名前は知っていても、なかなか巡り会えないことはあるものだ。
京橋のフレンチの名店「シェ・イノ」の「マリアカラス」がそうであった。
伝説の料理人井上旭氏の名前も、弟子への鉄拳教育の噂も、マリアカラスという料理のことも知っていたが、シェイノに縁が無く、初めて食べたのは、常連の友人に連れられて行った約10年前のことであった。
子羊料理は元来嫌いではなかったが、イノのマリアカラスを食べて、目からうろこが落ちたというか、その火入れの絶妙さに目と舌を奪われた思い出がある。
衆知のように、マリアカラスは伝説的なオペラ歌手の名前であるが、彼女はパリのマキシム・ド・パリの常連であったが、ある時、マキシムの名物料理の「仔牛のパイ包み焼き」の肉を子羊にして欲しいとリクエストした。その時それに応えて絶賛されたのが、当時マキシム・ド・パリで修業中であった井上旭シェフであった。彼は帰国後、銀座レカンでもそれを作り評判を呼び、独立後はシェ・イノの不動の看板料理になった。
現在ではシェ・イノの他、井上シェフ夫人が主催する青山のマノワールディノでも食べられる。そこでは井上シェフの高弟の阿部彰シェフが腕を振るっている。
ある日、馴染のオー・プロバンソーに行った時、イノといえばプロバンソーの中野シェフもそこの出身であったことを思い出し、
「マリアカラスは作れるか?」と聞くと、よくぞ聞いてくれたとばかりに、自信満々に「任せてください」、との返事であった
そんなことがあって、二度ほどマリアカラスを予約して食べに行った。
マリアカラスは、仔羊の真ん中にフォアグラを入れてパイで包んで焼くというフランス料理の伝統的な料理法だが、パイの焼き加減と子羊、フォアグラの火入れの加減が難しく、誰もが手を出せる料理ではないらしい。
最初は8月のことで、美女と行ったせいもあるかもしれないが、その美味さに驚愕した。子羊は見事なロゼでフォアグラとトリフのペリグーソースとの相性も抜群であった。
すでに記憶はおぼろげであったが、シェ・イノ以上ではないかと思った。つまりこれ以上に子羊を焼くことは不可能だと思ったのだ。
その感動もあって、10月に再び訪れたが、今度は火入れがちょっと甘かったような気がした。誤差範囲であろうが、料理は生き物であるし、状況で味覚も変わるから微妙な違いはいたし方ないというものだろう。
そして、先日オー・プロバンソーにクリスマスディナーを食べに行く機会があったが、なんとメインディッシュは「蝦夷鹿とフォアグラのパイ包み焼き」となっていた。
シェフは「仔羊のパイ包み焼き」を毎日焼いていたシェ・イノ時代を思い出し懐かしんだのだろうか。
そして子羊を鹿に変えてクリスマスメニューにしたのだろうが、小生にはフォアグラにはやはり子羊の方が良く似合うように思えた。
麹町「オー・プロバンソー」にお行になる機会があれば、時にはマリアカラスを予約してお出かけになることをお勧めします。