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伊良湖岬から豊川稲荷をめぐる郷愁の旅

 昨年の暮れに息子夫婦が帰国した折に、3人で愛知県岡崎市の老人ホームにいる母親を訪ねて以来久方ぶりに、2月の祭日に見舞いに行った。東名高速で約4時間の道のりである。雨男には珍しく、梅でも咲こうかというような小春日和で快適なドライブになった。

東名富士川サービスエリアから

東名富士川サービスエリアから

 私も家人も木曜は休診日で私達には連休になったので、最近とみに噂の高い渥美半島伊良湖岬に近い田原市にある角上楼という宿で一泊することにした。岡崎~田原は約2時間の距離である。
 田原といえば幕末の烈士、渡辺崋山と、元優等生は反射的に思い出すが、あらためて調べてみると、歴史の教科書では幕末の蛮社の獄で捕まり切腹したことになっているが、実は、極貧のなか、生活に困窮して得意な絵を売ってしのいだことが幕府に問題にされ、それを潔しとせず切腹した様である。いずれにしても大変な秀才で努力家であったのは事実で、藩の中枢に昇りつめると、質素倹約の善政をしき、天保の大飢饉で一人の餓死者も出さなかったのは田原藩だけとなり幕府は田原藩を褒賞したというほどである。

渡辺崋山

渡辺崋山

ちなみに渡辺崋山は東京の麹町の生まれだそうである。前にも話したが、家康は防衛戦略上、紀尾井町、麹町近辺に三河の親藩大名の屋敷をおかせたので田原藩の屋敷もこの辺りにあり、崋山はそこで生まれたのである。紀尾井町の半住民である小生にはちょっと嬉しい話ではある。

近年の田原市は何の変哲もない貧しい田舎町であったが、最近はトヨタ自動車が進出して、有名な電照菊と共に財政を豊かにしているようである。
そのせいかどうかは知らないが、この田舎町に角上楼という全国区の有名旅館がある。
元は遊郭であったという粋な建物が旅館になっている。
テレビで紹介された話では、年間10組に満たない客数になってしまった20年ほど前に、困り果てた現在の主人が一念発起して河豚(フグ)料理で集客しようと戦略を立て、それが大当たりして現在の隆盛を築いたそうである。

角上楼

角上楼

全景

全景

ロビーの一画

ロビーの一画

二階の廊下

二階の廊下

中庭

中庭

 実は三河湾から遠州灘はフグの漁獲高は日本一で、当時は地元では食べずに全部下関港に行き、下関産として全国に流通していたそうである。その河豚に目を付けたのである。  
 思い出すに、そういえば子供の頃に、フグを食べたことはおろか、話すら聞いたことはなかった。三河湾でとれる良質な魚介は他にもいくつもあるが(例えば有名な蒲郡あさりをはじめ、こはだやサイ巻海老、シャコ,ミル貝、トリカイなどの鮨だねが特に多い)、ほとんどは築地直行になり、地元では口に入らないし、またそれを食べる文化も育っていないのである。

 さて角上楼であるが、地元の友人達の話では評判は今一つであったので、期待半分で訪問したのであるが、到着してみると、期待値が低かったこともあってか、予想以上の建物、設えで接遇も三河らしからぬあか抜けたものであった。私達の部屋は元遊郭らしさが忍ばれるベンガラ色の壁に網代風の天井の部屋にベッドが置かれ、バスルームは陶器のバスタブが部屋の中央におかれて、透明なガラスで出来た洗面ボウルというモダンな造りであった。

客間

客間

内風呂

内風呂

 料理はとらふぐコースを頼んだが、正直これは期待が高すぎたようであった。目についたものは、フグの八丁味噌煮と万古焼の土鍋位か。別注文の白子焼きに至っては、天ぷらにしたの?と思わず聞いてしまうほどであった。要するに、自慢するほどフグ料理に精通していないのである。一番の楽しみの最後の雑炊の出来も自分で作りたかったと思ったほどである。

白子の茶椀蒸しとフグの味噌煮

白子の茶椀蒸しとフグの味噌煮

万古焼の土鍋

万古焼の土鍋

 翌日は、いつもより早出にして伊良湖岬に行ってみた。ここは子供の頃には、遠い憧れの行楽地であり、小学校のバス旅行だの家族でのたまのお出かけの思い出の地でもある。
 愛知県で太平洋の大海原に面するのはこの渥美半島の外海だけなので、大きな波はここでしか見ることが出来ない。三河湾も伊勢湾も波は穏やかなのである。従って、台風ともなれば、押し寄せる高波を見に来る人も大勢いるのであるが、ちなみにわがオヤジ殿も野次馬の一人で、子供を乗せて車を飛ばして見物に来たものであった。当時の道路事情と車の性能であるから、ゆうに3時間近くかけて、はるばる来たのである。

伊良湖岬灯台

伊良湖岬灯台

恋路が浜

恋路が浜

 普段は白波と美しい浜辺が続く温暖な風光明媚な観光地であり、恋路ガ浜というロマンチックな名前と共に、島崎藤村の「椰子の実」の歌で有名である。ちなみに椰子の実は実際に流れ着くそうである。
 そういえば、道中では菜の花がすでに満開であった。

 伊良湖岬からは、豊橋に戻り、豊川稲荷に参詣して、昼ごはんは静岡県島田市にある日本一と信じる蕎麦屋、藪宮本で食べて東京へ戻るという欲ばりコースを予定した。

 どうでも良いことですが、渥美地方及び東三河の人びとは何故、あれほどまでに遵法精神が高いのでしょうか?40キロ制限の道路は、どんなに空いていても40キロ以上は出さないのですよ。
 そのおかげか、14:30ラストオーダーの蕎麦屋に間に合わなくなってしまいましたよ。

 さて豊川稲荷ですが、この寺は子供の頃には家族で月参りをしていたので、数えきれないほど来ていたのですが、今回来てみると、数十年ぶりとはいえ、まるで奈良の古寺を初めて訪ねたような気分でした。年を取るとは、かような体験の連続なのですよね。

豊川稲荷

豊川稲荷

本殿

本殿

 豊川稲荷の名物土産といえば、お稲荷さん、(別名稲荷寿司)だとお思いでしょうが、実は3大土産があります。‘虎の巻’いう芯に甘い飴棒が入った巻物状になったせんべい、’‘生姜糖’というのし状をした砂糖菓子、薄いウイロウを重ねたような‘生せんべい’である。どれも懐かしい味であり、今食べてもうまいと思うから不思議である。
 虎の巻だけは東京赤坂の豊川稲荷でも売っていますが、他は無いのが残念でならない。

 さて、さて今回の目的であった母親のことであるが、認知機能は行く度に衰え、益々老人化していく姿は、息子としては不憫でならないのであるが、当の母親には分からないのであるから、本当に不憫なのはどちらなのかは分からない。
 しかし、すっかり笑わなくなった寂しげな顔は、全ての事情を理解しているように思えてならない。老人ホームは体のいい姥捨て山であることを理解し、それを自分に納得させようと努力しているように見えてならないのである。
 朝焼いて持参したローストビーフと土産の子供用の童話のジグソーパズルを見た時、母親の眼が一瞬輝いたのを、はっきり見たからである。

 帰りに、こうして見舞いに来られるのはいつまでなのだろうかと、ふと思った。
 僕は生涯、財力を蓄えることに興味は無かったが、今となっては母親を手元に置いて面倒が見られるくらいの財力を持てなかったことを悔やんでいる。

 「親孝行したい時には、親はなし(、子は弱し?)」というではないですか、若い皆さんは「後悔先に立たず」ですよ。

 母親を見舞うためにも、僕ももう少しは頑張らねばと思わせてくれるのも、きっと母親の愛情なのでしょうね。
 それにはあと10年は運転免許証の返上はさせないで欲しい。
 、、、代わりに医師免許でよければ返上しますから。

 

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