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ラプラスの妄想

国民の命を他国に預けて傍観して殺した国家とは何か?そして、そんな国家を擁護し続けたマスコミとは何か?―そして安倍首相の二つの大罪―

 ISIL(自称イスラム国)のヨルダン人パイロット捕虜とヨルダンのテロリスト死刑囚捕虜との交換交渉が膠着状態になった時、僕は後藤氏が危ない思った。

 その段階でイスラム国の有効な手段は、パイロットよりも後藤氏殺害の方であると思ったからだ。
 なぜなら日本は米英の圧力に屈して,身代金を払う気はなさそうだし、日本人の命ではヨルダンも動かないとわかれば、後藤氏はもうカードとして使う価値がなくなっていたからだ。
 それに日本なら軍事的な反撃を受ける可能性も低いし、後藤氏の方が国際的に与えるインパクトが強いからだ。

 じつは昨夜は胸騒ぎがしてか、明け方まで眠れなかった。
今は後藤氏のあの透徹した強い眼差しを思い浮かべると悲しみと怒りで手が震えるばかりだ。
後藤氏は自ら自己責任だと遺言を残したが、
僕は、彼は日本国に殺されたのだと思う。

人類は原始の昔、各々が勝手に狩りをして、生計を立てていたが、生活の安定と安全を守るには単独より群れをなして行動するほうが得策とわかり、やがて家族が一族、部族、人種となりあるいは、村、町、藩県、と集団の単位を大きくしていき、最終的には、世界中の人びとは国家を最大の行動単位として国際的な交流をすることで、自らの生活の安定と生命の安全を図るようになった。
そしてその国家制度を維持するために国民は税を納め、共通のインフラ、生活基盤を作り、あるいは暴力装置として警察、軍を作り命と生活の安全を守ってもらうように、国家に委託した。
つまり国民は生活と生命を守ってもらう、という条件で国家と暗黙の契約をして税を収め、法を作りそれを守ることで契約が成り立っているのである。
 その国家が、自国民の運命や命を他国に任せてしまうようであれば、それは国家といえるのだろうか?

そして国家と国民の契約関係が真っ当に守られているかを監視することこそマスコミの使命だと思っている。

 にも関わらず、今回の事件では「今は国家的な困難時であるから、皆が政府のやり方に口出しをするのは止めて、国民は一致団結して政府を信じて見守ることが大事だ」という風潮がマスコミ自身の口から起きた。
 今起きている真実を多方面から報道することを自粛し、国民が何が正しくて、どうすべきかを考え判断する機会を封じるように作用した事実は、日本のマスコミ自体が、無用の長物であるばかりか害悪でさえあることを曝け出したのである。

 安倍首相は今回のイスラム国人質事件では少なくとも2つの過ち(罪)というか国民への背信行為をおかした。

 一つは、日本がテロ国家と認定して敵対すると表明しているイスラム国に二人の日本国民が人質になっている状態を承知しながら、イスラム国と戦争状態にある敵方の国々を得意顔で訪問し、盛んに連帯を表明し、2億ドルの資金を援助すると世界に向けて発信したことだ。

 これでは人質は好きにしてくれといわんばかりではないか。
イスラム国が、「Abeなめるなよ」、と思うのも当然であろう。多分その意思表示が、最初の72時間予告であったのではないか。
 そしてその本気度を示すために湯川氏の頸は切断された。
日本国民が身代金の期限が72時間では短すぎるではないかと、いぶかった理由は、この間の事情を政府に教えてもらっていなかったためである。

 もう一つは、狂信的で残虐なテロ集団であろうと、相手はイスラム教を唯一最高の教義として讃え敬い、政治的な盟主よりもイスラム学者の方を尊敬し、耳を傾けるというイスラム教徒であるという事実を敢えて無視したことである
 日本のイスラム教研究者は当初そのようなことを相次いで発言していたし、実際、中東のイスラム教徒からも尊敬されていると言われるイスラム学者の同志社大学の中田考氏や一部のフリージャーナリストは自らがイスラム教徒であることを明らかにして、だからこそ交渉の可能性があると提案し、単身でも赴くと意思表示をしたのだ。

 しかし政府は、何らかの意図で、その提案、意見を無視して、直接交渉の窓口を自ら閉じてしまったのである。(安倍政府のメンツのためか?)
 また中東の政府関係者(もと外交官であったりテロ対策関係者や政府系エネルギー関連の研究所などの研究員)は積極的に政府の対応を支持し、プロパガンダを行なった。 

 またマスコミはそのような宗教がらみの交渉ルートが残されていることを一切話題に載せず抹殺してきた。

 そして安倍政府は、口先だけは「万全を期して情報収集をし分析をしている。最大限にやれることは全てやっている。」と言いながら、実効あることは何もせず、最後は全てをヨルダン政府に丸投げして傍観し続けた。

 そして予測された悲劇は起こった。後藤氏の頸も切断されたのだ。
 最初に画像で登場した時の、あの動じない力強い眼光は、処刑の時も面影は残していたが、どこか絶望的で悲しげであり、首にナイフが当ると静かに目は閉じられた。

安倍首相が何故そのような行動をとったかの分析は、今後の日本を見る上で重要だ。
僕はひとえに彼の持つ宿痾の売名、功名心によるのではないかと思っている。
国民の生活より自分の政治的野望の方が優先することは昨年の年末解散総選挙で分かったが、今回の行動で、それは国民の命よりも優先させることが明らかになった。

 異次元の経済政策、アベノミクス、戦後レジームの転換、地球儀俯瞰的外交、積極的平和主義など大言壮語的な美辞麗句が好きである。
これは、ひとえに自身の自信の無さからくるコンプレックスの裏返しである。(対象は歴代の首相、とりわけ祖父岸信介に対する劣等コンプレックス)

 この程度の人物である首相の意向によって命を落とすことは、太平洋戦争の時に、愚昧で卑怯卑劣な陸軍中枢参謀達の功名心の為に前線に送られ犬のように戦死して行った日本兵(これは昭和史の事実を丹念に調査したノンフィクション作家の保坂正康、歴史作家の半藤一利の証言による。)と同じではないか。

 日本のマスコミ当事者たちは、2015年2月1日が、自らの意識の低さと使命感の欠如で、一人の崇高なジャーナリストを殺した日と恥じて記憶するがよいだろう。

 そして今後テレビに登場して発言するのなら、君達の淀んだ目をくり抜いて、後藤氏のような透徹した眼光を装備してカメラを見るが良い。そうでなければ日本国民(少なくとも僕)は、君たちをもはや一切信用することはないだろう。

 

I am Kenji,not Abe at all-政府は本気なら、中田考氏を派遣しなさい。

イスラム国人質事件が新しい局面に入ったので、緊急メッセージを送る。

身代金がヨルダンの捕虜交換に変わって、日本政府は下駄(責任)を半分ヨルダン政府に預けたような形になり、前にも増してイスラム国と直接交渉をはかろうとしないように見える。

日本政府の毅然とした責任感の無さの、そこを突いて、今日の24時間通告が来たものと思う。

日本政府関係者は一様にあらゆるチャンネルを駆使して全力を尽くしていると言うが、それは本当だろうか?国民の命を絶対に守るという確固たる意思があるなら、なぜイスラム学者の中田考氏に交渉を頼まないのか?今、イスラム国に単身でも乗り込むという人物が他にいるとでもいうのか?アラビヤ語が出来、日頃アラビヤ通を売りにしている小池百合子代議士が立候補するとでもいうのか?(普段に似つかわず、やけに沈黙を守っているではないか。)

政府は中田氏を先の北大生事件で被疑者扱いした手前、要注意人物には頭を下げられないというメンツにこだわっているのか、それとも単独で行かすわけにもいかず、誰か官僚か政治家を同行させねばならず、候補者が見つからないのか。

今イスラム国と直接交渉できるのは中田氏しかいないことは明らかであるし、後藤氏解放の可能性があるのも彼の交渉力しかないと思われる。(公安は彼の通信をすべて遮断しているのかもしれないが。)

先の外国記者クラブでの会見以降、彼の存在は一切報道されず、抹消された感があるが、これも日本のマスコミの大いなる過ち(罪)であると思う。

日本には彼のルートが残っていることを国民に注意喚起させ、政府の選択肢に上げさせるのがマスコミの役割ではないか。

今回、日本のマスコミ界で“I am Kenji”と言って、自らの態度を鮮明にした者がいたか?

かつてのイラクでの戦場報道の際、なぜ大手のマスコミは現地に入らないのかとの質問を受けた時、フジテレビのK解説委員は「我々も、いろいろと忙しいし、自分らが行くと戦場ジャーナリストの飯の糧を奪うことになる」と恥知らずな発言をしていたが、日本のマスコミはこの程度のクズである。

後藤氏は大手マスコミの自称ジャーナリスト達とは違い、真の意味でのジャーナリストである。

 

彼のように戦場に入って人間愛の目で真実を伝えるジャーナリストが発信した一枚の写真が、ベトナム戦争を終わらせたし、それが出来なかった日本のマスコミは太平洋戦争で数百万の命を無駄に殺した。

つまりは本当のジャーナリズムを守ることは国民が自らの命を守ることになるのだ。

後藤健二氏を殺すことは自分自身の首を絞めるようなことだと自覚して、何が何でも助けねばならないと思うのだ。

政府が集団的自衛権を言う同盟国である米国の今回の態度は、「米国民の安全性を高めるためにも日本はイスラム国と一切妥協してはならない」として圧力を掛け続けている。もとより日本国民の命はアメリカ人の命より低いのである。

アメリカは人質になった同国民を見限るではないかと言うかもしれないが、その代わり軍隊を急襲させて助けようとするではないか。日本にはその選択肢が無いから、安保条約、集団的自衛権で国民の命を守るというのが政府の言う建前であるなら、今回は米軍の出動が両国で検討されたか知りたいものだ。

今は無理にしても事件が収着した後で、政府は交渉の経緯すべてを国民に知らせる義務があると思うが、これも秘密保護法を盾にしないだろうね。

国民が惰眠を貪っている間に、安倍政権は政府の不始末を闇に消す手筈を着々と整えていたわけだ。

万が一、後藤氏が殺害されるようなことがあれば、そんな国家の国民であることを、僕は恥ずかしいと心底思う。(2015.01.28.01:25)

 

国家とは何か?―まず命を救え、あとはそれからだ!

イスラム国の人質の生命が危ない状況なので、国民の一人として、とりあえずメッセージを出しておこうと思う。
国民が意志を表明すべきだと思うからである。
はっきりしているのは政府は何もしていないということである。口先ばかりで万全をきすといいながら、各国に連帯のメッセージを送るだけで、直接のコンタクトはとれていないまま放置しているのである。
イスラム学者の中田考氏が記者会見をしたのは、そのメッセージと理解すべきであろう。彼は、政府が何もしていないことを、イスラム国からの情報で知っているのだ。そしてそれに憤りを感じて、自分が行くから、行かせろと政府に迫っているのだ。解放の可能性があること、その為に打つ手のあることを国民に知らせて、政府に打つ手は全てうった、と言い訳を言わせないために記者会見を行ったのだと思う。マスコミはなぜそのメッセージを伝えないのだろうか。マスコミは政府と密約を結んでいるのではないか、と勘繰りたくもなる。
 政治家も、マスコミも、有識者と言われる人達も皆が自分の意見、態度を鮮明にせず、他人事のように評論するばかりでは、決して人質は救われないだろう。
僕はすぐにでも中田氏を交渉窓口に立てて、場合によっては2億ドル払ってでも人質を助けるべきであると考える。理由はいくつもあるが、それはまた後で述べる。今は政府を国民が動かさねばならない時だ。
国家は国民の命をわが子の命と思って救う義務があるのだ。外国の顔色ばかりうかがっていたり,損得勘定をしている場合ではないのだ。
これは自己責任の問題ではない。
僕達が、国家という様式で生きていく根幹にかかわる問題なのだ。
またジャーナリズムをどう守っていくかという、僕たちの命にかかわる問題なのだ。

 

 

新年に漠然と考えたこと(1)ー日本はこのまま新自由主義を突っ走っていいのだろうか?

 年末の選挙で,自公が圧勝し、安倍政権は精力的に企業や富裕層に金が回るような、持論の新自由主義(新資本主義)の政策を進めようとしているが、本当にそれでよいか年頭に考えてみた。

 トマ・ピケティの「二十一世紀の資本:Le Capital au XXⅠe siecle」が、2013年8月にフランスで発刊され、翌年4月には英語版が出ると世界中で大ベストセラーになり、我が国でも12月に翻訳本(「21世紀の資本」山形浩生等訳、みすず書房、2014)、が出ると各界で大きな話題になり、相次いでその評論本も出ている。
 内容は、ざっくり言えば、新資本主義の限界と終焉の始まりを膨大なデータで示しているものだ。
 現在のように資本の収益率が経済成長率を上回る限りは理論的に格差社会の拡大は必然の帰結であり、中産階級は今後消滅せざるをえないという。資本主義社会の崩壊を防ぐには、特権的な富裕層に累進課税をグローバルに協調して課すなど、政治が干渉する必要性があるというが、それは実現されないだろうと予想している。
 ノーベル経済学賞を受賞したような権威のある経済学者の間でも、この精緻だがシンプルな理論には賛否両論であるが、この本が世界に衝撃を与えたのは、新資本主義が、このままでは世界の社会構造を維持することが難しいのではないかという危機感を世界が共有している証左でもあろう。
 日本の経済学者では、元内閣審議官でエコノミストの水野和夫の(「資本主義の終焉と歴史の危機」集英社新書、2014」」が議論の的になっている。

 20世紀後半から21世紀に入り、我々もバブル崩壊、リーマンショック、地球温暖化、9.11アメリカ同時テロ事件、また東日本大震災、福島原発事故を経験し、我々はこのまま今の社会を進めて行って良いのかという不安や疑問を持つようになった。

 世界中の多くの国が資本主義のあり方を議論しているが、日本のようにバリバリの新自由主義を信奉する政府を圧倒的多数で選んだ国もある。

 ピケティは一部の最富裕層が貧困層をなんら返り見ないこと、つまりは,日本の新自由主義者が言うような富のトリクルダウン現象(おこぼれ循環)は起きないことをデータで実証している。
 内田樹は週刊誌AERAのコラムで、安倍首相の今だに成長経済を妄信する時代錯誤性が時代を読み違え、意識の高い国民層の直観との間に齟齬を生じているのではないか、と指摘している。

 ところで、自然科学の進歩は、社会の思想に大きな影響を与える。
 現代の近代資本主義思想は、基本的にニュートン力学とダーウィンの進化論に依拠していると思われる。つまり、未来は予測されるという決定論、予定調和の理念と強者が弱者を駆逐して生き延びるという自然淘汰の理念である。
 私達の世界には、私たちの知らない、神のみぞ知るという絶対的な真理があり、それが世界の始まりの「神の一突き」を前提とするニュートン力学的な自然観である。
 量子論はこれに異議申し立てをしたが、森羅万象の世界を語るには、決定的な説得力が無く、(観測問題など未解決問題を残している)ミクロの世界に限定するとしてニュートン力学と住分けることにしたのが間違いの元であった。
 近代科学が目指した「自然は神の下で征服できる」と言う思想は、“意思は神のみが持つ”とする一神教の元で成立して来たのである。
 現代の社会は「自然や他と共存する」という思想が必要で、これは多神教の自然観である。
 量子論の出現で、本来なら、社会思想は変革されるべきであったのに、量子論を論じる物理学者がキリスト教という一神教から脱し得なかった為に解釈を間違え、量子論は、その役割を果たしていないとして、量子論に新しい解釈を示し、量子論から新しい思想を導き出した物理学者がいる。
 前回言及した山田廣成がその人である。(ラプラスの妄想:2014.12.17)ノーベル賞で何かと話題の多い名古屋大学物理学の出身で、日本の理論物理学の草分けである坂田昌一の薫陶を受けているが、専門は核物理学で、その分野での業績、受賞歴も多い一級の物理学者である。
 本人は、量子物理学は専門外というが、生物学、文学、哲学など文理両面に通じた専門バカではない学者である。そんな人物が「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」(光子出版、2014)で論じる文章は、素人向けに書いたといえども、正直理解に苦しむところも多々あったが、立花隆の「読書脳(文芸春秋、2013)」よれば、100パーセント理解できる本など読む意味がないとのことなので、間違いを覚悟で解釈して要約を述べてみることにする。(続く)

 PS:本日(20日)イスラム国が日本人二人の人質を取って2億ドルの身代金を要求してきたニュースが入った。
 人命をとるか欧米の世論に従うべきか、阿部首相は極めて困難な判断を迫られた格好になった。
 かつて日航機ハイジャック事件で、人命は地球より重いと言って、要求をのんだ福田赳夫政権は国際的に笑いものになったし、イラクの人質事件で、自己責任として人質を見放した小泉政権は、国民の信頼にダメージを受けた。

 僕の直観では、安倍政権は人命を重んじている格好をつけて、人質を見限るのではないかと思う。努力はしたが相手が悪く仕方なかった、という形にするしかないとも思う。
 つまり安倍首相が急きょ帰国すれば人質は見捨てられたのではないかと。帰国してまで国民の命を守ろうとしたというポーズである。金を出す気があるなら、帰国しなくとも対処出来るのではないかと思うからである。

 

安倍政権の暴走を止める手段はあるのか?

 総選挙で、安倍首相の思惑通りの結果になった。
これで、彼は自分の思うように政治を持てまわすだろう。

 安倍の安倍による安倍のための政治が始まることになる。

 国民は、決して白紙委任をしたわけではないが、与党で3分の2も議席をとれば、開き直ることもできるだろう。

 集団自衛権、秘密保護法、残業規制・派遣法、原発再稼働、IR法案、原発・武器輸出規制緩和から憲法改正に至るまで、したい放題やるに違いない。

 今回の選挙は官邸の作戦勝ちではあったが、別に違法選挙でも、不正選挙であったわけではない。国民が下した結果がこうなっただけのことである。

 野党不在で、事実上の一党政治になったのだから、民主主義の下では、与党には政策の一つ一つに丁寧な説明責任が求められるが、今までの日本の政治風土から見れば、望むべくもなく、国民には真実が知らされないまま重要法案が矢次早に成立していくに違いない。

 先に「IR法案に反対する。」(2014.11.26ラプラスの妄想)で危惧した通りの結果になり、失望感は拭いきれないが、今回の総選挙で2つの課題が見えてきた。

 一つは沖縄県民の米軍基地辺野古移設反対の決定的な民意の表明にかかわることである。中央政府への異議申立てに対する,これからの政府の対応で、今後の日本の民主政治の方向性が見えてくるであろうという課題である。
 沖縄県民が知事選に続いて、総選挙でも移設反対の意を示したことに対して、政府がどう対応していくかは、国民が政府に刃向ったときに、国民は国からどういう扱いを受けるかのよい参考事例になるだろう。
 成田の二の舞にならないことを願うばかりだが、沖縄の反対闘争が起点になり、再び政治の季節が廻って来るような気がしないでもない。
国状が不安定な国なら、これは沖縄の独立運動にも発展しかねない問題であろう。

 もう一つは、政治家の資質に左右されない、民主主義に基づく政治が実現できる政治システムを作る必要があるという課題である。

 政治家の能力、人格にかかわらず、国民の監視下で、国民の意に沿った政治が行われるようなシステムを考え出し、作り上げることである。(もちろん、小生も国民の総意が常に正しいとは思っていませんが。)

 物理学者の山田廣成が「対話原理が導く議会制度」(「量子力学が明らかにする存在、意志、生命の意味」Pp149-151,光子出版、2014)と称して、面白い提案をしている。
 山田は、日本を代表する核物理学の俊英だが、現在の量子論解釈に異を唱え、電子は波動ではなく常に粒子という実体であり、かつ電子にも意志があるとして対話原理という概念を創案し、自然科学から、経済学、社会学まで、あらゆる学問の統一を図ろうとし、物理学を思想に昇華しようとしている,わが国ではかなり変わった思考法する異端の物理学者である。
 その理論の詳細はまたの機会にして、ここではその議会制度を見てみよう。

 まず、人は他人との対話なくして、己の存在の確認のしようがない、アイデンティティも確立されないという基本的な考えがあって、かつ物事はディベートによる弁証法で最善の結論が出るという彼の信念がある。

 また、日本の政治が分かり難いのは、政治家の発表能力の低さに大きな原因があるとみる。
 確かに我が国は、当用漢字が読めなくて答弁の原稿にはすべてルビが打ってあるような元総理、現副総理が、そっくり返って口をゆがめて国民を見下ろすようにしゃべるお国柄である。

 政治を家業のようにして、既得権を持ちまわすような世襲政治家に、本人の政治理念を求める方が間違いであり、自らの努力の賜物である教養を期待するほうが滑稽というものである

 山田の論理の要点は、実際に政策、法案を作る官僚達とは別の官僚グループに、その政策の問題点を詳細にまとめて対案となる政策を報告させるというのである。法案を作るのと同じか、それ以上のエネルギーを労して、反対法案を作成するように官僚組織に義務づけるのである。
 つまり、案件毎に、担当官僚を二つのグループに分け、推進グループと反対グル―プを作り法案、ディベートの資料を役人の全能力をかけて作らせるのである。思想、信条とは関係なく、能力を尽くさせ、それを役人の評価に繋げるのである。
 日本のエリート官僚は真面目で優秀であるし、第一、情報を誰よりも多く持っているから、反対法案も野党の議員が作るより、より的確で、説得力のある鋭いものになるだろう。
 これはあくまでロールプレーであるから、別の案件では攻守を交替すればよい。

 弁証法ではテーゼ、アンチテーゼが論争し、ジンテーゼが生まれる。つまり止揚する。そのジンテーゼを作るのが議会であり、政治家の役割である。政治家がどんな選択をしたかが、国民の監視下にあれば、政治家も勉強するし、襟も正すだろうというのが山田の意見である。

 

 反対意見は意見が正確に提示されてこそ核心を突くし、意見は反対意見が示されてこそ、その真実が見えてくるものである。役人は、自分の能力のプライドをかけてディベートには勝とうとするだろうし、大方は出世が好きな人種であるから評価を気にして、ディベートは熱を帯びた真剣なものになるだろう。

 この方式では、役人には大変なストレスになるだろうから、国Ⅰ試験は忌避されるようになるかもしれないが、官僚という仕事は、国の命運が自分の肩、頭脳にかかってくると思えば、自分の能力に自信がある若者なら、それが気概となり、本懐と思う者も出てくるに違いない。

 そういう意味では、日本にもフランスのようなエリート養成学校グランエコールがあっても良いのかも知れない。

 もちろん政策の発案の基本は議員立法でなければならないので、野党も官僚組織を使えるようにするのが良いだろう。

 さて、今とりあえず求めることは、安倍首相には勝って奢らず、真摯に謙虚になり、法案の説明責任をしっかりと果たして欲しいと思うばかりである。
 

 各野党は共産党を見習って、組織を固め、有権者に目を向けることである。
 そして再編を急ぎ、与党の対抗勢力を早く作ることである。

 それが出来ない野党なぞ、今や誰も見向きもしないだろう。

 

 

IR法案に反対するー自公の打った総選挙の本当の狙いは?

 統合型リゾート法案(IR法案)は、国会が急遽解散されることになり、今国会では廃案になったが、選挙が終われば真っ先に出てくるだろうから、IR法案に反対する立場で一言私なりの意見を言っておこうと思う。

 統合型という意味は、カジノを中心において、ホテル、国際会議場、美術館、劇場、飲食店、ブランドショップなどを集合させることを言うらしいが、目玉はカジノであり、カジノを中心として統合性はかり集客を目指すことから、カジノ法案を統合型リゾート法案とまやかしているのである。これは政府が音頭を取って日本にカジノ解禁をもたらそうとする法案なのである。

 今回の選挙の最大の注意点は、阿部政権が、アベノミクスで株が上がったことで人気があるうちに、選挙で過半数を取り、国民の信任を得たとして、その後、集団的自衛権関連法案や、派遣法改正、原発推進法案、RI法案しいては憲法改正の為の法整備までほしいがまま突っ走るであろうことである。今回の選挙はまさにその大義名分を取る為に行うといっていいだろう。
 暮れに選挙を行うことの経済上のマイナス効果や、福祉関連予算の据え置きが弱者を直撃することを考えれば、安倍首相が国民の生活よりも自分の政治的野望を優先していることは明白に思える。

まさに安倍の安倍による、安倍のための解散総選挙といえる。

 消費税2%を上げるかどうかは、実施一年前の景気、社会状況を見て判断すると現行の法律に載っているのだから、2%値上げの是非を問うという大義名分で、わざわざこの時期に700億を使って選挙をする道理もないし、しかも一年半後にはいかなる状況でも、再値上げをするというのもおかしくはないか。
 1年半後が、経済が破綻するような状況でも、今度は機械的にあげるというのである。死ぬことが分かっていても、飛び降りるというのである。これほどの無責任な政治もないのではないか。なら、なぜ今回値上げしないのか?ということにならないか。

 私達一般国民は、安倍政権の本当の狙いを十分承知して投票行動をとる必要があると思う所以である。
 野党もアベノミクスの是非などと、上っ面な経済論争に巻き込まれないで、国のあり方を争点にして、安倍首相の本音を明らかにして、国民が審判できるようにしなければ、何の存在意味もないことになる。

 自民党に大勝なぞさせたら、本当に何をするかわからない。

 さてIR法案である。反対する理由を挙げる。

①  目的が不明朗である。カジノがあれば、外国人観光客を誘致しやすくなり外貨が稼げ、その経済効果は、アベノミクス3本の矢の成長戦略にマッチするのだと言う。
それなのになぜか、ギャンブル依存症対策費用を十分つけるから心配ないという。
政府の説明のように、日本人を対象とせずに、外国人観光客を対象にするなら必要ないのではないか。
いずれ一般の日本国民を巻き込む前提なのだろう。

 ちなみに、阿部首相が視察したシンガポールでは4年前にカジノつき複合施設を作り、外国人集客に成功して約1000億円の経済効果があったそうである。
ラスベガス、マカオ、シンガポールが収益をあげているからといって、日本が真似をする必要があるのか?日本にはカジノがなくとも、観光資源は十分あるではないか。現に外人観光客は着実に増えているし、外貨も稼いでいるのである。
日本独自の方法を考える方が、長い目で見た場合、はるかに益が大きいのではないかと思う。日本の最大の観光資源は、これまでカジノを持たなかったような、博打を好まない清廉性のある国民性にあるのではないのか。

②  お金は何処で、どのようにして稼ごうが、お金に変わりはない、という考えは、もう時代に合わないと思う。アベノミクスの基本理念は、「富める者、富める会社をまず作る、そしてそこからお金が溢れ出れば、貧民もおこぼれを頂戴して豊かになれる」という小泉、竹中前自民党政権が唱えた新自由主義の発想の継承そのものである。別名強欲資本主義ともいうが、それは極端な格差社会を産み、かつリーマンショックで構造破綻を来し、その思想の有効性は否定されたのではなかったのか。
今は、世界中の国が新しい資本主義、自由主義を模索している段階、状況であるのに、安倍政権は時代に逆行し、歴史から学ぼうとしない極めて貧しい発想しか出来ていないことになる。
 ギャンブルや金転がしで大金持ちが出現しても、それが国民の努力目標になるか?なっても良いのか?ヘッジファウンドの総帥を‘H氏、M氏よ、我が息子よ‘、と言って讃えた小泉政権当時の自民党幹事長の顔が目に浮かんできて気が滅入る。

 現安倍政権は、そんな心がすさむような社会を容認し、再び目指そうとしているのである。こんな射幸心をあおって経済成長を目指すような発想のリーダーでは皆が豊かで持続可能な社会の未来像は描けないのではないか。

 現在の日本にも競輪、競馬、競艇、パチンコ、宝くじなどギャンブルは既にある。しかしそれらは限られた時間内のことであるが、カジノは始まれば、年中、24時間いつでもできるところに真の危なさが潜んでいるのである。

③  危惧されるギャンブル依存症には、十分な予算をつければ解決するという発想自体が間違いである。それは精神医学の買い被りというものである。
 精神医学というのは、マニュアルを作って、それに従って診断こそはするが、治療には無力である。無力が言い過ぎであるなら、依存症には、殆ど治療効果は上がらないことを知らなければならない。

 ギャンブル依存症患者はシンガポールのデータでは10%しか社会復帰できず、多くは自己破産するというから(日本のパチンコ依存症も実はかなり深刻な状況であるのだが)、依存症患者は累積する一方で、日本では、精神障害者年金、生活保護費はうなぎのぼりになって、間違いなく、早晩カジノ収入を上回る税金投入が必要になるであろう。
 内海聡によれば、現在でも生活保護費受給者の25%は精神障害で入院あるいは精神科に通院しているものであるという。生活保護受給者は医療費が免除されるが、その医療費扶助の6割は入院費で、その4割は精神疾患の長期入院が占めるという。
 これらの数字は、精神医療がいかに多くの税を消費(浪費?)しているかを示している。
 精神障害の治癒率は極めて低いから、患者は貯まる一方であるから必要な福祉医療費はうなぎのぼりにならざるを得ないのである。

 それよりも、依存症が増えれば、大事な生産人口を失うし、何よりも家庭崩壊を招き人々の幸せが失われる。
 ネット依存症を招いたとされるインターネットと違って、ギャンブルは社会に役するものは何もないのだ。

 ギャンブル依存症は、なったら基本的に治らない、という前提で考えねばならないから、なるような状況をまず、作らないということが最優先されるべきであるにもかかわらず、現政府は作るための旗振りをしているのである。

 一方、日本の精神医学会は、自らの実績に照らして、医学的観点からも反対声明を出すべきと思うが、どのような意思表明をしているか寡聞にして耳に入ってこない。
 まさか精神科医療の市場が増えることを密かに歓迎しているわけでもあるまいが、、、。

 要するに依存症は、国が誘惑しておいて、された方が悪いというに等しいことだ。

 シンガポールでも、社会モラルが低下し、横領、汚職が増えたという。おまけに日本では組織暴力団の金づるの温床になるであろうし、また政治家がそれに絡むに違いない。いや、すでにからんで、裏でことが運ばれていることなのであろう。

④  一般国民はカジノが無くとも、少しも困っていない。
 ギャンブル好きはラスベガスでも、マカオでも行けばいいのではないか。
ラスベガスで、一晩で何億も負けて、企業に肩代わりさせていた千葉県選出の故大物議員がいたが、何の見返りもなしで肩代わりすると誰が信じるというのでしょうか。会社の資金を食いつぶした、企業の2世オーナー経営者とかもいましたねえ。
 かように博打は人心荒廃の元凶になりやすいのである。

 日本の国家予算の歳入から見れば、カジノで稼げる寺銭はしれたものである。
議員数を減らしたり無駄使いを止めれば十分事足りる位のことで、人心を荒ませ、バブルの再現を良しとするように国民を仕向けるようでは、国民の失うものの方がはるかに大きすぎるように思えてならないのだ。

 この様に、国民には百害あって一利なしのカジノ法案は末代の悪法である。
カジノ運営の利権に関わる、ほんの一握りの者が利するだけのことである。

 今回の総選挙は、向う2,3年間に安倍政権が好き勝手やる為の口実,言質を取るためのものであることを承知して,自公に大勝だけはさせてはいけないと思うのである。

 一方、野党は、黒田官兵衛風に勘ぐれば、安倍政権にやりたいだけやらせ、国民の怒りを誘い、一気呵成に逆転を狙っているのかもしれないが、日本の悲劇は、野党がそれほどの国民の信頼を得ていないところにあることを野党は肝に銘じて知るべきである。

 日本の政界には、一体何時になったら、歴史を正しく俯瞰でき、国民に夢や希望を抱かせる思想性のあるリーダーが現れるのでしょうか。

 やはり、社会や経済の大きな変わり目には、大きな叡智で国民しいては人類に進むべき方向性を示しうるような異才な傑物が必要だと思えてならないのである。

 

 

ノーベル物理学賞-好きこそものの上手なれ、暗黙知と創発

 今年のノーベル物理学賞は青色ダイオードの開発と実用化に目途を付けた日本の3名の工学研究者が受賞した。
 世界初の原理の発明とか全く新しい理論的な概念を作り上げたのではなく、先人の作った原理に基づいて、それを物として開発し、実用化に導き世の中に大きな貢献をしたことが評価された。

 今までの日本人の物理学賞受賞とちょっと違う。

 中間子と言う素粒子の存在を予測し1935年に受賞した湯川秀樹、電子と光子と言う素粒子同士がどんな作用を及ぼしあうのか、そのメカニズムを「くりこみ理論」と言う画期的な理論で説明し1965年に受賞した朝永振一郎、2002年ニュートリノの存在を実証した小柴昌俊、素粒子に重さがある事を解明した「対象性の自発的な破れ」理論で、2008年に受賞した南部陽一郎、同じく素粒子を構成するクォークが6種類である事を予言した益川敏英、小林誠などなど。
共通するところは、いずれも理論物理学の分野で、若い日に、頭脳と紙とペン一本で築いた革新的な理論が、後になり実験的に証明され、受賞に至ったものでる。設備もお金もかからない理論だけで獲得したものであった。

 科学が人類に貢献するには、まず理論のブレークスルーがあって、それを実用化するための膨大な時間と費用をかけて実用化に向けての実験研究が行われる。費用もそうであろうが、気の遠くなるような地道な作業には強い意志と根気が必要となるに違いない。

 それを支えた動機となったモチベーションは違っても、「好きなことを一途に」と言うのが、今までの共通した受賞理由として述べられて来たように思う。

 昔から「好きこそものの上手なれ」と言い、本当に好きなことでなければモノにならない、とも言われ、物事を成すには好きであるという、強制されない自発意思が必要であることはよく言われることである。
 壁に突き当った時に、好きでもない事、言われて渋云やっているようなことでは、壁を突き破ることが出来ないからであろう。

 創造することは、偶然の発見とは異なり、単純な思考経路からは生まれない。A+BはCとなるというような、誰もが思いつく線型的な思考経路ではなく、非線形的な複雑系な思考、「創発」と呼ばれるヒラメキこそが重要なのである。これに対を成す言葉に「暗黙知」と言うのがある。

 創発とは、「カオス理論」「複雑系」と言った新しい学問の中で使われる概念で、簡単に言うと、沢山の部分が相互作用することで、全体としての新しい作用がうまれる現象の事である。ゲシュタルト心理学では「全体は部分の総和以上である」と表現します。
 そして暗黙知とは、私達が「わかった!」とひらめいた時に、身体の中で起きている何か、身体の中で起きるプロセスや活動メカニズムの事を言います。部分に注目したら、いつの間にか全体が見えてしまう構造、「部分から全体へ」、まさに創発が起きる時に働くプロセスを暗黙知と言います。

 たとえば、現代文明を支える量子物理学の発達の歴史を見ても創発がいかにに大きく関わったかを知ることが出来る。

 製鉄所の技師であったプランクは、鉄の温度を正確に知る必要から、溶けた鉄がどんな温度でどんな光を放つのかを調べているうちに、光のエネルギーは連続ではなく整数倍の飛び飛びの値を取るとしないとうまく説明できないことが分かり、「光のエネルギーは連続的ではなく、ある単位を基準にした整数倍の値だけを取る」と言うエネルギー量子仮説を発表した。これはそれまでの「すべての物理量は連続的に変化する」となっていたニュートン以来の物理学の常識に見切りをつけるもので、新しい価値観の量子物理学への始まりになりました。これはまさしく、データを見ているうちに、暗黙知が働き、既成概念を越える創発が起きたと言えます。
 アインシュタインはこれにヒントを得て、光の正体はエネルギーを持った粒子の集まりとする光量子仮説と言う理論を打ち立てます。これも光は波であるという決着のついていた従来の説を覆すものでした。ここでも線型の思考経路では出てこない創発が起きています。
 さらには、量子理論実証派の大御所であるボーアは、ラザフォードが示した原子模型が、なぜ崩壊しないかと言う難題を解決するのに、中学校の数学教師バルマーが真空放電させた水素の四つの線スペクトルの波長の間に規則性があることに気が付き、バルマー系列と言う数列を作っていたことを偶然知り、そこから「ボーアの量子条件」を一気に完成し量子論の基礎を作ったし、ボーアは何故そうなるかの説明はせず、そう決まってるのだよ、と大胆に開き直ったが、ド・ブロイは、「光は波であるが粒子でもある」としたアインシュタインの発想を逆転させ、「電子は粒子であるが波でもある」とすれば全部説明がつくとし「物質波」の概念を創った。
これらは暗黙知が働き創発に至った典型的な例であるが、ノーベル賞の対象になるような自然科学の業績は、殆ど全部が、この様な暗黙知、創発の過程で生まれるのではないかと思われる。
 このような創発が出来る人は、なぜか多くが規格外の人、型破りの人で、社会的には不器用な人が多いように見られるが、(2008年の益川さんや、今回の中村さんにもうかがえる様に。)そのような人を上手く育てるような社会が日本のような資源の無い国には必要ではないかと思う。

 そのためには、利益に直結しない基礎科学の研究者を大事にして、ポスドク(博士課程を修了した者)と言われる人が海外に流れないようにしなければならない。

 私事で恐縮だが、僕の甥も薬学部大学院を出たが、研究生活のポストが無くアメリカに留学(有給で生活は出来る。)し、最初の研究論文がネイチャーに採用されたが、それくらいの者でも日本では就職が難しいのである。

 シンガポールのように日本も金融のハブになるのがいいとかの意見もあるが、日本人は中国人とは違い、根本的に商売人向きではないし、優れた頭脳と勤勉な国民性からすれば、『創発と物作り』を天職とするべきであろう。

 ましてやカジノでテラ銭を稼ごうなんていう一部の政治家のケチな発想は、真っ当な日本人があるべき方向を見誤らせる、足元を見失った恥ずべき発想であると思う。

 個人が、企業が、社会が、国家が何に依拠して発展していくべきか方向性を見定めることは、持続可能性を維持する上で最も重要なことではないか。

 独創的な物作りで発展してきた企業の経営者が初心を忘れると、どのようになるかは最近のソニーの凋落が、よく教えてくれている。

 これは、個人も同じであるように思う。自分が人よりわずかでも優れている点を自覚し、それを成長させることに注力し、分を心得て生きるのが人生の秘訣ではないかと、最近は自戒を込めてそう思うようになった。

 確かに多方面で抜きんでた仕事を幾つもこなす天才もいるが、殆どの人は才能の総和は限定的であると思うからである。

 敬愛する東北大学の西澤潤一先生は「独創するは我にあり」と言う名著があるが、十指に余るノーベル賞クラスの優れた業績を上げ、何回となくノーベル賞最短の人と言われながら、未だに果たしていない。
 今回の発光ダイオードの基礎理論を作ったのも西澤先生であり、今回なぜ彼が同時受賞にならなかったかをいぶかる人も多い。

 しかし、才能や努力に対する評価や対価は決して平等ではないように思える。

 そんな世俗的な評価を求めないのが、本当に好きになってやる仕事なのだろう。

 だから西澤先生は泣き言は言わないで、多くの成果を残せたのだろうと思う。

 

空耳妄言③-誰かが囁いた方がいい話もある。

*万引き犯の映像ネット公開事件について
 鈴木正文氏が編集長を務める雑誌GQ11月号のエディターレターで、25万円の値札が付いたブリキの玩具の鉄人28号万引き事件の犯人ネット公開について書いている。

 アンティーク玩具屋の店主が、鉄人28号のフィギアを万引きした犯人とおぼしき人物を、いついつまでに自主的に返却しなければ防犯カメラに映った犯人とおぼしき人物の顔の映像をネット上で公開すると警告した事件である。犯人と法的に確定したわけでもない人物を、犯人と決め付け、ネットで顔を公開するという行為に対して、さすがに警察も介入したが、この店主の行為を支持する世論は圧倒的に多かったという。
 そこで鈴木氏は言う。防犯上とは言え、店主が来訪者全員の肖像を許可なく記録して、疑わしいという理由だけで、それを何の断りもなくネット上に載せて良いのかと。
 さらに警察権を持たない個人が、特定の人物を犯人と決め付け、その肖像を広く公開する権利があるのか、これは、犯罪は司法が判断をするという社会の決め事を無視した私的制裁であると。(もし犯人でなかったら、どうするのか?)
 そして、このような意見を述べたマスコミ、評論家、コメンテーターは皆無であったことを驚いている。
 このような、まっとうな意見が、一娯楽ファッション雑誌の編集長によって初めて表明されたことが、今の日本のマスコミ、言論界の貧困を物語っていると思う。
 筑紫哲也が生きていればどう言ったか、あるいは、何かと話題のジャーナリスト池上彰氏が、この件に対して、どのように説明したかは残念ながら耳に入ってこない。

*NHKクローズアップ現代放送の「ご飯がまともに食べられない貧困家庭の子供」と精神障害者医療福祉制度について
 生活保護を受けられない貧困家庭の子女で、弁当を持って行けないばかりでなく、朝晩もろくに食べられない子ども達が何万人もいるという。

 にわかに信じ難いが、今のこの日本の現実の一面である。子供が、インスタントラーメンの断片を掬い探す映像には涙が出た。

 一方で、メタボで悩む患者であふれる精神病院とは一体なんだろうかと、思わず考えてしまった。
 精神病院が無くなると、ホームレスが増えて困るだろうと、僕の勤務していた病院の幹部は言ったが、片や、欠食児童や栄養失調で孤独死する老人を放置する今の福祉行政はどこかおかしくはないか。

 入院している精神障害者の多くは障害年金受給者(国費の保証がないと入院させないので。)で、入院費で十分な栄養食を与えられているにも拘らず、毎日の買い食いで肥満となりメタボ状態でありながら、食事の不平を並べ立てるのである。それでも障害者年金が使い切れず、入院が長い者になると、数百万~数千万単位の金をため込んでいる者も決して稀ではない。
 これは精神障害者年金制度のメカニズムがそうさせるのであって、僕の知っている病院の特異的現象ではないだろうから、このような精神障害者は全国には何万、何十万人と居ることだろう。
 これは、まぎれもなく、精神障害者が働いて貯めたものではなく、障害者年金を使い切れ無かった税金そのものの蓄積である。当然のことながら、これらの余剰金は回収して、貧困で三度の食事もとれない子供たちや飢餓死しそうな独居老人達に再分配するのが妥当というべきものであろう。

 精神障害者年金は基本的に過剰供与なのである。

 なぜそれが是正出来ないか。理由は、簡単なことである。そのような声が精神福祉医療の現場から上がらないからである。
 精神福祉医療関係者は、今のこの制度が自分たちにとっても好都合であるから、誰もそんなことは公にしないのである。精神病院経営者をはじめとする精神医療福祉関係者は過去も現在も精神障害福祉制度から税金を吸い上げるだけ吸い上げて、医療業界で最も裕福に生きているのである。

かつて、私学の新設医大建設ラッシュの時、設立母体となったのは、莫大な資金を蓄えた精神病院が一番多かったことが、そのことを如実に物語っている。

 日本の精神病院経営は、医療の名を借りた貧困ビジネスでなくてなんであろうか、と思うのは偏見でしょうか?

 精神医学の表現を借りれば、彼等は患者と共依存の関係にあると言えよう。

*現代医学生気質について―
 僕の皮弁グループの大番頭である慶応大学医学部解剖学I准教授が、慶応義塾医学部新聞のコラム欄で当世医学部の学生気質について書いていたのを偶然読んで、思うところがあった。

 I先生は慶応の解剖学の学生教育を一手に引き受け、解剖実習の諮問の厳しさでも定評があるが、学生が選ぶベストティーチャーに選出されるなど学生の人望も厚い

 そのI先生は言う。
 最近の学生は、早くから最先端の研究に目を向け、海外にも積極的に出て行き、部活にも積極的な一見頼もしいのが多く、多くの教員は彼らを褒めるが、自分は褒めないと。
 なぜなら、学生の多くが、授業中に私語は止めない、教科書を持たない、調べるのはネット頼り、レポートはコピペ、携帯命で、一から十まで質問して片付けようとする、医学に真摯に向き合わない不誠実としか言いようのない性格の学生が目につくからとのことである。
 要するに、見てくれや形だけは整える要領だけは上手いが、本性は品位、品性の無い人物が増えているのである。
 昔、地方の病院で手術をした時に、近くの新設私立医大の若い麻酔科医と手術で一緒になったことがあったが、その態度、立ち居振る舞いが、余りに品性のないもので口をきく気にもなれず、手術が止まったことがあったが、とうとう慶応にもそういう医者が生まれるようになったのかと、愕然とするものがあった。

 I先生は、さらに学生の圧倒的な不器用さをあげている。目も当てられない不器用さは今に始まったことではなく、僕の10年位後輩からは顕著になった。
 今まで一度もナイフやノミ、金づちを持ったこともないような者が、人生で初めての経験が、手術で人体に対して使われるのであるから無理もないと言えば、そうであるが、臨床で、使われる患者にとっては良い面の皮である。
 一体、いつの頃からか、鉛筆を削る小刀が禁止になったのだろうか。全国の小中学校で刀狩りをしたのが、かくも人間をブキッチョにしたのだろうと思う。子供が小刀やナイフを持っていたからと言って、どれだけの刃傷事件が発生しただろうか。
 むしろ最近の方が子供による残忍な殺傷事件が多い。

 昔は子供は皆、入学時は鉛筆削りは下手で親が手伝ったりしたものだが、段々上手くなっていったものだ。
 そして、中学生になれば、設計図面を引いて、塵取り箱とか、ドライバーなどを作る工作の時間があった。休み時間は、近くの林に入って、枝の股を切り出しパチンコを作ったものだ。
 こうして、自然と生活に最低限必要な技術を覚え、今でいうDIYが身についたのだ。
 包丁もナイフも持たず、釘一本打ったことのない者が、いきなり屍体に向かって、皮膚をはがし、細い神経、血管を剥離しようとしても、絶望的に不器用に見えるのも当然かもしれない。

 だから、学生諸君の絶望的な不器用さは、本人の責任ではなく教育環境の賜物なのであろう、

 

将来外科手術は、ロボットがやるようになるだろうから、手先の器用さは必要ないという意見があるが、それは間違いであろう。
 手先の不器用な人は、概して頭も不器用であり、imagineする力が弱く、ロボット操作も下手に決まっているからである。

 昔から、外科では口ばかり達者で、実際の手術となるとからっきし下手なものをクチメスと言ってバカにしたものだが、間もなく医者は全員クチメスばかりになるのかもしれない。

 外科系臨床科に入局したら、まず毎日、鉛筆を削らせ、彫刻刀で表札を彫らせ、ノミで丸太でも刻ませるのが良いのかもしれない。
 魚を3枚におろし、大根のかつら剥きも良いだろう。

 一方で、最近の学生は外国語には長けている者が多いという。
 これは確かに大きな長所であろうが、仏文学者の鹿島茂は「外国語を良く使う学生で、本当に頭のいいのはいない。」と言っていたが、その意味するところ、真意は良くは分からないが、そのニュアンスは理解できる。

 英語が出来るというのは、時流に合ったスタイルであるが、学問の本質とは無関係ということか、あるいは、本質を求める者は、表現手段に過ぎない語学習得に使う時間がもったいないと思うから、と言う意味かは、語学を良くしない僕には分からないとしか言えない。

 

 

読書日記-その④、2014.5.~

美容整心メンタルクリニックを開設する準備で、この数週は忙しく、特にここ数日は時間が無かったので。今回はこの4、5か月間に読んだ本の記録を羅列してコラムのお茶を濁すことにします。(順番は必ずしも読んだ時系列ではありません。)

  1. 竹内薫、「数学×思考=ザクリと」、丸善出版、2014
  2. 竹内薫「科学の未解決問題」中経出版、2013
  3. 竹内薫「なぜ科学はうそを吐くのか」祥伝社2009
  4. 竹内薫「ゼロから学ぶ量子力学』講談社。2001
  5. 桜沢如一、「宇宙の秩序」、日本CI協会、2012
  6. 立花隆「読書脳」文芸春秋。2013
  7. 立花隆「電脳進化論」朝日新聞社、1993
  8. 立花隆「脳とビッグバン」朝日新聞社2000
  9. 和田純夫「量子力学が語る世界像」ブルーバックス、講談社,1999
  10. F.D.ビート「シンクロニシティ」管啓次郎訳、朝日新聞社1992
  11. ケネス・フォード「量子的世界像101の新知識」青木薫監訳塩原通緒訳、ブルーバックス講談社、2014
  12. 栗本慎一郎「意味と生命、暗黙知理論から生命の量子論へ」青土社、
  13. グレゴリー・ベイトソン「精神と自然」佐藤良明訳、新思索社、2009
  14. イチェル・カーソン「センス・オブ・ワンダー」上遠惠子訳、新潮社、1996
  15. ジャックベンべニスト「真実の告白水の記憶事件」由井寅子訳、ホメオパシー出版、
  16. 塩谷信幸「美容外科の真実」ブルーバックス講談社、2000
  17. 山下裕美「美容整形」文春文庫、2001
  18. 鍋田恭孝「身体醜形障害」講談社2011
  19. キャサリン・A・フィリップス「歪んだ鏡」松尾信一郎訳 金剛出版1999
  20. 松本俊彦「自傷行為の理解と援助」日本評論社、2009
  21. 竹原卓真、野村理朗「顔研究の最前線」北大路書房、2004
  22. 「辻静雄」kawade夢ムック、河出書房。2014
  23. 玉村豊雄『晴れ耕雨読ときどきワイン」中公文庫、1993
  24. 立石敏雄「笑う食卓」阪急コミュニケーションズ、2008
  25. 山口美緒、「信州蕎麦好み」、信濃毎日新聞社、2014
  26. 辻静雄「料理人の休日」復刊ドットコム、2013
  27. 馬場啓一「池波正太郎が通った店」イソップ社、2009
  28. 玉村豊雄、北田敦子「男と女のほろ酔いデートファイル」世界文化社、2001
  29. 小山薫堂「人生食堂100軒」プレジデント社、、2009
  30. 犬養裕美子「人生を変える一皿」枻出版、2010
  31. 青柳恵介他「骨とうの目利きが選ぶ,ふだんつかいの器」新潮社、2006
  32. 佐藤嘉尚「人を惚れさせる男吉行淳之介伝」新潮社2009
  33. 天野祐吉編、「隠居大学」、朝日出版社、2011
  34. 吉野慎一「笑いと免疫力」主婦の友社2004
  35. 藤田紘一郎「心の免疫学」新潮選書 2011
  36. スティーヴ・ロック「内なる免疫力」池見酉次郎監修 創元社1990
  37. ヴァルター・ベンヤミン「この道一方通行(、細見和之訳)」みすず書房、2014
  38. 「作家の家」コロナブックス、2010
  39. 松井晴子「建築家が建てた幸福な家」エクナスレッジ、2004
  40. 松井晴子「続建築家が建てた幸福な家」エクナスレッジ、2007
  41. 「最高の建築家25人」エクナスレッジ、2008
  42. ハルノ宵子「それでも猫は出かけていく」幻冬舎、2014
  43. 内田樹・釈徹宗「現代霊性論」講談社、2010
  44. 吉福伸逸「トランスパーソナル入門」平出出版社、1998
  45. 岩井俊憲「ありのままを認める」宝島社、2014
  46. 小倉広「アルフレッド・アドラー人生に革命が起きる」ダイアモンド社、2014
  47. 和田秀樹「こころと向き合う臨床心理学」朝日新聞出版、2012
  48. 和田秀樹「フロイトとアドラーの心理学』青春出版社、2014
  49. 白石一文「この世の全部を敵に回して」小学館2008
  50. 白石一文「一瞬の光」角川文庫2004年
  51. 中川米造「医学の不確実性」日本評論社、1996
  52. 内海聡「大笑い!精神医学」三五館2014
  53. 内海聡「精神科は今日もやりたい放題」三五館
  54. 矢作直樹「お蔭様で生きる」幻冬舎、2014
  55. 矢作直樹「人は死なない」basilico2011 

 1-4.は、竹内薫の本で、未読のものを選んで読んでみた。竹内薫は、科学を平易な読み物にして多くの読者をつかんでいるが、最近はNHKのサイエンスゼロを始め、多くのテレビ番組のレギュラーになり、舌鋒はとみに弱くなり、科学哲学者の名前にもとると以前に書いたが、3.「なぜ科学はうそを吐くのか」2009では、科学にかこつけた社会の欺瞞性をかなり鋭く突いている。ただ肯定的な原子力発電についての意見が、東北大震災の東電福島原発事故以前に書いたものであり、あの事故の後、原発論がどう変わったかを知ることが出来なかったのに、歯がゆさが残った
 5-7.は立花隆が知の巨人と言われる、彼の思考過程が知りたくて、再読したものである。6.「電脳進化論」1993では、実はその中で、私のバンブーウエア全頭蓋形成術とCG手術シミュレーションが紹介されている。
 8-9.は量子論でも共時性について書かれたものを選んで読んだ。
 11-15.は竹内薫の「シュレディンガーの哲学する猫」に触発されて読んだものである。
 16-21.は、外観障害に拘わる自分の本業に関するもので、身体醜形障害に関する知見を広めるために読んだものである。中でも18.鍋田泰孝「身体醜形障害」2011は医学的にも理解しやすい記述になっており有益であった。
 22-30.は食に関するエッセイや情報収集のためのものであり、毒にも薬にもならないものばかりである。
 31-33.は大人の男を目論む浅はかな考えによる選択である。
 34-36.は精神神経免疫学につながる一般書であるが35,36は医学的にもかなり読み応えのあるものであった。
 38-41.は趣味の建築に関するものであるが、特に印象に残る内容のあるものではなかった。
 43,44.は精神医学の霊性の概念を求めて読んだが、宗教に近いものに限定された考察で当てが外れた。
 46-48.はアドラー、コフートなど現代心理療法の解説が明快にされており、今までの自分の理解を整理する上で非常に役立った。和田秀樹の本はいずれも論旨明解で本人の主張も明瞭で、彼が優れた書き手であるばかりでなく、おそらく優秀な精神科医であることをうかがわせた。
 49.白石一文「この世のすべてを敵に回して」2009は強烈なタイトルにひかれて読んだが、内容は人間の徹底した孤独感を描いたものであり、かなりインパクトを受けた。そこで著者のデビュー作の「一瞬の光」2004も読んだが、これは虐待とストーカーを扱い、今日の社会病理を予見しており、精神医学的にも非常に興味深く、文庫本で600ページ近い大作だが、夏休みに一気に読了した。
白石一文は、僕にとって今もっとも興味のある作家の一人になったが、著書のいずれもボリュームが多く、気楽に手が出せないのが残念である。
 51-53.は医療の批判本だが、内海の精神医療批判は徹底していて面白い。彼の意見に総論として私も8,9割は賛成ではあるが、彼は精神医療の臨床の現場で働いたことはないであろうから、私から見れば、まだ洞察、突っ込みが不十分なところがあるように思えてならない。
 54.55.は東大の救急救命科の教授が自分の死生観、人生観、を書いたものであるが、常に生死に直面している臨床医の考えとして重いものがあるが、「大いなる存在」や気の流れで心身相関を説明するところなど、私の身体波、精神波と、自律統合性の概念と通じるものを感じた。
アドラーの言うライフスタイル、ストロロウの組織化原則に近い考えで、生き方を整理することを薦めるところは大いに啓発されたが、著者の心境に何処か悟りの境地に近いものもあり、私には未だ到達できない世界にも感じた。
しかし患者の医療に対する、万能感、無理解を嘆くところは大いに共感出来た。
 全体の読後感としては、日本人で良かったと思わせる、不思議な深い優しさに包まれた心落ち着くものであった。著者の持つ本質的な人としての優しさが伝わったのかもしれない。
 55.では、自らの体験と近代スピリチュアリズムの考察から「摂理」と「霊性」について深い洞察を加え、その存在を肯定的に生きることを薦める哲学書になっている。これは私の言う自律統合性機能AIFの概念とかなり重なるところが多い。これについてはまた別の機会に比較考察しようと思う。

 相変わらず気の向くままの無作為な読書で,系統だった知識にはならないものばかりですが、この4,5か月間はこんな本を読んで時間を潰してきました。

 そんな毎日が日曜日の年金生活者だった私も、だんだん時間が無くなり、読書三昧とも行かなくなってきたのが、最近の悩みの種です。

 最後に訂正とお詫びです。2014.08.13のラプラスの妄想、空耳妄言②の中の、栄養学批判の文章で、炭水化物中心の生活が始まったのは縄文時代ではなく弥生時代の間違いであること、日本人の平均寿命が大きく伸びたのは、戦後の食生活が変わってからであり、炭水化物中心の戦前までは世界的に見ても日本人の平均寿命が特段長かったわけではありません。重ねて訂正し、お詫び致します。

 

 

空耳妄言②-誰かが囁いた方がいい話もある

空耳妄言では直観的に感じたことを、何も考えないでそのまま述べる。直観は案外本質を突くものであるから。

*佐世保の殺人女子高生Aの弁護士の父親について。

 自分が殺されるかもしれないと思って、こずかい100万渡して一人暮らしをさせたと言う。(自分の再婚を優先させた?)
その行動原理は、自分を咬んだ飼い犬の狂犬を、自分が又咬まれるのが怖くて、街に放し飼いにし、自分ちの鍵は掛けて安眠をむさぼった(しかも若い後妻と)飼い主と同じようなものではないか。
「未必の故意による殺人ほう助罪」という罪があるかどうかは知らないが、まさにこれに相当する弁護士先生だが、この手の先生は狡猾だから罪にならないことは十分調べての事だろうね。
行政も弁護士会も、この父親を何も処分しないとすれば、法はどこかおかしくはないか。
加害者は、多分責任能力なしで無罪になるだろうけど、それでは殺され、解体された被害者の立場はどうなる!

*北朝鮮拉致問題での政府の態度

 北朝鮮の拉致被害者調査再開で、日本が制裁解除するのは、例えて言うなら、強盗が強奪品を返すと言うから、被害者が喜んでお礼をするようなものではないか。「返して当然なことなのだから、制裁解除不要(制裁は償いである)」と、牽制する声をあげる者がいてもいいのではないか。

*セクハラ野次を受けた女性議員のレベル。

 野次を受けても、その場で、自ら抗議するわけでもなく、へらへら笑って曖昧な態度をとっておきながら、今になって指摘されて、被害者面して出てくる了見というのは、議員という、高い社会性が求められる職業がら恥ずかしくは思わないのだろうか。
 そんな程度の認識だから、いろんなハラスメントが無くならないのだよ。
 人に言われて、これってセクハラなの?って気が付いたかのような議員のレベル。
それと野次を飛ばしておきながら、逃げ隠れし抜いた自民党議員と、それをかくまった自民党の卑劣さは忘れないようにしよう。

*佐藤栄作元首相のノーベル平和賞と小保方さんのNATURE論文辞退の関係。

 佐藤栄作元首相は、核を作らず、持ち込まず、使わせずの「非核3原則」の政策が国際的に評価されて、ノーベル平和賞もらった。
 しかし最近になってアメリカの外交文書の秘密期限が過ぎて、持ち込みの密約をしていた文書の存在が判明した。(この事実を50年前に暴いた毎日新聞の記者が有罪になったことは前に書いた。)
 ならば佐藤が国民に大見得を切った説明は、明白なウソであり、詐欺、ねつ造なのだから、小保方さんのstap細胞論文のように、辞退するのが筋というものではないだろうか。
 このまま、知らん顔では同じ国民として恥ずかしいという声が、何故上がらないのか?
 政府の言うクールジャパンの精神にも抵触しよう。(政府は、まさか、もらい得、やらずぶったくりの精神、所作を奨励するわけでもないだろう?)
 このような事態にならないためにも拙速に秘密保護法を成立させたのが安倍首相だということを覚えておこう。
 彼が敬愛してやまない祖父岸信介元首相の実弟が長期政権を誇った当の佐藤栄作であることも若い人には指摘しておきます。、

*秋元康のJKビジネスになぜ日本の男は乗せられるのか?

 おニャン子クラブからAKB48に始まる全国の素人少女集団ビジネスは、秋葉原のJK商売と本質は同じではないか。
 思慮のない未成年少女をマスコミを使って巧みに操り、ビッグビジネスにした秋元康の手腕は高いが、国民投票権、握手権を売るようなやり方は、早晩行き詰まるだろうから、お話喫茶から耳かき喫茶、添い寝喫茶にレベルアップして生き延びを図った秋葉原のJKビジネスと本質的に同質なものではないのか。
 その猥雑性をはっきり指摘する声もなく、国民をあげて、持ち上げる愚かしさの元とは何か?
 男の本質はロリコンであり、ロリコンビジネスに異様に甘いのが日本の社会の特徴だということを、ビジネスマン秋元康が一番知っているのかもしれない、。

*炭水化物禁止を言う最近の栄養学は本当に正しいか?

 姫野友美の「心療内科に行く前に食事を変えなさい」など、米を主体にした炭水化物を食べるなという栄養本が流行っている。
 今や、日本の農業政策にかかわる問題にすらなっている。(TPP以上に深刻な問題だという。)
 GIインデックスの高い(ブドウ糖化し易い)炭水化物(米、パンなど)を取ると、血糖値が急速に上がり、インシュリンが過分泌されるため、血糖の変動が大きく、急低下した時にアドレナリン、ノルアドレナリンなど脳神経伝達物質が消費され、脳の働きを弱めるという。結果として心・身の健康を害するという。(頭の回転が悪くなり,要するにバカになり、身体はメタボになり命を縮めると言います。)

 日本人の食生活は、縄文時代から米、麦など炭水化物中心であったように思われる。それもほんの数十年前までだ。その2000年以上にも及ぶ長い間(人類の歴史から見れば、長くないという見方もあるが)、もし脳にも身体にも悪い食生活を続けていたら、今日のような日本民族が生存しえていただろうか?
 日本人は、世界的に見ても狩猟民族より知能は高いし(世界に誇る技術立国である)、平均寿命も長い。(世界に誇る長寿国である。)
この歴史的事実を、つい最近始まったばかりの分子整合栄養学がどう説明してくれるというのだろうか。
 小さな実験的事実や最新の理論の聞きかじりで、一つの系のすべてを説明するのは極論というが、本人や本を売らんがためのセンセーショナルな論調は人をなめるにしても、稚拙過ぎないか。

 

 

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