海堂尊のベストセラー『極北クレーマー』は、現在の医療が抱える問題を多方面から鋭くえがいた作品として高い評価を得ている。
医療崩壊は国家の数々の誤謬による制度的な破綻に加え、医療従事者の意欲喪失を招いたことで致命的ともいえる状況にあるといえよう。
原因はいくつもあるのだが、まず医療の全能性、万能感と言う誤解、錯覚から来る国民の不満がある。
現代医療は検査が適切に行われ、医療処置が間違わなければ、あらゆる病気は治って当然という理解である。
うまくいかないとすれば、それは誤診か医療ミスの結果であるという短絡的な思考がまかり通っている。
残念なことに現代医学は生命現象のほんの一部を解明しているに過ぎず、生命は何であるかという本質的な所はほとんど分かっていな
いにもかかわらずにだ。
また手術をするのは神の手ではなく、人間の手であるという事実だ。
分かっていない事は分からないと、出来もしない事は出来無いと厳然と否定しない医療側にも責任があるが、問題の根本は、現在の
医療は進歩しており、検査で異常はすべて見つかるし、治療が適正なら殆どの病気はすべて治るという根拠のない医療への万能感であ
る。(検査をすれば体の異常はすべて分かる筈であり、ふつう病気というのはすべて原因が解明されており、治って当然である、とい
う根拠のない万能感が一般世間にあるため、治療が始まってから新たな異常が見つかったり、治療が予定通り進まないと医療過誤だと
か、医療ミスだと直ぐにクレームをつける事になるのです。)
検査で分かることは、現在医療が持っている検査法によって、という前提であり、ある検査で異常がなかったということは、その検査
法では異常が見つからなかったというだけのことであり、正常である事とは違うのです。
ひとつの検査法では、一つの方向からある一面の異常の有無を見ているにすぎないのであって、身体全体の異常を全方向から全てを掴
んでいるとは程遠いのです。
CT,MRIに代表される画像診断の無かった、ほんの数十年前は今からみれば、異常の見落としや誤診の連続だったでしょう。
同様に数十年後になれば現代医学はたくさんの見落としをしていたことになるでしょう。
時々マスコミの報道をみると、人が死ぬことはすべて医療ミスなのかと言いたくなります。
老衰死であろうが死因にはかならず、心不全やら呼吸不全やら多臓器不全など直接的な病名がつけられますが、それを救命できないと
ミスだと考えるなら人間は死なないことになり、死ぬのはすべて医療ミスになってしまいます。
また私のかつての専門の形成外科の分野では生まれつき外観に大きな障害を持って生まれた患者さんが受診するのですが、手術して本
人の期待通りの結果が得られないと、話が違うと言って医療費を払わないとか、不幸にも想定外の合併症が起きてしまうと(あらゆる
異常を術前に把握する事は困難)、予測できなかったから医療事故だと言い、あたかも、それまでの抑圧された感情をぶつける正当性
を得たかのように医者を責め立てることもしばしばみられます。
期待どおりの結果がえられなかったのは、すべて医者のせいで、あげくは、まるで障害を持って生まれたのも医学が不十分のせいだ言
わんばかりの態度をとる人すらいます。
現在の医療は何でもかんでも分かって当然、治って当然という理解がまかり通っているのです。
もう一つの意欲喪失の要因は世間の身勝手さである。
海堂尊も言っている、困難に立ち向かって問題を解決したところで、誰も褒めてくれない。
そのくせ一度でも失敗すると袋叩きにする。
誰が世の中のために尽くす気になれるか、と。
出来るだけ何もしないに優るものは無くなるのだ。
ましてや、創造的な仕事は誰もしなくなる。
何かをするという事は、失敗をするという可能性を同時にもつということである。
過去に成功例が何例あるかが、医療の正否の判断基準であるなら何百年も同じ治療をするしかない。
学問を究め、ある理論を完全に理解したと言えるのは、その理論の限界、欠点が明らかになった時であり、それを超える新しい理論を
手に入れた時である、と脳科学者の茂木健一郎も言っている。
東北大学の電子工学の西沢潤一は『守・破・離』の言葉で同様の事を述べている。
もちろん臨床医学では新しい治療は周到、慎重であるべきは当然だが、それでも最後は、誰かが飛ぶしか進歩のしようはないのである。
現在の大学の(管理者の)体質は、その大きな障壁になっている。
どんな火の粉でも降りかかる危険があれば、その元を切るか、自らの身は遠ざけて逃げる。
しかし、自らが火の粉を播いた時は、知らぬ顔をして開き直るのである。
とにかく責任は取らないが得に徹している。
私の居た大学もそうであった、というか現に今も同じ体質である。
権力への出世の秘訣は、部下の失敗には知らん顔、手柄は横取り、私の長年のルサンチマンになっている。
あらゆる臨床外科系は再建的要素を含み(病変となった臓器を取るだけでは生きていけず、何らかの再建が必要とされる。分かりやす
い例として臓器移植がある。)、その再建の不可能性が外科系臨床科の限界性となってきた。
再建形成外科は、それらの限界性の解決を生業とする臨床科である。
従って常にイノベーションが求められ、その実施に当たっては進歩に伴う失敗のリスクを常に負う事になる。
先に述べたような医療を取り巻く現在の環境は、形成外科(の進歩)にとっては致命的であるともいえる。
従来の再建形成外科に代わる再生医療はこれまでの医療の概念を根本的に変えるものであり、外科がCrash (Resection) and Buildを基
本理念としてきたものからCrashしないでbuildのみで治療しようとするものである。
現在の再建形成外科が、少なからず再建材料としてのドナーの犠牲を要するのが大きなジレンンマであったのに対し、小片の細胞で組
織、臓器の再生の可能性を希求して、皮膚や軟骨の組織培養、組織工学(tissue engineering)の研究を始めたのが、現在の再
生医療の端緒となり、今や大きく医療革命を起こそうとしている。
しかし、それとて、臨床の初めの一歩は、誰かが医者生命をかけて、『見る前に飛ぶ』ことから始まる。