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心の部屋

心脳問題と量子論-その1

人間の心はどこにあるのか?心は物であるのか?心と身体とはどんな関係があるのか?などの疑問を哲学では『心身問題」というそうであり、人類が誕生し自分たちの心というものに気づいてから悩み続けてきた問題であり、伝統的な哲学的な、未解決問題であった。科学者が心の問題に関わるのは、キリスト教的な世界観の中ではタブーとされて来たので、科学がこの問題に関わるようになったのは近年以降のことである。現代の理解では心が「脳」にあることは、まず間違いない合意事項となったので,「心身問題」は「心脳問題」と言うようになった。私達の身体は分子、原子、さらには量子、素粒子などの物質から成り立っており、物質は合成して作ることが出来るが、生命は作れないことから、心脳問題は「生命とは何か」という、もう一つの大きな未解決問題とも底辺では繋がっていると思われている。心の問題はギリシャ時代から、一元論、2元論の2つに分けて考えられ、それは形を変えつつも現在に至っており、理論物理から哲学に転じたBungeはそれらを10型に分け、わかりやすく説明している。(図1)

図1.ブンゲの心脳論分類

二元論は、「心」と「身体」を別のものとみなす考えで、肉体から離脱した「霊魂」を考える有史以来のもので、中世までは宗教的な理念とも両立できてきたが、自然科学の進歩の中で、実証主義が人間の理性を主張し始めると、キリスト教的世界と融和してきた二元論の根拠が必要になってきた。デカルトは徹底した懐疑主義から「コギト・エルゴ・スム(われ思うゆえに我あり」を唱え、「考えている自分の存在(身体)」と「自分が考えている事実(心)」は二つに分けられるとし、機械的宇宙論の中で心身二元論をうまく説明した。心は脳と異なり物質的実態のないものであり、古来から生命の根源とされて来た気息(ティモス)の考えを延長させ、気息は脳の松果体に宿り、神経伝達物質の様に全身をめぐるとし、脳の松果体を通して、心と体がつながって作用(心が脳を制御する)しあうという相互作用説をいった。デカルトがなぜ松果体を持ち出したかと言うと、松果体は人間の脳にしかないと考え、さらに脳の正中に一個だけ存在していることを根拠にしているにすぎないという。デカルトは客観と主観の仲立ちとして神を持ち出したように、どうも、交わらない二つの領域に仲介者を立てる論法が好きらしい。しかし、松果体は物質としての脳の一部であるし、松果体や気息がどうやって心を生み出しているかの合理的な説明はなされていない。これは、脳に働きがあるのは、脳の中に小人が居て、いろいろ働くからだと言うものの、それでは、小人の脳の中に小人はいるのかと、問題が循環され無限に繰り返す「ホムンクルス問題」と基本的に変わらないことになる。
二元論は現代でもPopperや日本の西脇与作にも論文がある。

二元論は何も哲学者だけのものではなく現代においても、ノーベル賞受賞脳科学者のEcclesは最新の脳科学の知見に基づく「心脳相互作用説」を提唱している。これはかなり面白い。自由意思(自我)が脳とは独立して存在し、それが補足運動野に働きかけニューロンが生まれ運動野に伝わり自発的な運動が起きるという。そこで脳と独立した自我が、どのように補足運動野のニューロンに働きかけるかについてであるが、それをカオスの揺らぎ理論(量子論)で説明している。自我は大脳のプログラマーであるとし、補足運動野が脳と自我を連絡する「連絡脳」であるとする、つまるところは、デカルトと大差ないような説であり、多くの脳科学者は賛成していないが、Penfieldなど少数ではあるが支持者もいる。
チャルマーズも、脳とは別に心があるとし脳の活動に心が付随しているという二元論随伴説を唱えた。しかしその随伴する原理は一向に解明されておらず、チャルマーズは「哲学的ゾンビの話」という思考実験で一元論の還元主義を否定したに過ぎない。

一元論は、ヒポクラテスが「心は脳の営み」と提唱したことに始まり、プラトンもそれを支持したが、弟子アリストテレスによるプラトン説の否定やキリスト教の影響下で広まることはなかった。また、近代では心理学の行動主義が二元論を支えてきたが、行動主義の終焉と神経科学の到来が「心は脳の活動である」とする一元論、還元論的唯物論の勢いを強めてきている。一方、観念論に近い一元論も現代でも存続している。大森荘巌は「無脳論の可能性」で脳が無くとも心はありうる、と述べているし、一方養老猛司は「唯脳論」を言っている。
自然科学の発達は、この世のものはすべて物質で出来ているのだから、脳の物質を究明すれば心もわかるはずであるという考えをもたらし、神経細胞の集団の営む過程が心の働きであり、集団全体の持つ状態が精神状態を示すとし、さらには脳神経細胞の発火によって心が生まれるのであって、心も物質に還元されるという還元主義が生まれた。しかし神経細胞と神経伝達物質の構造や作用がどんなにわかっても、それが心であるという説明には全く至っていない。唯物論で証明するには、自然現象を数式で明らかにした物理学の様に、心の数式を見つけて、それが現実に観測される心の状態と一致する事が必要であり、また方程式に変数を入れると予想通りの心の状態が現れてこそ物理理論で解いたことになる。しかし、そうなると、まさしく心が因果律で説明されることになり心には自由が無く、自由意思を一切否定することになってしまう。
もう一つの一元論が心脳同一説であり、これは心と脳は同じモノであり、同じモノが心に見えたり、脳に見えたりするという考えだが、丁度、量子物理学で、光が波であったり粒子であったりするのに似て魅力的な発想ではあるが、量子を説明できるような概念は心脳問題ではまだ見つかっていないし、仮説すら出てはいない。
現在では、当然のように、自然科学的なアプローチである唯物論の研究者が最も多く、「クオリアの概念」を日本に広めた茂木健一郎も、脳の中の分子は物理法則によって動いている、脳に意識が宿ることによって分子の動きが変わることはないし、人間には本当には自由意思はないという意見であり、ニューロンンの発火が心を支えており、一つのニューロンの発火の様式を決めるのはニューロン同士の結合のパターンである、と言っている。(続く、、、。)

Platinoron Gel(プラチノロンゲル)細胞・分子レベルから量子レベルへ

新しい「ヒトの存在と心の構造モデル」ー量子論が教えてくれたことから

今年のノーベル物理学賞は、昨年ヒッグス粒子の存在が確認されたこともあって、その存在を予測したP.Higgs,とF.Englertに贈られましたが、これにより量子論の標準理論はほぼ完全に証明されたことになり、量子論はアインシュタインの思いに反して、ますます科学的正当性を得て来ています。

その量子論によれば、素粒子(しては物質)は粒子であると同時に波動であるとされ、その性質はシュレディンガーの波動関数で示され、その位置は確率的にしか(つまり曖昧にしか)予測できず、しかもA点にいる時とB,C点にいる時が確率的に決まっているとは言うものの、観測するまでは何も決まっておらず、それらは同時に重ね合わさっている状態であると説明される。

そして、人が観察した時に波の性質が壊れ,粒子になるが、その場所はサイコロを振るような偶然性で位置が決まる(波動関数が崩壊し、収縮するという)とされ、それは瞬時に起きる(時間ゼロ)ため、相対性理論からは、あってはならない光速を越える伝播現象が発生することになる。

ここでニュートン力学以来の決定論的自然観は崩れ、いわゆる因果律は成り立たなくなる。

自然には確かなものは何もない、すべてがあいまいで、本質的に不確かであるというテーゼとなり、それはハイゼルベルグの不確定性原理として証明されたのである。

量子論は物質や自然がただ一つの状態に決まらず非常に曖昧であることを、そしていい加減さこそが自然の本質であることを私達に示した。

さて、歴史を振り返ると、(これは私の独断ですが、)人類は精神を持ってから、生命の誕生や宇宙の誕生を始め、自分達のレベルの知識や論理性では説明できない事は、神の力によるものとして神話の世界を作りあげて生きてきた。

これは、人種を越えて等しく行われてきた思考、生活様式であった。

ところが哲学から自然科学が生まれ、急速に進歩しニュートンの物理学(古典物理学)が完成すると、決定論的、因果律的自然観が生じ、もはや人類に予測出来ないことは何もない、自然は意のままに操作でき、征服したかのような過信が生じ、神の価値は貶められた。

ところが19世紀末にプランクのエネルギー量子仮説、アインシュタインの光量子仮説が出現し、量子論の黎明期からボーアの原子構造量子論、ド・ブロイの物質波、ハイゼルブルグの不確定性原理と量子論が発達して来て、20世紀に入ると決定論的、因果律的世界観が崩れ、量子論的な不確実、不安定な世界観が無意識の内にも蔓延した。

しかし一度捨ててしまった神の威信は簡単には復活できず、それに代わる、何か「超越的な存在」を求めるようになり、それが現代人の方向性を失った不安定感の根源になっているではないかと思える。

そして現在のspiritualなものの流行に繋がっているのではないかと思う。

ひるがえって、では自然は、量子論が教えるように本当に無秩序で曖昧であろうか?地球の自転、公転は極めて正確であり、それによって地球上の生命は維持されている。

元来、宇宙(コスモスcosmos)は、混とん(カオスchaos)の反対語であり、秩序や調和を意味している。

我々の社会、文明も争いは絶えないものの、基本的にはスパイラルを描く様に進化してきているように思える。

我々の生命、身体も自律的に恒常性を保っている。

私は人間の存在を含めた宇宙は、量子論の示した曖昧さ、不確実性だけではなく、その中心に自然の規律を統制する何ものかがあり、アインシュタインはそれを指して、未知の変数と言ったと思うが、私は、それを絶対的超越者としての、「霊性」spiritualityとしたいと思う。

その意味するところは「自然を超越した存在』としてのある種の神であるが、それは「あらゆる自然現象を貫き決定する究極の原理、真理』を意味するスピノザの神である。

一方、心、精神の構造やメカニズムも研究されフロイトから始まり発達した自我心理学、ユング心理学、コフートの自己心理学など多くの心理学的な理論や発達論の進歩がみられている。最近ではそれらではあまり触れられなかった、情緒的な感覚としての「生の意味」、「生きる価値」、「自尊心」などを“霊性spirituality“として自我や,自己と別な領域としてとらえる考えがある。

私はこころ、意識は脳(物質)に存在し、神経細胞網の物理的な作用によって生じるという考えには、基本的には反対しないが、その作用のあり方、自我や自己の心の機能をコントロールする機能が、現在の知識レベルでは全く予測もつかないシステムとして存在し、(それは上位の霊性につながるものとし)、またそれは身体的健康のコントロール機能としても関与し、かつ、その霊性は外界宇宙の中心である「霊性」につながるものとしたモデルを考えた。

そして「霊性」の実際的な機能として自律的統合性(機能)autonomous integrity (function)AIFを想定し、身体、自我、エス、自己、超自我、霊性の各々の領域における役割、作用を複雑系システムとして調整を行い、総体として健康的な生の維持、向上を図るものと定義した。(ここでいう健康の定義は1998年にWHOが提案した,健康に身体的、精神的に加え、霊的な要素を含めた定義である。)

当初はこの機能を自律機能autonomous functionとし、このホームページのタイトルにもなっているが、自我心理学のハルトマンの自我自律機能と混同しやすいので名前を変えようと思う。(図1,2)

図1ヒトの存在と心の構造モデル(preliminary)。

図2.心の構造とAIFの機能モデル(preliminary)

 

 

 

 

 

 

そして身体的、精神的な障害は基本的にこの自律的統合性AIFの失調によって起きるとの説を提示する。

そして障害の様態を、AIFや量子論で説明し、それらの予防と治療に繋げていきたいと考えている。

Platinoron Gel(プラチノロンゲル)細胞・分子レベルから量子レベルへ

イングリッシュガーデン

私の勤務する群馬病院は精神科単科病院?精神病院です。

一昨年の4月に新しく病院の建物が建て替えになり、これからの新しい精神科医療を目指して、いくつかの新しい試みがなされています。

一つは、前にもどこかでご紹介したと思いますが、
日本のパン屋のカリスマ、シニフィアンシニフィエの志賀勝栄氏の監修によるパン工房があります。

もう一つは5000?にも及ぶイングリッシュガーデンです。

専任のガーデナーSさんが中心となり管理しています。

全景

ボーダーガーデン

ボーダーガーデン

噴水のある池によるボーダー

 

 

 

 

 

 

 

彼女の母校である恵泉女子大学のイングリッシュガーデンが蓼科にあり、何でも当院のイングリッシュガーデンのお手本になっていると聞いて、
見学に連れていってもらう約束をしていたのが、今回ようやく実現しました。

そこは卒業生の同伴でないと見学できないとのことである。

自宅の庭を作る時に、多少は勉強したので、恵泉出身の優秀な女性ガーデナーが多い事は知っていましたし、特に日陰のシェアドガーデンにいいものがあったので、自宅の庭の参考になることも多いのではないかと思ったのです。

7月某日曜日、一日早く私は蓼科の我が山荘に行き、当日朝9時過ぎには、病院のガーデナーSさんの2人と、見学希望のご友人2人を加えての
4人を我が家でお迎えし、テラスでお茶を飲んで一服してから、

我が家でティタイム

原則門外不出の恵泉大学蓼科ガーデンを訪ねました。

地理的には、同じ蓼科でも我が家とは反対側に位置し、茅野の別荘地、“三井の森”の中の一画にありました。

一般には公開されていませんので案内表示は出ていませんが、三井の森の入口、康耀堂美術館からすぐでした。

レセプションの表札

ガーデン長の小沢さんはSさんとは顔なじみのようで、つきっきりで案内していただきました。

センター長の小沢さんと

庭は10000?に及ぶ広大なもので、作庭の特徴によって10余りのブロックに分けられておりましたが、基本は蓼科の自然、風土を生かした設計になっているとのことでした。

森を臨む

本館周り

中広場

ボーダー全景?

ボーダーガーデン

ボーダーガーデン

ボーダーガーデン

ロックガーデン

 

 

 

 

イングリッシュガーデンを拝見してずぶの素人の小生の感じたままを述べてみます。

家屋の手前の芝の庭と木立の繁る林との境に草花を植えてボーダーガーデンを創るのが基本のように見受けましが、草花の成長した樹形と開花時期を計算して植栽のデザインするのが最も重要なポイントのように思えましたが、それでもその出来栄えは、ある意味では、人智を離れて天に任せるしかないところがあるのではないかと感じました。

日光や雨の量まではデザイン出来ないので、これは、周到にデザインはするが、最後は窯の炎の妙に任せるしかない、作陶に通ずるところがあるように思えました。

そしてその姿形は日々の陽の光や風の具合で変化し移ろうであろうから、見るものをして自然との一体感が感じさせ、それがあの居心地の良さ、癒され感をもたらすのだろうと思えました。

そして、経験から学習して毎年、毎年進歩し続けることが出来るところが、日本庭園のようにプロフェッショナルな名人芸を要求されず、どこかアマチュア的というか、英国ではプロではない素人の老婦人でもコンクールに入賞すると聞きますが、日本庭園が権威的であるのに対して、どこかLOHAS的にもみえます。

また日本庭園がどこか宗教的、哲学的であるに対して、心理学的であるともいえます。

宇宙の星達が、所属する銀河系も、地球からの光年も違うのに同じ天空に同時に配置されているように見え、ある人にはそれらが白鳥や竪琴などの星座野形となってみえて、重要な意味合いを持つように、一見別々の種類の花々を配置し混在させながらも、そこにハーモニーが生じ何らかのテーマを表出しているかのように思えるからです。

ユング心理学でいう布置コンステレーションがイングリッシュガーデンの根底的な概念のように思えます。

また作庭者ガーデナーの個性、センスが如実にあらわれ、庭全体がどこかパーソナルな感じを受けます。

大きな日本庭園のように、大名や財界人の大きな権力や財力を感じさせないところも好ましい。

もっとも恵泉ガーデンや、近くの蓼科バラクラガーデンのような規模になると、とても個人という訳にはい行かないでしょうが、それでも主役はガーデナーという雰囲気が感じられるところが良い。

恵泉ガーデンの周辺には、イングリッシュガーデンを備えた英国風の別荘がいくつも建っており、中には永住されている方も多いと聞いたが、小生ももう少し若く、かつ財力があったならば、茅葺の英国風のロッジでも建て、ガレージには旧い英国車をおいて、周りはそれらを覆い隠すような草花のイングリッシュガーデンを作って暮らしてみたいものである。

ユングが石を積んで別荘を手作りし、丸山健二が渾身のバラ園を自ら作ったように。

そんな暮らしを夢想させた今回の恵泉イングリッシュガーデン訪問でした。

 

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患者Y氏の生家を探す半日の旅

私が勤務する群馬病院の話です。

私の担当する病棟のY氏という70歳の慢性統合失調症の患者さんの
福祉サービス更新の手続きと、近々住民票を病院に移す為の下準備を
兼ねて、住民票のある市役所に行くことになり、ついでに最後に生家を
見ておきたいというY氏の希望を叶えるという事で、精神科ソーシャルワーカー(精神保健福祉士)のI氏の引率で、患者と私の3人で生育地である
桐生市まで半日のプチ旅行に行くことになった。

内緒であるが、本当は私は必要無いのであるが、桐生に滅法うまい
うなぎ屋があると聞き、同伴して付いていくことにさせてもらったのである。

病棟の朝の申し送りと回診を済ませ、9時過ぎに出発である。

出発の記念撮影

35度を超える猛暑の中、病院車で片道30キロのドライブは楽ではない。

先の市町村の統合合併で桐生市に合併された旧新里町の町役場は
場違いにモダンな建物に新築されていた。

桐生市役所新里支所

必要な手続きは簡単に済み、いよいよY氏の生家を訪ねることになった、というか探すことになった。

何しろ、本人は40年も前から統合失調症で入院しており、
最後に墓参りに帰ってからも、既に20年以上経っており、
生家はもう壊され残っていないとの情報もあったのである。

記録に残っている登録住所を頼りに地図で探すのだが、
今一つはっきりしない。

本人の記憶も怪しいし、開発され周りには新しい分譲住宅地も
出来ていたりして風景も変わっているのである。

運よく郵便配達員に遭遇し番地を教えてもらったのだが、
上手くたどりつけないでいると、青雲寺という古い禅寺に行きついた。

青雲寺の門

ると、ここは覚えがあるとY氏が言う。

そこで歩いてみれば思い出すのではないかと、お寺に車を置いて、
3人でお寺の門から歩き出す。

青雲寺の参道

間もなく『ここが俺っちだ。』と、Y氏が興奮して指差す。

半信半疑で玄関に回ってみると、朽ち果てた家の玄関の表札に
Y氏の父親、母親、本人の名前があるではないか。

一同いたく感激し、本人は写真に納まり、満足したのである。

生家を探して歩く

生家前で記念撮影

 

 

 

 

さて次は私の満足の番である。

天保元年創業という老舗のうなぎ屋、『泉新』には予約時間ピッタリに
到着した。

うなぎ屋の前で

3人でうな重を食べた。

味は特段これというほどではなかったが、期待外れという思いもなかった。

特徴は、養殖物ではないような少し泥臭さが残る味であったが、
まさか近くの渡良瀬川の天然ものでもなかろうとも思った。

噂のうな重

なぜなら昨今のうなぎ稚魚不漁のための値段高騰は
ここでも十分に反映していたから。

もっとも天然ものだから安いという理由もどこにも無いのではあるが。

Y氏は、おそらく、うなぎは随分久しぶりであったのだろう、
本当に美味そうに食べ、心から満足げであり、それを見て、
私達も幸せな気分になった。

今日はいい日になったな、と思えた。

I氏も同じことを言った。

帰りに桐生絹織物の物産館に寄り、
家人に手提げバッグを土産に買った。

病院に帰り、しばらくして病棟に顔を出すと、“うなぎは旨かったか?”とか、“土産は何を買ったのか?”とか、スタッフから質問攻めにあった。

Y氏は、普段と違い、こういう時は変に意思疎通能力が高くなり、
事細かく報告したようである。

やはり、余程か嬉しかったに違いあるまい。

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富士山のご来光とユングの元型

富士山が世界遺産になり、富士登山は益々盛況だそうである。

小生は学生時代は、曲がりなりにも山岳部であり、夏の富士山は知らないが、冬の富士山には登ったことがある。

冬の富士山は強風と氷の世界で、一度滑落すると、止めることが出来ず、まずは死ぬと先輩からいわれていた。

入部一年目で、当時のパーティは5,6人で、先頭はサブリーダー、最後尾はリーダーであり、僕は2,3番目だったように思う。

8合目あたりの、小さな雪庇を越えようとした時に、風にあおられ、飛ばされ一瞬宙に舞い、滑落した。

飛ばされながら、下に古参の先輩部員がいるのが目に入ったので、止めてくれるかと期待したのだが、なぜか避けられて、氷の斜面を滑って行った。

その夏の北アルプスの剣沢の合宿で教わったように、体を反転し、ピッケルを立てて胸に当て制動をかけたが、止まらない。

必死で何回か繰り返すうちに、運よく、小さな岩に身体が引っ掛かって止まり、一命をとりとめた。

先輩から後で、お前を止めようとしていたら、おそらく共倒れになり二人とも滑落死しただろう、と言われた。

確かにそうかもしれないが、チームの一員として、先輩として、人として、その時さっと避けられるものかと、複雑な気持ちになったのも事実であった。

その時の僕の受けた傷は、今も右大胸筋の上にピッケルのブレードの幅で瘢痕となり残っている。

ピッケルの刃で斬るほど体重をかけたのだろう。必死だったんだろうね。

そして、心の傷も、僅かだが、残っている。

さて、富士山登山ではご来光がつきものである。

多くの登山者はそれを見るために、夜明けに合わせて、頂上に立てるよう登るという。

夜明け前の黎明の中、昇る太陽に手を合わせて、拝むのである。

日本人は、日の出を見る(拝む)のが好きで、とりわけ山の頂上で見るのは神々しさも増すようである。

ところで、太陽が昇るのに神を見るのは日本人だけではないらしい。

ユングが、東アフリカのエルゴン山中の住民のところに滞在していた時の話で、住民が、日の出の際に太陽を崇拝することを知ったユングが、空高く昇っている太陽をゆびさして、「太陽は神様か」と住民に聞くと、ばかなことを聞くなという顔つきで否定した。

「東の方にいた太陽は神様だ、と言っているではないか」と追及すると、皆困ってしまった。やがて老酋長が「あの上にいる太陽が神様でないことは本当だ。しかし太陽が、昇る時、それが神様だ。」と説明した、という。

またユングは統合失調症の患者が話した妄想が、ギリシャ語で書かれたマトラ祈祷書の中にある話とうり二つであったことより、人の無意識には、コンプレックスのような個人的な無意識の他に、人類に普遍的な無意識の存在を想定した。

普遍的無意識には、人間の原初的な心性に通じる表象の可能性が存在し、その内容表現の中に共通した基本的な型があるとし、それを原型と名づけた。

それは、あるいは全人類に普遍的に認められているモチーフとも言えるし、また、生来的にもっている行動様式ともいえる。

日の出を神とあがめる様式は、それを単なる太陽としてではなく神として把握しようとする、人間の内部に存在する元型である。

日の出はその原始心像であり、メタファーであると言える。

太陽が神様ではなく、昇る太陽と、それによってひきおこされた、見る者の感動が不可分のものであり、両者が一体となって神として体験されるとユングは説明している。

日本の山岳における、とりわけ、富士山ご来光信仰は、ユングの原型概念を良く説明している。

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ストーカーに依存症という病名がつく日?医療化社会の危うさ

精神科に入門したばかりで、何も分かっていないのにと言われればそれまでですが、ずぶずぶに入っていないからこそ見えるものもあると思います。それに私は医療の素人ではありません。40年のキャリアの元形成外科医が精神科医療の危うさをヤブ睨みしてみます。

近頃よくニュースになるストーカーを例に考えてみよう。
この間も、若い女性に横恋慕した中年男が一日に何百回と電話だか、
メールをして、被害者から相談を受けて、それを注意した男を殺すと言う様な事件があった。

ストーカー行為をいけないと思っても止められなかったという。〇〇をせずにはいられない、という精神症状による病気を精神医学では依存症あるいは強迫性障害というようだ。アルコールを飲まずにはいられない病気としてアルコール依存症があり、意味がないと分かっていても手洗いを何十回としなければおさまらないとか、鍵を掛けたか何度も確認するという様な行為を強迫行為と言い、そのような症状の病気を強迫性障害と言います。

自分が制御できず(抑制喪失)、それが原因で社会性機能を失うと病気に昇格します。

ストーカーも、止めようと思いながらも何度も追いかけてしまう、電話をしてしまう、と同じ構造である。

精神科医療は、社会の人々の生活の細部を医療の管理下に置くこと、
つまり医療化medicalizationすることで市場を広めてきた。医療化とは、
かっては宗教や司法や教育、あるいは家族や共同体の手に委ねられていた
現象が、医療の管轄になって行くことである。
これは医療側が主体的、
意図的、にしてきたと言うより、社会や行政の要請があって、それに応えてという形で、悪く言えば便乗して行われてきた。
アルコール依存症の他にはギャンブル依存症、セックス依存症なんてものもある。

また、新型うつ病や適応障害も社会的な問題になって来ている。
仕事となると、頭痛、腹痛、吐き気、発熱など自律神経症状が出たり、
気分が落ち込み鬱病状態になるが、それ以外は普通であり、自分の趣味精力的に出来、カラオケに興じたり、飲み会やデートは楽しめると言う厄介なものである。
かつては逃避型抑うつとして症例報告されるほど希なものであったが、今や蔓延化され、うつ病の主流になりそうな勢いである。

確かにこれらの現象を精神的な異常に原因を求めるのは正しいのかもしれないが、これらが病気として扱われるようになったことで、つまり医療化されることで、果たしてこの様な人(患者)の社会復帰率は向上したであろうか。

医療化は、現在の精神医学、精神科医療に問題解決能力があってこその話ではないだろうか。病気と認定される事で疾病利得が生じ、返って社会復帰の妨げになっているようなことは無いだろうか。病気となれば会社も簡単には解雇も出来ないでしょうし、福祉も生活保護の対象から外すわけにもいかないだろう。そうなれば、下手に働いてワーキングプアになるより、病気にとどまった方がましと考える人が出てきても不思議ではないし、現実に私の患者にもいる。

元来精神疾患というものは、生物科学的には病気と断定しにくいものである。医学が科学的であるとする条件を歴史的に見れば、
?どんな疾病も一定の法則の上に成り立っているべき、
?疾病は細胞レベルで一様に解明されているべき、
?疾病はすべての進化の途上における退化と捉えられるべき、
とするならば精神疾患はそれらの原則からは大きく外れるものである。

それゆえ、精神医学の場合は、正常と異常の境目、健康と病気の境目が曖昧になり、病気の概念に普遍性が無いから,取りようでいくらでも対象を広げることが出来る。

事実、米国の統合失調症と英国の統合失調症では随分病像が違っていたという研究報告もあるし、私のわずかな経験でも、精神科医のものの見方によって描く病像の範囲は随分と異なっている。ビンスワンガーは『100人の統合失調症がいれば100様の統合失調症がある』と言ったが,言い方を変えれば、『100人の精神科医がいれば100様の統合失調症がある。』ともいえる程である。

わが国でも1987年以降ノーマライゼイションの名の下、精神科医療は
大きく改革され、分裂病も統合失調症と病名も変わり、隔離型医療から、開放型医療になり、その結果、周辺疾患を含め精神疾患に対する社会のハードルは下がり、患者数は大幅に顕在化した。

アダルトチルドレンもどんどん拡大解釈されていくし、共依存に至っては、アメリカでさえ90%を超える人々が該当すると言われ、どちらが正常なのか分からなくなっている。

人格も偏りが過ぎればパーソナリティ障害という病名がつく。

また、最近ではさらに新しい医療化の動きもある。ソーシャルゲーム依存症、インターネット依存症などという病名ができようとしている。パソコン、
ゲームから離れることが出来ないから登校も出社も出来ないと言う病気である。その専門外来がアルコール依存症で有名な久里浜医療センターに最近出来て話題になっている。

『いじめ』もいじめる者が、やめられないからと言って依存症とされたり、
あるいはいじめる者といじめられる者が共依存という関係で医療化される
可能性もあるし、先に述べたようにストーカーも依存症となる可能性は
十分にあるだろう。追跡依存症とでも名前がつくのだろうか。

精神医療は、これまでの様に医療化に対して、ただ受け身で構えていていいのだろうか。

それで医療の一分野としての責任義務が果たせるのか疑問である。
結局は、医療・福祉という社会資源を枯渇させる一因になってしまうのではないか気がかりである。

一般国民にとっても、これらの問題は将来の更なる消費税の値上げと
無関係ではないことをよく知っておくべきと思うのだが、如何であろうか。

 

 

Platinoron Gel(プラチノロンゲル)細胞・分子レベルから量子レベルへ

自律機能と気分変調

先に述べたように、ハルトマンによれば、自我には、自我の調整役、葛藤による人格の統合機能としてではない、葛藤から自由な自律的な機能があるとされ、自分の成長、発達に関わる精神運動を指揮するものとして自律機能を上げている。

自律機能が障害されると、生、存在の根源的意義が喪失し、将来の理想が描けず、人生の目的、生きる価値を見出せなくなる。

肯定的な自己像が描けず、低い自己評価に陥り自責的になるものと私は考える。

それらは、臨床的には境界性パーソナリティ障害、摂食障害、無力妄想として現れるが、気分変動が前景に現れると非定型精神病、気分変調症の病態を示す。

中でも気分変調症が自律機能障害を最も分かりやすく示していると考える。

気分変調症は、慢性的な小うつ状態で、些細なことで急激に落ち込む気分障害の一つである。

気分変調症はdysthymiaといい、dysは変質、異常、不全を意味する接頭語、thymiaとは精神状態の意を表す接尾語で、ギリシャ語の気息(ティモス)に由来する。

ギリシャの詩人ホメロスによると、気息は世界中に広がっている希薄な蒸気状の実体を言い、それが生命の根源であり、人間の身体に入り込んで感情や思考力を生み、完全に意識のある状態、すなわち自我になると考えられていたようである。

気息と身体を分ける心身二元論は17世紀まで続き、デカルトによる機械的宇宙論に凝集する。

デカルトの物理的因果関係による機械論的自然観とは、生命体を含めてあらゆる物体は宇宙の巨大な機械仕掛けの一部となり因果作用により支配されているという考えで、気息も機械仕掛けの一部であり、大脳の中を流れて機械的な動きを生み、神経内を伝わって大脳を感覚器官や身体組織と結びつける働きをするとされ、また気息はそれ自体で感情を持ち思考する生命素材であるとされている。

これはニュートン古典物理学が示した因果律、ラプラスの悪魔の先取り的考えでもある。

気分変調症(dysthimia)は、気息(thymia)がうまく働かない事(dys)、つまり自我障害を意味し、統合失調症の自我障害を除いた自律機能障害を意味する病名としてもよく符合するのである。

 

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理解のための基礎知識-フロイトの心的構造と自我

以下の記述は、自我心理学の専門家からみれば、浅い理解かも知れませんが、
これから自律機能主義を考えていくために、その名前の由来の基礎知識として理解して下さればと思います。

フロイトは『精神、心』というものを自我、エス、超自我の3層に、『意識』を意識、前意識、無意識の3空間に構造化して科学的に捉え解釈しようとしました。

自我(ego)とは、「私はこういう人です」「これが私です」というthe I, the 私であり、
アイデンティティにつながる自己概念のことですが、ここではその自我をコントロールする機能的な要素をもう一つの側面として持っています。

エス(id)は the it の意味で、自分の中にあるが自分ではない、自分が知らない世界と言う意味です。

自我が締め出してしまった本能的な欲動であり、自分の中にはあるが自分では気づかない世界のため、人格のない3人称の「the it」で表し、その主体は自我を動かすエネルギーの源泉となる本能的な欲動のようなもので、一つはリビドーと言って、かっては性本能とされていましたが、今は、前向きに生きようとする、人を愛し、仲良くしようとする、というような愛情的で生産性のあるポジティブな欲動であり、もう一つはアグレッションで敵対的、攻撃的、破壊的な欲動で、死の本能ともいわれたりします。

その他に、エスの中には単に欲動、衝動の混とんが入っているだけでなく、それにまつわる記憶、感情、願望など意識化してはいけないもの、意識化出来ないものが入っているとされています。

超自我(super ego)は、自我がこれらの欲動をコントロールしてうまく現実対応しようとする際の、そのコントロールの基準を示すお目付け役、監視役の役割を果たします。
親の表徴を取り込んで、最初の超自我は出来るとされ、健全な大人ではそれは成長し自我理想になり自我に統合されていくとされます。

フロイトは、自我は、外的世界、エス、超自我の奴隷であるようなものだというように表現しています。

意識の理解ですが、意識とは自分で自分を自覚している世界をいい、前意識とは自覚しようとすれば出来るが、普段は自覚していない世界のことを言います。
無意識は自覚しようとしても自覚出来ない世界のことで、例えて言うなら、意識は表舞台で無意識は楽屋、前意識はその中間というところでしょうか。

フロイトは当初は、自我のことを、本能、欲動という無意識に対立するものとして、これを統制する意識として考えていましたが、無意識の中にも防衛という対立する働きがあるのに気づき、無意識、意識の局所的対立論から自我、超自我、エスという3層構造論に進み、今は自我は前意識、無意識、にも存在し自分を何とかするためにあらゆる操作をする機能と考えられています。

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理解のための基礎知識-自我機能、自律機能と健康

自我の機能的な役割は、フロイトは自我、超自我、エスの3つの領域の精神内界の力動的な葛藤の調整役、つまりは防衛、適応を司る統合機能としての心的機関であるとしてきた。

ハルトマンは自我には、フロイトの指摘した衝動とその結果生じる葛藤からの影響をうけない、葛藤から自由な自我conflict free egoが存在するとして自我自律性ego autonomyの概念を導入し、知覚、運動性、意図、知性、思考、言語などを、自我の自律的な機能としてあげている。
そして自我を、防衛機能、自律機能の他、種々機能を合わせて司る人格の中枢機関として明確に定義した。

その後自我の機能的役割が重視されるようになり、様々な自我機能が指摘されるようになった。
ここでは代表的な6つの自我機能について説明する。

? 現実機能(現実検討、自我境界維持機能):自分の置かれた状況判断して、あるべき方向性を見つけていく機能(現実検討機能)と、自分が感じ考えていることと実際の現実、事実との違いが区別出来る能力(自我境界維持機能)を言う。

? 防衛機能:精神内面で自分を安定させるために、欲動と超自我の両方に調整的に働いて、自分の中が安定して、葛藤的でなく、不安でない、落ち着いていられるように操作する機能をいいます。

? 適応機能:防衛が内面に向かうものであるならば、これは外に向かって働く機能で?の現実検討の結果をどう自己表現し、振舞うべきか、自分をどのように生かしてそれを実行するかを操作する機能をいいます。

? 対象関係機能:自分の内面に思い描いている自己や対象に対するイメージ像を表象といい、これらが自分の中で動いていることを対象関係といいます。表象がうまく出来あがっていないと、コミュニケーションがうまくとれず、人間関係がうまく行かなくなります。

? 自律機能:自我の調整役としてではなく、葛藤に関与されない自律的な機能で、自分の成長、発達や新しい自分を創り出すという前向き、向上的な姿勢に寄与する機能です。(この機能は、孟子の性善説における本性,朱子の本然の性に通じるようにも思われます。)
またこの機能が働かないと、すべてに無関心、無気力になってしまいます。

? 統合機能:自分を自分というひとまとめにしておく機能で、それがゆるいと思春期危機と呼ばれるような一時的なアイデンティティの揺らぎ、拡散が生じ、自分がわからなくなってしまったりするし、またそれが無くなると多重人格や人格がバラバラに崩壊してしまいます。

これらの緒機能は全部まとめて自我機能であり、同時に多方向に働いて現実適応していきます。これら機能の働き方には幾つものパターンがあり、それを機制(メカニズム)と言います。(防衛、抑圧、反動形成、退行等々)

自我が強いというのは、俗に我が強いというのとは別で、自我の各機能が対応を調整しつつ総合的に自我機能をフルにうまく働かせることが出来る柔軟性のことを言います。

また自我の働きは体調とも深い関係があり、健康でないと自我機能はうまく働かず、例えば病気になると自我機能は衰え、自分は何も出来ないというように悲観的に弱気になってしまいます。

不安の心理は内面に何か葛藤があり自我がそれを無理して抑えていると起こります。不安は内面で何かうまくいっていないことの信号であり、調整がうまくいっていないと、その防衛活動に自我のエネルギーの多くが取られ、その他の、自律機能などの自我機能がおろそかになります。

もし、いつも身体的、精神的理由で自我が葛藤に巻き込まれていると自律機能が下がり、正常な成長が遅れたり、社会に上手く参加出来なくなります。

この事は、フロイトが自我を動かすエネルギー量は、ニュートンの力学的エネルギー保存の法則にならって一定であるとしていることより導き出されます。

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