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中古セドリックで青山に暮らす。

さて、大学を卒業し形成外科に入局し、少し経つと、先輩が住んでいた青山の住まいを譲り受け、住むことになった。

ガレージ付きということでもあり、また青山3丁目から大学病院のある信濃町まで適当な交通手段が無く歩くには少し遠いという事もあり、オヤジのお古の車を貰い受け、まがりなりにもマイカーを持つことになった。

 

セドリックハードトップであった。

?当時は車は最新モデルに乗っていないと中古を買ったと思われる風潮があり、2年も3年も乗り続けるのは潔良しとしなかったのだ。

東京の車事情は知らなかったが、少なくとも田舎ではそうであった。

だからオーナー族は毎年のように買い変えねばならなかったし、また事実、車の耐久性も今とは比較にならないヒドイものだったよ。

特にタイヤは信じられないくらいパンクしたよ。

室内にいると日常的に花火の弾けるようなパーンという音が聞こえたものだ。

パンクの音だ。

車がステイタスであった懐かしい時代の事であるが、当時のオーナー族はその見栄の見返りで、年中慣らし運転をしていたわけである。

弱冠20代半ばで、青山3丁目にすむとはフトドキな奴と思われるだろうが、見ると聞くでは大違いで、実情は青山VANの裏辺りにあった、ある耳鼻科のクリニックで手術の助手と、術後の患者の面倒をみるという条件で、クリニックの3階に居候させてもらうというものだった。

当時の医者のなりたては、基本的に丁稚であり、無給だったので、背に腹は代えられなかったというところが真実なのだよ。

入院患者の病院食が賄いで付いており、現在のように病院と自宅を行き来するだけの生活なら、なかなか良い条件だったに違いない。

 

また当時は理解出来なかったが、その耳鼻科医院の院長は中耳炎の手術が得意で、今になって思えば側頭骨錐体部を削徐して静脈洞を露出させるという、現在の頭蓋底外科の先駆けの様なラディカルな手術をしていたような気がする。

当時の形成外科は毎日、植皮と瘢痕形成ばかりで、その手術の意味が理解できず、ただの耳鼻科の開業医としか見ておらず、院長先生、大変失礼申し上げました。

 

当時の私はと言えば、既に諦めつつはあるとはいえ、未だ若き血の燃ゆるものがあり 、夜な夜な青山墓地下辺り(キラー通りの延長線)を徘徊しておりました。

阿部譲二がやっていたバーとか、ピーナッツハウス、デザイナーの宇野明良のサイケ調な店などがあり、ちょっとアングラ風な雰囲気もありましたね。
当時の店で今も残っているのは水餃子と日本一麺の日月譚だけですよ。

その頃、近くのビルで爆弾テロがありました。

三菱重工ビル爆破事件です。

未だ70年安保、全共闘運動の余波が残っていた時代でした。

浅間山荘事件もこの頃でした。

この車にまつわる思い出はほとんどありません。

格好は良くないし、足車以外の何物でも無く、ガレージの出し入れに隣の文房具やの車がいつも邪魔していたくらいが思い出です。


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