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ラプラスの妄想

空耳妄言31:平昌オリンピック、婚約延期騒動について

空耳のように聞き流してよいが、誰かが呟いたほうがいいような話もある

①

*平昌オリンピックで思ったこと
韓国の平昌オリンピックは佳境を過ぎたようだが、日本勢は大活躍でいくつもの感動物語が生まれた。今回は、選手がひと一倍、真面目に求道的と言えるほどに努力したことに対して結果が付いて来たという感じが強く、またメダリスト達が周囲への心配りを忘れず、国民の共感と感動を深くしたのも特徴的であったように思う。
スピードスケートの小平奈緒選手は、大学で科学的ではあるが実験的なトレーニングを実践した学術的な成果でもあったし、所属が松本市の個人病院で、一開業医が見返り無しでスポンサーになって練習や遠征費用などを支え続けてきたことや、長年のライバルで、3連覇をかけ500メートル一本で臨んだ韓国のイ・サンファ選手が銀メダルに終わったことに対して示した気遣いや二人の態度の爽やかさなど、いい話がいっぱいあった。

一方で、今回ほどオリンピックが政治の舞台になったのも珍しい。
オリンピックがナチスなどに政治利用された歴史を反省し、政治からの中立性を強調するようになってきたが、オリンピック憲章には開催目的の一つに「平和に資するため」とあるから、平和へのきっかけになることを禁じているわけではない。だからこそサマランチ会長は急な北朝鮮の参加に積極的であった。
そして、平昌オリンピックをキッカケに韓国と北朝鮮の融和が急激に深まった。
昨今追い詰められた北朝鮮が日米韓の協調に楔を打って、米国の武力攻撃と制裁強化を回避するための時間稼ぎをしているだけだと、日米は韓国文大統領の態度にイライラを募らせている。もし北朝鮮が話し合いに応じ核開発を中止すると言ったところで、今までそうであったように、裏で核開発を進め、又騙されるに決まっているというわけだ。

確かにその見方の方が説得力があり正しいと思う。

しかし、日本が先頭を切って北朝鮮にさらに圧力を強め、アメリカが核態勢の見直し(NPR)で実践向けの小型核[戦術核]の開発配備を進めることを全面的に支持していくことが、本当に真の日本の国益になるか考えものだと思う。
なぜなら日本の国益の最優先は戦争回避のはずである。アメリカが軍事オプションをとれば日本国民の犠牲は数十万単位では済まないだろうというのが、世界の共通認識であるからだ。
韓国の北朝鮮融和策は甘いというかもしれないが、韓国と北朝鮮は同一民族であるから、戦争をしたくない気持ちは日本国民以上であろうことは、韓国と日本の立場を入れ替えてみれば想像もつく。
地政学的なバランスと同一民族内の争いは元々地平の違う話であるから、日米の都合を韓国に押し付けても無理があるのだ。裏切られても、裏切られても対話求めるうちに北朝鮮国民が気づき、動き出すのを待つというのもガンジーやマンデラの非暴力平和主義にも通じて可能性が全く無い話ではないのではないか。
歴史は暴力をもってして永続した平和・安定をもたらした例が無いことを教えている。

安倍政府の言う制裁強化、NPR支持、防衛軍備強化は、日本国民の命と平和な生活を守るためと大義もあり勇ましいので、支持も得やすいかもしれないがが、現状では戦争突入に最も近い道であり、そうなれば多くの国民が犠牲になるのである。
今私達は、殺されるのは決して他人ではなく、自分か自分の家族であるかもしれないと想像力を働かせてこの問題を考えるべきではないかと思う。

実は、日米が圧力を掛け続けるうちに、韓国が間を取り持って、突然、米国が北朝鮮と核装備容認・不使用で合意するというシナリオがないとも限らない。あるいは米国と韓国が出来レースをしていて日本が蚊帳の外に置かれているオプションも考えるべきではないかとも思う。それに中国が絡んでいる可能性も否定できない。かつて、ニクソン・キッシンジャーの頭越し米中和平もあった。
日本こそ、北朝鮮と米国の間に入って話し合い解決のリーダーシップをとるべき立場ではないか、それが一番我が国の国益になると思うが、安倍首相の頭にはそんなシナリオは全く描けないようである。

*皇族の結婚問題-眞子さま婚約延期騒動について
秋篠宮の長女眞子さまと小室圭さんの婚約が延期になった。週刊誌や裏チャンネルでは小室家の個人攻撃が凄まじいが、どこか違うような気がする。
皇室関係の意見は匿名性が担保されれば好き勝手に言いたい放題言うが、名前を出して意見を言う者は少なく、どこか卑怯さがぬぐいきれないと思う。

思うに皇族の結婚問題は、要はあくまで憲法が保証する個人の権利を重視する立場をとるか、皇族としての公人としての役割を重く見るかで違ってくるが、その片方に偏するからおかしくなるのである。
日本国憲法では、結婚はあくまで個人間の問題としているから、基本的には両親・家が、ましてや他人・社会が口をはさむ問題ではないが、天皇は日本国家、国民の象徴であるから、皇室・皇族はその一部を成し天皇を支える義務がある。天皇の象徴としての形に何を望むかは国民が決めることであるが、象徴に人としての高潔性、風格、品性、道徳性を求めるなら、皇族はそれに応えねばならないだろう。
そのために少なからぬ税が使われるのだから、秋篠宮が言うように、個人の自由意思を最優先してあくまで結婚を認めると言うのなら、一家で皇族を離れるしかないだろう。
さもなくば、長男悠仁親王が好きになった女性なら、それがどこの誰でも必然的に皇后になってしまうことになる。
今回の問題は、皇族の結婚相手が一般民間人なら、その出自の良し悪しの判断を、誰が何をもって正当に下せるかということである。例えば秋篠宮妃の00家、皇后の00家なら適正かと、最後は初めて民間人と結婚した天皇の問題に帰するのである。
天皇制の民主化と、象徴としての役割の両立は原理的に困難で難しいと思うからこそ、天皇制の維持には、天皇・皇族の象徴としての責任の自覚と努力、行政の支えが重要になると思うのである。
今回の婚約延期騒動の原因は、秋篠宮の皇族としての自覚の無さと、宮内庁の無責任さに尽きるのではないかと思うが、どうだろうか。
そのために(必要な時に必要な配慮がなされなかったために)、小室家は問題があるにしろ、必要以上に社会から誹謗中傷され迫害される犠牲者となってしまったように、小生には思えてしまうのである。

空耳妄言30:平成の終わりに逝った人たち

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある
①
*西部邁
あの独特な語り口の保守の論客として一目置かれていた西部邁が1月21日早朝、多摩川に入水自殺した。
60年安保闘争では東大全学連のリーダーであったが、翌年には決別して大学院に進み、その後、社会経済学の東大教授になったが、教員人事で教授会と対立して辞任し、その後はマスコミで活躍し、「朝まで生テレビ」で保守論客としての地位を固めた。
彼の独特な論法、言い回しからは、「君たちは社会とか人間の本質というものがわかっていないんだよ」という声がいつも聞こえていたような気がする。おそらく彼が転向した理由にも繋がるのだろうが、人間の社会的行動は合理的な面と不合理な面の二重性が本質であり、社会も『共同の企て』と「個的な企て」の二重構成であり、いわばユングの言うような相補性で成り立っており、その均衡をとって行くのが慣習や伝統であるとする考えが、彼の保守性の本質ではないかと小生は考える。
保守とはいえ、彼は反権力的で、ある意味でアナーキーな一面もあり、親米、利己的な保守知識層とは一線を隔していた。(おそらく竹中平蔵の類が大嫌いであったろうと思う)
彼は「人間が生きることの意味」を終生問い続け、その視点から社会、経済を論じていた様な気がするが、その生きることの最終章が「自栽」としての自殺ではなかったかと思う。

人は産まれる時は、100パーセント受動的であり、その後の人生もすべてを自分の意思で差配できるわけではない。せめて死ぬ時くらいは、誰の影響も受けずに自分の意思で死んで行きたいと思うのが、小生の人生観であるから、西部が自らの死を自ら裁くと言って死んで行った気持ちがよく理解できる。
救急隊が救命処置をしたらしいが、それはいらぬお節介というもので、彼が死を成就出来て本当に良かったと思っている。(合掌)
小生は、保守の中では例外的に西部は嫌いではなかったが、これでまた好感を強くしたのである。

②
*野中広務
自民党の元幹事長である野中広務が1月26日、92歳で大往生したが、今の政治状況ではこころ安らかにとはいかなかったであろう。
野中広務と言うと、自民党の重鎮であり国会議員生活も長かったと思っていたが、初当選は57歳と遅咲きで、町会議員、府会議員と地方議員時代が長く、所謂たたき上げの代議士である。自民党にありながら、徹底した反戦、憲法護持派であり、また権力の中枢にあっても弱者目線を忘れることはなかったが、その原点は自らの戦争体験にあると、しばしば語っている。
評論家の加藤周一や作家の野坂昭如や五木寛之の反戦思想もそうであるが、観念ではなく自らの血と汗と涙で覚えた体験は戦争観や国家観を大きく変え決定づけるものである。
我が国から戦争体験者が間もなく居なくなるが、彼等が歴史体験から教える教訓はわれわれ一般国民には明日の我が身の事でもあり、今日も将来も決して忘れてはならぬことであると思う。

③
*野村沙知代
野村克也元プロ野球選手・監督の沙知代夫人が1月10日に急逝した。
歯に衣着せぬ物言いで、何かと物議を醸す毒舌タレントでもあったが、オシドリ夫婦として知られていた。正直言って、趣味の悪い服装といい、余り知的とは言い難い生活スタイルから好きではなかったが、葬儀後の監督のコメントを聞いて、一種の共依存のようなこんな夫婦も捨てたものではないな、と思った。
「大事なことは女房が全部決めてくれた。ピンチになれば「何とかなるよ」と、いつも励ましてくれた。俺は女房の言う通りにやればすべて上手くいった。だからこれからどうすればよいか途方に暮れるばかりだよ」と、頬を伝わる涙を拭おうともせずに語った姿は印象的であった。
野村監督は、自らを月見草に、長嶋茂雄監督を向日葵に例えて対比していた。
その長嶋監督は誰も家族のいない大豪邸で一人脳梗塞で倒れ、運転手に助け出されたが、今も一緒に住む家族はいないという。
そう考えれば、野村夫妻は、本人の評価や世間評はともあれ、幸せであったに違いあるまいと思うのである。

  • ④
  • ⑤

*「白いバラ」
銀座で唯一の大衆キャバレー「白いバラ」が、86年間の営業を終え1月10日に店じまいをした。
これも平成の終わりを告げる訃報の一つと言えるだろう。
この寂しさは、通った人にしか分からないであろうと思うし、ましてや女房、子供には想像すらできない寂寥感である。
よく、本当に大事なものは、失ってから分かると言うが、もっと通っておけばよかったと今更のように悔やんでいるのは決して小生ばかりではない筈である。
⑥

年頭雑感

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毎年1月15,16日は世田谷のボロ市が立つ。昔の楽市楽座の名残とも言うが、現在は、骨董市というわけでもなく、フリーマーケットに毛が生えたようなガラクタや近在の商店がバーゲン品を屋台に並べたり、食べ物の縁日が並ぶ程度のものである。それでも最も寒い時期にもかかわらず老若男女の多くの人で賑わうのである。小生は暇を持て余し思い立って行ってみた。上町にほど近い所に住んで30年以上になるが、3度目のことであった。
   
狙いは「たくあん」ただ一つ。まだ家庭を持ってすぐのことであったから、40年程前になるが、当時住んでいた早稲田から遠征して、初めてのぼろ市でタクアンを買い、その味に病み付きになり、しばらくの間、その店から毎年取り寄せをしていたが、その後なんとなく縁切れになっていたのを思い出し、そのタクアンの味を探しに行ったのである。
漬物を扱う露店は容易に見つかり、以前と同じ店ではなかったが、懐かしい田舎たくあんの味であり満足して帰ったのである。

ぼろ市は庶民の一年の始まりを意識させる年頭行事なのであろう。
それもあってか、帰りの世田谷線の中で、今年はどんな年になるのだろうかとふと考えてみたりした。

昨年の暮れの話題はもっぱら、大相撲の日馬富士暴行事件、貴乃花と相撲協会確執問題ばかりであった。そして正月を明けても、変わらず大相撲と芸能人の不倫の話題ばかりである。
いまこの国は、朝から晩まで相撲や不倫にかまけていていいような状況なのだろうか。
本当は裏ではもっと大事なことが山積みなのではないのか、マスコミの目くらまし、誤誘導に乗ってはいけない。
われわれ国民が真剣に考えるべきことは国内外共に山ほどあるはずである。
ちょっと考えても問題があり過ぎて、上手く整理出来ない程である。

国際情勢からみてみると、
トランプの言うアメリカファーストとは、アメリカ国民が、もう他国ことに構っている余裕はないと自ら認めたことであり、アメリカの衰退を自認し始めたという証さでしかないのではないか。
トランプはアメリカファーストどころか、自己陣営ファースト、ミーファーストの視野の狭い男で、思い付きの出鱈目さが目に余っても大統領職に留まっていられるというのはアメリカ国民の知的劣化を示しているとも思えるのだ。
北朝鮮外交では金正恩に完全に手玉に取られているとしか言いようがない。核弾頭搭載のICBMによる米大陸攻撃が可能になるまでに最後に残されたこの今の時期がアメリカ本土防衛、北朝鮮殲滅の最後のチャンスと言われ、いよいよ北朝鮮攻撃が現実味を帯びてきた今、金正恩は韓国と融和作戦に出て米日との間を割こうとしている。平昌オリンピックに参加すれば、その間は攻撃は避けられ、その後の融和ムードで米朝の話し合い期待で時間稼ぎができる。金正恩は核ミサイルを放棄するつもりは微塵もないだろうから、もとより話し合いで解決できるとは思っておらず、ただ時間稼ぎをしている内に核弾頭大気圏再突入を可能にする技術を完成させようとしているだけのことなのだろう。
この間に経済制裁は続行されても、その効果は中々現れてこない。中露の裏での援助はさておいても、金正恩は国民が飢え苦しんで泥を食べようが死のが痛くも痒くもない感性であるから、経済制裁は北朝鮮国民の大半が死に、彼の口に何も入らなくなる時まで効果は出ないことになる。
それまでに中国、ロシヤが面倒を見てしまうだろうから、結局西側の経済制裁は金正恩には無効になるだろう。そうこうするうちに、核攻撃可能な技術を完成させ核保有国として揺るぎない塁保を築いてしまうのではないか。
アメリカ政府は、中国に金正恩政権を追放し政権交代をさせる戦略を第一選択肢で進めるべきであると思う。(金正恩は、それを先読みして兄の金正男を暗殺したが、それでひるむことなく進めるべき)

世界の地政図は、アメリカの衰退、中国の台頭を基本に大きく変わって行こうとしている。世界経済圏も一帯一路が様変わりを強いて行くのではないか。
世界の趨勢である自由貿易と温暖化ガス排出規制の流れに背を向けて、目先の自国利益を優先させるアメリカは、もはや世界の指導的立場を自ら放棄したに等しいように見える。そして再び覇権を奪還することはないであろう。
例えるならば、クラス一力持ちで優等性であった生徒がグレテ不良少年になったようなものだ。かつては他の生徒の信頼を集めクラスを統率していたが、今後は彼がクラスの統率力を維持することは出来なくなるだろう。そして再びリーダーシップを取り戻すことも無いであろう。リーダーシップとは腕力だけではないことは小中学生でも知っていることだからだ。
が、しかし、そんな不良少年の腰ぎんちゃくを決め込んだのが日本政府、安倍首相であるから始末が悪いことこの上ないのである。

国内情勢は何と言っても安倍首相の動向にかかっている。
何故この程度の人物が一強として権力のトップに居座り続けるのか不思議であるし、この男が一体何を考えこの国をどうしようとしているのか、全くもって、よく見えないのである。
「凡庸」の一言に尽きると言われて来たこの男の権力が、巷間言われるように、株価の上昇と小選挙区制の妙だけで支えられているとも思えないから不気味でさえあるのだ。当然、この男を操る参謀というか影法師の存在が予想されるが、それとてここまで自在に操る人物の存在が、ただの官僚上りの秘書官というのも説得力に欠けるものではないか。
かつて安倍首相の病跡学的分析をここでも試みたことがあるが、要は自分では何も深く思索するということはない人物なのではないか。時代は流れ、地政学的構図は変わりつつあるというのに、半世紀前の岸自民保守が戦後の日本を保守右傾化しようとして挫折した再軍備、憲法改定を今完遂しようとしているだけではないのか。動機は、それが日本国民、日本国のために良いという信念ではなく、尊敬もし自分のコンプレックスの元でもある祖父、岸信介元首相の出来なかったことを自分が成し遂げるという自己愛的な陶酔感でもあり、安倍晋三個人のコンプレックスを補って余りある自尊心・優越感に根差すものではないだろうか。
世界より国家、国家より自分の陣営、さらには個人的な家族・仲間を優先させるところはトランプにも似てシンパシ―を感じるのかアメリカ(トランプ)に盲従してしまうところは日本にとってはハイリスクに過ぎるのである。

社会はAIによる産業革命の時代に入ったと言われる。IT関連のもの作りでは世界をリードしながら、新興アジア諸国に敗れつつある中、自動運転ソフトやIOTやEVでは遅れをとりつつあるのは、先を読めない政府官邸・内閣府の国家戦略の失敗だろう。日本には慶応の坂村健が広めた「コンピュータがいつでもどこでも活躍する社会という、今でいうIOTに当るユビキタス思想」が世界に先駆けてマスコミに乗ったが、それを国家戦略にし支援することはなかったし、AIの行く末を支配する量子コンピュータの基礎研究費は削減してきた。一方で政府はスーパーコンピュータ開発援助60億を闇のうちに決定し、その大半を安倍友企業ペジーコンピューティングが不正流用すれば、当の開発研究者斎藤某は逮捕し、共犯の例の準強姦免罪、安倍友ジャーナリスト山口某は相変わらず家賃200万のホテル暮らしを野放しにするとい森加計問題の二の舞を演じてみせるのである。(加計は獣医学部認可を貰い派手にパーティを開き美酒を飲み、籠池夫妻は未だに暖房の無い独房留置のままであるという)
この自らが関わる不祥事を反省し改めるところのない国家トップの倫理観の無さこそが、今後のモラルハザード、社会荒廃の元凶になるであろうと危惧されるのである。
佐川国税庁長官人事も同様であるし、安倍友である中西次期経団連会長が社長の日立の原発輸出融資の国家保証(東芝の原発失敗による損失を税金で補う保証のようなもの)も安倍マターである。

一般国民は、特に青少年は、昔から思いの外、お上の立ち居振る舞いを良く見ているものである。これからインモラルな社会的な事件・事案が多発して来るのではないだろうか。

北朝鮮のミサイル発射を利用し、不気味な警報を鳴らして国民の危機感を煽りながら、国会の審議無しで国防予算を激増させ、アメリカの言うがままに高額な兵器購入を決めていく。
地球儀俯瞰外交と言いながら不必要な外遊を繰り返し、後進国への千億単位の資金援助は、安倍首相がいい顔したいだけのお土産だが、一体総額幾らになったか報じられることはなく、その片方で福祉予算は減額の一方であり、また国家の基礎体力と言われる科学基礎研究の研究費は削減され日本の科学力は衰退の一途である。

米・北朝鮮戦争になれば日本国民数十万、数百万の犠牲は必須と言われながらも、アメリカの北朝鮮攻撃をどの国より積極的に支持する、国民の命は常に二の次の政治姿勢しかり、森加計、スパコン、リニア談合に垣間見えるやりたい放題の政治の私的利用しかりである。
それでも選挙では大勝してしまう選挙制度と国民民度。希望の党の顛末をはじめ、今また統一会派結成でもめる野党各党のだらしなさに改善の兆しは全く見えてこない。

考えると今年も明るい材料は内外どこを探しても見あたらないと暗澹たる気持ちになったのである。

何もしない―今年の正月休み

今年の正月程何もしないで過ごした正月はなかったかもしれない。
形成外科医であった頃は、正月も自宅に帰れず入院中の患者は必ずいたし、ともすれば正月に様態が悪くなることも少なくはなかった。消化器外科や脳外科に居た頃は、暮れ、正月の緊急手術も珍しいことではなかった。今思えば、正月でも一人で病院に居なくてはならない切ない心理状態が身体症状に出て医者や家族を呼び寄せていたのかもしれないと思えるが、とにかく病院から遠く離れることは出来なかった。
精神病院に勤務していた頃は、帰宅するところのない入院患者は沢山いたから病棟で正月行事をやらねばならず、必然的に新米精神科医は顔を出すことになる。
メンタルクリニックを開業してからは、患者に振り回されることはなくなったが、それでもスタッフの補充に気をもんだり、ホームページの改変原稿を書くなど、何かと暇はとれなかった。
今年は、昨年の11月に自分のクリニックは閉じたので、事務的な気苦労や雑務は一切なくなり、おそらく学生時代以来の『ネバならない仕事」の無い正月になった。

1

朝目が覚めるとベッド脇のカーテンを開け、朝の明るい日差しを浴び、しばらくまどろむ。暖かい布団の温もりを楽しんでから、おもむろに起き上がり台所に行き朝ごはんを食べる。
さすがに元旦はおせちであったが、大抵はシリアルかトースト半分にサラダと卵とフルーツ少々である。ミルクティが多いが、最近は遅まきながらコーヒーの味を覚えてコーヒーを飲むこともある。

ベッドに戻ってテレビのチャンネルを動かし面白そうな番組を探し気が向く番組があれば見るが、たいていは無いのでユーチューブかネットオークションで暇つぶしをすることになる。
例年ならまとめて読書をするが、今年はそれもせず、唯一読んだ本は友里征耶TOMOSATO Yuyaというグルメ評論家の本であった。

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「シェフ板長を斬る悪口雑言集Ⅰ、Ⅱ」「グルメバトル」「絶品レストラン」「ガチミシュラン」「グルメの嘘」「堕落のグルメ」などである。
最初に読んだきっかけは、彼のブログで、クリスマスに鹿とイノシシのローストを取り寄せた「比良山荘」と、暮れに行った静岡の天ぷら屋「成生」がベスト店として取り上げられていたことであった。
その評論の辛辣さというか毒舌ぶりは腑に落ちるところも多く痛快でさえあった。

トモサト氏は、本業は機械商社のオーナー社長で、原則自腹で覆面取材するというグルメ評論は副業であるとしている。舌鋒はマスコミに良く露出する有名シェフ、板長・店に厳しいので、時に訴訟沙汰になるが、本業があるせいか、ひるむところが無い。
それに、知っている人物(シェフ、料理長)や店の悪口というのは読んで面白いものである。

彼の著作(と言っても10年位前のものになるが)の殆どを読んで理解した彼の主張は、ごく簡単に言えば3点であった。
一つは、「性格の悪い(客を客とも思わない自分本位の経営優先の)シェフ・料理長の店に美味いものはない。」外食は味もそうだがコストパフォーマンスも大事で、従って「地代の高い新開発の高層ビルに良い店は在りえない。」二つ目に、日本にはグルメジャーナリズムは存在しない(ミシュランを含む)。「すべての評論家、フードジャーナリスト、グルメ本出版社はすべて、シェフ・料理長や経営者と馴れあっており客観的な正当な批評はなされていない。」3つ目は、「にわか成金、文化人気取りの自称グルメセレブ、食通をバカにし忌み嫌っている」こと、である。(味音痴で、所作も醜いという)

そして彼の批評の特徴はワインの設えに重きがあることである。彼は日本ソムリエ協会の認定ソムリエでもあり、相当のワインラバーである。
彼は、グルメ批評というのは、批評家が自分と趣味趣向が合っているかが大事で、批評に客観性はないと言っている。つまり食事にワインなどアルコール類を重要視しない、あるいは下戸が酒好きの料理の好みと一緒であるはずがないといい、酒を飲まない一般人が自分の評価と違って当然であるとしながら、高級ワインを何本も抜く自分の取材スタイルのいわば自己弁護をしているようにも見える。

例えば、彼が忌み嫌う利益追求型、経営優先の多店舗展開型の代表でもある「ひらまつ」の評価は意外に低くはない。何故なら「ひらまつ」はワインの品ぞろえの豊富さと高級ワインの値付けの安さが彼の評価を甘くしているとしか小生には思えないのである。

彼はプロの批評家が一回きりの訪問で、あるいはランチしか食べないで批評することを批判し、自分では最低でも2回はディナーを食べているとしているが、それも一食10万に達するような超高級店でも臆せず自腹で通うが、誰にでも出来ることではないだろう。

またソムリエに気に入られる(舐められない)ためには、それなりの服装、装飾品を身につけ(金を使う金持ちが好きである)、ヴィジュアル的に優れた女子を同伴し(日本一有名な例のソムリエを始めソムリエは女好きが多いらしい)、高級ワインを抜く(ソムリエのプライドを満たしつつ儲けさせてくれる)ことであるという。

従って、トモサト氏の辛口批評は正鵠を得ていることが多いと思うが、食に対する立ち位置が一般人とは違い、彼が自薦するような、「一般人の、一般人による、一般人のためのグルメ批評」とはいかないようだ。

3

それにしても正月休み期間にもかかわらず、一冊の本を運んでくれたアマゾンならびにクロネコヤマトのみなさんに感謝しつつ、今年も平穏であることを願いつつこの原稿を終わることにします。

空耳妄言29:大相撲、高校無償化、ギャンブル依存症などについて

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

今年も、そして平成も終わろうとしているが、一体何を記憶し反省すべき年であったか、、間もなく10大ニュースが発表されるだろうから、それらが出そろったところで、小生の感慨も述べたいと思うが、今は昨今の話題について思った事を忘れないうちに、老人の妄言として述べておこうと思う。
むろん空耳のように聞き流していただく類のものである。

2017_12_19_1
*大相撲大関最高位の提案
日馬富士の暴行問題が膠着している。
問題の根に、八百長問題が関連するガチンコ相撲の是非や横綱の品格を問うなど相撲観に関する問題とモンゴル力士台頭に関する問題に対して、相撲協会内部ならびに広く相撲ファンの間に意見の違いがあるためではないかと思われる。
先に小生は、相撲は純粋スポーツとしての競技性を追求するのではなく、プロレスのようにエンターテイメント、興業としてやればよいと言ったが、そうまで割り切れない日本人は多いのではないかと思うから、古来からの神事とする伝統文化性と格闘技としてのスポーツ性の融合を図る方法を提案してみたいと思う。
格闘競技としてのスポーツとしては最高位を大関とし、大関の中で抜群の力量と人格・品格に富み相撲道精神を体現した大関が出現した時にのみ不定期的に横綱を置くという考えである。
その選考に当たっては、抜群の強さは必要条件にして、神事としての日本文化の伝統性を託するに足る人格、品性、カリスマ性を持つ日本人力士であることを十分条件にするのである。
白鵬は、優勝回数抜群でも相撲に品格が無いし、第一日本人ではないから横綱には不適格となるし、鶴竜や稀勢の里は抜群の強さに欠けるから横綱の条件を満たさない。

江戸、明治の初期までは大相撲の最高位は大関で、別格の大関が現れた時のみ横綱にし、神事を執り行わせたという歴史的事実がある。従って数十年も横綱が空位であったこともめずらしくはなかったし、いても単独であることが多かった。現在のように基本的に複数横綱が常在するというのは比較的近年になってからのようであり、多分に相撲人気をとるための興業的視点からの処置であるように思われる。

また相撲協会そのものにも組織変革が必要であろう。執行部理事となる親方衆はいわば軍人上がりの制服組であり、基本的に頭脳より筋肉派である。文民系の私服組を入れ、神事、伝統文化としての役割を果たす組織としてのバランスをとる必要があろう。横綱審査、選任に当っては、第三者機関としてスポーツ、文化両面から見識に長けた人物から成る組織を作り、それに当るのが良い。(現在の横綱審議会の間口を広め、また権限も強化する)ただし、そこでは江戸時代のような贔屓筋の権力が(強い大名をタニマチとする大関が横綱になった例も少なくはないようだ)介入、忖度されないようにする必要がある。

外国人を横綱資格から除外すると国際問題になるという意見があるかもしれないが、大相撲にグローバル化が果たして必要であろうか?柔道や空手のようにオリンピック種目になることを目指すのならともかく、相撲が神事であった伝統を重んじ、日本独自の伝統文化の一環として持続して行くのであるならば国際化の必要はないであろうし、スポーツ競技としての相撲の部分は外国人参加を大関を最高位とする条件付で認めるので十分ではないかと思う。

横綱はいわば国民栄誉賞のようなもので、選考には必ずしも公平性は担保されないが、そこには大きな不満は生じないであろうと思う。それは横綱は大きな金銭的な利権は伴わない名誉職のようなものと位置付けるからだ。

それでは大関が横綱の代わりになるだけだという意見もあるかもしれないが、しかし大関の上位に横綱というポジションが存在すると言うだけで、大関は自ずと自重するであろうし、日本人力士はさらに精進しようとするのではないかと思う。大関となった外国人力士の振る舞いが問題になる可能性があるが、それはスポーツとしてのルールを厳しく遵守させることで対応できる。横綱は日本人力士にとってプライド掛けたモチベーションになるのではないだろうか。

最後に、大相撲の利権が大きすぎるのも問題であろと思われる。今ほど相撲が金のなる木でなければ、外国人が大挙して入門することもなかったであろうし、相撲協会の内部紛争も熾烈にはならないのではないかと思う。勝てば金になる、というモチベーションだけでは相撲に品位を求める方が無理というものだ。
金銭的な夢はあってもいいが、欲・利が何よりも先に立つものではないという程度に構造改革が必要であろうと思う。

2017_12_19_2
*高校教育の無償化という国家衰退の大愚策
もともと動機は、ただ安倍政権延命のために解散総選挙をせんがためにとってつけた選挙公約の政策であったが、自公が勝って現実に実行するとなれば、その問題性を見逃してはなるまい。

全ての種子に、同じように水と肥料を与え育てるのが義務教育であるとすれば、中学までの9年間でほぼ必要最小限の教育目票は達成されてる筈であり、さらに栄養を与え続けるのが適正かの判断はそこでなされるべきであろう。義務教育の先も教育を受けるかどうかは個人の学力、資質と家庭環境の経済力に寄ることになるので、その経済力によって差が出るところを解消しようという趣旨は極めて分かり易い、ポピュリズム的政策であるが、高校の授業料が無償化となっても、授業料を越えた経済的理由で進学できない子もいるであろうから、そこでは格差、差別はさらに顕著になってしまう。ならば一層のこと高校は義務教育化した方が公平になる。つまり高校授業料無償化は義務教育延長の問題として考える必要があるが、果たしてその必要があるかは、余り議論されていないようにみうけられる。

しかしここではその是非の問題の前に、一方で大学を始めとする先端的教育研究機関の予算が削減され日本の科学研究力の低下が深刻になっている現実を問題にしたい。日本発の国際論文数は減少の一途であり、このままでは将来の科学分野のノーベル賞はおぼつかないだろうと言われている。

小泉内閣以来財政難の名目のもと、大学における研究の基本的資金となる大学運営費交付金は年々縮小され今や減額は10%を越え、大学院は出ても研究職につけない研究者難民は増える一方である。また目的別に配分される競争的研究費(科研費)は、短期的に実用化が可能な分野に集中的に配分され、基礎科学研究分野の研究室は存続もままならない状態にあるという。
ノーベル賞受賞者を始め多くの指導的立場の科学者達は、基礎研究こそが我が国のような科学立国の国家の基礎体力であると警鐘をならし訴えるが、安倍政権は逆の方向性を示している。そこでも現政権の忖度政治がまかり通り、スパコンの開発に膨大な不正資金が流れ、そこに安倍友の例の性犯罪疑惑のジャーナリスト山口某が絡んで利を貪るという構図が見えるのである。
一方で、ノーベル生理医学賞受賞した大隅良典は私費を投じて財団を作り、国から研究費のつかないユニークな基礎研究を私的に助成しているあり様である。
高校無償化が一概に悪いというのではないが、この様に重要不可欠な分野に投資しないで、一方ですべての高校を無償化しするという行政の投資対効果がみえない無策ぶりを問題にしているのである。
平たく率直に言えば、バカに金を投じてもどぶに捨てるようなものだということだ。
大學無償化の話もあるが、大學も、誰もかれもが行けばよいというものでもあるまい。奨学金を借りて、アルバイトが第一優先のような生活をして、一般教養の基礎となる本さえろくに読まず、偏差値の低い大学を卒業して本人も社会も何か得るものがあるのだろうか。結果、ロクな研究も教育もしない名ばかりの大学教授が巷に溢れることになっている。

日本ではエリートを積極的に育てようとしないのが、政治の貧困につながっていると思う。
国民の権利は当然平等であるが、人の能力も意識も教養レベルも階層化は避けようがない。
その上部層のリベラルアーツが低いのが日本の社会の未熟さの根本ではないかと思う。
現在の目を覆うばかりの政治の貧困さ、政治家の資質の低さはひとえに我が国の教育の失敗の結果であろう。そうして本来指導的立場に立つべきではない人物が政治を仕切るから、ますます教育を劣化させていくのだ。科学研究費の削減と全ての高校の授業料無償化は、国家の将来を見ない愚索の典型であろう。
教育立国を目指すと与野党とも言うのなら、限りある予算を、メリハリをつけて可能性のあるところに重点投資すべきなのは当然ではないだろうか。

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*IR法案に反対しない精神医学会に問う
安倍政権にまつわるスキャンダルが,森、加計問題から今またスパコン不正補助金問題、リニア新幹線建設談合問題と続く中で、安倍政権の本質的な犯罪性、日本の在り方を揺るがすような悪の本質が隠されてきたように思う。日本憲法の根幹を変える安保法制に続く周辺事態法やRI法案(統合型リゾート法案)の成立、施行が現実のもとになってきている。
IR法案は、博打に依存しなくとも国土と国民の清廉さでインバウンドを増化できるという日本国民の自信と誇りを踏みにじるものではないのか。IR法案成立の際、その弊害、副作用としていつも論じられてきたのが、ギャンブル依存症の増化の懸念であった。結局ギャンブル依存症対策に十分に配慮し予算をつけるということで、なんとなく決着したように見える。
それはまるで予算さえつければギャンブル依存症は防げるし治せるとするのを前提とした理解であるが、では具体的に有効なギャンブル依存症対策と何なのか?もともとそんなものがあるのか?

そんな有効な対策が無いことは、当事者の精神科医が一番良く知っているはずである。

ギャンブル依存症を防ぐにはギャンブル根絶しかないのである。医療者として本当にギャンブル依存症の不幸から救いたいと思うなら、新たなギャンブルの場を作らせないように動くのが精神医学会の当然の役割だと思うのだが、そのような動きは全く伝わって来ない。
もっとも今までにも、治せもしない精神疾患を治せるかのような幻想を与え、実際は精神障害者を管理することで膨大な医療福祉予算を食い物にしてきた精神科医達の集まりが精神医学会であるから、彼等がIR法案を精神医療の危機と取るか,好機と取るかは、今までの動きを見れば明らかであろう。
こうして、又しても膨大な税金が無駄な精神医療に費やされていくのだ。

つまり一言で言うなら、本心ではまずいと思いながらも己が利益のため黙する精神医学会の品性の問題に尽きるのである。

空耳妄言28:平成を象徴するいくつかの事象について

空耳のように聞流してもよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

前回はこの欄で、大義なき総選挙で安倍自公政権が大勝しそうだが、それでいいのかと書いたが、結果その通りになってしまい、いささか虚脱感に襲われていたが、その後も世の中いろんなことが起きて、いつまでも嘆いているわけにもいかなくなった。
最近起きたいくつかについて老人の迷い言を述べてみたい。

*大相撲について
*横綱日馬富士の暴行問題は、未だ決着がついていないが、問題の本質を見にくくさせている一番の問題は、社会が相撲を変に神聖化していることにあるのではないかと思う。国技であるとか、本来は国家の豊穣を祈る神事であるとか言うが、法的に国技というものはないそうで、ホームグランドを国技館というからそれらしく聞こえまぎわらしいが、本当は国技館が相撲館、相撲アリーナ、両国アリーナであっても何の不都合もないらしい。今農業に携わる人で、横綱の土俵入りを見て今年の豊作を祈願する人はいないのではないか。
相撲もプロレスと同じような、一つの興業と考えれば、横綱に品格とか力士の道徳的理想像を求める必要もなくなる。第一、(高校野球も同じだが、)スポーツに精神性を求めるのが時代錯誤で、相撲も高校野球も、一皮剥けば金まみれではないか。
それに相撲が日本の神事であるなら、その最高執行者に外国人を置くのも変ではないか、相撲の力量とは別の選考基準があっても良いはずだと思うが、横審ではそんな議論はないものなのか、不思議である。

兎に角、相撲は純粋にスポーツとしての競技種目にするか、プロレスのように興業化するかしないと小生は思う。
今では、もはや現状を合理的に説明し続けることは出来ない状態に来てしまっている。

*政治責任不在の時代
安倍政権が、出鱈目な身勝手解散をしても、野党の無能のお蔭で大勝してしまったせいかもしれないが、今また森友問題で重要な決定的な問題が露呈しても、「それは部下が勝手にやったことだ、部下を信用するのは首相として当然のことだ」と、見事に安倍首相は開き直って、行政に公平性が失われた過ちの責任を回避している。
籠池氏と財務省理財局が、学校用地のタダ同然の売却交渉を事前にしていた証拠となる音声テープの存在を理財局が認めたことに対する安倍首相の返答である。
同じことを自分の友達のジャーナリストの準強姦事件もみ消しでも言うのであろうから、おそらく同様な政治の私物化マターは数限りなくあると思われる。
安倍政権が歪めた行政の安倍首相の最終責任は韓国の朴前大統領の比ではなく、訴追ものであることは自民党の重鎮、藤井裕氏も言っているくらいだ。
この国の政治の倫理観は平成で完全に失われてしまった。

*平成と言う時代の終焉
平成30年で終わることが決まった。5月には元号が変わり新しい時代が来る。
元号は履歴書などのように長い期間を跨いで時系列に述べる時には不便だが、大きく時代を俯瞰する時は便利である。明治、大正、昭和はそれぞれの時代を表象するイメージを持っている。現在では、よくノスタルジックに「昭和っぽい」とか言うが、アナログ的な「3丁目の夕日」的なイメージであろうか。
さてでは平成とはどんな時代であっただろうか。インターネットが社会の中心的なツールになり、すべてがデジタル化した時代とでも言えようか。そして情報がマスコミ(言語化されたコミュニケ―ションを通して)ではなくSNSに代表される匿名性のメディア(単なる媒体)を通して流布されるようになり、言葉の重みが著しく軽くなった時代とも言えよう。政治も同様で、言葉に責任を持たなくなり、嘘がまかり通るようになって、政治ばかりでなく大人の品性が失われた時代でもあった。
これらが昭和から平成で決定的に変わった特徴的な点であろう。
平成が歴史の大きなターニングポイントあるいは変曲点であることは間違いなかろうが、さて次の時代はどうなって行くのであろうか。小生には、もはや他人事ではあるが、多くの人にとって今より生き易い、住み易い社会がくるとは、どんなにポジティブに考えようとしても想像がつかないのである。

空耳妄言27:カズオ・イシグロの「日の名残り」が教える品格こそが政治家選択の基準である―安倍にその品格があるか

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

カズオ・イシグロが本年度のノーベル文学賞を受賞して3週間が経った。くしくも日本では、安倍自公政権が究極の政治の私物化である自らの延命を図るだけの目的で解散した衆議院総選挙が行われようとしている。

小生には、このタイミングでのノーベル受賞は、カズオ・イシグロからの日本への何らかのメッセージであるような気がしてならなのだ。

代表作「日の名残り」を再読すると、過日NHKBSシネマで見た映画「The Remains of the day」の様々な重いシーンが蘇ってくる。そこでは英国の執事と言う職業人の心情を通して、人が生きていく上で大事なものが何かが語られている。物語にはいくつものメタファーが込められているが、大きなテーマは人の品性の重要性についてである。人間は社会生活をする中で、互いに専門領域が違えば、自分の領域以外では、何が良くて何が悪いか正確な判断は殆ど出来ないものだ。例えば国の命運がかかるような政治的判断は、一般国民には真に重要な情報や政治的な駆け引きの真実も知らされていないから現実的には的外れになることも少なくないかもしれない。しかし同時に判断を委ねる政治家についても、われわれが職業政治家でもなく、また日常的に近くで接してもいない政治家の人物の評価となると、これもまた正確にはほとんど出来ないことにもなる。

では、どの政治家が正義で、正義ではないかを我々一般国民が知るにはどうすればよいのか。何を基準に政治家を選べばよいのか。

イシグロによれば、それは職業、地位、年齢、時代を越えて判断基準となるものがあり、それは人としての品格であるという。

その人物に我々の命運を任せて良いかの判断は、彼の言葉ではなく、その人物の、行い、立ち居振る舞い、所作の品性と、それを醸し出す品格を見て判断するしかないのである。

最新の世論調査によれば、今この国は、次のような人物に引き続き国のかじ取りを託そうとしているようだ。

その人物は、昨日まで政治信条を共にしてきた自らの支援者を、今自分に不都合な存在になったからと言って、急に知らぬ存ぜぬと口裏を合わせ、やがては権力を忖度させ別件で逮捕させ口封じをし、未だ裁判で審判もされてもいないうちから、「彼は詐欺を働くような人物だから自分達夫婦は騙されたのだ」と公言し、我が身を守るのに汲々として恥じないのである。唖然とするが、これが我が国の行政の長の司法に対する理解である。

ただこの一件をもってしても、この人物の品性とはいかばかりのものかは自明であろう。このような人物を信頼してこの国のかじ取りを委ねて本当に良いのか。

それが明日我々に問われているのだ。

空耳妄言㉖:安倍自公政権をほんとうに存続させて良いのか?

空耳のように聞流してよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

最新の世論調査では自公は300議席を上回り、自民単独過半数も余裕の勢いだという。小池の希望の党の登場で民進・自由・社民・共産の野党共闘が崩れ、かつ小池の「さらさら、排除」「踏絵」と言う失言・失策と言うか、化けの皮が剥がれて本音が出てしまい、希望の党が失速したために自民が漁夫の利を得た形になったという。
本当にこのまま安倍・自民に勝たせてよいのか。
維新、希望が加われば2/3を超え憲法改正も現実問題になってくる。安倍の立憲民主主義無視、独裁的私物化政治が二期に渡って続いたこの期に及んで自公に勝たせる国民民度では国民投票も安倍の思惑通りの結果に終わるのではないか。

それにもまして、今自公に勝たせれば、安倍自公政権は前にもまして増長して驕り高ぶり傲慢なやりたい放題の政治を行うのは目に見えている。無論、森友、加計問題も信任を受けたと知らぬ顔で通すであろう。何をやっても大丈夫、所詮国民はこの程度と舐めきるであろう。

*安倍首相のこと
安倍は誰かの入れ智恵であろうが、「李下に冠を正さず」を反省の弁としてしばしば使うが、おそらくその真意を理解していないのであろう。
記者クラブやテレビの党首討論会などで「首相の関与はともかく、森友・加計問題が生じてしまった結果責任についてはどう思うか?」と問われると、「問題の本質は私と妻が直接関与したか、要請をしたかどうかであり、その証拠はどこにもないのであり、その意味では説明責任は十分に果たしている」と言うありさまである。要は直接指示の証拠さえなければ何の責任も生じないと言うのであり、李下に冠は正しても、瓜田に足を踏み入れても、直接証拠を残さねば責任を問えないでしょ、と言っているのである。安倍の倫理観、政治理念はこの程度であり、その程度の人物なのであるから反省の出来ようもないのである。
この間の党首討論で目立ったことは、安倍の自信なさげな落ち着かない姿であり、そして常に質問の本質をはぐらかし、長々と饒舌に自分に都合の良い話を述べる姿であった。その話し方は「いわゆる、つまり」など無意味な単語で水増しされたいつもの空虚な論調であった。おそらく安倍の参謀達は、彼の借り物の理論構築がいつ馬脚を現さないか気が気ではなっただろうと思う。
そんな安倍の無意味な無駄な発言にみすみすと長い時間を与え、安倍の見え透いた詭弁を制しない司会者の多いのにも驚いた。ニュースキャスターで、安倍の無駄口をさえぎって核心を問い直すような者は皆無であり、皆安倍に及び腰なのである。ここにも現政権のマスコミ・言論統制の効果が如実に現れているのであるが、さらに自公が圧勝の勢いとなれば、選挙戦後半はますますマスコミは自公の顔色を見ながらの報道になって行くことであろう。

*希望の小池代表について
ドラマチックな展開であったが故にその凋落もドラマチックであった。いずれにしても小池の保守でも右寄りタカ派の政治信条は早晩明らかになったであろうから、選挙前に支持を失速させたのは良かったのではないかと思う。
前にも言ったように、小池は安倍の代わりになって保守右翼の政権を担いたいだけであり、その目的完遂の戦略として都知事になり希望を立ち上げたに過ぎないから、所詮は保守右翼の中の権力闘争に過ぎないのである。
小池は安倍と共に日本会議の重要メンバーであるから、おそらくそこいらで安倍の思想性の浅さ、人間としての凡庸さと首相と言うポジションのギャップに理不尽さを感じていたのではないかと邪推できる。確かに遠くから見ても、小池の方がはるかに有能で非凡であることは誰にでも分かることであるから、小池がそう考えるのも無理からぬことであると、小生は思うのである。

*民進の前原と枝野のこと
前原が小池にまんまと嵌められたと思うのが自然な見方ではないかと思う。深読みすれば前原は相当な悪だが、おそらくお人よしの脇の甘い口先番長と言う世評が正しいのではないかと思う。もし小池の増長による失言が無ければ小池の本心が見抜けず、むざむざと民進の党費100億円が希望に乗っ取られるところであった。
枝野は小池の話に乗らず、節を曲げなかったとして人気急上昇のようである。理由はそればかりではなく、枝野の論旨明晰な論客としての優秀さと、福島原発事故の際に民主党幹事長として不眠不休で粉骨砕身して働いた責任感の強さ、人間性の高潔さが人々の記憶に残っているためであろうと思う。
希望がこけて、選挙後に参議院議員を中心に今また民進系議員の再結集の話があるという。
希望からの出戻り組を加えて民進党としての再結集では、およそ国民の理解は得られず、間違いなく自滅になるであろう。立憲民主は立ち位置を変えず頑張ってほしいと思う。

前に希望が出来た直後にも言ったが、結局は自民と維新、希望のタカ派が右翼保守政党を、自民と希望の俗にいうリベラル派が中道保守政党を、立憲民主と社民、市民連合がリベラル政党を、共産党系が革新政党の4極に落ち着くのではないかと思うし、2年後の参議院選挙までにはそうなって欲しいと思う。公明は成り立ちと政治姿勢から政党の一極として認めて良いかは微妙ではあるまいかと個人的には思うがどうだろう。

今間違いなく言えることは、思想信条がリベラルであろうがなかろうが、日本政治史上かつてない悪質な安倍自公政権の存続を許してはならないと考えるなら、今回の衆議院選挙では、自公に過半数を与えないように選挙行動を起こすべきであるということである。

空耳妄言㉕:「希望の党」は右翼保守としての政界再編の始まりか

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

とてもドラマチックな1週間であった。この間の政界の流れを大局的に過去、未来を見据えて正確に解説できる人は多くはないであろうから、ここは好き勝手に井戸端会議の延長で妄言を連ねてみようと思う。以下敬称略で。

この様に政局が動くと、必ず、日本の政治などアメリカの世界戦略、もっと言えば世界を牛耳る国際資本の大本、あるいは統一教会の操りでしかないという風な論説が出てくるが、それとて結局は、我々は局所的に現実的な対応をするしかないのだから、ピーチクパーチク騒いで抵抗するしかないのではないかと思う。

*小池の読み違い。
おそらく小池のシナリオはこんな風ではないかと思う。
「解散があったら即、新党を立ち上げ、民進党を壊してその多数を取り込み、自由党と自民の一部を取り込む。選挙後は維新、公明と組んで連立政権を立ち上げ首相になる。」
解散は予想外に早かったが、そのお蔭で、新党「希望の党」構想が事前に漏れず、劇的なインパクトが作れたし、細野が先兵として民進を離党し、希望に入党し民進の左派勢力切りの悪役を果たし、小池がとどめを刺して民進を瓦解させるのは小池と前原(あるいは小澤)のシナリオ通りに行ったが、小池が都知事を辞任して立候補する手順は、何かの読み違えをしたのだろう。小池が国会議員になって党首として、うまくいけば首相として国政に返り咲きたいのは火を見るより明らかであるから、都知事辞任のタイミングを狙っていたし、今もいるはずだ。
思うに、小池に対する世論の首相待望論の盛り上がりを期待しているのであろうが、未だその盛り上がりが来ないばかりか、都知事投げ出しの反発が予想以上に強いのが読み違えではなかったのか。それどころか「民進分断、切り捨て排除」の強権的な姿勢が世論の反発を招いていて、むしろ後退しつつあるのは小池の驕りでもあったのだろう。
大多数の国民は理性よりも、感情、情動で判断するものなのだ。
小池の知事辞職の弁明が世論の感情を凌駕出来るかが出馬表明のタイミングであろうが、果たして間に合うかが見ものである。
あるいは、もともと小池が知事に留まり、前原か松井を繋ぎで出すか、いきなり小澤が出てくるシナリオの可能性もある。
それにしても次期首班指名は公明党委員長の山口と言ったのは失敗だっただろう。選挙後は公明と組みたいと見え見えであったし、ましてや山口を一時でも首相にして国政を創価学会に任せたいと思う国民は学会員以外には皆無だろうと思うからだ。

*小池の自己矛盾
小池は解党した民進党議員の希望の党公認に当っては安保法制、憲法改正の理念の一致を求めて、選別、排除するというが、ではその選別の選考基準を明らかにしなければ、有権者は判断できないのではないか。小池の言う情報公開とはまさにそのことではないのか。未だに小池の安保法制、憲法改正の理念や見解は明白ではない。
小池は自分に有利な今のムード、風向きを壊したくないから、本心を隠しているようにしか見えないのだ。

*三都物語―地方分権と小池の国政進出の矛盾と懸念
東京、名古屋、大阪の東海道ベルト地帯の3大都市が地方分権の起爆になるという構想だが、その陰で霞んでしまうのが福島や沖縄ではないかと危惧する。今地方で最も国の権力に翻弄され課題が大きいのは福島であり、沖縄であり、大阪でも名古屋でもない筈だ。
地方分権をいうなら、国に虐げられている地方と連携して、都知事として頑張るのが王道ではないのか。
多くの国民は、今や小池が都知事と総理大臣を天秤に掛けていると感じている。首相になれそうなら、知事を辞めるだろうし、なれそうもないなら知事に留まるというわけであり、これでは、例え残ったとしても都知事としての信頼も早晩失っていくのではないか。
権力志向の塊のような小池や橋本、松井が中央権力を握ったら中央集権を強めるのは目に見えている。彼等は、労働者階級の解放を唄いながら、いざ権力をとると、労働階級にかつてないほど独裁的に抑圧的に権力を振り回した社会・共産主義指導者達と同じ精神構造に違いないと思うからだ。

*公明・山口の言う「仮面を被ったって駄目だ」発言は笑止千万
公明党の山口委員長は民進党議員の希望の党への合流を揶揄して、仮面を被ったって駄目だと声高に叫んでいるが、仮面を被っているのは公明だろう。平和主義を言いながら政権与党に残るためなら政治理念はなりふり構わず捨てる、「政策より政権与党」と言うのが公明の平和主義と言う仮面の裏の本音の素顔だ。
今度の選挙で希望の党がもし第一党になれば、またすり寄って連立を組むことは目に見えている。

*今後の政界再編構造-リベラルの埋没を危惧する
今回のこれまでの政界再編はこれで留まることはないだろうと思う。
まず希望の党はもっと右寄りな姿勢を鮮明にして来るであろうから、現状のメンバーでは維持しきれず、日本会議を中心とした自民右派と一緒になって「右翼保守政党」を結成するのではないか。その目で見ると、小池の反安倍も単なる右翼保守内の権力闘争に過ぎないことになる。
自民のリベラルは希望の中のリベラル寄りと組んで「中道保守党」を作る。
旧民進左派は社民・市民連合を中心に「リベラル左翼政党」を、共産党はそのまま残り「革新左翼政党」となる4極に落ち着くのではないかと思う。
公明党は創価学会が勢力を維持する限りは残るであろうし、カメレオンのように色を変えながら政権与党にしがみつくであろうが、キャスティングボードを失えば存在感もやがて失っていくのではないかと思われる。
その方が国民には分かり易い。そして真ん中(中道保守?)が右より(右翼保守?)とつくか左寄り(リベラル左翼?)とつくかでキャスティングボードを握れる構造になれば、政治にダイナミズムが生まれて今より健全になるのではないかと思うがどうだろうか。

しかし今の小選挙区制の選挙制度ではリベラルは育ちにくく、埋没してしまう怖れがあるのが心配ではある。
成熟した、より進歩した暮らしやすい社会は多様性を認める社会であることが最低条件であると思うからだ。

空耳妄言㉔ :Government of Abe, by Abe, for Abe、安倍首相の政治私物化は止められないのか―聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*安倍の、安倍による、安倍のための政治
安倍首相が9月28日臨時国会冒頭で衆議院を解散し、来月28日に総選挙をすると決めたらしい。政権延命以外に何の大義名分も無い解散で、国政の私物化もここに極まったと言うしかないだろう。まさに安倍の、安倍による、安倍のための政治というわけだ。
あれだけ北朝鮮問題の危機を煽っておきながら、今選挙はないだろうにと思うのは小生だけではあるまい。元より本当の危機感などなく、北朝鮮の一連のデモンストレーションを自分の疑惑追及逃れに利用していただけであること暴露したようなものだ。
この間、怪しいJアラートのサイレンで危機感を煽られ、電車を止められ、うずくまり頭を抱えた国民は、泣きっ面に蜂と言うわけか。
この悪質な安倍自公政権を止める手立てはないものか。選挙で白票を入れてもただの無効票になるだけで、選挙結果に影響はなさそうだし、選挙自体を無効にする手立てがないか、どなたか良い知恵があれば教えて欲しいものだ。
木村章太先生の明晰な頭脳で憲法論から秘策をひねり出してほしいと願う国民は少なくないと思うがどうだろう。

*前原民進党新代表は野党代表になりたかっただけの男か?
安倍政権の悪質な政治の私物化に国民が怒り、追及の機運が盛り上がった正にその時に、野党第一党である民進党は、自らの代表を引きずり落とし、新代表の選挙をするという、呆れ果てた国民への裏切り行為に出た。そして代表になった前原誠治新代表は、all for all とのんきな御託を並べるだけで、政権とどう対峙するのか、一体何をどうしたいのか皆目伝わって来ない。
まるで代表になるのが目的で代表になったかのようである。彼はおそらく、野党の代表という表舞台に立つポジションが欲しかっただけなのだろう。政権を取って、国家国民のためにこういう政策をしたいという明確な方向性も見えないし気概も感じられない。
脇が甘く緊張感が無いから山尾幹事長人事を早く漏らし、足元を掬われたりするのだ。そのあげく離党議員は続出するし、結果として安倍政権に解散総選挙の好機を与え、これでまた自公政権をのさばらし、憲法改(正?)への道を開くことになってしまうのだ。

これでは、自由党の小沢一郎代表の方が、地位よりも自分の信じる政治信条を優先して生きているようであり、よほどか潔く見えてしまうのだ。

小生の業界である医学会にも教授になることが最終目標であったかのような教授が沢山いる。そんな人物は、なってから新たに学問を開いていくという展望も戦略も無いから、なっても学問的進歩に何の貢献もしやしないものだ。

地位を登りつめるだけが目標で生きがいになっている種類の人間は、おそらく政界、学会だけではなく官界、経済界にも多いのではないかと思われるが、学会なんぞは進歩しようがしまいが、一般国民にはどうでもよいであろうが、政治の世界は国民に大きな影響が及ぶから、そういう人物には政治の中心にいるのは遠慮願いたいものだ。

先にここで「民進党の存在理由は一体あるのか」と書いたが、まさにその答えが出たような最近の政界の動向である。

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