雑誌GQ11月号に顔面移植の記事が載っていた。US版GQの焼き直しであるが、案外よくかけていたので、紹介したいと思う。
22歳の男性がショットガン暴発事故で顔面を粉砕し、形成外科で前腕の組織[おそらく橈骨付き遊離前腕皮弁]で鼻を作り、下腿の骨[おそらく遊離腓骨皮弁]で下顎骨など再建したが、とても外に出られる状態にまでは行かなくて、家族と一緒に山中の家に引きこもって生活していたが、5年後に脳死患者から顔をもらい移植して、社会復帰できそうなまでになったという実話が感動物語となっていることを記者が評論している。
記者が本人に会ってみると、患者は完璧な顔をしているが、表情がほとんどない不気味さ、今でも学校には実際には行けていない現実、ガールフレンドが出来たと言うが、実際にはSNSで話している程度である、毎日の大量の免疫抑制剤の服用と、それでも、もし拒絶反応が起きれば、移植した顔面を失い、死に至るという緊張した毎日の生活などから、この手術が本当に患者の為になったかを論じている。
患者は,正装して執刀医と記者会見に臨むと、「一滴の希望も集まれば、海になり、ちっぽけな信念も繋がりあえば世界になる」というような格言を良く口にし、二人は英雄気取りであったという。また彼の真実の生活では、彼には、事故前から事故後も同棲して面倒を見続けたガールフレンドがいたし、アルコールは禁止されているにも拘らず、失神するまでも胃瘻からワイルドターキーを注射器で注入せずにはおられない現実を見て、評者は一切がはかなく、幻のような感じだと述べている。
患者も執刀医も自らを悲劇のヒーローとして売り込んで、同情や名声を得ていたわけだが、このようなことは、欧米でも日本でも、さほど珍しいことではない。
このような顔面移植はこれ以前に、既にスペインとフランスで2例の報告がある。
以下は形成外科医としての私の意見。
顔面移植というとおどろおどろしいが、医学的には意外と平凡な手技だ。
一旦、切り離した組織の動脈と静脈を移植先の動脈と静脈に吻合し血流を再開してやり、組織の移植をするという遊離組織移植、最近はよく耳にする腎臓、心臓、肝臓、肺臓の生体移植と同じことだ。
ただ、少し専門的に言えば、顔の移植では、顔の骨をカバーすると言う意味の他に、表情を作るという運動機能、触る、熱いという知覚の再建が必要となる、という違いがある。
大変なのは、顔の皮膚の血行を賄う血管が一組ではなく細かく分かれていて、移植では沢山の血管を吻合する必要があること、また表情を作る表情筋も付けて移植するか、あるいは表情筋は移植を受ける人の元々の表情筋を使うかで、血管のデザインも違ってくることである。
表情筋を付けないで移植する場合は、非常に薄い皮膚になり一本の血管で栄養出来る範囲は狭くなるので、吻合血管数が増えて、より大変になるが、顔面神経の吻合は不必要になる。
顔の表情筋を付けて移植するとなると,吻合血管は減るが、顔面神経を吻合しなければならないことになる。本幹で吻合できればいいが、そうでないと難渋するだろう。
さらに知覚の回復には細かく分断された知覚領域の知覚神経全部の吻合が要ることになり、大変な仕事量になるが、再建後の顔の熱傷を避けるためには必須なことだ。
ここら辺をどう細かくデザインするかは、重要であるが、形成外科医の力量によって決められていくのであろう。
さらに顔の皮膚だけを変装のお面のように被っても下の骨格と上手く合うかという問題が残る。(皮膚はドンキのお面のように伸び縮みしない。)顔の美醜の基本は土台となる骨格にあるし、顔の移植に当っては、ドナーの骨格に似せておく必要があるだろう。
これは医学的にはそれほど困難なことではないが、技術的にはかなり高度な技を要する。
ドナーの顔面骨のCT像をとり、そのデータから3Dプリンターで骨格標本を作り、それに似せ、顔面骨を作り直せばよい。骨は自分の腸骨、肋骨、腓骨、頭がい骨等を使うことになるだろう。
ところで、最近話題の3Dプリンターであるが、その原理は、実は30年以上も前に開発され、米国では頭蓋顔面外科の領域ではテスト的には使われており、20年くらい前から実用化され、我が国でも、形成外科の領域ではすでに日常的に用いられているものである。なぜ今になって急に脚光を浴びているのか不思議に思う。
骨も自分の骨を使わなくとも、iPS細胞で骨芽細胞を作り、鋳型にはめて培養、増殖すれば、下顎も頬の骨も自分のもので、自由に作れる時代がもう見えている。
さらに一番肝心なのは、免疫による拒絶反応のコントロールだ。皮膚は免疫機構がとくに発達しており、臓器移植と比べ格段に難しいという。
やけどの時の超薄い皮膚移植でも、例え母親のものでも拒絶され他家移植は出来ないことになっている。
さらには、全く他人の顔をもらって、アイデンティティの確立が出来るかという精神的な問題が残る。
1998年に手の移植を受けた患者は移植後その手の違和感から解放されず、せっかく得た手を拒否して免疫抑制剤を飲むのを自ら中止し、手を壊死させ切断してもらったという。
また、2005年世界初の顔面移植を受けたフランス人の女性の熱傷患者は、ドナーを双子の姉のように感じるようになり、新しい人生を感謝しているという。
頭蓋顔面外科で扱う患者の中には、とても正視に堪えないような容姿の患者もいるが、幸い手術が功を奏して別人のように回復すると、アイデンディティを失うどころか、逆に真の自分を獲得したかのように積極的で陽性な性格に豹変する人もいる。
対象喪失というより対象獲得とも言うべき様である。
顔面移植も案外これに近いのかもしれない。このような革命的な変化をもたらす手術は、対象喪失の喪の仕事からさらに進んだ「復帰の仕事」の一助になっているのではないかと思う。
では美容外科ではこのような手術は成り立つのであろうか。
現に彫りの深い白人顔を作るまで顔を変える技術を誇る美容外科医もいるし、それを希望する患者もいる。
形成外科の延長は美容外科であろうから、顔面移植とまでは行かなくとも、丸で別人にしてしまうような全面的顔面美容整形はありか。
そして、もし、ある人にとって何よりもそうなりたいと思う理想の顔の人が居て、もし、その理想顔の人が脳死状態になり、ドナー登録がなされていたとしたら、移植を希望する人が現れたら、許されるべきか。
これは仮定の話にしても、深刻な倫理問題である。考えたくない程、厄介な問題である。
ちなみに、英国では2003年に、顔面移植は、将来移植を受けた本人が切除を希望するようになっても再切除が出来ないという理由で、(もう本来の自分の顔は切除され無くなっているので再切除すれば顔が無くなってしまう)、顔面移植は現実的ではないという見解が出されている。
まさに倫理に踏み込まない、現実的な見解である。