ホームへ戻る

空耳妄言28:平成を象徴するいくつかの事象について

空耳のように聞流してもよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

前回はこの欄で、大義なき総選挙で安倍自公政権が大勝しそうだが、それでいいのかと書いたが、結果その通りになってしまい、いささか虚脱感に襲われていたが、その後も世の中いろんなことが起きて、いつまでも嘆いているわけにもいかなくなった。
最近起きたいくつかについて老人の迷い言を述べてみたい。

*大相撲について
*横綱日馬富士の暴行問題は、未だ決着がついていないが、問題の本質を見にくくさせている一番の問題は、社会が相撲を変に神聖化していることにあるのではないかと思う。国技であるとか、本来は国家の豊穣を祈る神事であるとか言うが、法的に国技というものはないそうで、ホームグランドを国技館というからそれらしく聞こえまぎわらしいが、本当は国技館が相撲館、相撲アリーナ、両国アリーナであっても何の不都合もないらしい。今農業に携わる人で、横綱の土俵入りを見て今年の豊作を祈願する人はいないのではないか。
相撲もプロレスと同じような、一つの興業と考えれば、横綱に品格とか力士の道徳的理想像を求める必要もなくなる。第一、(高校野球も同じだが、)スポーツに精神性を求めるのが時代錯誤で、相撲も高校野球も、一皮剥けば金まみれではないか。
それに相撲が日本の神事であるなら、その最高執行者に外国人を置くのも変ではないか、相撲の力量とは別の選考基準があっても良いはずだと思うが、横審ではそんな議論はないものなのか、不思議である。

兎に角、相撲は純粋にスポーツとしての競技種目にするか、プロレスのように興業化するかしないと小生は思う。
今では、もはや現状を合理的に説明し続けることは出来ない状態に来てしまっている。

*政治責任不在の時代
安倍政権が、出鱈目な身勝手解散をしても、野党の無能のお蔭で大勝してしまったせいかもしれないが、今また森友問題で重要な決定的な問題が露呈しても、「それは部下が勝手にやったことだ、部下を信用するのは首相として当然のことだ」と、見事に安倍首相は開き直って、行政に公平性が失われた過ちの責任を回避している。
籠池氏と財務省理財局が、学校用地のタダ同然の売却交渉を事前にしていた証拠となる音声テープの存在を理財局が認めたことに対する安倍首相の返答である。
同じことを自分の友達のジャーナリストの準強姦事件もみ消しでも言うのであろうから、おそらく同様な政治の私物化マターは数限りなくあると思われる。
安倍政権が歪めた行政の安倍首相の最終責任は韓国の朴前大統領の比ではなく、訴追ものであることは自民党の重鎮、藤井裕氏も言っているくらいだ。
この国の政治の倫理観は平成で完全に失われてしまった。

*平成と言う時代の終焉
平成30年で終わることが決まった。5月には元号が変わり新しい時代が来る。
元号は履歴書などのように長い期間を跨いで時系列に述べる時には不便だが、大きく時代を俯瞰する時は便利である。明治、大正、昭和はそれぞれの時代を表象するイメージを持っている。現在では、よくノスタルジックに「昭和っぽい」とか言うが、アナログ的な「3丁目の夕日」的なイメージであろうか。
さてでは平成とはどんな時代であっただろうか。インターネットが社会の中心的なツールになり、すべてがデジタル化した時代とでも言えようか。そして情報がマスコミ(言語化されたコミュニケ―ションを通して)ではなくSNSに代表される匿名性のメディア(単なる媒体)を通して流布されるようになり、言葉の重みが著しく軽くなった時代とも言えよう。政治も同様で、言葉に責任を持たなくなり、嘘がまかり通るようになって、政治ばかりでなく大人の品性が失われた時代でもあった。
これらが昭和から平成で決定的に変わった特徴的な点であろう。
平成が歴史の大きなターニングポイントあるいは変曲点であることは間違いなかろうが、さて次の時代はどうなって行くのであろうか。小生には、もはや他人事ではあるが、多くの人にとって今より生き易い、住み易い社会がくるとは、どんなにポジティブに考えようとしても想像がつかないのである。

ログイン