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タカラヅカ公演『ひかりふる路』を観た。

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年に一度くらいは、家族サービスでタカラヅカ観劇に付きあう。もちろん東京の日比谷の劇場ではありますが。
この度は、雪組公演『ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロビスピエール』を観に行った。レヴュ-は『SUPER VOYAGER!―希望の海へー』であった。
雪組の新トップ男役の望海風斗、女役の真彩希帆のお披露目公演とのことであり、ファンには期待も大きかったようだ。
タカラヅカ公演のミュージカルで、ストーリーの持つ意味がどれ程重要性を持つかは分からないが、演出の生田大和は、ロビスピエールに歴史に登場しない架空の恋人を作り上げ、革命というものに内包するロマン性を上手く作り上げていたように思えた。
フランス革命は女性の存在なくしては成り立たなかった、と多くの研究者に言われるところであるが、生田には、おそらくジャコバン派の中心的革命家の一人マーラーを暗殺しジロンド派壊滅の道を開いた「暗殺の天使」と言われるシャルロット・コルデとロビスピエールを暗殺未遂したセシル・ルノーという、もともと市井の名も無い二人の女性がヒロイン、マリー・アンヌのモデルのイメージにあったのではないかと思われた。

 

家人は、宝塚でも他の演劇でも、観劇に行く場合は必ず予習をする生真面目さがあり、今回は安達正勝著「物語フランス革命」中公新書(1963)を読んでいたので、小生は公演後に、それを借りて読んだ。
というのも、ロビスピエールやダントンの名前くらいは、高校の世界史で習ってかろうじて覚えてはいたが、フランス革命の経緯をすっかり忘れていたし、そう言えば、世界史の教師がフランス革命のところはやけに力を入れて話していたことを、観劇後に思い出したからである。
「物語フランンス革命」は大変面白かった。革命はそもそも王政を打倒しようとするものではなく、最後はギロチンにかけられたルイ16世は実は大変生真面目な名君で、当初は革命の理念に理解を示していたことや、皮肉にも彼はギロチンの発明者であり、それも人道的な見地からの発明であったことなど、まさに物語として面白いエピソードが幾つも載っていた。

革命は時代の要請によって必然性を持って起きるが、実践するのはあくまで人間であるから、人間の本性が出るのか、その性から自由になれないのか、多くは似たような現象を呈し、経過をとるもののようだ。
フランス革命、ロシヤ革命、中国の一連の革命や金日成の北朝鮮においても、我が国の明治維新でも、小さくは日本赤軍の運動でも、共通した臭いのようなものがある。
始めは正義感からの崇高な理念、革命思想があるが、思想はやがて偏狭化し排他的になり、組織は内輪もめを起こし、同士討ちが始まる。行動はどんどん先鋭化し、狂気が理性を上回って行く。権力は独裁化し恐怖政治となり、人民のための革命は人民を弾圧し搾取し始めるのである。そして社会の秩序は乱れ、「九月虐殺事件」のような風評で偶発的なヒステリックな虐殺事件が起きるのである。
やがて革命はナポレオンのような新しい独裁者を迎えて終焉して行くが、革命というものは、例え無血革命と言えども少なからず血が伴い、無辜、無実の人々が多数犠牲になるのが常である。

理想や大義のためにはある程度の犠牲はやむをえないという考えも、犠牲を伴う大義は存在しないという考えも理があるが、どちらをとるかは、自分を犠牲者側に置くか、置かないかによって立場が決まるのだろう。

ロビスピエールは、共和制国家実現という理想のために「祖国を愛する、私欲を持たない、全体のために自己犠牲をいとわない」という「美徳」によって恐怖政治を正当化しようとしたが、自己犠牲を強いる側に居たのが自己矛盾であり、結局悲劇でもあった。

それでもフランス革命の意義は、高校の世界史の教師が力説したように、世界史上に燦然と輝くと思う。
「国民主権、三権分立、法の下での平等、思想宗教の自由」などの近代民主国家の根本原理はすべてフランス革命に依るものであり、その恩恵のもとで曲がりなりにも我々は民主主義の社会に居られるのである。

(話はずれるが、タカラズカと高校の繋がりで言うと、小生の出身校である名古屋の某男子校は「カズラカタ」という劇団を持っており、タカラズカ公演を模して同じ演目を一般公演しているそうである。美少年が多いせいか、中京地区ではご婦人の評判も高くプレミアチケットも入手困難と聞く。)

一方で革命は、理想と現実の狭間で多くの矛盾を包含して行く。
おそらく大義を唱える者というものは、それに伴う犠牲を自ら率先して負うことでしか大義の説得力を持たないのではないかと小生は思うが、どうだろうか。

例えば今、日本で戦争の出来る国の大義を言う者は、いざ戦争になれば、まず自分が、自分の息子が先陣を切って戦場に行くことを宣言し、原発再開の大義をいうものは、まず自分と家族が原発の所在地に住むことを宣言しなければ、本当には支持も信頼も得ないのではないだろうか。

タカラヅカは、公演を見せることで小生が思ったような面倒なことを考えるヒントを与えようとは決して意図してはいないだろうが、なぜかフランス革命を題材にした公演(「ベルサイユのバラ」「スカーレット・ビンバーネル」「1789」など)が多いし、またそれがヒットもするのである。
革命には、男女を問わず、精神の高揚、情念の発露を促し血を騒がすようなロマンを感じ取らせる何ものかがあるのかもしれないが、実はタカラヅカ公演自体が本来的に観客の心に何か残るものを期しているのかもしれない。

  

だからこそ、タカラヅカ公演が二部構成になっていて、終わりは華やかなレヴューでハッピーな気分にしてくれるのはそんな配慮かも知れない、と最近になって思うようになったのである。

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