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ラプラスの妄想

人生はニャンとかなるーニャンとも可愛い猫たちの本

あのガネーシャの「夢を叶える像」の著者、水野敬也が、啓蒙啓発の格言集『人生はニャンとかなるー明日に幸福を招く68の方法』(文響社)を出して、売れているという。

猫の写真が可愛く、装丁が巧みで、きれいなのも原因の一つであろうが、いつの世もこのような心に響く一言を人は好むものだ。

文学書や哲学書を読むような決定的な影響は受けないが、その一言に癒されたり、励まされたりすることはあるものだ。

一昔前は、武者小路実篤のナスやカボチャの絵に「人生は美しい哉』などと、一言が書かれたカレンダーが、何処の家にもあったものだ。

猫の写真が可愛いので、いくつか紹介してみようと思う。(このページはごく少数のメンバーにしか読まれていないし、商業目的ではないから著作権の侵害にはならないだろう、大目にみて欲しい。)

今、人生に躓きそうに思っている、辛い思いのあなたへ。

人生は、ニャン度でもやり直せる?ヘンリー・フォードの人生から

 

あなたの不幸がいかに大きくとも、最大の不幸とは、絶望に屈する?事でしょう。

                      [アンリ・ファーブル]

99回倒されても、100回目に立ちあがればいい。

                  [ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ]

 

春は必ず来るーハリソン・フォードの人生から

        

全ては好転する。そう信じて、辛抱強く耐え抜こう。

耐えぬいたとき、あなたはとてつもない力を手にしていることだろう。

                         [マハトマ・ガンジー]

 

辛いときは試されているとき―ネルソン・マンデラの生き方から

人間追いつめられている時は力が出るものだ。

こんなにも俺の人生に妨害が多いのを見ると、運命はよほど俺を

大人物に仕立て上げようとしているに違いない。

               [フリードリッヒ・フォン・シラー]

 

肩の力を抜こう―アルベルト・アインシュタインの生き方から

疲れた人は、しばしば路傍の草に腰をおろして、通行人を眺めるがよい。

人は決してそう遠くへは行くまい。

                     [イワン・ツルゲーネフ]

 

水野敬也は現代の白樺派なんでしょうか。

 

人生の時々によって、身にしみる言葉が幾つも載っていました。

猫の写真がとても面白いです。

 

 

境界人として生きるー精神病院を退職するにあたって

早いもので、形成外科をやめ、精神科に転科して3年が過ぎました。

先に異端者について書きましたが(2013.10.16)、今の自分は形成外科と精神科の「境界人」なのかなあ、と思っています。

難しい科学理論を、巧みな比喩で、出来るだけやさしく噛み砕いて、
中学生でも分かる程度に解説してくれる科学哲学者、物理学者の竹内薫が、自身が文系と理系を勉強した経歴から、物理学界、哲学学界のどちらからも異端児扱いされ、また、大学や研究機関に属さず独学の士であることから、専門家と素人の境界に生きていると謙遜して、自らを「境界人」と述べているが、不遜にも、それにならって言うのでありますが、、。

今の専門知識の量は、どちらが多いかわかりませんが、学問的業績を言えば、形成外科では、今でも通用する有効な自分の作った理論、概念、手術法がいくつも残っているのに対し、精神科の業績は全くのゼロですので、自分の意識に反して、周りはまだ形成外科医だろうと言うのかもしれません。

それに精神科はあくまでも独学であり、まさに素人との境界を彷徨っています。

それに加えて、私は今の勤務先病院を12月一杯で退職するので、もう専門は何も持たない、ただの年金受給者という方が相応しいのかもしれません。

(ホームページの履歴が虚偽になりますが、そのうちに全面的に改定しますので、しばらくはお許しください。)

このホームページでも述べてきましたように、精神医学を勉強する時に、量子論を脇におきながら見てきましたから、自然界や精神界に超越的なものを設定せざるをえなくなり、勢い興味は哲学、宗教的なものに行きがちです。

それはそれとして、今後の趣味、道楽として勉強することにして、ライフワークとしての今後のテーマは、精神医学と形成医学のフュージョンを目指して、一つの学問領域、臨床領域を作ることにあります。

マズローの言うような大上段に構えた「自己実現」ではなく、
かといってフランクルの言うような超越的な、「意味への意思」でもなく、どちらかといえば、ユングの言う「影」を取り込むように、自然体で、境界人だからこそ行いうる領域を歩んで行けたら、老いてから精神医学を学んで良かったと思えるかな、と思っています。

 

オリンピックについて、その2―知事辞任騒動異聞

この欄で、オリンピックについて書いた前後して、猪瀬東京都知事の徳洲会騒ぎがあり、辞任という急展開をしたので、少し追記しておこうと思う。

正直な感想からいえば、猪瀬氏は、もう少しがんばれば、辞めなくて済んだのではないか思う。

あれだけ四面楚歌で叩かれると、庶民感情では判官びいきが出てくる。

味方のはずの石原前都知事や自民や公明党の態度は、いかにも不自然で、どこかおかしいと思えるし、裏に何かがあるに違いないだろうと勘繰りが始まるだろう。

そのうちに、猪瀬氏を続投させておけば、これに懲りて、もう悪さはしないだろうと期待する世論が出て来ないとも限らない、と思ったからだ。

勘繰りの一つに、オリンピックの巨額の利権がからんでいるのではないかとは、誰しもが容易に思うところだ。

オリンピック招致を決め、強くなりすぎた猪瀬氏は邪魔になったのだろう。

猪瀬氏を傀儡知事にして、院政を敷くはずであったI氏にも、自分の利権が危ういと不安焦燥感があったのかもしれないし、あるいは前回のオリンピック招致運動の際の数百億と言われた使途不明金問題が再び、表に出るのを恐れたのかも知れぬ。

また、息子である石原伸晃氏率いる自民党都連ももっと御し易い知事の方が好都合なのだろう。

なんせ数千億円の利権である。

猪瀬知事は辞職の際、政治家としてアマチュアであった、と反省の弁を言ったが、逆に言えば、プロの政治家はこれくらいの金は当たり前にもっとうまく処理するものだ、という意味なんだろうね。

ならば、最後屁に、歴代知事の悪行をばらして欲しいものだが、命が危なくて出来ないだろうね、きっと。(ひょっとして‘餃子の王将事件‘は、プロがプロを使った、見せしめの脅しだったりして??なわけないか。)

結局のところは猪瀬氏の人望の無さに尽きるのだろうか?

道路公団民営化委員時代の態度を見れば、想像がつこうかというもの。

彼と大宅映子氏だけは、最後まで権力にすり寄り、法案を骨抜きにした。

彼が得意げに手柄とした成果は、ほんの僅かな高速料金の値下げで、その分は、彼が委員として使ったタクシー代などの経費分の方がはるかに高くついたとマスコミに指摘されていたよね。

そのお仲間の大宅氏に、“今回は、対応が子供過ぎた。”と批判されたら、もはや面子も立たないよね。

皮肉にも、猪瀬氏のデビューは、大宅荘一ノンフィクション賞(映子氏の父親はもっと気骨があり、反権力だったのにねえ。)受賞だった。

今回の事例から、私は自分の座右の教訓を再確認した。

「権力や才能も杭と同じで、半端に突出してはいけない」ということだ。

槌が届かないほど、高く突出すれば、杭も才能も打たれることはないし、権力も十二分に強大であれば、どんなに不正義でも簡単にはつぶせない。(北朝鮮、ロシアを見よ。)

猪瀬氏は所詮、半端であったということか。

沖縄返還の際、表向きは非核3原則を言いながら、国民を騙して、核持ち込みを米国と密約をした佐藤栄作元首相は、非核という政治的業績でノーベル平和賞をもらったが、密約を暴いた毎日新聞の西山記者は逮捕され、監獄に入った。

権力は強ければ何でも出来る、ということを佐藤栄作、その兄である岸元首相の親族(孫)である安倍首相は、幼い頃より、権力の構造を間近で見て、よく知っているに違いない。

その兆候が見えるね、最近は。

特定秘密保護法強行採決ばかりか、とうとう靖国神社にも行った。

ジジコンのお祖父さんも出来なかった憲法改正をして、歴史に名を残したいというのが、最大の政治目標なんですよね、安倍首相は。

私たちは、与党に力を与えすぎてしまった失敗を反省し、次回の東京都知事選では関西の、衆愚の二の舞,三の舞にならぬよう(知名度だけのタレント選びだけは阻止するように)、肝を据えて対処して行かなければと、一人強く思いますが、皆様はいかがお考えでしょうか?

オリンピックが決まって思ったこと

2020年のオリンピック、パラリンピックの東京開催が決まった。

決定した当時の日本中の興奮は、ようやく沈静化してきたようなので、腹に貯めていた、いくつか私見を述べようと思う。

あの当時では何も言えない雰囲気だった。

いくつかの伝説も残ったし、 OMOTENASHI やUNDER CONTROLなどの流行語も残った。 ?

私は基本的に反対の立場であった。 ?

第一に、福島原発の問題が未解決であるのに、そんなことを言っている場合か、と思ったのである。

例えれば、家族が海で溺れている最中に、来年の海水浴の話をしているようなものだと思ったのだ。

どう考えても順序が違うだろうと。 ?

第二には、4年前の東京誘致の際のいろいろな不明朗、不透明な事象が曖昧にされてしまうのではないかという事だ。

前回の誘致失敗の責任(莫大な税金を浪費した。)や石原前都知事の数百億円にわたる不明朗な会計操作は明らかにされないままにならないかとの懸念である。

どうやらそれは現実のものになりそうである。

さぞや蔭でほくそ笑んでいる者がたくさんいる事であろう。

それを隠蔽するために、東京都は今回の誘致になおさら頑張ったんだろうと勘繰りたくもなるくらいだ。

猪瀬都知事の徳洲会からの裏献金も暴露されたことだし、メディアは根気よく追及して欲しいものである。 ?

しないだろうね、今の腑抜けのマスコミでは。 ?

いずれにしろ決まったことは現実であり、もうそれに向かって走り出したのであるから、今は、今後の希望、懸念について、いくつか述べたいと思う。 ?

まずは「日本橋」の愚行は二度と犯してはならないと思う事である。

東京の方は良くご存知と思いますが、日本の幹線道路の起点であり、ある意味では日本の歴史、日本人心の原点の一つともいえるあの美しい日本橋の直上に、スレスレの所に覆いかぶさるように無粋な首都高速道路が走って景観をぶち壊し、見るたびに日本人の誇りを傷つけているのである。

当時は、オリンピックの為という御旗のもとで、政府や役人が反対の声を押し切って造ったものでしょうが、反対する方も、どこか判断基準が狂って声が弱くなってしまったんでしょうね。

今にして思えば、造った方もあの判断はおかしかったと思っているのではないでしょうか。

今になって後悔して、景観の復活再生運動があるようですが、誠に残念なことです。 ?

今度のオリンピックでは、そのような過ちが二度と無いように冷静な判断を期待するばかりです。

オリンピックは数週間で終わってしまいますが、壊した景観、自然環境を戻すのは容易ではありません。 ?

同じような事が原発の処理で、起きない事を願うばかりです。

臭いものにふたをするように、日本国民がこぞって東北の声を圧殺するような事態が起きないか、心配します。

オリンピックの工事が優先され、東北の復旧工事が後回しにされそうなのは、もう現実化しつつあります。 ?

もう一つは、リニア新幹線開通をオリンピックに間に合わせろ、と言う政府からの圧力で、無理な工事で禍根を残さないように、という事です。

確かにリニアは日本が世界に誇るべき科学技術力の快挙と言っていいと思います。

開発に携わった人々は金メダル以上の名誉でもって讃えられていいと思う位です。

涙もろい小生なんかは、ここに至る苦労と努力を想像するだけで目が潤んでしまいます。

だからこそ、彼らの名誉が傷つかないように、仕事を全うして欲しいと思います。

突貫工事であった新幹線は、確かに未だに無事故ですが、だからといて、同じように行くと思わない方がいいと思います。

話は変わりますが、先日テレビでロボコンのアジア大会で金沢工業大学が優勝するドキュメンタリーをやっていましたが、見ていて感動して、やはり目が潤んでしまいましたよ。

アスリートの努力もいいが、東大に伍して頑張った、彼等の知的な苦闘もなかなか見ごたえがありました。 ?

私たち日本人は、磁場によって鉄の分子が一斉に同じ方向に整列して磁化するように、同化しやすい国民性であることを肝において、国家的イベントの際は冷静さを失わずに判断行動するようにしなければ、と自戒を込めて強く思います。

「相補性」という原理ー量子論、ユング心理学、形成外科学から

平衡という単語は、本来、化学などで用いる科学用語であったが、分子生物学者の福岡伸一が、動的平衡という言葉で、広く生命、自然、環境、社会に生起する諸々の現象を説明するキーワードとして巧みに用い、今や生命、宇宙の摂理、哲理を説明する絶妙な言葉になっている。

量子論では、物質の根本理念に「相補性」を置いているように見受けられる。

相補性とは、相反する事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成する考え方をいう。

量子論においては、物質は粒でもあり、波でもある、という相反する性質を持っていることや、位置と速度の片方は曖昧になるというハイゼンベルグの不確定性原理を、ボーアはコペンハーゲン解釈で自然の相補性によるものと説明している。 

一方ユング心理学でも相補性は、心理機能や元型の働きの重要なファクターである。

ユング心理学では、ヒトの基本的態度を外向的,内向的に分けたが、基本的態度と外的に観察しうる行動には差異があり、常に一面的な行動によって貫かれているとは限らないとし、意識の態度が外(内)向的であると、無意識の態度は内(外)向的で、意識の態度が強調されすぎると、無意識は補償的に働き、それらは相補的な関係にあるとしている。

ヒトには条件によって左右されない原則的に不変な心の活動形式としての心の機能があるとし、思考、感情、直観,感覚の4つに区別した。

それらは人により各々が主機能、補助機能、劣等機能として対立的にまた相補的働き、劣等機能を発展させるという。

ユングは無意識には人類共通の無意識(集団的無意識、普遍的無意識)があるとし、無意識内の心的過程に対処する共通した表現様式を元型と呼んだ。

外的態度の元型をペルソナ、内的態度の元型をアニマ、アニムス、とし、それらは相補的に働くという。

男性のペルソナは、男らしく論理的であるが、アニマは弱々しく非論理的であるといい(ユングの時代の話です。)、これが心像としては女性像になって現れるという。???

医学では、相補性をどのように用いているかはよくは知らない。

我々は皮膚の血行を研究する中で相補性みられという概念を見つけ、それを補完関係にあるとして、指摘してきた。

皮膚への血行は、基本的には筋肉の栄養血管が筋膜を貫いて皮膚に流入するが、筋肉を貫いて皮膚に行く枝と、筋肉のヘリを回り込んで皮膚に行く枝がある。

片方が太いともう片方は細く、互いに補完し合って皮膚への血行をまかなっている。

解剖書には記載がないほどの細い血管で、どうでもよいようなものであるが、形成外科学の臨床ではこの種の血管の発見は、皮弁再建術に大きな変化、進歩をもたらしたのである。

どのような場合にどちらが優位になるかは、つかんでいないが、血行の平衡が関係しているのではないかと思われる。

このように相補性という概念は、物質の根本から、心の働き、血行の仕組みに共通する概念であるが、おそらく、もっと広い学問領域、自然、社会現象に見られる概念ではないかと推測する。

勝手な思い込みではあるが、動的平衡と並ぶ生命、宇宙の摂理を語るキーワード、原理の一つではないかと思う。

日常社会でも相補性は卑近にみられる現象である。

恋人同士、夫婦でも、似たもの同士よりは、無いものを補い合う関係のほうが、上手く行き長続きするのではないだろうか。

近頃テレビ界の大物タレントが失脚しましたが、(ご縁で彼夫婦を存じ上げていたのですが)彼を知る誰もが、あの細君が健在であれば、こんな事態にはならなかっただろうに、というのが大方の意見の一致するところであったと思います。

それほど相補性の見本のようなご夫婦でした。

自戒を込めて、男女の関係を例に挙げ、相補性の意義を提案してみました。

カモメは異端か?

チェーホフの「カモメ」が、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人です。)の演出でシスカンパニーが上演したので、シアターコクーンにまた行った。例によって群馬の銘酒、水芭蕉とオツナ寿司を差し入れで持って。

そのせいかどうかはわかりませんが、お蔭で、いつも10列前後の中央通路側の特等席を頂ける。
俳優も良かった。ニーナ(主役の恋人)は蒼井優で、アルカージナ(主役の母親)は大竹しのぶ、トリゴーリン(アルカジーナの愛人であり、ニーナを愛人にする)は野村萬斎であった。主役のトレープレフは生田斗真であり、どうもジャニーズ出身らしい。
蒼井優は、芝居を観る前から、コマーシャルなどで見て、実は個人的にファンであった。今風に鼻筋が通り過ぎていないところが好きなのである。
それにしても、いつもながら長いセリフをトチらずに良くも演じるものだと感心する。
舞台のフィナーレでは、『大切なのは、絶望の中でも耐え忍ぶことだ』、と言うようなチェーホフの決め台詞を言ったように思う。

この言葉は三河出身の身としては非常に良く分かる。(吉川英治の小説、徳川家康とか思想家、志賀重昴の三河健児の歌をご参照ください。)

カモメと言えば、“カモメのジョナサン”が1970年代始めに流行りましたね。孤高を貫くところなどは、どこまでもカッコいいのだが、結局、異端は追放されるという事でしたね。

白鳥は悲しからずや
空の青、海の青にもそまず漂う。

若山牧水のこの短歌も思い出深い。
確か中二の教科書に載っていて、国語の女性教師が、「あんたたちには未だ分からないだろうが、これは人生を自分らしく生きる事の孤独さを言っているんだよ。」と話してくれたことは、先生のメガネ顔と一緒に良く覚えている。
当時はその意味は良く分からなかったのだが、なぜかその短歌と先生の言葉だけは忘れることはなかった。
当時、先生は、二十代後半か三十代前半で、今にして思えば、中々行けた先生だったんだと、思う。付き合ったら、最近では中々お目にかかれない癒されるタイプだったのかもしれないなあ。もっとも、もう余裕で80代になっておられるだろうが。

中嶋みゆき作詞作曲で研ナオコが歌った、“カモメはカモメ”も、
変われない自分が、一人空(海)を行く孤独を歌っている。

カモメは、何処でも異端の孤独者として登場するのはなぜだろうか。

カモメは基本的には群れており、カラスの方が群れていないが、孤高を言うのにカモメであるのはなぜなのか、良く分からない。

人は外界に適応した態度、行動をとらないとうまく生きていけない、つまりペルソナを発達させ、変容させなければ摩擦が起き自分の能力すら、うまく発揮できないのである。

馴染まないものは異物であり、生物では免疫学的に抗原抗体反応で排除される。

これは人間社会でも同様である。異物は目障りであり、分かった風なことを言う輩でも、口先で何と言おうと、結局は排除しようと行動する。特に体制を自ら作った人間には、異端は体制破壊者に映り、耐えられないことなのだろう。

元々病原菌的な性質を持った小生は、今までの人生、各ステージで最後には異物になり果て排除されてきたのであるが、今日現在も、とうとう精神科医療の中でも、また現在の勤務先病院の体制の中でも異物になりつつある、というか異物として認知されたようである。

そうであるなら、この状況で何かを痕跡として残さないと、ただの異物、病原菌で終わってしまう。

それならそれでもかまわないのではあるが。

しかし、異物であり続けた故に、異物性を自分の中に取り込んで新たな自分を作り上げなければ、60代半ばで精神科に転科した意味はなくなってしまう。

自律機能主義を実証する意味でも、新しい自己を実現して行くしかないと、今は強く思うのである。

老いるという事

母親が齢、91歳を超え、アルツハイマー型認知症になり、
とうとう老人ホームに入ったとの知らせを受け、
7月の連休に愛知の田舎まで見舞い行った。

新東名高速を使って4時間で着いたのが、昼時であり、
兄夫婦が先に母親を迎えに行き、弟夫婦も一緒に合流し、
まず外で昼ご飯を食べる手筈になっていた。

久しぶりに会った母親は、
家人が母の日に送ったという帽子を目深にかぶり、
義姉に手を引かれており、実家に帰った時にいつも見せる、
ふくよかな満面の笑顔とは違い、ひとまわり小さくなった顔が、
僅かに微笑んで振り返ったのが、印象的であった。

母親は元来、健啖家であり、その日もウナギを息子たちと負けないくらい食べ安心させたが、ほとんど会話することはなかった。

その後、皆で老人ホームを訪ねた。

こぎれいな建物で、個室もまだ新しくきれいで、何もかも整頓されており、自分で作った刺繍の敷物があちこちに置かれ、実家の母親の部屋を彷彿とさせたが、なぜか冷蔵庫は置いて無かった。

聞くと、食べ物を自分で持つと傷んで、食中毒の原因になるから食べ物は自分では持てないのだという。

前日に、新宿伊勢丹地下で、少しづつ沢山の種類の菓子を目一杯買い、持って行ったのだが、無駄になった。

水も必要なだけは見図らって職員が飲ませてくれるから心配ないのだという。

小遣いを、使いやすいようにと、ピン札でない千円札にして用意して行ったのだが、現金はトラブルの元になるという事で、所持出来ないとのことで断られた。

欲しい時に、思うように水も飲めない、好きなもの一つも食べられない、
飴一つ、絵葉書一枚、買う自由もない生活である。

ホームというところは、きっと暮らす人間より管理する側の論理が優先するのだろう。

それに母親の性格からすると、自ら何かを要求することが出来ず、
何でも我慢してしまうに違いない。

僕の勤める精神病院でさえ、患者は支給される障害年金を所持金として持ち、自由に買い物が出来、皆メタボに悩んでいるというのにだ。

兄夫婦が先に帰り、家人が席を外して、母親と二人きりになった時に、
母親が、
“家にいた時も一人ぽっちだったから、ちっとも寂しくなんかないよ”と、自分に言いきかせるように二度つぶやいた。

兄は、父親がゼロから始めた事業で、それなりに残した資産管理を生業とし、何不自由ない生活をしながら、母親の面倒を仕事のようにして見てきたから、母親は世間の老人に比べれば、豊かな幸せな生活をついこの間までは送っていたものとばかり思っていたので、その言葉は意外で、胸に刺さった。

母親があの老人ホームの一人部屋で、日暮れていく中を、一人でじっと椅子に座りながら、ただひたすら時間の経つのを耐えるかのように、団らんの無い夕飯を待っている姿を想像するとたまらなくなる。

父親が亡くなって、もう30年になる。

母親はきっと早く父親のもとに行きたいのだろうと思う。

父親が脳卒中で倒れ、人工呼吸器が付けられ死を待っていた時、
ベッドの脇に座り、ずぅーと父親の腕をさすり続けていた姿を思い出すとそんな風に思えてならないのだ。

人が、生きていくという事は、つまるところ孤独との闘いなのだと思う。

そして、その闘いに疲れ果てて、人は認知症に逃げるのではないか、
ならば、いっそのこと、母親も、もっともっと病気が進行して認知機能がとことん落ちてしまえば、寂しさも感じなくなり、楽になるのではないか、とさえ思ってしまう。

僕に出来ることは、多分、毎朝、母親の部屋に行って、
何をするでもなく、部屋の隅にでも座り、
本でも読みながら夕方まで一緒に時間を過ごし、
じゃまた明日、と言って帰るような生活をしてやることだけだと思う。

そうしてやりたいと思う。

また、その方が一日中家にいて家人にうっとうしがられるよりずっとましではないか。

が、実際には何もしてやれない自分が現実であり、そのふがいなさが情けないと思う。

そんなことを空想する僕は、家人がいつも言うように、やはりマザコンなのでしょうか。

入院生活で思ったこと?その一

3月の中旬に体調を崩し、2週間ほどの入院騒ぎがあり、AF研究室のブログも更新できなくなっていましたが、今週からようやく復帰しましたので、また取り留めのないよもやま話でも書き綴ります。

入院生活というのは、基本することがなく天井を見ながら時の流れるのを待つという生活ですが、日頃は、目の前のこなし仕事に追われ、なかなかまとまった量の小説などは読めないものですので、この入院を利用して、かねてより読み残していた小説の幾つかを読むことができました。

その一つに、息子から勧められ、本ももらっていた百田尚樹著『海賊とよばれた男』があります。
ある時期の本屋の売り上げナンバーワンにもなっていた記憶があるベストセラーです。最近本屋大賞を受賞しました。

息子が感動?したというから、何に感動したかに興味もあり読み進めた訳ですが、意外なことに、明治の男が、国家と社会の為に、を第一義に民族派の石油産業(出光興産)を立ち上げる、ある種の精神主義に則ったビジネスサクセスストーリーともいえるものでもありました。ほんの10年ほど前、拝金主義ともいえる市場主義が時代の潮流になり、村上、堀江某氏等を政府が諸手を挙げて称賛した時代があり、まさにその中で多感な学生生活を送り就職戦線を潜り抜けてきた息子世代が、このような本をある種の感動を持って受け止めるとは思いもしませんでした。

そういえば、社会正義を問うマイケルサンデルの白熱教室も支持されていることを考えると、行き過ぎた功利主義、新資本主義に対して密かな疑義があり、現代社会の若い知識層の思想の波動は方向を変えつつあるのかも知れないと、学生時代に人の存在を社会や国家とのかかわりの中で、それなりに考えてきた我ら世代にはちょっとうれしく思えましたよ。

ちなみに、小泉純一郎氏が新市場主義を賛美し郵政民営化で、大博打の選挙をしたとき、圧倒的に支持したのも彼らでした。その時は日本の社会、政治にはもう展望はないと心底思ったものでしたよ。

世の中、実在も抽象も、すべて波動で成り立っており、その動きも変化も波動のように変遷するというのが私の信じて疑わないところですが、まさしく現在は時代の波動のカーブの変わり目なのかもしれません。

『お膳立てと受け売り宰相』の耐えられない軽さを憂う

ここでいう宰相とは、マスコミの下馬評によると、おそらく次期首相と目されている安倍晋三氏のことである。

この原稿は総選挙の前に書いていますが、ブログに出るのはおそらく
選挙の結果が出てからのことになるでしょうから、決定していることでしょう。

決定前にいろいろ言って、選挙妨害になってもいけませんが、終わっているならもう構わないでしょう。

安倍晋三氏がどんな人物で、これからどんなことをして行きそうかを、
直感的に、まさにラプラスの妄想的に占ってみようかと思います。

彼は、昭和の戦後政治の大立物,岸信介の娘婿である安倍晋太郎を
父に、そうそうたる政治家一族に生まれています。

政治家の跡目をとるべく期待され養育されたに違いありません。

ウェブで履歴を見てみると、学歴は成蹊の小中高とエスカレーターで
進み、大学もそのまま成蹊大学を卒業しています。

おそらく大学は一流(願わくは東大)を期待されたであろうが、ここでは
期待に添えなかったものと思われます。

よくあるように、おそらく学歴に花を添えるために留学しますが、
結局南カリフォルニア大学を一年足らずで中退して帰国します。

神戸製鋼に3年勤務(他人の飯を食べ)の後、父親の秘書になり、
父親の死亡後は跡目を継いで政治家になり、一貫してタカ派的な立場で行動してきています。

小泉政権のサプライズ人事で幹事長になり、第90代総理大臣になりますが、再組閣後の所信表明した直後に、潰瘍性大腸炎の悪化を理由に
政権を放り投げたことは皆さんよくご存知な経過です。

そしてその後も、臆面もなく色々発言し、再び自民党総裁に返り咲き、
今まさに政権の座につこうとしています。

挫折して、再び返り咲くことは少しも非難に値しませんが、彼の発言から、彼が自分自身で獲得したポリシーというか強い信念を見ることが出来ないことにその資質に不安を感じるのです。

発言内容が受け売り的で、コアのない、底の浅さが透けて見えます。

要するに今までの人生の大半をお膳立てと、受け売り的知識でやって来たであろうということから言えることは、自分自身で何かを成し得た経験がない(自分自身でしか出来ないところは出来ていない。)というままアイデンティティができていることであります。

のような経歴は麻生太郎、小泉純一郎、進次郎氏にもよくあてはまります。

かような人は、とかく強気な態度をとり虚勢を張り頑固であり、自信のなさから、周囲には安心できるお友達を取り巻きとしておくものです。

そして一番の問題は、国のためというより、歴史に名を残したい、という自分の名誉欲のために政治をするのが特徴的であることです。(小泉氏は郵政民営化の結果より、民営化をしたという事実にこだわった。阿部氏は憲法改正を言っている。)

要するに私は、彼には正常な自我の自律機能の獲得ができていないのではないかと疑うのです。

平時には、それでもいいであろうが、国難時に、重圧にさらされると耐える力がなく我慢できなくなり(要はレジりアンスが低い)、再び政権を放り投げ、我が国が危機的状況に曝され、日本の政治が再び混迷のスパイラルに入らないかを憂うのです。

さてさて、以上がラプラスの妄想で終わることを願うのみです。

もっと速く、もっと高くーそう鼓舞させるものは何か?

ロンドンオリンピックが終わり、日本はメダル数が史上最多となったそうで、
ご同慶の至りです。

選手たちも、同じように努力しメダル圏内と言われながらも、
手にした人と、出来なかった人では、空港の出口まで違うそうで、
選手たちは悲喜こもごもであろうかと思います。

選手の皆さん、とりわけ結果が出せず、メダリストが連日テレビでもてはやされるのを悔しい思いで見ているであろう皆さん、本当にお疲れ様でした。

陸上競技や水泳では100分の1秒を、トラック競技では1?をかけた、正に熾烈な
戦いが展開されました。人間にとって100分の1秒早く走り、泳ぐことに、1?高く
飛ぶことにどれだけの意味があるのか、不思議に思われる人もいるだろうと思う。

中学生の頃、尊敬する理科の教師が、授業中に、何の経緯かは忘れたが、
こんなことを言った。

「人間はどんなに速く走れてもチータには絶対かなわないだろう。どんなに速く泳げたとしても、イルカにはかなわないだろう。鳥より高く飛べる人間がいると思うか?
人間がどんな動物にも勝てることは知能しかない。知能こそが人間が磨くべく、努力するべき事である。」と。

僕は運動音痴で、足も遅かったし、水泳もクロールは上手く出来ず、50m泳ぐのがやっとだったので、その言葉には随分救われたような気がしたものだ。事実、人間は
頭脳を使って、どんな動物もかなわない時速300km超の車を創り出したし、(あのベンソンでさえ時速50kmまでは走れない。)飛行機も作った。しかし、なぜ人は、たった100分の1秒、1?のために血の滲むような努力が出来るのか不思議ではないか。
単に名誉と富のための功利主義だけか?また競技を見ていて、その姿には多くの
人が感動を受けてしまうのはなぜか?晴れの大舞台に至るまでの血を吐くような
精進、努力を想像するからか。同じような努力をしても、勝者がいれば、必ず敗者がいるという不条理に同調し涙するからか。

私はそこに人の本性でもある自律機能を見るのである。
たとえわずかでも高みに這い上がろうと必死に努力する姿に、人は自分の持っている自律機能の極限に近い形を見るから感動するのではないかと思う。
走るなら少しでも速く、飛ぶのなら少しでも高く、理解出来なければ理解しようと、
困難であるなら解決しようと、そうするのが人の姿として自然なのではないか。
事実、たとえ自分がそうしなくとも、必ず誰かがそうして来たではないか。
面倒な性と言えばその通りだが、それが人の持つ自律機能ではないかと思う。

また、自律機能は、謂わば、心の幹細胞システムの様なもので、普段は表に出ず
眠っているが、困難に直面したり、ストレスで心が損傷を受けると、眠りから醒め、
活性化し、ストレスに対応して修復的に作用し、肯定的に、向上的に人を支えてくれる。

そして身体の幹細胞と心の幹細胞システム・自律機能を触発的に上手く働くような
状態(謂わば励起状態)にするのが量子学で説明してきた、人の細胞の内外の
水分子の量子場の波動のリズミカルな秩序であると私は推測する。

波動の秩序、リズムの乱れは幹細胞や自律機能の発現を遅らせ弱体化させる。

プラチナコロイドは波動のリズム、秩序を保持し、励起状態にさせる事で、
あるいは、時に修復的に作用することで、これまで説明できなかった身体的、
精神的作用を示すのではないかと私は考えている。

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