ホームへ戻る

ラプラスの妄想

「相補性」という原理ー量子論、ユング心理学、形成外科学から

平衡という単語は、本来、化学などで用いる科学用語であったが、分子生物学者の福岡伸一が、動的平衡という言葉で、広く生命、自然、環境、社会に生起する諸々の現象を説明するキーワードとして巧みに用い、今や生命、宇宙の摂理、哲理を説明する絶妙な言葉になっている。

量子論では、物質の根本理念に「相補性」を置いているように見受けられる。

相補性とは、相反する事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成する考え方をいう。

量子論においては、物質は粒でもあり、波でもある、という相反する性質を持っていることや、位置と速度の片方は曖昧になるというハイゼンベルグの不確定性原理を、ボーアはコペンハーゲン解釈で自然の相補性によるものと説明している。 

一方ユング心理学でも相補性は、心理機能や元型の働きの重要なファクターである。

ユング心理学では、ヒトの基本的態度を外向的,内向的に分けたが、基本的態度と外的に観察しうる行動には差異があり、常に一面的な行動によって貫かれているとは限らないとし、意識の態度が外(内)向的であると、無意識の態度は内(外)向的で、意識の態度が強調されすぎると、無意識は補償的に働き、それらは相補的な関係にあるとしている。

ヒトには条件によって左右されない原則的に不変な心の活動形式としての心の機能があるとし、思考、感情、直観,感覚の4つに区別した。

それらは人により各々が主機能、補助機能、劣等機能として対立的にまた相補的働き、劣等機能を発展させるという。

ユングは無意識には人類共通の無意識(集団的無意識、普遍的無意識)があるとし、無意識内の心的過程に対処する共通した表現様式を元型と呼んだ。

外的態度の元型をペルソナ、内的態度の元型をアニマ、アニムス、とし、それらは相補的に働くという。

男性のペルソナは、男らしく論理的であるが、アニマは弱々しく非論理的であるといい(ユングの時代の話です。)、これが心像としては女性像になって現れるという。???

医学では、相補性をどのように用いているかはよくは知らない。

我々は皮膚の血行を研究する中で相補性みられという概念を見つけ、それを補完関係にあるとして、指摘してきた。

皮膚への血行は、基本的には筋肉の栄養血管が筋膜を貫いて皮膚に流入するが、筋肉を貫いて皮膚に行く枝と、筋肉のヘリを回り込んで皮膚に行く枝がある。

片方が太いともう片方は細く、互いに補完し合って皮膚への血行をまかなっている。

解剖書には記載がないほどの細い血管で、どうでもよいようなものであるが、形成外科学の臨床ではこの種の血管の発見は、皮弁再建術に大きな変化、進歩をもたらしたのである。

どのような場合にどちらが優位になるかは、つかんでいないが、血行の平衡が関係しているのではないかと思われる。

このように相補性という概念は、物質の根本から、心の働き、血行の仕組みに共通する概念であるが、おそらく、もっと広い学問領域、自然、社会現象に見られる概念ではないかと推測する。

勝手な思い込みではあるが、動的平衡と並ぶ生命、宇宙の摂理を語るキーワード、原理の一つではないかと思う。

日常社会でも相補性は卑近にみられる現象である。

恋人同士、夫婦でも、似たもの同士よりは、無いものを補い合う関係のほうが、上手く行き長続きするのではないだろうか。

近頃テレビ界の大物タレントが失脚しましたが、(ご縁で彼夫婦を存じ上げていたのですが)彼を知る誰もが、あの細君が健在であれば、こんな事態にはならなかっただろうに、というのが大方の意見の一致するところであったと思います。

それほど相補性の見本のようなご夫婦でした。

自戒を込めて、男女の関係を例に挙げ、相補性の意義を提案してみました。

カモメは異端か?

チェーホフの「カモメ」が、ケラリーノ・サンドロヴィッチ(日本人です。)の演出でシスカンパニーが上演したので、シアターコクーンにまた行った。例によって群馬の銘酒、水芭蕉とオツナ寿司を差し入れで持って。

そのせいかどうかはわかりませんが、お蔭で、いつも10列前後の中央通路側の特等席を頂ける。
俳優も良かった。ニーナ(主役の恋人)は蒼井優で、アルカージナ(主役の母親)は大竹しのぶ、トリゴーリン(アルカジーナの愛人であり、ニーナを愛人にする)は野村萬斎であった。主役のトレープレフは生田斗真であり、どうもジャニーズ出身らしい。
蒼井優は、芝居を観る前から、コマーシャルなどで見て、実は個人的にファンであった。今風に鼻筋が通り過ぎていないところが好きなのである。
それにしても、いつもながら長いセリフをトチらずに良くも演じるものだと感心する。
舞台のフィナーレでは、『大切なのは、絶望の中でも耐え忍ぶことだ』、と言うようなチェーホフの決め台詞を言ったように思う。

この言葉は三河出身の身としては非常に良く分かる。(吉川英治の小説、徳川家康とか思想家、志賀重昴の三河健児の歌をご参照ください。)

カモメと言えば、“カモメのジョナサン”が1970年代始めに流行りましたね。孤高を貫くところなどは、どこまでもカッコいいのだが、結局、異端は追放されるという事でしたね。

白鳥は悲しからずや
空の青、海の青にもそまず漂う。

若山牧水のこの短歌も思い出深い。
確か中二の教科書に載っていて、国語の女性教師が、「あんたたちには未だ分からないだろうが、これは人生を自分らしく生きる事の孤独さを言っているんだよ。」と話してくれたことは、先生のメガネ顔と一緒に良く覚えている。
当時はその意味は良く分からなかったのだが、なぜかその短歌と先生の言葉だけは忘れることはなかった。
当時、先生は、二十代後半か三十代前半で、今にして思えば、中々行けた先生だったんだと、思う。付き合ったら、最近では中々お目にかかれない癒されるタイプだったのかもしれないなあ。もっとも、もう余裕で80代になっておられるだろうが。

中嶋みゆき作詞作曲で研ナオコが歌った、“カモメはカモメ”も、
変われない自分が、一人空(海)を行く孤独を歌っている。

カモメは、何処でも異端の孤独者として登場するのはなぜだろうか。

カモメは基本的には群れており、カラスの方が群れていないが、孤高を言うのにカモメであるのはなぜなのか、良く分からない。

人は外界に適応した態度、行動をとらないとうまく生きていけない、つまりペルソナを発達させ、変容させなければ摩擦が起き自分の能力すら、うまく発揮できないのである。

馴染まないものは異物であり、生物では免疫学的に抗原抗体反応で排除される。

これは人間社会でも同様である。異物は目障りであり、分かった風なことを言う輩でも、口先で何と言おうと、結局は排除しようと行動する。特に体制を自ら作った人間には、異端は体制破壊者に映り、耐えられないことなのだろう。

元々病原菌的な性質を持った小生は、今までの人生、各ステージで最後には異物になり果て排除されてきたのであるが、今日現在も、とうとう精神科医療の中でも、また現在の勤務先病院の体制の中でも異物になりつつある、というか異物として認知されたようである。

そうであるなら、この状況で何かを痕跡として残さないと、ただの異物、病原菌で終わってしまう。

それならそれでもかまわないのではあるが。

しかし、異物であり続けた故に、異物性を自分の中に取り込んで新たな自分を作り上げなければ、60代半ばで精神科に転科した意味はなくなってしまう。

自律機能主義を実証する意味でも、新しい自己を実現して行くしかないと、今は強く思うのである。

老いるという事

母親が齢、91歳を超え、アルツハイマー型認知症になり、
とうとう老人ホームに入ったとの知らせを受け、
7月の連休に愛知の田舎まで見舞い行った。

新東名高速を使って4時間で着いたのが、昼時であり、
兄夫婦が先に母親を迎えに行き、弟夫婦も一緒に合流し、
まず外で昼ご飯を食べる手筈になっていた。

久しぶりに会った母親は、
家人が母の日に送ったという帽子を目深にかぶり、
義姉に手を引かれており、実家に帰った時にいつも見せる、
ふくよかな満面の笑顔とは違い、ひとまわり小さくなった顔が、
僅かに微笑んで振り返ったのが、印象的であった。

母親は元来、健啖家であり、その日もウナギを息子たちと負けないくらい食べ安心させたが、ほとんど会話することはなかった。

その後、皆で老人ホームを訪ねた。

こぎれいな建物で、個室もまだ新しくきれいで、何もかも整頓されており、自分で作った刺繍の敷物があちこちに置かれ、実家の母親の部屋を彷彿とさせたが、なぜか冷蔵庫は置いて無かった。

聞くと、食べ物を自分で持つと傷んで、食中毒の原因になるから食べ物は自分では持てないのだという。

前日に、新宿伊勢丹地下で、少しづつ沢山の種類の菓子を目一杯買い、持って行ったのだが、無駄になった。

水も必要なだけは見図らって職員が飲ませてくれるから心配ないのだという。

小遣いを、使いやすいようにと、ピン札でない千円札にして用意して行ったのだが、現金はトラブルの元になるという事で、所持出来ないとのことで断られた。

欲しい時に、思うように水も飲めない、好きなもの一つも食べられない、
飴一つ、絵葉書一枚、買う自由もない生活である。

ホームというところは、きっと暮らす人間より管理する側の論理が優先するのだろう。

それに母親の性格からすると、自ら何かを要求することが出来ず、
何でも我慢してしまうに違いない。

僕の勤める精神病院でさえ、患者は支給される障害年金を所持金として持ち、自由に買い物が出来、皆メタボに悩んでいるというのにだ。

兄夫婦が先に帰り、家人が席を外して、母親と二人きりになった時に、
母親が、
“家にいた時も一人ぽっちだったから、ちっとも寂しくなんかないよ”と、自分に言いきかせるように二度つぶやいた。

兄は、父親がゼロから始めた事業で、それなりに残した資産管理を生業とし、何不自由ない生活をしながら、母親の面倒を仕事のようにして見てきたから、母親は世間の老人に比べれば、豊かな幸せな生活をついこの間までは送っていたものとばかり思っていたので、その言葉は意外で、胸に刺さった。

母親があの老人ホームの一人部屋で、日暮れていく中を、一人でじっと椅子に座りながら、ただひたすら時間の経つのを耐えるかのように、団らんの無い夕飯を待っている姿を想像するとたまらなくなる。

父親が亡くなって、もう30年になる。

母親はきっと早く父親のもとに行きたいのだろうと思う。

父親が脳卒中で倒れ、人工呼吸器が付けられ死を待っていた時、
ベッドの脇に座り、ずぅーと父親の腕をさすり続けていた姿を思い出すとそんな風に思えてならないのだ。

人が、生きていくという事は、つまるところ孤独との闘いなのだと思う。

そして、その闘いに疲れ果てて、人は認知症に逃げるのではないか、
ならば、いっそのこと、母親も、もっともっと病気が進行して認知機能がとことん落ちてしまえば、寂しさも感じなくなり、楽になるのではないか、とさえ思ってしまう。

僕に出来ることは、多分、毎朝、母親の部屋に行って、
何をするでもなく、部屋の隅にでも座り、
本でも読みながら夕方まで一緒に時間を過ごし、
じゃまた明日、と言って帰るような生活をしてやることだけだと思う。

そうしてやりたいと思う。

また、その方が一日中家にいて家人にうっとうしがられるよりずっとましではないか。

が、実際には何もしてやれない自分が現実であり、そのふがいなさが情けないと思う。

そんなことを空想する僕は、家人がいつも言うように、やはりマザコンなのでしょうか。

入院生活で思ったこと?その一

3月の中旬に体調を崩し、2週間ほどの入院騒ぎがあり、AF研究室のブログも更新できなくなっていましたが、今週からようやく復帰しましたので、また取り留めのないよもやま話でも書き綴ります。

入院生活というのは、基本することがなく天井を見ながら時の流れるのを待つという生活ですが、日頃は、目の前のこなし仕事に追われ、なかなかまとまった量の小説などは読めないものですので、この入院を利用して、かねてより読み残していた小説の幾つかを読むことができました。

その一つに、息子から勧められ、本ももらっていた百田尚樹著『海賊とよばれた男』があります。
ある時期の本屋の売り上げナンバーワンにもなっていた記憶があるベストセラーです。最近本屋大賞を受賞しました。

息子が感動?したというから、何に感動したかに興味もあり読み進めた訳ですが、意外なことに、明治の男が、国家と社会の為に、を第一義に民族派の石油産業(出光興産)を立ち上げる、ある種の精神主義に則ったビジネスサクセスストーリーともいえるものでもありました。ほんの10年ほど前、拝金主義ともいえる市場主義が時代の潮流になり、村上、堀江某氏等を政府が諸手を挙げて称賛した時代があり、まさにその中で多感な学生生活を送り就職戦線を潜り抜けてきた息子世代が、このような本をある種の感動を持って受け止めるとは思いもしませんでした。

そういえば、社会正義を問うマイケルサンデルの白熱教室も支持されていることを考えると、行き過ぎた功利主義、新資本主義に対して密かな疑義があり、現代社会の若い知識層の思想の波動は方向を変えつつあるのかも知れないと、学生時代に人の存在を社会や国家とのかかわりの中で、それなりに考えてきた我ら世代にはちょっとうれしく思えましたよ。

ちなみに、小泉純一郎氏が新市場主義を賛美し郵政民営化で、大博打の選挙をしたとき、圧倒的に支持したのも彼らでした。その時は日本の社会、政治にはもう展望はないと心底思ったものでしたよ。

世の中、実在も抽象も、すべて波動で成り立っており、その動きも変化も波動のように変遷するというのが私の信じて疑わないところですが、まさしく現在は時代の波動のカーブの変わり目なのかもしれません。

『お膳立てと受け売り宰相』の耐えられない軽さを憂う

ここでいう宰相とは、マスコミの下馬評によると、おそらく次期首相と目されている安倍晋三氏のことである。

この原稿は総選挙の前に書いていますが、ブログに出るのはおそらく
選挙の結果が出てからのことになるでしょうから、決定していることでしょう。

決定前にいろいろ言って、選挙妨害になってもいけませんが、終わっているならもう構わないでしょう。

安倍晋三氏がどんな人物で、これからどんなことをして行きそうかを、
直感的に、まさにラプラスの妄想的に占ってみようかと思います。

彼は、昭和の戦後政治の大立物,岸信介の娘婿である安倍晋太郎を
父に、そうそうたる政治家一族に生まれています。

政治家の跡目をとるべく期待され養育されたに違いありません。

ウェブで履歴を見てみると、学歴は成蹊の小中高とエスカレーターで
進み、大学もそのまま成蹊大学を卒業しています。

おそらく大学は一流(願わくは東大)を期待されたであろうが、ここでは
期待に添えなかったものと思われます。

よくあるように、おそらく学歴に花を添えるために留学しますが、
結局南カリフォルニア大学を一年足らずで中退して帰国します。

神戸製鋼に3年勤務(他人の飯を食べ)の後、父親の秘書になり、
父親の死亡後は跡目を継いで政治家になり、一貫してタカ派的な立場で行動してきています。

小泉政権のサプライズ人事で幹事長になり、第90代総理大臣になりますが、再組閣後の所信表明した直後に、潰瘍性大腸炎の悪化を理由に
政権を放り投げたことは皆さんよくご存知な経過です。

そしてその後も、臆面もなく色々発言し、再び自民党総裁に返り咲き、
今まさに政権の座につこうとしています。

挫折して、再び返り咲くことは少しも非難に値しませんが、彼の発言から、彼が自分自身で獲得したポリシーというか強い信念を見ることが出来ないことにその資質に不安を感じるのです。

発言内容が受け売り的で、コアのない、底の浅さが透けて見えます。

要するに今までの人生の大半をお膳立てと、受け売り的知識でやって来たであろうということから言えることは、自分自身で何かを成し得た経験がない(自分自身でしか出来ないところは出来ていない。)というままアイデンティティができていることであります。

のような経歴は麻生太郎、小泉純一郎、進次郎氏にもよくあてはまります。

かような人は、とかく強気な態度をとり虚勢を張り頑固であり、自信のなさから、周囲には安心できるお友達を取り巻きとしておくものです。

そして一番の問題は、国のためというより、歴史に名を残したい、という自分の名誉欲のために政治をするのが特徴的であることです。(小泉氏は郵政民営化の結果より、民営化をしたという事実にこだわった。阿部氏は憲法改正を言っている。)

要するに私は、彼には正常な自我の自律機能の獲得ができていないのではないかと疑うのです。

平時には、それでもいいであろうが、国難時に、重圧にさらされると耐える力がなく我慢できなくなり(要はレジりアンスが低い)、再び政権を放り投げ、我が国が危機的状況に曝され、日本の政治が再び混迷のスパイラルに入らないかを憂うのです。

さてさて、以上がラプラスの妄想で終わることを願うのみです。

もっと速く、もっと高くーそう鼓舞させるものは何か?

ロンドンオリンピックが終わり、日本はメダル数が史上最多となったそうで、
ご同慶の至りです。

選手たちも、同じように努力しメダル圏内と言われながらも、
手にした人と、出来なかった人では、空港の出口まで違うそうで、
選手たちは悲喜こもごもであろうかと思います。

選手の皆さん、とりわけ結果が出せず、メダリストが連日テレビでもてはやされるのを悔しい思いで見ているであろう皆さん、本当にお疲れ様でした。

陸上競技や水泳では100分の1秒を、トラック競技では1?をかけた、正に熾烈な
戦いが展開されました。人間にとって100分の1秒早く走り、泳ぐことに、1?高く
飛ぶことにどれだけの意味があるのか、不思議に思われる人もいるだろうと思う。

中学生の頃、尊敬する理科の教師が、授業中に、何の経緯かは忘れたが、
こんなことを言った。

「人間はどんなに速く走れてもチータには絶対かなわないだろう。どんなに速く泳げたとしても、イルカにはかなわないだろう。鳥より高く飛べる人間がいると思うか?
人間がどんな動物にも勝てることは知能しかない。知能こそが人間が磨くべく、努力するべき事である。」と。

僕は運動音痴で、足も遅かったし、水泳もクロールは上手く出来ず、50m泳ぐのがやっとだったので、その言葉には随分救われたような気がしたものだ。事実、人間は
頭脳を使って、どんな動物もかなわない時速300km超の車を創り出したし、(あのベンソンでさえ時速50kmまでは走れない。)飛行機も作った。しかし、なぜ人は、たった100分の1秒、1?のために血の滲むような努力が出来るのか不思議ではないか。
単に名誉と富のための功利主義だけか?また競技を見ていて、その姿には多くの
人が感動を受けてしまうのはなぜか?晴れの大舞台に至るまでの血を吐くような
精進、努力を想像するからか。同じような努力をしても、勝者がいれば、必ず敗者がいるという不条理に同調し涙するからか。

私はそこに人の本性でもある自律機能を見るのである。
たとえわずかでも高みに這い上がろうと必死に努力する姿に、人は自分の持っている自律機能の極限に近い形を見るから感動するのではないかと思う。
走るなら少しでも速く、飛ぶのなら少しでも高く、理解出来なければ理解しようと、
困難であるなら解決しようと、そうするのが人の姿として自然なのではないか。
事実、たとえ自分がそうしなくとも、必ず誰かがそうして来たではないか。
面倒な性と言えばその通りだが、それが人の持つ自律機能ではないかと思う。

また、自律機能は、謂わば、心の幹細胞システムの様なもので、普段は表に出ず
眠っているが、困難に直面したり、ストレスで心が損傷を受けると、眠りから醒め、
活性化し、ストレスに対応して修復的に作用し、肯定的に、向上的に人を支えてくれる。

そして身体の幹細胞と心の幹細胞システム・自律機能を触発的に上手く働くような
状態(謂わば励起状態)にするのが量子学で説明してきた、人の細胞の内外の
水分子の量子場の波動のリズミカルな秩序であると私は推測する。

波動の秩序、リズムの乱れは幹細胞や自律機能の発現を遅らせ弱体化させる。

プラチナコロイドは波動のリズム、秩序を保持し、励起状態にさせる事で、
あるいは、時に修復的に作用することで、これまで説明できなかった身体的、
精神的作用を示すのではないかと私は考えている。

量子論、自律機能における私の立場

私の量子論
さて、『ラプラスの妄想』のこの欄では、人の心の病気のなりたち、
精神病理を量子物理学で説明しようとする妄想着想について宣言しましたので、
まず量子論の概略がどんなもので、それが現在の科学ではどのような位置づけになっているかの説明から始めようかと思います。

同時にページ左手に写真が出ていて、何の説明もないまま来ている
ナノプラチナコロイドの飲料と化粧品についての関連についても、
折に触れ述べて行こうかと思います。

物理学とは自然現象を数式であらわしたものと言われるように、
量子論のような理論物理学ともなると、かなり高度なレベルの数学が
必要となります。
アインシュタインでさえ、特殊相対性理論から一般相対性理論への完成には
友人の数学者の援助を受けて10年を要したとされる程です。
でありますから、ここでいう量子論、量子力学とは、‘私の理解出来る範囲で’、
という前提になりますので、難しい数式や深いレベルでの数学的説明は出来ません。

結局の所、実験的、あるいは数学的に証明され、
今や絶対多数の物理学者が正しいと認めている、事象、理論、を、
受け入り的に連ねていくだけですから、
私の理論からは、根源的な所では何の創造性も、
新規的な発展性の可能性もありません。

私は、これらの既成の理論を組み合わせる事で、
こんな説明も可能になり、意識、心や精神疾患を理解する一つの
アプローチになれば面白いのではないかと述べるに過ぎません。

最初にお断りしておくのは、多くの分子生物学者、生物物理学者、脳科学研究者、
量子物理学者、哲学者、宗教学者などが一致して、人の心、意識,知の解明は、
宗教ではなく科学によって、いずれなされるであろうが、現代の人間の知的レベル
では困難であろうと言い、重力論、相対論、量子論を超え、それらを統一する画期的な科学的革新が必要とされると信じている事実です。
となると、私のこの試みは無意味になりますが、しかしながら、現在でも世界有数の頭脳が種々の理論物理学,量子電磁力学(Quantum Electrodynamics QED)や
量子色力学(Quant um ChromodynamicsQCD)、量子熱力学(Thermo Field DynamicsTFD)などを駆使して、記憶や意識のメカニズムを説明しようする
量子場脳理論(Quantum Brain Dynamucs QBD)を展開し、それなりの理論を提示しています。

この段階になると、それを信じるかどうかは、人の直感によりますので、私が信じても、皆さんが信じるかは、皆さんの直感に委ねることになります。(ホームページ左手のPlatinorongelの説明文もお読みください。)

 

私の自律機能の概念
自律機能は、このホームページの中心的テーマでもあり、
すでに何度か触れていますが、自律機能の変調、障害が多くの精神疾患の
精神病理の基盤ではないかと私が考えていること、
またニューロンの場の量子論で自律機能を説明しようと企んでいることから、
これからの展開の理解を得るためにも、私の言う自律機能の概念をここで改めて述べておこうと思います。

自律機能autonomous functionを、一言でいえば、肯定的、向上的に生きようとする意思、意欲を自我の自律機能とします。
また、自然の摂理であるエントロピーの増大(無秩序化)に逆らう力と言うこともできます。

生物学的要因、心理社会的要因との関わりにおける力動の影響も受けるでしょうが、人にはアプリオリに肯定的、向上的に生きようとする力、エネルギーがあるとします。
自律機能が障害されると、生、存在の根源的な意義を失い、将来の理想が描けず、人生の目的、生きる価値を見いだせなくなる。
肯定的な自己像を描けず、低い自己評価となり、社会との関わりが上手く行かなくなります。
人は自我の発達過程でアイデンティティの確立に失敗したり、アイデンティティの喪失の危機的状況になると、自律機能は脆弱性を増します。
自律機能は精神的のみならず、身体的にもあると考えます。
それは主に、受動的、現状維持的では、ホメオスターシス(恒常性機能)とされる機能がそれに相当し、より能動的には自然治癒能があります。
人体の幹細胞の再生能力は正に身体の自律機能と言えます。

血管や神経の側副路形成も自律機能の働きと考えます。(ラプラスの妄想の「動的平衡」の欄を御参考下さい)
これは私自身の体験に基づいた考えです。
形の部屋の「形成外科医の頃」で、述べましたように、私は数年前に右大脳基底核の広範な脳梗塞を経験しました。
しかし放射線診断学、脳神経外科の教授達も呆れるほど、軽い症状(ほとんど無症状)で済み、お陰でその一年後に精神科に転科し、今研修医の激務?に耐えることが出来ています。
彼らの意見では、ニューラルネットワークが発達していて側副路としてカバーしているのだろう、というものでした。

私はこの頃既にナノイープラチナコロイドを飲用しており、その自律機能増強効果によるものと直観しました。
MRIを深読みし、淡蒼球はカスカスはずれていると言う人がいるかもしれませんが、それは結果を見ての事であり、普通は片麻痺、パーキンソニズムの出現を診断するでしょう。

最近精神医学で言われるレジリアンスも自律機能に包括されるものと思われます。
レジリアンスは精神疾患を理解するための理論モデルで、病気になる要因を一義的に特定する立場はとらず、単純な因果論的見方ではなく発病は非線形的に多元的に決定されると言う立場をとるもので、ストレス脆弱性モデルが示す、病気の誘因となる「ストレス(外力)によって歪んでしまう」弱さを防御する力、ひいてはそれを跳ね返す復元力、回復力を言います。

日本語では抗病力(病気にかかりにくい、かかっても治り易い生物学的基盤)と訳され、類縁の概念としては、対処行動(コーピング)、自己治癒、可塑性(plasticity)があり、それらも自律機能の範疇にはいると考えています。

 

量子物理学で精神医学を考える。

自然現象は勿論の事、植物、動物、さらには人間といえども物質であることに変わりはない、とすれば人間の身体も脳も、化学で習う原子から出来ているわけであり、
人間の頭脳だけが特別な原子、つまり原子表に無い未発見の原子で出来ているとは考えにくい。

また,たましいというものが人間以外のどこかにもともと存在し、
われわれの誕生と同時に飛んできて体内のどこかに[おそらく脳]
巣くったという考えは、ではそれまではどこに居たかということになりおかしいが、
最近はアカシック・フィールドなんていう宇宙概念もあるから、精神の存在場所がどこかについては触れない事にしよう。

古典物理学の因果律を認める限りラプラスの悪魔を容認することになり、
人間といえども原子で構成されているわけであり、人間としての活動―
記憶、意思、欲望、決意、努力などといったものも結局は分子の形態,原子の配列、
電子の遊離状態[つまりイオンの]あるいはその移動[イオンによる微弱電流]
などで殆ど説明されることになるだろう。

現代物理学では、
あらゆる物質は原子より微小な素粒子の振動により構成されるとされる。
光子も電子も粒子であり、また波動である、ということになっている。
そこで、心というものが粒子より成り立つという仮想的立場で精神病を、
量子物理学的に考えてみるのもあながち的外ればかりとは言えないだろう。

確かに物理学は、自然界の諸現象を数式で表し、実験でそれが証明される、
あるいはその逆の相互関係があって成り立つが、精神医学は本来そのような
自然科学的なものではない。
今までの精神病理の諸説を見てもそうである。
ニュートンの運動方程式とマックスウエルの電磁方程式は自然現象の基盤である。
それにアインシュタインの相対論を加えて古典物理と言っていいだろう。

その理由は、「対岸を眺める」「測定できる」というニュートンの思想の基盤は
相対論にいたっても変わってはいないから。

量子物理学は、不確定性原理のハイゼルベルグの言葉、
「われわれの観測が相手との没交渉ではありえない」ということからも、
むしろ精神医学に向いているのではないかとさえ思う。

 

動的平衡

『生物と無生物の間―講談社』という本で有名になった、あの眼と語り口が特徴的な分子生物学者の第2、第3のベストセラーに『動的平衡―1,2』という本があります。

彼の眼についての形成外科医としての見解はまた次にして、今日は形成外科学における動的平衡について話そうと思います。

人間の皮膚は、皮膚に限らずすべての臓器もそうですが、それぞれの臓器のそれぞれの部位は決まった血管から血液を供給されて生きています。

身体全ての皮膚は何らかの血管(多数ではあるが有限の)によって血行を支配されており、1本の血管は固有の皮膚支配領域をもっていますが、隣接する血管の支配領域との境界は、血管の解剖学的構造によるのではなく、血管の内圧の圧平衡によって決まります。

1本の血管が閉塞したり、切断されて血行が途絶すると、周辺の領域を支配する
血管が圧平衡を失い拡張して来て新しい平衡線を作り、途絶した血管の支配領域をカバーする為、結果として本来の血行を途絶された皮膚も血液を受けることが出来、皮膚は死なないで済みます。

つまり皮膚の血行の支配領域は動的平衡によって決定されています。


図で説明すると、「図1」血管a,b,cは各々の皮膚支配領域A、B、Cを境界線(分水嶺ともいえる)で接して持ちますが、血管bが途絶すると、「図2」血管aとcがbの領域に進出し新しい圧平衡線を作りBの皮膚の血行を分割して賄います。
但し、血管a,cの血行が互いに届かず、新しい圧平衡線を作れない時は、その中間の皮膚は壊死することになります。

 

 

この現象を例えて言うならば、戦国時代に群雄割拠した大名達が力のバラランスで国境を接していたようなもので、一国の大名が死ぬと力の均衡(平衡)が崩れ、たちまち四方から攻め込まれ新しい国境線に分割されるようなものです。

古今東西、戦争とはそういうもので、戦のたびに、国境線はまさしく力関係で移動し、動的平衡を保ちます。

もし、いずれの大名にも力が足りず、遠方まで軍隊を送る兵站力がないと、その地は兵糧が無くなり、枯渇してしまいます。

このような時に、前もって補給路、バイパス道路が作ってあれば、より遠方まで素早く兵站を送り支配領域を拡大出来ます。

医学的にはこれを側副路といいます。

側副路は血管や神経にみられ、いざという時の代替路になります。
これが発達していれば、組織壊死や神経障害はより軽度ですみます。

この人体皮膚の血行の形態や動態の関係性の新しい概念の発見は、実は私の学位論文に依るものです。(1980年度慶応義塾大学医学会三四会賞-最優秀学位論文賞)

この事実は、その後、皮弁という形成再建外科におけるもっとも重要な手術法の血行概念を変えることになり、私はこれを基にしてその後30年以上の間、皮弁学の発展に先鋭的に関わることが出来、結果として形成外科医としての糧を得ることが出来ました。

また頭蓋顔面外科の分野でも頭蓋縫合早期癒合症の頭蓋拡大法において、動的平衡の概念からMoD法という手術法を開発(2012年度日本形成外科学会学術奨励賞)しています。

組織の血行供給の区分は動的平衡であり、これは組織の血行による生存と死を血行動態的によく説明しています。

動的平衡の概念は、ミクロからマクロまで、すべての生命現象のダイナミクスの共通の基底をなしていると考えます。

生命現象を、強いては心、精神の存在を、場の量子論と動的平衡の概念で説明し、ナノプラチナコロイドがその現象にいかに関わりうるかについては、次回から述べていこうと思います。

それは、まさしくラプラスの妄想的思考と思われるかも知れませんが、
理論物理学や精神医学とは本来そういうものです。
御期待下さい。

ラプラスの妄想

このブログのタイトルは『ラプラスの妄想』と名付けた。
分かる人なら‘ラプラスの悪魔’の間違いだろうと、気がつかれただろう。
そのとおり。
あのラプラスの悪魔から由来している。

念の為に申し上げれば、
ニュートン力学が断定するように(アインシュタインの相対性理論さえも支持した)、自然界の物質も現象も、つまるところは(素)粒子の相互作業している舞台に過ぎず、すべての粒子の現在の位置と速度(運動状態)が分かれば、あらゆる物体の運動や現象の未来は計算によって導くことが出来る。

つまり、未来に不確定な事は何もなく、
未来は、現在という時点で確定していると言える。

仮に宇宙の全粒子のたった今の行動(位置と速度)
を知ることが出来る仮想的な存在がいるとしたら、
彼には近い将来も遠い将来もすべてお見通しであり、
人の考えも、振る舞いも、
勝負の結果さえも予測できる。

そのような架空の生きものをラプラスの悪魔と名付けたのである。
しかし、光子も電子も、
そして全ての物質が、
波動であると同時に粒子であることが発見されると、
ハイゼンベルグの不確定性原理が確立され、
ニュートン物理学は、古典物理学となった。

これから私が確立しようとする自律機能主義は、
理論物理学、量子理論で解釈する精神病理学を
中心にして説明しようとするものであるから、
敢えてラプラスの妄想を持ちだしたのは、
時代に否定された因果律的世界の超人の妄想という形で、
無責任に好き勝手を言わせて頂こうという魂胆なのである。

所で当のラプラスの悪魔の生みの親、ピエール・シモン・ド・ラプラスは、
パリのエコール・ノルマールで数学を教えた英才で、
ナポレオン皇帝に見出され、内相にまで引き立てられたが、
ナポレオンが勢いを失うや、議会で英雄追放に賛成票を投じ、
ナポレオン没落後はルイ王朝の侯爵になり一生安泰な暮らしをしたそうである。

ラプラスの悪魔ほどではないにしろ、先が読める才覚があったのだろう。
ちなみに彼のような生き方を自律機能が優れているとは言わない。

なぜなら、そのように生きる人は少なくはないが、
押し並べて、彼らの生き方には、情緒的に言えば、美しくないところが見えるからである。
ラプラスが実際どうであったかの確証は無いけれども・・・。
自律機能主義的生き方は、感性的には、振る舞いは卑しくなく、
美しくあることが前提である。

なお、雑誌ニュートン2012年4月号によれば量子物理学の基本原理とされた、
『ハイゼンベルグの不確定性原理の測定不等式』は
2003年に名古屋大学の小澤正直教授によって訂正され、
それを実験的に証明したウィーン工科大の
長谷川祐司准教授の論文が1月15日の『Nature Physics』に掲載されたそうである。

科学理論の進歩は止めようもないが、
自律機能主義の依拠する理論も乗り遅れてはならないものと
ラプラスは妄想するのである。

ログイン