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空耳妄言29:大相撲、高校無償化、ギャンブル依存症などについて

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

今年も、そして平成も終わろうとしているが、一体何を記憶し反省すべき年であったか、、間もなく10大ニュースが発表されるだろうから、それらが出そろったところで、小生の感慨も述べたいと思うが、今は昨今の話題について思った事を忘れないうちに、老人の妄言として述べておこうと思う。
むろん空耳のように聞き流していただく類のものである。

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*大相撲大関最高位の提案
日馬富士の暴行問題が膠着している。
問題の根に、八百長問題が関連するガチンコ相撲の是非や横綱の品格を問うなど相撲観に関する問題とモンゴル力士台頭に関する問題に対して、相撲協会内部ならびに広く相撲ファンの間に意見の違いがあるためではないかと思われる。
先に小生は、相撲は純粋スポーツとしての競技性を追求するのではなく、プロレスのようにエンターテイメント、興業としてやればよいと言ったが、そうまで割り切れない日本人は多いのではないかと思うから、古来からの神事とする伝統文化性と格闘技としてのスポーツ性の融合を図る方法を提案してみたいと思う。
格闘競技としてのスポーツとしては最高位を大関とし、大関の中で抜群の力量と人格・品格に富み相撲道精神を体現した大関が出現した時にのみ不定期的に横綱を置くという考えである。
その選考に当たっては、抜群の強さは必要条件にして、神事としての日本文化の伝統性を託するに足る人格、品性、カリスマ性を持つ日本人力士であることを十分条件にするのである。
白鵬は、優勝回数抜群でも相撲に品格が無いし、第一日本人ではないから横綱には不適格となるし、鶴竜や稀勢の里は抜群の強さに欠けるから横綱の条件を満たさない。

江戸、明治の初期までは大相撲の最高位は大関で、別格の大関が現れた時のみ横綱にし、神事を執り行わせたという歴史的事実がある。従って数十年も横綱が空位であったこともめずらしくはなかったし、いても単独であることが多かった。現在のように基本的に複数横綱が常在するというのは比較的近年になってからのようであり、多分に相撲人気をとるための興業的視点からの処置であるように思われる。

また相撲協会そのものにも組織変革が必要であろう。執行部理事となる親方衆はいわば軍人上がりの制服組であり、基本的に頭脳より筋肉派である。文民系の私服組を入れ、神事、伝統文化としての役割を果たす組織としてのバランスをとる必要があろう。横綱審査、選任に当っては、第三者機関としてスポーツ、文化両面から見識に長けた人物から成る組織を作り、それに当るのが良い。(現在の横綱審議会の間口を広め、また権限も強化する)ただし、そこでは江戸時代のような贔屓筋の権力が(強い大名をタニマチとする大関が横綱になった例も少なくはないようだ)介入、忖度されないようにする必要がある。

外国人を横綱資格から除外すると国際問題になるという意見があるかもしれないが、大相撲にグローバル化が果たして必要であろうか?柔道や空手のようにオリンピック種目になることを目指すのならともかく、相撲が神事であった伝統を重んじ、日本独自の伝統文化の一環として持続して行くのであるならば国際化の必要はないであろうし、スポーツ競技としての相撲の部分は外国人参加を大関を最高位とする条件付で認めるので十分ではないかと思う。

横綱はいわば国民栄誉賞のようなもので、選考には必ずしも公平性は担保されないが、そこには大きな不満は生じないであろうと思う。それは横綱は大きな金銭的な利権は伴わない名誉職のようなものと位置付けるからだ。

それでは大関が横綱の代わりになるだけだという意見もあるかもしれないが、しかし大関の上位に横綱というポジションが存在すると言うだけで、大関は自ずと自重するであろうし、日本人力士はさらに精進しようとするのではないかと思う。大関となった外国人力士の振る舞いが問題になる可能性があるが、それはスポーツとしてのルールを厳しく遵守させることで対応できる。横綱は日本人力士にとってプライド掛けたモチベーションになるのではないだろうか。

最後に、大相撲の利権が大きすぎるのも問題であろと思われる。今ほど相撲が金のなる木でなければ、外国人が大挙して入門することもなかったであろうし、相撲協会の内部紛争も熾烈にはならないのではないかと思う。勝てば金になる、というモチベーションだけでは相撲に品位を求める方が無理というものだ。
金銭的な夢はあってもいいが、欲・利が何よりも先に立つものではないという程度に構造改革が必要であろうと思う。

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*高校教育の無償化という国家衰退の大愚策
もともと動機は、ただ安倍政権延命のために解散総選挙をせんがためにとってつけた選挙公約の政策であったが、自公が勝って現実に実行するとなれば、その問題性を見逃してはなるまい。

全ての種子に、同じように水と肥料を与え育てるのが義務教育であるとすれば、中学までの9年間でほぼ必要最小限の教育目票は達成されてる筈であり、さらに栄養を与え続けるのが適正かの判断はそこでなされるべきであろう。義務教育の先も教育を受けるかどうかは個人の学力、資質と家庭環境の経済力に寄ることになるので、その経済力によって差が出るところを解消しようという趣旨は極めて分かり易い、ポピュリズム的政策であるが、高校の授業料が無償化となっても、授業料を越えた経済的理由で進学できない子もいるであろうから、そこでは格差、差別はさらに顕著になってしまう。ならば一層のこと高校は義務教育化した方が公平になる。つまり高校授業料無償化は義務教育延長の問題として考える必要があるが、果たしてその必要があるかは、余り議論されていないようにみうけられる。

しかしここではその是非の問題の前に、一方で大学を始めとする先端的教育研究機関の予算が削減され日本の科学研究力の低下が深刻になっている現実を問題にしたい。日本発の国際論文数は減少の一途であり、このままでは将来の科学分野のノーベル賞はおぼつかないだろうと言われている。

小泉内閣以来財政難の名目のもと、大学における研究の基本的資金となる大学運営費交付金は年々縮小され今や減額は10%を越え、大学院は出ても研究職につけない研究者難民は増える一方である。また目的別に配分される競争的研究費(科研費)は、短期的に実用化が可能な分野に集中的に配分され、基礎科学研究分野の研究室は存続もままならない状態にあるという。
ノーベル賞受賞者を始め多くの指導的立場の科学者達は、基礎研究こそが我が国のような科学立国の国家の基礎体力であると警鐘をならし訴えるが、安倍政権は逆の方向性を示している。そこでも現政権の忖度政治がまかり通り、スパコンの開発に膨大な不正資金が流れ、そこに安倍友の例の性犯罪疑惑のジャーナリスト山口某が絡んで利を貪るという構図が見えるのである。
一方で、ノーベル生理医学賞受賞した大隅良典は私費を投じて財団を作り、国から研究費のつかないユニークな基礎研究を私的に助成しているあり様である。
高校無償化が一概に悪いというのではないが、この様に重要不可欠な分野に投資しないで、一方ですべての高校を無償化しするという行政の投資対効果がみえない無策ぶりを問題にしているのである。
平たく率直に言えば、バカに金を投じてもどぶに捨てるようなものだということだ。
大學無償化の話もあるが、大學も、誰もかれもが行けばよいというものでもあるまい。奨学金を借りて、アルバイトが第一優先のような生活をして、一般教養の基礎となる本さえろくに読まず、偏差値の低い大学を卒業して本人も社会も何か得るものがあるのだろうか。結果、ロクな研究も教育もしない名ばかりの大学教授が巷に溢れることになっている。

日本ではエリートを積極的に育てようとしないのが、政治の貧困につながっていると思う。
国民の権利は当然平等であるが、人の能力も意識も教養レベルも階層化は避けようがない。
その上部層のリベラルアーツが低いのが日本の社会の未熟さの根本ではないかと思う。
現在の目を覆うばかりの政治の貧困さ、政治家の資質の低さはひとえに我が国の教育の失敗の結果であろう。そうして本来指導的立場に立つべきではない人物が政治を仕切るから、ますます教育を劣化させていくのだ。科学研究費の削減と全ての高校の授業料無償化は、国家の将来を見ない愚索の典型であろう。
教育立国を目指すと与野党とも言うのなら、限りある予算を、メリハリをつけて可能性のあるところに重点投資すべきなのは当然ではないだろうか。

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*IR法案に反対しない精神医学会に問う
安倍政権にまつわるスキャンダルが,森、加計問題から今またスパコン不正補助金問題、リニア新幹線建設談合問題と続く中で、安倍政権の本質的な犯罪性、日本の在り方を揺るがすような悪の本質が隠されてきたように思う。日本憲法の根幹を変える安保法制に続く周辺事態法やRI法案(統合型リゾート法案)の成立、施行が現実のもとになってきている。
IR法案は、博打に依存しなくとも国土と国民の清廉さでインバウンドを増化できるという日本国民の自信と誇りを踏みにじるものではないのか。IR法案成立の際、その弊害、副作用としていつも論じられてきたのが、ギャンブル依存症の増化の懸念であった。結局ギャンブル依存症対策に十分に配慮し予算をつけるということで、なんとなく決着したように見える。
それはまるで予算さえつければギャンブル依存症は防げるし治せるとするのを前提とした理解であるが、では具体的に有効なギャンブル依存症対策と何なのか?もともとそんなものがあるのか?

そんな有効な対策が無いことは、当事者の精神科医が一番良く知っているはずである。

ギャンブル依存症を防ぐにはギャンブル根絶しかないのである。医療者として本当にギャンブル依存症の不幸から救いたいと思うなら、新たなギャンブルの場を作らせないように動くのが精神医学会の当然の役割だと思うのだが、そのような動きは全く伝わって来ない。
もっとも今までにも、治せもしない精神疾患を治せるかのような幻想を与え、実際は精神障害者を管理することで膨大な医療福祉予算を食い物にしてきた精神科医達の集まりが精神医学会であるから、彼等がIR法案を精神医療の危機と取るか,好機と取るかは、今までの動きを見れば明らかであろう。
こうして、又しても膨大な税金が無駄な精神医療に費やされていくのだ。

つまり一言で言うなら、本心ではまずいと思いながらも己が利益のため黙する精神医学会の品性の問題に尽きるのである。

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