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カニと鉛筆―親父のこと

友人、先にラシェットの食事会でご登場いただいたワイン通のS夫人から、島根の御実家で調達していただいた極上の松葉ガニを送って頂き、久方ぶりにカニといえるカニを頂きました。

僕の蟹歴の最後は、かれこれ10年ほど前に、あの三ツ星拒否の‘京味’で大枚はたいて松葉ガニづくしを食べたのが最後のような気がします。

松葉ガニ特有の銀色に輝く身が、10代の女の子の脚のように、はち切れんばかりに詰まっている、脚一本丸ごとを、恭しくも天井を向いて喉に放り込む贅沢は、こんなご縁でもなければ体験できるものではなく、まことに感謝しております。

大きな松葉 カニ

はち切れんばかりの身

ぷりぷりの身

 

土曜日の16時以降必着を聞きつけた息子夫婦が我が家に居残っていましたが、体よく帰して、約束通り、老年夫婦二人で我欲を張ってお腹いっぱいになるまで頂戴しました。

カニは沈黙をもたらすといいますが、まさに静逸な美味なる時間でした。

美少女の脚も嫌いではありませんが、もうこの年になると、夢を見ている
暇よりも、よりリアルな現実を優先します。

カニの思い出といえば、僕の田舎では三河湾で採れるワタリガニをよく
食べました。

生きたカニをグラグラに煮立った大きな釜に何匹もぶち込んで、飛びはねるのを厚い木の蓋で抑え込んで茹であげ、熱いうちにバリバリ割ってご飯がわりに食べます。

あれも本当にうまかった。

さて、松葉ガニを食べると、実は僕には、妙に切なくなる、密かなほろ苦い思い出があります。

僕の父親は愛知の地方都市で零細企業を経営しながら息子3人を育ててくれました。

僕は18才の頃、京都で浪人生活をしていましたが、ちょうど今頃の季節、京都も紅葉が終わり、枯葉舞い、日暮れも早くなり、寒さが身にしみ、
心細い気持ちになった頃、僕は下がった成績も上がらず、かなり沈み込んでいました。

そんな折、親父が松葉ガニをもって京都の6畳一間の下宿に訪ねて来てくれたのです。

その頃、何かの拍子で親父は一山あてたのか、その勢いで社員一同連れて、山陰にカニを食べに社員旅行をし、その帰りに京都駅で降り、寄ってくれたのです。

その時食べた蟹の味は忘れてしまいましたが、その時の下宿の光景は
体外離脱して俯瞰してみた写真を見るように思い出されます。

その時、僕が余程元気が無かったのか、しばらくして父親から生まれて
初めて手紙をもらいました。

高野川の土手に座って、比叡山を見ながら何度も読みました。

何度読んでも、大した内容ではありませんでしたが、文章が稚拙なだけに、親父の子を思う気持ちは痛いほど、伝わってきました。

手紙は鉛筆で丁寧に書かれていました。

そのせいか、その後、僕にとって鉛筆は特別の意味を持つようになりました。

鉛筆と紙は仕事の必須アイテムになり、特に形成外科時代は、常にアイデアを考えるのが習慣になっており、僕の仕事はすべて紙に鉛筆で考えやデザインを書いて生まれたものです。

また、個人的な膨大な量の手術記録はすべて鉛筆で書いてあります。

その癖は、精神科に移ってからも続いており、2Bの鉛筆と再生紙の小型ノートに現在の仕事のすべてを記録しています。

そんな思い出があり、僕は松葉カニを食べると、脳動脈瘤破裂で突然亡くなって、もう30年にもなる親父を強く思い出します。

はて、我が息子は、僕が死んだ後も、何かで僕とつながっていてくれるだろうか。

僕は自分の父親のように、不器用だけど優しい昔の親父ではなかったから、それは無理だろうなあと今になって自省、自責しても、遅いですよねえ。

それでも、親父の優しさのDNAが孫の息子に伝わっていてくれればと、
親バカとしては思ってしまうわけなのです。

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