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黄金連休は恒例の山荘開きに行ったー岡本太郎の「透明庵」と、老いては感謝のこころ

もうだいぶ前の話になってしまったが、今年も5月の連休は蓼科の山荘に小屋開きに行った。

小生は4月26日から5月8日まで12泊13日間、妻は後から電車で来て後半の7日間を滞在した。つまり前半の6日間は一人で、殆ど誰とも会わずに過ごしたことになる。食料は肉魚の生鮮食品は東京から持参し、野菜・果物や乳製品、飲み物は中央道・諏訪南インターから山荘までの途中にある原村の自由農園という地産地消型スーパーマーケットで買って山に登るから、滞在中は原則、自給自足で買い物に出ることも殆ど無い。従って一人でいる間は一言も口を利く必要もないという訳だ。

そこでこの大量の自由時間をどうするかだ。

エーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」ではないが、自由もあり過ぎると厄介なものにもなるらしい。

小生は、例年は、日頃集中できない大部作の本を持って行き一気の読破することにしていたが、今年は一日一冊見当の本を持参した。
しかしながら、今年は20数年ぶりというか、この山荘を入手して以来の大掃除をしたので、殆ど読書をせずに過ごした。元来、ここでの掃除、飯の支度は小生の仕事と決まった約束事であり、従って一人で掃除をするのに何ら違和感はないのである。

我が山荘暮らしにも今年は大きな変化があった。
初めてベッドを入れたのである。もう布団では寝起きが腰、膝に辛い歳になったのである。
丁度、息子が海外勤務から帰った時に持ち帰り、その後使わずに家においてあったキングサイズのマットレスがあったので、それを再利用しようと考えたのである。そこでベッドフレームをヤフオクで落札し、蓼科に着く翌日の配送にしておき、その次の日にマットレスが届く手配にしておいたが、いざセットしてみるとマットレスの厚さが想定したより厚く、高さが畳から70cm以上になってしまい、横になるのも容易ではなかったのである。考えあぐねた末、結局マットレスは東京に戻すことにしたのだが、キングサイズというのはシングル2個分で200cm四方となり、雨戸、ガラス戸、障子、襖を外さないと搬入出できないし、重さも100㎏近くあり、大変な作業が徒労になってしまった。
本当に宅急便(今回はヤマト家財宅急便)の人はよくやってくれました。このシステムを創業した小倉昌男氏と現場のスタッフにはただ感謝あるのみである。

そしてスマホで新しいマットレスを購入し事なきを得たのだが、信州の山奥に居ながらにして、必要なマットレスを注文し翌日にはそれが届くという社会の変化には改めて驚いたのである。
アップルのスティーブ・ジョブスとアマゾンのジョフ・べゾス、それにクロネコの小倉昌男の社会功績はノーベル賞に値すると思う。

ベッドを入れるのに、家具の移動や諸々の始末がいったのだが、その時に書棚にあった山崎省三著「回想の芸術家たち」をふと手にしたので読み直してみた。
思えば息子が中学二年の時に初めて親子二人でドライブ旅行に出かけ、北アルプスの立山室堂に行った帰りに、ここに寄ってみたのが、この山荘を手に入れるきっかけになった。当時私たちは伊豆函南町に終末ハウスを持っていたのだが、息子が「ここの方が落ち着くね」と言ったのをオーナーの山崎氏が聞き及び、その息子の言葉が決め手になって小生に譲る決心をされたと後日知った。
山崎氏は、当時「芸術新潮」の編集長を退いたばかりの頃で、少々健康を崩し、山での生活が困難になって来ており、茅葺の独特の美意識で作られた個性的な建物の後継者を探しておられたのである。

幾度か山荘やご自宅を訪ね、お話しを伺うと、山荘には幾多の芸術家が訪問し、その都度、襖に画や書を残されて行ったとのことで、実際に全部の襖には多種多様の襖絵が描かれていた。なかでもヘンテコな字で「透明庵」と書かれた襖があり、それは岡本太郎が、この山荘を初めて訪問した時に、山荘を命名して書いたものとのことであった。
岡本太郎は諏訪地方の伝説や古墳・埴輪が大変好きで、しばしば来ては長逗留したという。
彼が1996年に亡くなると、この襖の書?画?も青山の自宅、今の岡本太郎記念館に移され、現在も保管されているそうである。
山崎氏もこの山荘を小生に譲ってから数年後に鬼籍に入られたが、その直前に「回想の芸術家たち」という著書を上梓され、その中に岡本太郎との経緯が詳しく書かれている。

今は信州でおそらく一軒だけになった茅葺のこの古びた山荘は、もともとは「透明庵」という屋号のついた物語性に富んだ建物なのである。上の写真で太郎が座っている部屋の現在が下の写真である。

山崎氏はその後、日経新聞(2007.1.18)のコラム「交遊抄」で国立西洋美術館館長(当時)の建畠哲氏によって惜しまれ追悼された。偶然見つけ切り抜いて置いた。

小生の今年の山仕事は、ベッドの設置の他に、長年放ってあった暖炉周りの道具を囲炉裏近くの壁に取り付けたのと、入り口の御止の白樺の枝を新調したことであった。

この細い枝2本を切り出すのに、ヘミングウエイの「老人と海」の老人のように疲労困憊し精根尽き果ててしまい、今さらながら我が肉体の衰えに驚愕したのであった。

そんなカンやで6日間が過ぎ、準備万端整ったところに、妻は悠然と中央線茅野駅に降り立ったのである。小生は多少の人恋しさもあって、喜び勇んで迎えの車を飛ばし、後半の一週間が始まったのであるが、苦労して整えたベッドに布団が並べて敷かれることはなかったのである。
妻は布団を並べるどころか、同じ部屋に寝ることさえ拒否したのである。

それもこれも身から出た錆びというか小生の所業のせいであろうかと反省しつつも、我が身に憐憫の情を禁じえなかったのであるが、ふと永六輔の名言を思い出し心を鎮めたのであった。

永六輔曰く、
十代はセックスで夫婦、二十代は愛で夫婦、三十代は努力して夫婦、四十代は我慢の夫婦。五十代は諦めの夫婦。六十代はお互い感謝で夫婦。

つまり双方が感謝の境地に至らないと、60過ぎては熟年離婚も避けられぬ、ということなのか。

私が妻に心より感謝しているのは言うまでもないことでありますが、果たして妻がどう思っているかは、限りなく心もとないのであります。

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