行くわけではないので、お店にとっては、是に腹は変えられないというところだろうが、やせ我慢してでも矜持を保つのが本当の一流であろうというものだ。
 また客の方も、気に入ったレストランンなり旅館なりは、たとえしょっちゅう行かなくとも、常に気にかけており、もし客が減っていそうなら、無理をしてでも通ってやるのが贔屓の心意気というものであろう。

真空管アンプ

真空管アンプ

立湯

立湯

立湯

立湯

夜食

夜食

 明神館は、客にいかに癒してもらうかがテーマであるかのような気遣いが至るところに垣間見える。ベッドは欧米5つ星ホテレルが使用する米シーリー社のポスチャーぺディックのマットレスが使われているし、ベッドルームには真空管のアンプでヒーリング曲がBGMで流れるように設えられ、良眠を誘うハーブティも色々揃っている。ルームキーも当然のように2個あり、各自が自由に風呂に行ける仕組みになっている。健康には良くはないが、希望すれば気の利いた夜食も出る。
 外風呂は3か所あるが、特に「立ち湯」は山の緑が眼前に迫り、森林浴の気分も味わえる。
 駐車場は玄関から少し離れているが、行きは駐車場に止めても、すぐ気づいて迎えに来てくれるし、帰りは当然バレーサービスがあるが、ロビーで待つ間にもお茶のサービスがあるという具合である。

 本当に何の変哲もない、特に風光明媚でもない普通の山間に立つ温泉宿であるが、このような洗練されたサービスで、創業が1931年というから驚きに値する。
 都会からは少々遠くて不便だから、予約制限もないし、料金もコスパが非常に良い。

 そして何より、心身共に癒される。
 小生が今,最も常宿にしたい一軒である。

茹で栗

茹で栗

自家製焼き菓子

自家製焼き菓子

 

井上ひさしの遺言の反戦劇、「父と暮らせば」

父と暮らせばポスター

父と暮らせばポスター

 注目された70年談話は、取り巻き官僚と、太鼓持ち御用有識者が作り上げた、安倍首相の意向を取り入れたが、かと言って揚げ足を取られぬよう露骨ではなく、いかようにでも解釈できる、言ってみれば誰もが否定しにくい主語のない一般論にして、美辞麗句で飾りたてて述べるに留まり、アジア、欧米、我が国の国民にも等しく心に響かない空虚なものになった。
一方、翌日の戦没者追悼式において、天皇は、「より深い反省」「国民の平和の存続の希望」を明記する言葉を述べられ、世界に政府とのバランスを発信された。

 NHKの人気番組「ひょっこりひょうたん島」でメジャーデビューした、作家の井上ひさしは、1962年に取材で広島を訪れ、原爆の惨状に衝撃を受け反戦の固い決意を示すべく、いわば『喪の仕事』として三つの戯曲を残している。一つは1994年に、広島の原爆を扱った「父と暮らせば」を、2013年には、沖縄の地上戦を扱った「木の上の軍隊」を作り、そして三つ目の作品が,井上の遺志を継いだ山田洋次監督によって長崎の被爆を扱った映画『母と暮らせば』となってこの12月には放映される予定になっている。
これらは、井上の「戦後命の3部作」といわれ、井上の確固たる反核、反戦への使命感から出来上がったものである。井上自身が完成させた戯曲は「父と暮らせば』一作であり、後は病気に倒れて未完であった「木の上の軍隊」を、井上の遺志を継いだ蓬莱竜太が脚本にし、栗山民也演出で作り上げた。(2015.1.7.CASA=AF参照

 そして、井上と交流のあった映画監督の山田洋次が、井上の遺志を汲んで、長崎の原爆を扱った『母と暮らせば』を作ったのである。

 父と暮らせば」は初演が1994年で、こまつ座がいわば劇団の使命感で今日まで再演を続けている看板演目である。娘、美津江役も‘すまいけい‘、斎藤とも子、西尾マリ、今回の栗田桃子と変わってきている。

 井上は存命中は、再演を繰り返すたびに毎回、「原爆とは人類にとって何であるか」を問い、「生きること」を伝える「前口上」を述べたと言うが、今は初演の際の井上の挨拶がプログラムthe座84号に掲載されている。

こまつ座雑誌、the座84号

こまつ座雑誌、the座84号

あの時の被災者たちは、核の存在から逃れることの出来ない
二十世紀後半の世界中の人間を代表して、
地獄の火で焼かれたのだ。
だから被害者意識からではなく、
世界54億の人間の一人として、
あの地獄を知っていながら、
「知らないふり」をすることは、
何にもまして罪深いことだと考えるから
書くのである。
おそらく私の一生は、
ヒロシマとナガサキを書き終えた時に
終わるだろう。
この作品はそのシリーズの第一作である。
どうかご覧になって下さい。       

             井上ひさし

 

 物語は,広島の原爆で父親を亡くした一人娘が、多くの肉親、友人が死んでいく中で、自分一人が生き残った自責の念があるところに、恋愛をし、結婚しようとしている自分を、自分だけが幸せになっていいのかとの罪悪感にさいなまれるのであるが、それに対して、父親が霊になって現れ、「そうではない、残ったものは幸せになっていいのだ。」と娘のもう一つの心理を代弁、弁護する形で進行する。二人の会話の中で、実際の被爆者の声を基にした原爆の残酷さ、被災者の悲惨さが、二人の葛藤と共に語られていく。

井上は「こまつ座通信」「the座」の中で繰り返し、一般市民の目線から戦争の悲惨さ、人間の理不尽さを説き、反戦の思想を語り続けている。

 この作品を書くに至った動機について、このように言っている。

一つは昭和天皇が「原爆投下は、広島市民には気の毒であったがやむを得ないことであった(1975年10月31日)。」といった一言と、中曽根康弘首相が、広島の原爆養護老人ホームを訪ねた際、「病は気から、根性さえしっかりしていれば病気は逃げて行く(1983年8月6日]。」と語ったことに切れて、これはどうしても書かなければと思ったからだという。

 被爆者達は一瞬にして世界が割れるような爆風と数千度に及ぶ高熱を体験し、たとえ熱傷による生命の危機から脱しても、次いで吐き気、出血、口内炎に襲われ、ここも乗り切れば2,3週目で脱毛、貧血、白血球減少が始まり、3年目で白内障、6年目で白血病がピークになり、その後も繰り返すケロイドの潰瘍形成と痂皮化、全身のどうしようもないだるさと疼痛に襲われ、70年後の現在でも原爆症後遺症で亡くなっていく人は絶えることはない。最初だけではなく何度となく繰り返して襲う苦痛と絶望感は、まさに生き地獄のように映り、原爆投下の非人間性を憎み、糾弾している。

 そして原爆投下のカラクリについても言及している。
 1945年7月17日に米、英、ソ連がポツダムで終戦協議をした際、日本では宮廷グループが終戦の意向で動いていることを察知したアメリカは、終戦を先送りする為に、日本が受諾できないように天皇の身分保障については触れないように工作をした。
 なぜなら、前日にニューメキシコ州のアラモコードの砂漠で核実験に成功したアメリカは、原爆を日本に実際に投下して原爆の威力を世界に誇示し、戦後交渉を有利に運ぼうとしたからである。片やソ連も終戦前に日本に参戦しておきたかったので利害が一致したのである。
 そして7月26日にポツダム宣言が発せられると、「天皇の身分保障が無い。」と、日本の戦争指導者達は、まんまとその策略に乗り、黙殺することで原爆投下の時間的余裕を与えてしまったのである。

 日本の戦争指導者にとって国家とは、「天皇の赤子」と呼んだ一般国民では決してなく、天皇と軍であった。その証拠に日本軍は、戦禍になると一般国民を盾にして我先にと退却した事実はあっても(沖縄の地上戦、満州のソ連侵攻から敗戦撤退時、富山大空襲時の軍の動きなどの例がある。)、軍が目の前の国民を守ろうとした歴史的事実はない。
 権力が守るのは、権力と権力の構成員であって、決して一般国民ではないことは忘れてはならない重要な歴史的教訓である。

 また、国家、国家と叫ぶ者ほど利己的であることを示す事例にも枚挙の暇もないが、
 そこから学べば、現在の政府及びその取り巻き連中も同類である可能性は高い。
 くしくも70年談話では安倍首相も歴史から学ぶべきだと言っているではないか。

 本当に歴史から学ぶとするなら、全国の子供たちに、広島か長崎を見学することを義務教育の一環として義務付けたらどうか。日本の反核のメッセージとしてこれほどアッピールするものもないだろうと思うが。

 井上がこの芝居でいわんとするところは、被爆者の切ない言葉を世界中に広めなければ、というメッセージであり、同時に国家や時の政治指導者という権力者は、いざという時には、いかに国民をナイガシロにするか、というメッセージである。
それら権力者から自らを守るためには一般国民は、「記憶せよ。抗議せよ。そして生き延びよ。」(イギリスの歴史学者エドワード・トムソンの言葉から)を実行するしかないと言っている。

 そして私は思う。
 戦争は、生き残ることが不正義であり、生き続けることが卑怯であると自責するように仕向ける。
 「生きる」という、人間としての究極の最低限の権利、尊厳すら否定する社会が正義であるはずはない。
 従ってそんな戦争を可能にする社会が正義でないことは自明のことなのだ。

 

マグリット展-図らずも、画家の世界観が絵になった場合

パンフレット

パンフレット

数日前のことです。
その日は、天気予報によれば、梅雨の中休みで、めったにない好天ということだったので、日頃乗らない車を走らせるためもあって、ミッドタウンに車を置いて国立新美術館で開催中のマグリット展に行ってみた。

白紙委任状Le blanc-seing

白紙委任状Le blanc-seing

マグリットの絵は、よく教科書などで見かける「白紙委任状」くらいしか知らず、その印象派的なソフトな描写から、何故それがシュルレアリズム(超現実主義)といわれるかも知らない程度の予備知識しか無かった。

女たちFemmes

女たちFemmes

しかし行ってみると、まさに異次元の世界がそこにあった。

 マグリットは、初期には商業美術の世界に身を置いて生計を立てつつ、制作に励み、画風にはキュビズムの影響も見られたが、1920年代初頭には、キリコの作品「愛の歌」に出合うと、シュルレアリスムにのめり込んでいく。一時パリのシュルレアリスト達、ブルトン、ダリ、ミロとも交流するが、彼らが、当時台頭したフロイトの精神分析学派の無意識の世界に傾倒して行くと、考えが合わず数年で故郷のブリュッセルに帰って、二度と出ることはなかったという。

彼は無意識の世界の存在と、それを解釈する精神分析というものを徹頭徹尾認めず嫌悪した。
以下は彼の言である。

 私は「意思」を信用したいと思わないように、私は自分の知らないうちに「無意識」による様々な説明より私が好むのは、私達の考えや感じ方が予測不可能であるというお気に入りの信念です。各瞬間は予測不可能な出現であり、各瞬間は現在の絶対的な神秘を示している。

 また私は「観念」にも信を置きません。もし観念を持っていれば、私の絵画は象徴的なものになるでしょう。しかし断言しますが、私の絵画は象徴的なものではありません。

 私には無意識の活動の必要性を無しに済ませることが十分出来ます。無意識の専門家のまじめさは私には滑稽に見えます。そして「精神分析は精神分析によって扱われる主題として最良のものだろう」と皮肉っている。

現実の感覚Le sens des realites

現実の感覚Le sens des realites

赤いモデルLe modele rouge

赤いモデルLe modele rouge

大家族La grand famille

大家族La grand famille

絶対の探求La resherche de l'abosolu

絶対の探求La resherche de l’abosolu

マグリットの作品においては事物の形象はきわめて明確に表現され、筆のタッチをほとんど残さない古典的ともいえる描法で丁寧な仕上げがほどこされている。しかし、その画面に表現されているのは、空中に浮かぶ岩、鳥の形に切り抜かれた空、指の生えた靴といった不可思議なイメージであり、それらの絵に付けられた不可思議な題名ともども、絵の前に立つと戸惑い、考え込ませずにはおられないものがあった。

 奇抜なタイトルと超現実的な描写は精神分析の格好の対象になったが、彼は頑なに拒絶している。

 そして、マグリットの絵画は、彼自身の言葉によれば、「いわゆる無意識を開示するもの」ではなく、「目に見える思考」であり、世界が本来持っている神秘(不思議)を描かれたイメージとして提示したものであるという。私達の考えや感情は予測不可能な出現であり、各瞬間は現在の絶対的な神秘示しているという。それ故、あらかじめ考えていないイメージの中に世界の神秘を生じさせることを目指しているという。

 この考えは古典物理学の因果律を否定する世界観でもあり、まさに量子論の偶然性に近いものであると言えよう。
 この思想性においても、夢や無意識の世界を描き出そうとした他のシュルレアリスムとは大きく異なっている。

絶対の声La voix del'absolu

絶対の声La voix del’absolu

 彼は、哲学も良く学び、言語学のソシュールの「フィニシアン・フィニシエ」からヒントを得て、「言葉とイメージ」の問題を追求した作品を残し、ミシェル・フーコーのような思想家にも影響を与えた。

 彼の思想は絵画にとどまらず、20世紀の文化に大きな影響を与えた。

 マグリットの生涯は、波乱や奇行とは無縁の平凡なものであった。ブリュッセルではつつましいアパートに暮らし、幼なじみの妻と生涯連れ添い、ポメラニアン犬を飼い、待ち合わせの時間には遅れずに現われ、夜10時には就寝するという、どこまでも典型的な小市民であった。残されているマグリットの写真は、髪をとかし、常にスーツにネクタイ姿で、実際にこの服装で絵を描いていたといい、「平凡な小市民」を意識して演じていたふしもある。彼は専用のアトリエは持たず、台所の片隅にイーゼルを立てて制作していたが、制作は手際がよく、服を汚したり床に絵具をこぼしたりすることは決してなかったという。(この段落はウィキペディア「マグリット」から)

ヘーゲルの休日Les vacances de Hegel

ヘーゲルの休日Les vacances de Hegel

 彼は生涯で1600点もの作品を残したが、それは制作のスピードが、彼の絵に対する考えに関係するとすれば理解できることである。今回のマグリット展では、そのうち140点が展示されており、過去最大規模のものという。

過去も未来も拒絶し、ただこの今を生きるという超現実主義。幻想どころか一切の予想すら許さない。しかし生活は判で押したような生真面目な小市民的な生活をした。まるで東洋思想でいう「悟った」かのように暮らし、しかし内実は、不条理に心がうごめいており、思想的には共産主義に傾倒していた。

 この激しい意識と、平凡に徹した穏やかな行動の乖離こそ、彼の絵の深さでもあり凄味でさえあると思う。

 マグリットの冷静な理性は、奇行に終始したダリを感覚的に嫌う多くの人にとって抵抗なく受け入れられたのが、彼が国民的人気作家になった理由の一つであろうと僕は考えている。
それにも増して、マグリットの絵が示した不可思議さが,見る者の心底に、何か相通ずるもの(無意識が感じる不条理とまではいわないが)が有ったためではないかとも考えている。

ある聖人の回想Les memories d'un saint

ある聖人の回想Les memories d’un saint

終わりなき認識La reconnsissance infinie

終わりなき認識La reconnsissance infinie

最後に僕はダリの絵の繊細な美しさも大好きであることを追記しておきます。

 

中村キース・ヘリング美術館-宇宙エネルギーと民芸のような懐かしさに共感

パンフレット

パンフレット

プログラム

プログラム

キース・ヘリングは、1980年代の初めに、地下鉄の使われていない広告掲示板に黒い紙を張り、その上にチョークで絵を描くという自称サブウエイ・ドローイングを始め、ニューヨークの通勤客の間で評判になり、やがて画商の目にもとまり世に出た。
 ストリートアートの先駆者とされ、アンディー・ウォホールと並び1980年代のアメリカの代表的なモダンアーティストと評価されるが、恥ずかしながら、小生は彼のことは殆ど知らなかった。

 蓼科のホテル・ハイジのフロントに中村キースへリング美術館のパンフレットが置いてあったので興味を惹かれ、東京への帰り道に中央道小淵沢インターで降り、寄ってみた。5月の連休のことである。

 後で調べてみると、1980年代後半には日本でも展覧会やワークショップ、ポップショップも開催されたというし、彼の絵は、その後ユニクロのTシャツにプリントされたり、2012年のGoogle の創立00年記念でホームページのロゴにもなったという。
 現在ではいろいろなグッズがネット通販で買う事も出来るようである。

中村キースへリング美術館

中村キースへリング美術館

新館屋上から

新館屋上から

 美術館は小淵沢インターから清里方面に向かって数分のところにあった。周りには、観光地の猥雑な店もなく、静寂感に溢れた森の中に忽然とあった。建築家、北川原温による斬新な現代建築だが、八ヶ岳山麓の緑の杜によく合っており、箱根のポーラ美術館のような恣意性も感じられず、包まれるかのように、ごく自然に収まっていた。

untitled

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dream and hope

dream and hope

フィギア

フィギア

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 美術館の、展示ルームに続く暗いトンネルを抜けると、圧倒的なへリングの世界があった。
 ストリートアートとは、いわば落書きのようなものであり、ふつうは醜悪で美観を損ねるものを連想するが、へリングの絵には、何とも言えないユーモラスさ、温かみと、純粋だが、強いエネルギーが感じられ、一瞬にして引きつけられた。

 絵のデザインの、フラクタル構造を思わせる単純な繰り返しが、安心感を与えるのか、人を拒絶しないおおらかさと、職人芸のような絵の完成度の高さは、まるで民芸館で民芸アートでも見るかのような、安心感、安定感や懐かしささえ感じさせたのである。

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radiant baby

radiant baby

 もともと子供の落書きのように、ひたむきなエネルギーが原点であろうから、彼を担いだ周辺の人たちは別にしても、日本のモダンアートの代表、村上隆のように、アートに商品性を持ち込み、ビジネスに結び付けようとする厭らしさは微塵も無いし、絵そのものは芸術作品としての完成度を求めないピュアなものである。

 その経緯こそが、日本の民芸に通じるものであり、宇宙の懐に抱かれたような安心感と宇宙全体から発せられるエネルギー感は、彼の作品が単にモダンアートの範疇に収まりきれない味わいの深さになっていると思う。

 キース・へリング美術館は、オーナーの中村和男氏の個人コレクションを、彼自身が美術館を建てて一般公開しているものである。
 彼はおそらく立志伝中の人物であろうが、この事業が彼の本業と関わりがあるかどうかは知らないし、興味もない。

 ホームページでは、彼がキースへリング作品との出会いから、コレクションを集め、2007年に一般公開するに至った精神的動機、そして美術館を縄文文化の栄えた八ヶ岳の麓に作った意味を強調しているのみである。

トイレの案内

トイレの案内

ポスター

ポスター

untitled

untitled

キースへリングのテーマは夢、希望そして愛と平和であり、彼は名を成してからは、エイズ撲滅のキャンペーンを積極的に行ったが、1990年に30歳の若さでエイズにより亡くなった。

 

ゴールデンウィークにしたこと、その②-立科、日日是好日

五月の八ヶ岳

五月の八ヶ岳

三井の森

三井の森

民家の花桃の木

民家の花桃の木

白と赤の花の同居を咲き割れという。

白と赤の花の同居を咲き割れという。

 ゴールデンウィークは、毎年、白樺湖近くの長野県立科町を訪れ、山荘の小屋開きをする。去年は夏に行ったきりだったので、私の小さな、良寛の五合庵のような山荘は、無人のまま秋の紅葉を迎え、冬の大雪に耐え、4月になってようやく雪が解け、今主人を迎えることが出来たのである。軒の瓦が何枚か割れていた以外は大きな変化もなく、蜘蛛の巣を払い、風を通し、囲炉裏に薪をくべれば、直ぐに、またいつもの居心地、風情に戻ったのである。

五月初旬の山荘風景

五月初旬の山荘風景

囲炉裏に薪をくべる。

囲炉裏に薪をくべる。

茅葺

茅葺

 別荘は退屈であるし、経済的にも大いに無駄である、という人が少なくない。
 それは別荘に何かを求め、それを経済効率で計るからではないだろうか。購入費と維持費を宿泊日数で割れば、どんな高級旅館やホテルより高くつくことは小学生の算数でもわかることである。

 それでも世の中には沢山の別荘が存在するには、それぞれ、いろんな理由があるのだろうが、僕が思うのは、別荘には何も期待しない、予定しない、身も心も弛緩できるだけ弛緩する場であると思えば、その価値はあろうかと思うのである。

 ただ、だからと言って建物は何でもいいという訳にはいかないのが、本人のこだわりであり美意識のなせるところであろう。山荘風のログハウスであったり、英国風の煉瓦つくりの洋館風であったり、いかにも有名な建築家がデザインしたモダンな建築であったり、あるいは街中と変わらないツーバイフォ―の建売風であったり、持ち主の好み、センスで様々である。
 私の山荘は、建坪30坪あまりの2LDKの古民家で、リビングは囲炉裏がついた板張りであるのと、屋根が茅葺であるのがこだわりである。もっとも私が初めから移築し建てたものではなく、前のオーナーから引き継いだものである。前のオーナーは雑誌「芸術新潮」の初代編集長をした、その世界では有名な編集者で、数年前に亡くなった時には新聞で記事になったほどの人物である。
 従って、彼の縁でこの山荘には色々な芸術家が出入りしたようで、特に岡本太郎は毎夏長く逗留しており、彼の著作の中にもこの山荘が登場する。彼は、古墳時代の土偶に強い興味があり、この八ヶ岳周辺には古墳遺跡が多いのも、その理由の一つであったのだろう。

平出古墳群

平出古墳群

人柱

人柱

 私の代になってトイレは水洗にし、風呂もヒノキ風呂に変えたりしてアメニティの改善を図った。また庭のカラマツを伐採し白樺を植え、テラスを作りBBQが出来るようにし、縁側も月見台に変え、酒宴が持てるようにした。入り口には朝鮮の石造の人柱を置き門柱代わりにし、白樺の枝でお止めを作って遊んだりしてもみた。その時に植えた1本のこぶしの木が今年初めて花をつけた。

こぶしの一輪

こぶしの一輪

 こうして約30年が経ち、もう何も手を加えるところは無くなったが、すると茅葺の茅の寿命がきて、屋根をどうするかが目下の焦眉の課題になった。建築評論家で、建築家でもある藤森照信氏にもお出でいただき相談もしてきたが、いまだに結論がだせない優柔不断さは、ひとえに小生の年のせいであろうか。

 そんなある程度のヒストリー性を持つ小屋であるが、その小体ぶりといい、風情といい小生の好みに合っていて、とても居心地がいいのである。

雑木林の新緑の下でお弁当を広げる。

雑木林の新緑の下でお弁当を広げる。

タンポポ畑

タンポポ畑

ホテルハイジ

ホテルハイジ

ハイジの庭も新緑の兆し

ハイジの庭も新緑の兆し

蕎麦屋黒曜

蕎麦屋黒曜

ダッタンそば3種盛り

ダッタンそば3種盛り

 ここでは、何故か早寝、早起きになるので、朝起きて天気が良ければ、おにぎりを用意して、特別の反対が無ければ近場に出かける。八ヶ岳の麓の里山であったり、あるいは山稜の峠であったりするが、おにぎりのお弁当を食べれば近場の日帰りの湯に立寄り、夕方前には帰ってくる。そしてしばらく昼寝をし、夕飯を作る。野菜は地場のものを好んで使うが、肉は家の冷凍庫から持ってきて在庫整理をするのが常である。

中山道和田宿温泉のホール

中山道和田宿温泉のホール

ふれあいの湯露天風呂

ふれあいの湯露天風呂

 夜は本を読むくらいしかすることもなく、深々と夜は更け行き、早い眠りにつくのである。

 前向きなこと、生産的なことは一切しないし考えない。身も心も弛緩するだけ弛緩するのである。布団も敷っぱなしで過ごすのである。

 このように過ごすには、旅館やホテルではなく、やはり自分の家であるほうが都合が良いと思うのである。たったそれだけのことのために?と思うかもしれないが、その為だけでも数日の小屋暮らしの価値があると小生は考えるのである。

 今回の5泊6日の小屋暮らしで撮ったスナップを御覧いただき里山の自然の豊かさを感じていただければ、小生の気持ちもご理解いただけるような気もします。

車山湿原は未だ枯れたまま

車山湿原は未だ枯れたまま

コロボックルの定番。チーズケーキと子ヒートココア

コロボックルの定番。チーズケーキと子ヒートココア

芝桜

芝桜

女神湖の水芭蕉

女神湖の水芭蕉

女神湖のザゼンソウ

女神湖のザゼンソウ

 私達は、恥を忍んで言えば,行きの中央道の車中からして、すでに諍いが始まるのが常であったが、それでもその数は年々減少し、今回はとうとう一度も言い争いは無かった(と思う)。

 これは歴史的な出来事であったと密かに思うのだが、今のところ僕には、その腑に落ちる理由は分かっておりません。

 

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