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私の車遍歴-免許取得以前

私たちの世代は、日本が車社会にようやく入りつつある頃で、共に成長した世代である。

幼少時の記憶では車、と言っても殆どがトラックやオート三輪であったが、何だか荷台の一部に薪を積んでいたなあ(荷物とは別に)。だから車は薪で走るものと思っていた。

木炭自動車と言う名前もあったし?と言うことは、エンジンは蒸気機関だったのかあ?(当時から僕は既にメカ音痴の素因があったのだ。)なんせテレビですら、電気屋の店先か、金持ちの家に行って相撲やプロレスを見せてもらうのが精一杯の時代である。

自家用車なんてものは、知る限りではどの家にもなく、小学校2年の時に、日帰りの家族旅行で初めてハイヤーに乗せてもらい、興奮して絵日記を3枚も書いてしまったくらいである。

トヨペットクラウン

トヨペットクラウン


我が実家の車歴は、私が中2の時(昭和34年)にトヨペットクラウン(あのドアが観音開きのやつで、何年か前にトヨタがレプリカを記念販売したが、本気で買おうかと思ったくらい懐かしい)の中古が来たのが第一号である。

セドリック

セドリック

その後,親父が小金を稼いで、セドリックカスタムの黒いピカピカの新車を買い、“custom”の金色のエンブレムが誇らしげであったことよ。

 

 

ある日、舗装のしていない田舎道を砂塵を上げ走って、
今でいうBBQをしに行った記憶がある。
トランクに七輪と炭とウチワを入れて。

わが親父殿は中々モダンであったのだ。

ジャガーマーク?

ジャガーマーク?


その後、仏映画(多分、死刑台のエレヴェーター)でジャンギャバンがトレンチコートにソフトハットでかっこよく乗っていたジャガーマーク?や,アメ車のマーキュリーもあったことがある。

何代目かのセドリック(僕の高校時代)は無免許でよく乗り回し、事故っては、おまわり(さん)に捕まった。
当時無免許運転と飲酒運転は犯罪行為と言う社会通念は無く、事故でも起こさなけりゃ見つかることは無かったと言っていい。
見つかっても、口頭注意で済んだ時代であったのだ。

ついでに言えば、時代は飛ぶが、医者のフレッシュマン時代にこんなこともあった。

救急病院のバイト当直に行くと、まずは救急止めにして、院長のお伴でお酒を飲みに行く。

院長は路上に停め放題で梯子である。

ある時路駐した車を警察に持って行かれ、警察に電話すると、院長先生とは知らず失礼しました、
なんて署長が謝る始末である。

思い出すにつれ、実にいい先生であった。(自分で様子が変だと思って入院させてくれと大学病院の救急に行ったのに、帰したヤブの為に脳卒中で亡くなった)

当時の鉄火肌の人気女優(今も現役ですが)とお付き合いがあり、一緒に飲むと、いつも坊や扱いされたなあ、当時私は実に無垢であった。

私は深夜に病院に戻り、当直の開始である。

当時は医者の当直は皆泥酔していたものである。

内密だが、私のいた大学病院でもそうであったよ。

晴れて免許をとった頃は、大学に入っており、東京でまさに吉田拓郎や南こうせつの世界で、『神田川』を絵に描いたような、赤ちょうちんと銭湯に通う下宿生活をしていた。

車なんて全く縁がなかった。

ベレットGT

ベレットGT


たまに東京生まれの友人のいすゞベレットGTに乗せてもらうのが得意であった。
当時、車は最高の武器であり、IVYルックで友人とナンパを試みるのだが、上手くいった試しが無かった。

 

 

多分僕たちはKOigakubuというブランドにはおよそ不釣り合いな風貌をしており、VANジャケットが余りに不自然で、怪しまれたに違いない(その代わりゴールデン街でオネーサンにはもてた)。

今ならきっと上手くいっただろうに、40年程早過ぎたのだ。

夏休みに田舎に帰ると、兄が親に買ってもらったブルーバードハードトップを我が物顔に乗り回していた記憶がある。

長男はいいな、と羨ましく思ったものである。

大学を卒業して、初めて自分の車を持ったのだが、それが・・・・・。
[To be continued]

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