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ラプラスの妄想

空耳妄言28:平成を象徴するいくつかの事象について

空耳のように聞流してもよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

前回はこの欄で、大義なき総選挙で安倍自公政権が大勝しそうだが、それでいいのかと書いたが、結果その通りになってしまい、いささか虚脱感に襲われていたが、その後も世の中いろんなことが起きて、いつまでも嘆いているわけにもいかなくなった。
最近起きたいくつかについて老人の迷い言を述べてみたい。

*大相撲について
*横綱日馬富士の暴行問題は、未だ決着がついていないが、問題の本質を見にくくさせている一番の問題は、社会が相撲を変に神聖化していることにあるのではないかと思う。国技であるとか、本来は国家の豊穣を祈る神事であるとか言うが、法的に国技というものはないそうで、ホームグランドを国技館というからそれらしく聞こえまぎわらしいが、本当は国技館が相撲館、相撲アリーナ、両国アリーナであっても何の不都合もないらしい。今農業に携わる人で、横綱の土俵入りを見て今年の豊作を祈願する人はいないのではないか。
相撲もプロレスと同じような、一つの興業と考えれば、横綱に品格とか力士の道徳的理想像を求める必要もなくなる。第一、(高校野球も同じだが、)スポーツに精神性を求めるのが時代錯誤で、相撲も高校野球も、一皮剥けば金まみれではないか。
それに相撲が日本の神事であるなら、その最高執行者に外国人を置くのも変ではないか、相撲の力量とは別の選考基準があっても良いはずだと思うが、横審ではそんな議論はないものなのか、不思議である。

兎に角、相撲は純粋にスポーツとしての競技種目にするか、プロレスのように興業化するかしないと小生は思う。
今では、もはや現状を合理的に説明し続けることは出来ない状態に来てしまっている。

*政治責任不在の時代
安倍政権が、出鱈目な身勝手解散をしても、野党の無能のお蔭で大勝してしまったせいかもしれないが、今また森友問題で重要な決定的な問題が露呈しても、「それは部下が勝手にやったことだ、部下を信用するのは首相として当然のことだ」と、見事に安倍首相は開き直って、行政に公平性が失われた過ちの責任を回避している。
籠池氏と財務省理財局が、学校用地のタダ同然の売却交渉を事前にしていた証拠となる音声テープの存在を理財局が認めたことに対する安倍首相の返答である。
同じことを自分の友達のジャーナリストの準強姦事件もみ消しでも言うのであろうから、おそらく同様な政治の私物化マターは数限りなくあると思われる。
安倍政権が歪めた行政の安倍首相の最終責任は韓国の朴前大統領の比ではなく、訴追ものであることは自民党の重鎮、藤井裕氏も言っているくらいだ。
この国の政治の倫理観は平成で完全に失われてしまった。

*平成と言う時代の終焉
平成30年で終わることが決まった。5月には元号が変わり新しい時代が来る。
元号は履歴書などのように長い期間を跨いで時系列に述べる時には不便だが、大きく時代を俯瞰する時は便利である。明治、大正、昭和はそれぞれの時代を表象するイメージを持っている。現在では、よくノスタルジックに「昭和っぽい」とか言うが、アナログ的な「3丁目の夕日」的なイメージであろうか。
さてでは平成とはどんな時代であっただろうか。インターネットが社会の中心的なツールになり、すべてがデジタル化した時代とでも言えようか。そして情報がマスコミ(言語化されたコミュニケ―ションを通して)ではなくSNSに代表される匿名性のメディア(単なる媒体)を通して流布されるようになり、言葉の重みが著しく軽くなった時代とも言えよう。政治も同様で、言葉に責任を持たなくなり、嘘がまかり通るようになって、政治ばかりでなく大人の品性が失われた時代でもあった。
これらが昭和から平成で決定的に変わった特徴的な点であろう。
平成が歴史の大きなターニングポイントあるいは変曲点であることは間違いなかろうが、さて次の時代はどうなって行くのであろうか。小生には、もはや他人事ではあるが、多くの人にとって今より生き易い、住み易い社会がくるとは、どんなにポジティブに考えようとしても想像がつかないのである。

空耳妄言27:カズオ・イシグロの「日の名残り」が教える品格こそが政治家選択の基準である―安倍にその品格があるか

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

カズオ・イシグロが本年度のノーベル文学賞を受賞して3週間が経った。くしくも日本では、安倍自公政権が究極の政治の私物化である自らの延命を図るだけの目的で解散した衆議院総選挙が行われようとしている。

小生には、このタイミングでのノーベル受賞は、カズオ・イシグロからの日本への何らかのメッセージであるような気がしてならなのだ。

代表作「日の名残り」を再読すると、過日NHKBSシネマで見た映画「The Remains of the day」の様々な重いシーンが蘇ってくる。そこでは英国の執事と言う職業人の心情を通して、人が生きていく上で大事なものが何かが語られている。物語にはいくつものメタファーが込められているが、大きなテーマは人の品性の重要性についてである。人間は社会生活をする中で、互いに専門領域が違えば、自分の領域以外では、何が良くて何が悪いか正確な判断は殆ど出来ないものだ。例えば国の命運がかかるような政治的判断は、一般国民には真に重要な情報や政治的な駆け引きの真実も知らされていないから現実的には的外れになることも少なくないかもしれない。しかし同時に判断を委ねる政治家についても、われわれが職業政治家でもなく、また日常的に近くで接してもいない政治家の人物の評価となると、これもまた正確にはほとんど出来ないことにもなる。

では、どの政治家が正義で、正義ではないかを我々一般国民が知るにはどうすればよいのか。何を基準に政治家を選べばよいのか。

イシグロによれば、それは職業、地位、年齢、時代を越えて判断基準となるものがあり、それは人としての品格であるという。

その人物に我々の命運を任せて良いかの判断は、彼の言葉ではなく、その人物の、行い、立ち居振る舞い、所作の品性と、それを醸し出す品格を見て判断するしかないのである。

最新の世論調査によれば、今この国は、次のような人物に引き続き国のかじ取りを託そうとしているようだ。

その人物は、昨日まで政治信条を共にしてきた自らの支援者を、今自分に不都合な存在になったからと言って、急に知らぬ存ぜぬと口裏を合わせ、やがては権力を忖度させ別件で逮捕させ口封じをし、未だ裁判で審判もされてもいないうちから、「彼は詐欺を働くような人物だから自分達夫婦は騙されたのだ」と公言し、我が身を守るのに汲々として恥じないのである。唖然とするが、これが我が国の行政の長の司法に対する理解である。

ただこの一件をもってしても、この人物の品性とはいかばかりのものかは自明であろう。このような人物を信頼してこの国のかじ取りを委ねて本当に良いのか。

それが明日我々に問われているのだ。

空耳妄言㉖:安倍自公政権をほんとうに存続させて良いのか?

空耳のように聞流してよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

最新の世論調査では自公は300議席を上回り、自民単独過半数も余裕の勢いだという。小池の希望の党の登場で民進・自由・社民・共産の野党共闘が崩れ、かつ小池の「さらさら、排除」「踏絵」と言う失言・失策と言うか、化けの皮が剥がれて本音が出てしまい、希望の党が失速したために自民が漁夫の利を得た形になったという。
本当にこのまま安倍・自民に勝たせてよいのか。
維新、希望が加われば2/3を超え憲法改正も現実問題になってくる。安倍の立憲民主主義無視、独裁的私物化政治が二期に渡って続いたこの期に及んで自公に勝たせる国民民度では国民投票も安倍の思惑通りの結果に終わるのではないか。

それにもまして、今自公に勝たせれば、安倍自公政権は前にもまして増長して驕り高ぶり傲慢なやりたい放題の政治を行うのは目に見えている。無論、森友、加計問題も信任を受けたと知らぬ顔で通すであろう。何をやっても大丈夫、所詮国民はこの程度と舐めきるであろう。

*安倍首相のこと
安倍は誰かの入れ智恵であろうが、「李下に冠を正さず」を反省の弁としてしばしば使うが、おそらくその真意を理解していないのであろう。
記者クラブやテレビの党首討論会などで「首相の関与はともかく、森友・加計問題が生じてしまった結果責任についてはどう思うか?」と問われると、「問題の本質は私と妻が直接関与したか、要請をしたかどうかであり、その証拠はどこにもないのであり、その意味では説明責任は十分に果たしている」と言うありさまである。要は直接指示の証拠さえなければ何の責任も生じないと言うのであり、李下に冠は正しても、瓜田に足を踏み入れても、直接証拠を残さねば責任を問えないでしょ、と言っているのである。安倍の倫理観、政治理念はこの程度であり、その程度の人物なのであるから反省の出来ようもないのである。
この間の党首討論で目立ったことは、安倍の自信なさげな落ち着かない姿であり、そして常に質問の本質をはぐらかし、長々と饒舌に自分に都合の良い話を述べる姿であった。その話し方は「いわゆる、つまり」など無意味な単語で水増しされたいつもの空虚な論調であった。おそらく安倍の参謀達は、彼の借り物の理論構築がいつ馬脚を現さないか気が気ではなっただろうと思う。
そんな安倍の無意味な無駄な発言にみすみすと長い時間を与え、安倍の見え透いた詭弁を制しない司会者の多いのにも驚いた。ニュースキャスターで、安倍の無駄口をさえぎって核心を問い直すような者は皆無であり、皆安倍に及び腰なのである。ここにも現政権のマスコミ・言論統制の効果が如実に現れているのであるが、さらに自公が圧勝の勢いとなれば、選挙戦後半はますますマスコミは自公の顔色を見ながらの報道になって行くことであろう。

*希望の小池代表について
ドラマチックな展開であったが故にその凋落もドラマチックであった。いずれにしても小池の保守でも右寄りタカ派の政治信条は早晩明らかになったであろうから、選挙前に支持を失速させたのは良かったのではないかと思う。
前にも言ったように、小池は安倍の代わりになって保守右翼の政権を担いたいだけであり、その目的完遂の戦略として都知事になり希望を立ち上げたに過ぎないから、所詮は保守右翼の中の権力闘争に過ぎないのである。
小池は安倍と共に日本会議の重要メンバーであるから、おそらくそこいらで安倍の思想性の浅さ、人間としての凡庸さと首相と言うポジションのギャップに理不尽さを感じていたのではないかと邪推できる。確かに遠くから見ても、小池の方がはるかに有能で非凡であることは誰にでも分かることであるから、小池がそう考えるのも無理からぬことであると、小生は思うのである。

*民進の前原と枝野のこと
前原が小池にまんまと嵌められたと思うのが自然な見方ではないかと思う。深読みすれば前原は相当な悪だが、おそらくお人よしの脇の甘い口先番長と言う世評が正しいのではないかと思う。もし小池の増長による失言が無ければ小池の本心が見抜けず、むざむざと民進の党費100億円が希望に乗っ取られるところであった。
枝野は小池の話に乗らず、節を曲げなかったとして人気急上昇のようである。理由はそればかりではなく、枝野の論旨明晰な論客としての優秀さと、福島原発事故の際に民主党幹事長として不眠不休で粉骨砕身して働いた責任感の強さ、人間性の高潔さが人々の記憶に残っているためであろうと思う。
希望がこけて、選挙後に参議院議員を中心に今また民進系議員の再結集の話があるという。
希望からの出戻り組を加えて民進党としての再結集では、およそ国民の理解は得られず、間違いなく自滅になるであろう。立憲民主は立ち位置を変えず頑張ってほしいと思う。

前に希望が出来た直後にも言ったが、結局は自民と維新、希望のタカ派が右翼保守政党を、自民と希望の俗にいうリベラル派が中道保守政党を、立憲民主と社民、市民連合がリベラル政党を、共産党系が革新政党の4極に落ち着くのではないかと思うし、2年後の参議院選挙までにはそうなって欲しいと思う。公明は成り立ちと政治姿勢から政党の一極として認めて良いかは微妙ではあるまいかと個人的には思うがどうだろう。

今間違いなく言えることは、思想信条がリベラルであろうがなかろうが、日本政治史上かつてない悪質な安倍自公政権の存続を許してはならないと考えるなら、今回の衆議院選挙では、自公に過半数を与えないように選挙行動を起こすべきであるということである。

空耳妄言㉕:「希望の党」は右翼保守としての政界再編の始まりか

空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

とてもドラマチックな1週間であった。この間の政界の流れを大局的に過去、未来を見据えて正確に解説できる人は多くはないであろうから、ここは好き勝手に井戸端会議の延長で妄言を連ねてみようと思う。以下敬称略で。

この様に政局が動くと、必ず、日本の政治などアメリカの世界戦略、もっと言えば世界を牛耳る国際資本の大本、あるいは統一教会の操りでしかないという風な論説が出てくるが、それとて結局は、我々は局所的に現実的な対応をするしかないのだから、ピーチクパーチク騒いで抵抗するしかないのではないかと思う。

*小池の読み違い。
おそらく小池のシナリオはこんな風ではないかと思う。
「解散があったら即、新党を立ち上げ、民進党を壊してその多数を取り込み、自由党と自民の一部を取り込む。選挙後は維新、公明と組んで連立政権を立ち上げ首相になる。」
解散は予想外に早かったが、そのお蔭で、新党「希望の党」構想が事前に漏れず、劇的なインパクトが作れたし、細野が先兵として民進を離党し、希望に入党し民進の左派勢力切りの悪役を果たし、小池がとどめを刺して民進を瓦解させるのは小池と前原(あるいは小澤)のシナリオ通りに行ったが、小池が都知事を辞任して立候補する手順は、何かの読み違えをしたのだろう。小池が国会議員になって党首として、うまくいけば首相として国政に返り咲きたいのは火を見るより明らかであるから、都知事辞任のタイミングを狙っていたし、今もいるはずだ。
思うに、小池に対する世論の首相待望論の盛り上がりを期待しているのであろうが、未だその盛り上がりが来ないばかりか、都知事投げ出しの反発が予想以上に強いのが読み違えではなかったのか。それどころか「民進分断、切り捨て排除」の強権的な姿勢が世論の反発を招いていて、むしろ後退しつつあるのは小池の驕りでもあったのだろう。
大多数の国民は理性よりも、感情、情動で判断するものなのだ。
小池の知事辞職の弁明が世論の感情を凌駕出来るかが出馬表明のタイミングであろうが、果たして間に合うかが見ものである。
あるいは、もともと小池が知事に留まり、前原か松井を繋ぎで出すか、いきなり小澤が出てくるシナリオの可能性もある。
それにしても次期首班指名は公明党委員長の山口と言ったのは失敗だっただろう。選挙後は公明と組みたいと見え見えであったし、ましてや山口を一時でも首相にして国政を創価学会に任せたいと思う国民は学会員以外には皆無だろうと思うからだ。

*小池の自己矛盾
小池は解党した民進党議員の希望の党公認に当っては安保法制、憲法改正の理念の一致を求めて、選別、排除するというが、ではその選別の選考基準を明らかにしなければ、有権者は判断できないのではないか。小池の言う情報公開とはまさにそのことではないのか。未だに小池の安保法制、憲法改正の理念や見解は明白ではない。
小池は自分に有利な今のムード、風向きを壊したくないから、本心を隠しているようにしか見えないのだ。

*三都物語―地方分権と小池の国政進出の矛盾と懸念
東京、名古屋、大阪の東海道ベルト地帯の3大都市が地方分権の起爆になるという構想だが、その陰で霞んでしまうのが福島や沖縄ではないかと危惧する。今地方で最も国の権力に翻弄され課題が大きいのは福島であり、沖縄であり、大阪でも名古屋でもない筈だ。
地方分権をいうなら、国に虐げられている地方と連携して、都知事として頑張るのが王道ではないのか。
多くの国民は、今や小池が都知事と総理大臣を天秤に掛けていると感じている。首相になれそうなら、知事を辞めるだろうし、なれそうもないなら知事に留まるというわけであり、これでは、例え残ったとしても都知事としての信頼も早晩失っていくのではないか。
権力志向の塊のような小池や橋本、松井が中央権力を握ったら中央集権を強めるのは目に見えている。彼等は、労働者階級の解放を唄いながら、いざ権力をとると、労働階級にかつてないほど独裁的に抑圧的に権力を振り回した社会・共産主義指導者達と同じ精神構造に違いないと思うからだ。

*公明・山口の言う「仮面を被ったって駄目だ」発言は笑止千万
公明党の山口委員長は民進党議員の希望の党への合流を揶揄して、仮面を被ったって駄目だと声高に叫んでいるが、仮面を被っているのは公明だろう。平和主義を言いながら政権与党に残るためなら政治理念はなりふり構わず捨てる、「政策より政権与党」と言うのが公明の平和主義と言う仮面の裏の本音の素顔だ。
今度の選挙で希望の党がもし第一党になれば、またすり寄って連立を組むことは目に見えている。

*今後の政界再編構造-リベラルの埋没を危惧する
今回のこれまでの政界再編はこれで留まることはないだろうと思う。
まず希望の党はもっと右寄りな姿勢を鮮明にして来るであろうから、現状のメンバーでは維持しきれず、日本会議を中心とした自民右派と一緒になって「右翼保守政党」を結成するのではないか。その目で見ると、小池の反安倍も単なる右翼保守内の権力闘争に過ぎないことになる。
自民のリベラルは希望の中のリベラル寄りと組んで「中道保守党」を作る。
旧民進左派は社民・市民連合を中心に「リベラル左翼政党」を、共産党はそのまま残り「革新左翼政党」となる4極に落ち着くのではないかと思う。
公明党は創価学会が勢力を維持する限りは残るであろうし、カメレオンのように色を変えながら政権与党にしがみつくであろうが、キャスティングボードを失えば存在感もやがて失っていくのではないかと思われる。
その方が国民には分かり易い。そして真ん中(中道保守?)が右より(右翼保守?)とつくか左寄り(リベラル左翼?)とつくかでキャスティングボードを握れる構造になれば、政治にダイナミズムが生まれて今より健全になるのではないかと思うがどうだろうか。

しかし今の小選挙区制の選挙制度ではリベラルは育ちにくく、埋没してしまう怖れがあるのが心配ではある。
成熟した、より進歩した暮らしやすい社会は多様性を認める社会であることが最低条件であると思うからだ。

空耳妄言㉔ :Government of Abe, by Abe, for Abe、安倍首相の政治私物化は止められないのか―聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある。

*安倍の、安倍による、安倍のための政治
安倍首相が9月28日臨時国会冒頭で衆議院を解散し、来月28日に総選挙をすると決めたらしい。政権延命以外に何の大義名分も無い解散で、国政の私物化もここに極まったと言うしかないだろう。まさに安倍の、安倍による、安倍のための政治というわけだ。
あれだけ北朝鮮問題の危機を煽っておきながら、今選挙はないだろうにと思うのは小生だけではあるまい。元より本当の危機感などなく、北朝鮮の一連のデモンストレーションを自分の疑惑追及逃れに利用していただけであること暴露したようなものだ。
この間、怪しいJアラートのサイレンで危機感を煽られ、電車を止められ、うずくまり頭を抱えた国民は、泣きっ面に蜂と言うわけか。
この悪質な安倍自公政権を止める手立てはないものか。選挙で白票を入れてもただの無効票になるだけで、選挙結果に影響はなさそうだし、選挙自体を無効にする手立てがないか、どなたか良い知恵があれば教えて欲しいものだ。
木村章太先生の明晰な頭脳で憲法論から秘策をひねり出してほしいと願う国民は少なくないと思うがどうだろう。

*前原民進党新代表は野党代表になりたかっただけの男か?
安倍政権の悪質な政治の私物化に国民が怒り、追及の機運が盛り上がった正にその時に、野党第一党である民進党は、自らの代表を引きずり落とし、新代表の選挙をするという、呆れ果てた国民への裏切り行為に出た。そして代表になった前原誠治新代表は、all for all とのんきな御託を並べるだけで、政権とどう対峙するのか、一体何をどうしたいのか皆目伝わって来ない。
まるで代表になるのが目的で代表になったかのようである。彼はおそらく、野党の代表という表舞台に立つポジションが欲しかっただけなのだろう。政権を取って、国家国民のためにこういう政策をしたいという明確な方向性も見えないし気概も感じられない。
脇が甘く緊張感が無いから山尾幹事長人事を早く漏らし、足元を掬われたりするのだ。そのあげく離党議員は続出するし、結果として安倍政権に解散総選挙の好機を与え、これでまた自公政権をのさばらし、憲法改(正?)への道を開くことになってしまうのだ。

これでは、自由党の小沢一郎代表の方が、地位よりも自分の信じる政治信条を優先して生きているようであり、よほどか潔く見えてしまうのだ。

小生の業界である医学会にも教授になることが最終目標であったかのような教授が沢山いる。そんな人物は、なってから新たに学問を開いていくという展望も戦略も無いから、なっても学問的進歩に何の貢献もしやしないものだ。

地位を登りつめるだけが目標で生きがいになっている種類の人間は、おそらく政界、学会だけではなく官界、経済界にも多いのではないかと思われるが、学会なんぞは進歩しようがしまいが、一般国民にはどうでもよいであろうが、政治の世界は国民に大きな影響が及ぶから、そういう人物には政治の中心にいるのは遠慮願いたいものだ。

先にここで「民進党の存在理由は一体あるのか」と書いたが、まさにその答えが出たような最近の政界の動向である。

空耳妄言㉓:人質になった「日本」ー世界秩序のために日本国民の犠牲はやむをえないのか

空耳のように聞流しても良いが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

本日2017年8月29日北朝鮮は弾道ミサイルを日本列島上空を通過させ北海道沖に着弾させた。先日来、グアム島近辺に落下させると言っていたのを、変更した形になった。アメリカ領土のグアムでは挑発のリスクが高すぎると判断しての結果だろう。

つまり、ここではっきりと日本は北朝鮮の、アメリカに対する脅しの材料、人質になったのである。
トランプ大統領や多くのアメリカ国民はこれで安堵したのではないか。
トランプ大統領は、今朝「今回のミサイルは北米の直接の脅威にはならない」と言ったし、かねて「戦争はやっても向こう側でやる」と言っていることから、米朝戦争は、日韓を盾に朝鮮半島、日本列島を戦場にして始まるシナリオがハッキリして来たから安心したのではないか。

一方日本政府の対応だが、型通りの焼き直しの声明「明確な安保理決議違反であり断固許せるものではない。最高度の抗議をし、更なる圧力を断固強めていくことで日米は完全に一致している。国民には万全の安全・安心の対策を取っているから不安にならず冷静に行動するように」を出した。
せめてもの救いは、防衛大臣が稲田氏から小野寺氏に変わっていて、防衛省声明も緊張の中にも状況を把握し、自分で理解し喋っている点であった。
それにしても、ミサイルが日本の領土上空を通過するのを看過し、安心安全は守られているというのは一般国民に説得力があるだろうか。イージス艦、パック3で防衛体制は万全と言うなら、撃ち落として見せて欲しいものだ。(間に合わなかったか、あるいは失敗を怖れて見逃したと勘ぐられても仕方ないだろう)
政府は、国民にはきちんと警報を出した(Jアラートは機能した)ではないかという言い分のようだが、たとえ2分で室内に退避し、机の下に潜り込んで頭を手で覆ったとしても、それで安全が確保されると信じる国民がいるとでも思っているのだろうか。
北朝鮮には厳重に抗議し、更なる圧力を強めると言うが、その有効な手立てが今更あるとも思えない。

つまり政府の言うことは、余りに言葉が軽く空虚なのである。安倍内閣は日頃から言葉が限りなく軽いのだが、安全保障に関しては、軽さは虚しさを越え、空虚となっている。

外に聞こえてくるのは、トランプ大統領や韓国文大統領と電話会談しては、アメリカのとるどんな選択肢でも支持し日本は日米韓と共同行動をとるという話ばかりだ。

日本は国の安全保障のために、日米同盟(日米安保条約)を結んでいるが、今は逆にそのために国の安全が大きく揺らいでいる。日米が軍事的に一体化することで、日本を守ってもらう限りはアメリカのリスクは我がものとして受け入れるという建前論は理解できるが、それは相手国であるアメリカも同じ建て前を守ることが担保されて正当性があるのであって、そうでなければ日本はただの都合のいいアメリカの盾に過ぎないのである。
時に、盾となった人質(日本)を生かすも殺すもアメリカのご都合次第になってしまうのである。

トランプは、アメリカファースト、アメリカの利益が最優先を公約とし、また白人至上主義者でもある。トランプは自身の支持者のために政治を行う姿勢を鮮明にしているから、果たして、トランプと思想を共にするトランプ支持者達が日本と運命共同体となって米国民、米国本土を犠牲にしてまで戦えと言うだろうか。
彼等は、覇権国アメリカの言うところの世界正義・秩序のためにはアジアの島国の1つや2つは犠牲になっても仕方ないとご都合主義を弄するのではないかと危惧されるのである。

同盟が相互の利益のバランスが崩れて、一方的に反古にされた例は歴史上、枚挙に暇がないほどある。
また人間の意思決定は、ことが切迫して重大であるほど、情動が理性を支配するというのは、扁桃核の働きを明らかにした最近の脳科学で証明された心理学の真理である。
これらを考えると、小生は日米同盟の是非を改めて考え直す意味があるのではないかと思うが、もう手遅れか。

日本の政治責任者、安倍首相が、今果たしてどのレベルでアメリカと合意しているか本当のところは分からないが、問題なのは、彼の今までの政治手法から判断して、政治的決定にあたって国民の命、生活は常に二の次であることが確かなことである。

それが今の日本の最大のリスクファクターであると思う。

空耳妄言㉒:安倍首相をいだいてしまった日本国民の悲劇ー空耳のように聞き流してよいが、誰かが呟いたほうがいいような話もある。

*「北朝鮮に対して戦略的敗北を認めて直接対話する以外方法はない」とトランプ大統領を説得することしか日本の首相にするべきことはない

北朝鮮の金正恩が、国際世論の非難や自国民の疲弊にも目もくれず、最優先で核爆頭とICBMの開発を急ぐ理由は、核保有国として認められて、アメリカと対等に不可侵交渉をしたいがためだとされている。それが北朝鮮、金正恩が生き延びる唯一の方法であると信じているからである。
もう既に核弾頭も小型化しICBMも開発済みだといくらアッピールしても、アメリカが交渉のテーブルに乗ってこないものだから、最近はグアム近海に複数のミサイルを同時に打ち込むなどと威嚇し、挑発している。それに対して、トランプ大統領は売り言葉に買い言葉のように、「やれるものならやってみよ、一瞬で火の海にして殲滅するぞ」と挑発する。

言葉だけでなく北朝鮮がさらに軍事的な挑発をエスカレートすれば、いつ戦争になってもおかしくないのが現状だと思う。

戦争になれば、日本、韓国の国民と在日、在韓を始め在アジアの米国軍人・軍属の多数が犠牲になるから、まさかアメリカが先制攻撃はしないだろうという楽観論が一般的であるが、小生は逆にそうであるからこそ、アメリカの武力行使の可能性は高いと思うのである。
つまりアメリカ本土と大多数の米国人を犠牲にせず北朝鮮を叩けるのは、今が最後のチャンスと多くのアメリカ人は考えているはずだと思うからだ。
全体の利益のためなら少数の犠牲は仕方ないと目をつむろうと考えるのは、アメリカを始め欧米諸国のテロ対策で明らかであるし、広島・長崎の原爆投下による大虐殺も、戦争を終結させるためには正しかったと、米国民の大多数は信じている。それらから考えると、アジアの島国の二つくらいが犠牲になることは彼らの良心をそれほど傷つけることはないのではないかと思えるからである。
言いかえれば、日米安保条約なんて米国にとっては、そんな程度のものでしかないのだろう。

つまり日本、韓国の一般国民の命は風前の灯状態だと言えよう。

それにも関わらず、日本の首相は、世界に先駆けて、繰り返しトランプの強硬姿勢を支持し、自ら強行成立させた安保法制・集団的自衛権のもと、「グアム攻撃はわが国の存亡の危機状態である」として、積極的にアメリカの先制攻撃やミサイル防衛に加担しようとしている。

世界中の軍事の専門家は、米軍の総力をもってしても、北朝鮮の全ミサイルを一瞬のうちに全滅させることは不可能で、必ず撃ち漏らしたものが報復的に日韓に飽和状態で飛来し反撃して来るであろうという。それとても全部は迎撃出来ないから日韓の首都や大都市、米軍基地は火の海となり、相当数の犠牲者は必然であろうという。
このような状況下では、日本の政治責任者はは米朝の軍事衝突、米国の先制攻撃は絶対に避けるように必死に外交努力するのが当然ではないのか。

所が不思議なことに、政府はおろか、野党やマスコミ、世論まで、「日本は今こそ米朝の間に入って、話し合いへ向けての外交努力をすべきである」と主張する意見はほとんど聞こえてこない。安倍首相に倣って、イージス艦が足りない、サードが必要だなど、威勢のいい意見ばかりである。
まるで開戦前夜のようなイケイケドンドンの風潮である。

アメリカは対北朝鮮の外交・軍事戦略で間違いを犯し、外交的に敗北したのである。それを事実として冷静に認め北朝鮮との直接交渉に応じるべきである。今となっては北朝鮮を核保有国として認め、相手の望むように話し合いのテーブルにつき、外交的な折衝で有利な解決を模索するべきと覚悟しなければならない。
もちろん米朝が平和条約を締結しても北朝鮮はさらなる軍拡を進めるであろうが、それはもう止めようがないのである。
今になって、「北朝鮮の核放棄が、交渉の前提条件だ」など通るはずもないのであって、米国が本気でそう考えるなら、米国の状況認識が甘すぎるのである。
北の核保有阻止については、米国は折衝・交渉の時機を逸し外交的に敗北したのである。

北朝鮮、ならびにその背後にいる中国、ロシアの軍事力に対抗するには、アメリカや西側同盟諸国は、どんなに自国の経済が疲弊しようと、さらにそれを圧倒する軍事力を保有するしかないのであるが、それもまた仕方のないことなのである。
なぜなら、世界はこれまでのとどまることのなかった戦争の歴史の中で、世界平和を保つためには、「力の均衡」という手段を選んでしまったのだから。
(小生は、どんなに綺麗ごとと言われようが、世界平和実現のためには世界中の武力放棄以外方法はないと信じているが、、。)

国民の生命・財産(それも何十、何百万人に及ぶ恐れのある)よりも自分の政治的野望(日米同盟最優先で戦争のできる国に復帰するという)が優先する首相とは、国民にとって一体何者か?
国民の命を軽んじる点では戦前の軍事内閣の首相達と同じではないか。
これは、国民の安全・安心よりも自分の嗜好、欲望を優先させた稲田前防衛相人事と同じ心理によるものだろう。
この首相にとっては、まずは自分のしたいことありきで、国民の存在は常に二の次なのだ。

一方、この存在が許されない非民主的、不正義の独裁安倍内閣を退陣に追い込む昨今の絶好のチャンスを自らの手で葬り去って、新党首選出で国民の信頼を得ようと考える民進党の状況を読めないバカさ加減を見るにつけ、民進党のレーゾンデートル(存在理由)はどう見ても無いと小生は思うのだが諸兄のご意見はいかばかりのものでありましょうや。

日本の国土と国民を心より愛おしみ、国民の生命と財産を最優先で守ろうとしない首相をいだき、それを相次ぐ自失で倒せず国民を裏切り続けた野党と、権力に屈して報道の使命を放棄したマスコミを持ってしまった日本国民は、またぞろ戦前の悲劇を被らないと誰が断言できようか。

空耳妄言㉑―今、小池都知事、稲田防衛大臣、安倍首相について辛言する

空耳のように聞き流してよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

*小池都知事は当初の政治公約を守って疑惑追及を止めるな

都議会議員選挙の直前は、小池都知事を決められない知事であるとか、豊洲の維持費が毎日数百万かかり血税の無駄使いをしているとかの批判が出ていた。
「危険で直ぐに使えないような代物を作ったのは誰だ」、という根本的な責任論をすり替えるもので、その言を、豊洲作った当事者の石原元知事が大見得を切って言うのは盗人猛々しいと思ったものだ。

さて都議選で小池都知事が率いる都民ファーストが圧勝して支持を受けたのだから、今こそオリパラも豊洲も原点に返って誰が膨大な経費の水増しを行ったか、そのどれだけを誰が掠めたかを明らかにすべきではないか。オリパラの問題の本質は、会場の選定ではなく、いつの間にか何倍にも膨れ上がった経費の問題である。豊洲も盛り土がいつ中止になったかというより、その予算分は何処に消えたか、また全体の建設費も、いつの間にか数倍にも膨れ上がったか、誰がそれを決定して誰と誰が費用のどの分を掠めたかの犯人探しの方が重要であると小生は思う。小池都知事が言った、あの黒い頭のネズミは一体誰であったのか今からでも明らかにしてほしいものである。

また石原以降の歴代知事の莫大な都税の濫費、私的流用の実体を明らかにしてほしいものである

自民都議会のドンが追いつめられて辞めれば済むという話でもあるまい。
このままウヤムヤニしてしまうのなら、小池知事も所詮は自民と同じ穴のムジナということになりはすまいか。

*稲田防衛大臣が辞めるべき問題の本質

稲田防衛相の虚言、失言から大臣の資質が問われている。
だが、その問題とされる資質の本質については、未だ誰もハッキリ言っていないので言っておこうと思う。

問題は彼女の言動というより、彼女の人格・風格・存在自体が国民の命を守るというポジションにふさわしくないのだ。防衛相にはバッドルッキングなのである。彼女の立ち居振る舞いから国民は安全・安心というより危険・不安を感じ取ってしまうのである。そこに防衛大臣の資質の問題の本質があるのである。

おそらく防衛省のトップから末端の自衛官まで自分達の長として仰ぐには不満で、全員の士気が上がらないのではないか。

一般国民が描く理想的な防衛大臣は、国家・国民の安全・安心を第一に考え、制服組の暴走はコントロールするが、常に隊員を思いやりながら、冷静でかつ豪胆な決断力と、すべての責任は一身に負う度量があり、いざ戦争となれば制服に負けない毅然さを示すくらいが理想的なイメージであろう。

稲田大臣に対しては、おそらく自衛隊という組織全体としても、大臣との心理的な乖離が極限状態になっていているのではないか。それが最近出てきた陸幕制服組からの情報漏洩の理由ではないかと思う。

*安倍晋三首相の問題はパーソナリティにあるか?

数年前から幾度となく、小生はこの欄で安倍首相の根源的な問題性を批判し、なぜそうなるかを彼のパーソナリティの面から述べてきた。
彼の精神性の基本は学業の劣等性と、祖父・岸信介へのコンプレックスにあるのではないかとして、それが思想性の無い右翼的な政治行動の原動力になっているとした。
それはそれで今でも間違っているとは思わないが、このところの森友、加計問題でもう少し見えて来たものがある。
それらから病跡学的、発達心理学的な考察をしてみると、
優秀な家系環境に生まれながらも、凡庸で学業成績も周囲の期待に応えられず(青木理著「安倍三代」から)、幼少期から余り褒められる経験なくして生育し社会人になったが、突然父親の世襲で政治の世界に入ると、思わずとんとん拍子に出世してとうとう政権をとるまでになり、それも一強という巡りあわせを得て、何でも自分の思うようになるという優越感、快感を知ってしまった。元々勉学が得意ではないから、教養としての政治学も実際の政治のあるべき姿も政界で勉強して来なかったが、秘書官などの周りの知恵者に従っていれば何でもうまく行ったので、調子に乗り過ぎて夫婦して政治を私物化するようになった。また幸運なことに強いライバルがいなかったこともあり、まわりが忖度でそれを支えてきたというのが現状ではないか。妻の昭江夫人も似たような生育環境であったから夫婦して、成長期の抑うつ感を跳ね返すように権力の快感を味わったのである。行き着くところ、政治も自分の思うように、好きか嫌いかで判断してよいと錯覚するようになったのだ。だから意図的というより当人的には自然な帰結であるから、そこに不正義や恣意的なものを自ら感じ取ることはないのだ。要は無知と幼稚が基本構造だから、そうそう改めようがないということなのだ。

それに若い頃はともかく、政権を取るようになってからの安倍晋三氏は自己愛性パーソナリティの特徴をよく体現している。権力を持つようになって、本来のパーソナリティが目覚めたのかもしれない。

自己愛性パーソナリティの特徴は、
1)過剰な自信を持ち、自分は特別な存在だと思い自己を誇大化してみせ、特別扱いを当然視する。―これまでの戦後の歴代民主内閣には無いような強硬で独裁的な政権運営を押し通してきたし、自民党総裁3選を可能にするよう党規約を変更させた。野党質問に対して、自分は血筋が違うと言わんばかりの傲慢な応答態度をみせる。
2)自己中心的で傲慢、取り巻きを求め君臨したがる。―お友達優先で、自分を持ち上げてくれる自分好みの人物で周りを固め、常にお友達内閣を作って来た。
3)他人の思いに無関心で共感性が乏しく、他人を利用価値だけで見る冷酷さがあるー利用価値が無い、自分に利益をもたらさないとみれば、自己責任だとしてISイスラム国に拉致された後藤健二氏はじめ日本人ジャーナリストを何人も見殺しにした。その他安倍内閣は全般に弱者に冷淡である。

発達心理学的にみれば、おそらく幼少時の分離個体化の頃に「誇大自己」が「親のイマーゴ」で満たされず自己愛を上手く育てられなかったのだろうが、それに強い親族コンプレックスが重なり、強い顕示承認要求となり現在のパーソナリティを作ったのではないか。
またⅰ)強がりを言う、ⅱ)平気で嘘を言う、ⅲ)言葉が軽く簡単に前言を翻す、など反社会的パーソナリティの要素は成長期に虐げられた過去の経験に根ざすものかもしれない。

そのようなパーソナリティと幼稚な性格が、防衛大臣の選任に当っても国家・国民の安全・安心というより目線より自分の都合、好みが優先してしまうし、大臣を罷免するかどうかの判断も国民、自衛隊のためというよりも自分の政権延命になるかどうかでしか考えられない現在の状態を招いているのだ。

都議選以後大手マスコミも、潮目が変わった安倍政権のマイナスになるような記事を載せるようになったが、安倍一強に楔を打ち込んだのは、元はと言えば週刊誌やネットの中で一部のジャーナリストが活躍した結果である。
大手マスコミは安倍政権維持に加担し続けてきたのである。

今気を付けなければならないことは、大手マスコミがフェイクニュースを流し世論が盛り上がったところで、政府が証拠を上げてそれを否定し、それで世論が動揺してしまい安倍内閣官房が復活するというシナリオである。
それほど既成の大手ジャーナリズムは信用できないのである。

今日にも行われるという予算委員会集中審議で安倍内閣官房は防衛省の日報非公開問題でのどんでん返しの秘策を持ち、それで追い詰められた森加計問題を逃げ切ろうとしているかもしれないのだ。

自己愛性パーソナリティのもう一つの特徴は、強気な割には実は内面が弱く打たれ弱いことである。石原慎太郎元都知事は自己愛性パーソナリティの典型であるから、責められた時の反応、情けなく逃げ回った、あの打たれ弱さを見ればよく分かる。
安倍首相も第一次内閣では世論に攻撃されると簡単に内閣を放り投げた過去がある。

さて今度はいつまで耐えられるか見ものではある。

ところで森友・加計学園問題は、韓国の朴元大統領の弾劾、逮捕、訴追案件と基本的に同類ではないか。
我が国では安倍首相の退陣、逮捕、訴追される可能性が話題にもならないのも不思議でではないか。

空耳妄言⑳ 安倍政権内閣官房は基本的に存在悪である ー聞き流しても良いが、誰かが呟いたほうがいいような話もあるー

安倍政権、安倍内閣官房を巡る問題が噴出していて、森友問題はいつの間にか影をひそめ、加計学園獣医学部問題も稲田防衛相失言やら下村幹事長代理の不正献金問題や都議選やらでうやむやになりそうな気配になってきた。
一つ問題が起きると、つられるようにまた新しい問題が発生し、それが前の問題を消滅して行く現象は、量子論で粒子、反粒子が瞬時に生じて、瞬時に消滅していく対生成・消滅現象を想起させるが、安倍問題はプラスマイナスの対ではなく、すべてがマイナス因子であるところが根本的に異なっている。
大事なことは安倍内閣官房の一挙手一動、個々の事象に関心を奪われ過ぎるのではなく、起きてくる事象に共通して通底するものを見出し、彼等の行動原理を見つけ問題の本質を見定めることが重要であろう。

国民世論や野党の意見を力ずくでねじ伏せて国民の総意である平和主義や国民主権を脅かすような特定秘密法、集団的自衛権の行使容認、安保関連法案、原発再稼働、沖縄米軍軍事基地紛争の弾圧,共謀罪等を強行する。また不公正な行政の在り方にいくつもの疑惑が生じても、認めない、調べない、謝らないというカエルの面3原則で事実を隠ぺいし、民主主義の根幹である「事実」の開示をしないし、説明責任を果たそうともしない。

また政治の命ともいえる言論を軽んじ、安倍内閣官房の言葉は耐えられない程軽い。
首相は、国会の質疑でも本質ははぐらかし、相手を揶揄し侮辱し、あげくには野次を飛ばす品性の無さ。つい最近も、「国民の疑問には丁寧に説明していく、真摯に説明責任を果たす」と言いながらも実際には、行政文書は開示しないし、証人喚問も、閉会中審議も拒否している。稲田防衛相の憲法違反発言釈明も下村幹事長代理の不正献金弁明も余りに薄っぺらい強弁、詭弁に終始している。
民意に耳を傾ける、言ったことは守る、事実は伝える、という民主主義を成立させる根本的な姿勢が全く見られないのである。

一部の側近を重用し、お友達やお気に入りを優先させ権力を夫婦で私物化する。(森友、加計では自ら手を汚さないよう、私意を忖度させ、そのあげく非難されれば、じゃあいくつも獣医学部を作ればいいんでしょと、側近の入れ智恵が無いとトンデモナイ方向違いなことを言いだし、何でも自分の意向でまかり通ると思っていたりする、要するに幼稚なのである)すべてが身内、お友達、お気に入り優先の不公平さをごり押して恥じるところが無い。(秘蔵っ子と言われる萩生田官房副長官や稲田防衛相は守るが、大したお気に入りではない大臣や官僚はすぐに切リ捨てる)。

いとも簡単に司法に介入して臆するところが無い。(原発再稼働裁判への人事介入、森友捜査の検察圧力、TBS元局長の凖強姦事件の検察もみ消し圧力等)
結論的に言えば、民主主義における3権分立の重要性の認識がまるで無く、もっといえば正義感が欠如しているのだろう。

一方でアメリカのトランプ政権と同様にマスコミを敵視し、分断をはかりお気に入りメディアを使って支配しようとする。マスコミ業界の人事に介入して圧力を掛け、マスコミを利用して世論操作をはかる。

これらから安倍内閣・官房の政治行動に共通して見えてくるものは、1)民主主義を守る姿勢が全くない、2)自分の意向を忖度する取り巻きだけを重用して、権力を私物化して臆するところが無い、3)監視社会を作って相手の弱みを握り、脅し・すかしのヤクザまがいの強権支配をしようとする、4)ジャーナリズムを敵視し、一部のお気に入りメディアを使って情報を支配しようとする4)どんなに乱暴な国会運営をしても、国民は時間が経てば忘れて支持率は回復すると考えている(成功体験として)、などである。

安倍内閣官房のこの様な体質は、安倍チルドレンという子飼い議員たちにも良く浸透しているのか、未公開株の武藤貴也、育休不倫の宮崎謙介、長靴の務台俊介、ガン患者の大西英雄、自己責任の今村復興大臣、暴言・暴力の豊田真由子議員と愚挙、暴挙に枚挙にいとまがない。
そして、稲田防衛大臣の自衛隊発言、下村幹事長代理の政治資金不正献金問題に対する国民を舐めきった弁明と政府の対応である。
これらすべての出来事も安倍内閣の政治姿勢の本質を見れば、大きく違和感は感じない。

安倍首相,菅官房長官はじめ政権トップには、まず民主主義とは何か、なぜ民主主義が生まれて来たかを歴史学、社会学、政治・経済学の初歩から勉強して頂くしかないだろう。さしあたり義務教育からやり直すしかないのではないか。
そして、嘘をつくことは恥ずかしいことだということを学んでもらわねばなるまい。
お勉強が済むまでは政治の場から退出して頂くのが最も国民のためになる政治行動であろう。

安倍一強の陰りを受けて、後ガマを狙っているのが麻生副首相と石破元地方再生相という。
麻生氏は、官僚の書いた原稿を読むための国語の勉強が優先されるべきであろうし、あの傲慢さと知性の低さはもう勘弁と思う国民も少なくないであろう。
石破氏も、この民主主義と平和主義の国家的危機というのに、三白眼で上目使いして、お題目をぼそぼそ言うだけで、安倍首相の顔色をうかがうばかりでは、国民の信頼は得られないであろう。
今求められるのは民主主義を信条とし、国家国民のために信念を持って公平な政治を担う人物だ。この好機に自民党内でクーデターを起こせないような人物では駄目なのだ。

安倍内閣が馬脚を露呈したと同時に、誰の目にも明らかになったことが、マスコミの時の権力におもねるという体質だ。読売、産経は既に周知のことにしても、他社もいよいよの段になると論調を変え、矛先を移して火消しに走る。国会閉会後の、マスコミ各社の論調を見よ、国民の関心は未だ高いと言うのに、加計問題はすっかり影を潜めてきた。
そして現在、安倍内閣のファッショ的政権の問題性を、永田町(政治、内閣官房)と霞が関(官僚組織)の権力闘争に刷り変えようとしているように見える。
時には権力に批判的な論調を張るテレビのキャスターにしろ評論家、知識人にても同様である。所詮彼らは新聞社や放送局の会社員であったり大学の教員であり、組織の中で上手く出世して今のポジションを得てきた人であり、また評論家達も今の体制の中で立場を確保し収入を得て生活しているのだから、その生活を失う危険を冒すほど信条・信念を貫かないのは無理からぬことかもしれないが、、。それでも上杉隆や青木理のように信念を貫く、節操のあるジャーナリストも居ないわけではない。

では我々国民はどこから判断材料となる事実ファクトを得ることができるのか。
民主主義を守るためには、権力に屈しないで、事実を掴み国民に提供してくれる報道機関が必須であるが、既存のマスコミに期待できない今、権力に屈しないピュアなジャーナリズムを自ら育てるしかないだろう。国民の1パーセントが読者(会員)になりクラウドで資金を募れば十分可能ではないか。それにこたえるジャーナリストは必ずいるはずだと信じたい。上杉隆や東京新聞の望月衣塑子記者などを見ると、少ないが可能性が見えてくる。

悪事、都合の悪いこと、不公正なことが事実、あっても、無かったと言い張るのが正解なんて世の中に、大人から子供までがそう思うような社会になったら、この国はどうなってしまうのか。
それが、安倍晋三の言う「美しい日本」なのか。

戦争というものをまるっきり知らず、かといって歴史からも学ぼうともしない(せいぜいお爺ちゃんから聞いたくらいの知識で)、かつ哲学、自然科学、社会、政治、経済学などリベラルアーツを軽んじる政治家たちが、今の日本の政治を牛耳っているのだ。
日本国民は、義務教育レベルの民主主義すら理解できない愚昧で、嘘を恥じない品性の無い人物たちに、一体いつからこの国を任せてしまったのだろう。

致命的なのは、それでも危機感持つことなく、政権を変えようとしない国民なのだ。
既成秩序に反抗し、社会の不正に怒って、まず行動を起こすのは、いつの時代も若者の特権のはずだ。日本の若者は一体どこに行ってしまったというのか。

(2017.7.2.都議選開票直前に記)

空耳妄言⑲―まるで「やくざ」と変わらない安倍内閣官房の精神構造

*空耳のように聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいい話もある

しばらくブログを休みましたが、また再開しますのでよろしくお願い致します。

休むことによって、小さな出来事にいちいち反応しなくて済み、ものごとを少し余裕を持って見られるようになった気がする。
現在、大学入試の在り方を始め、教育改革の議論が中央教育審議会で進められているが、会長の安西祐一元慶応義塾塾長は、「受け身の教育から能動的な学びへの転換」を目標に掲げており、テストの方向も「事象を俯瞰し、情報を抽出・統合し、問題を発見し、理解する、問題の発見・解決プロセスの評価」になると言っている。(日経新聞2017.6.5朝刊)
この捉え方は世の中の様々な出来事の理解にも大事なことであり、この視点を踏まえて昨今の森友学園、加計学園問題を見てみようと思う。

結論から言えば、つまるところは、安倍内閣・官邸の度し難い体質に問題の根幹があったと言えよう。
森友学園の籠池氏や前文科省事務次官前川氏に対する官邸・官房の対応は、まるでやくざの振る舞いと同じだなと思ったとき、すべてが腑に落ちたのである。
忖度という無言の圧力は、「言わずとも、分かっているだろうな」というやくざの得意な強要であり、言うことを聞かなければ「ばらしてもいいのかい」という相手の弱みを握って脅しで支配しようとするところは、官僚のスキャンダルをネタに黙らせようとするのと酷似しているではないか。
これは官邸・官房のモラルの低さから来るが、それは、一つには現在の官邸・官房の最高クラスの権力者が揃って無教養であることも原因の一つであるかもしれない。
彼等は、日本の高卒以上の学歴ならまず誰でも知っている「瓜田に履を入れず、李下に冠を正さず」という君子行の一行すら知らないのではないかと思われる。言葉位は聞きかじりで知っているかもしれないが、少なくとも理解し身に付いていないことは確かである。
権力者は、とりわけ誤解を招かぬよう、人一倍慎重に身の振る舞いをすべきであると教えている。
法に触れる触れないという話ではないのだ。

何故このような二つのスクールゲイト事件が起きたかは、週刊新潮6月8日号のコラム「管見妄語」で、数学者の藤原正彦が簡潔に言い当てている。一つは2014年に内閣府・官房が各省庁の局長以上の人事権を握ったことである。これで憲法で国民の奉仕者であれとされた官僚の意識は完全に内閣への奉仕者に変わった。官房長官は高級官僚の生殺与奪の人事権と、スキャンダルを握ることで霞が関を完全に飼い犬化したのである。役人は内閣府・官房の意向を忖度してこそ出世の道が開かれるし、弱みを握られていては、何も抵抗できないであろう。
もう一つは、国家戦略特区という存在だ。これは小泉内閣時代に取り巻きの新自由主義者達がアメリカの要求に乗っかって作った超法規的な政策だが、パソナの竹中平蔵、オリックスの宮内義彦を始めトリクルダウン理論を唱えた当初のメンバーが今だに残っていて、利益相反お構いなしで、内閣府・官房の衣を借りて横車を押し利益誘導しているのである。

安倍内閣が何故これほどまでに強権的である理由を安倍首相と菅官房長官を病跡学的に見るのも面白い。
Wikipediaによれば、安倍晋三は元外務大臣安倍晋太郎の長男、昭和の妖怪と言われた岸元総理大臣の孫として生れ、成蹊小学校、中、高、大学法学部を卒業、カリフォルニアの英語学校から南カリフォリニア大学に留学するもあえなく中退。神戸製鋼に3年間勤務、その後父親の秘書官を1年勤め、父親の死に伴って世襲で衆議院議員に当選、その後はとんとん拍子で総理大臣になった。

著書「安倍三代」を書いた青木理によれば祖父寛、父晋太郎に比べ安倍晋三には書くべきエピソードが何も無かったという。思想・信条にも行動にも書くような履歴が何もないというのである。極めて凡庸で、ただ育ちのいいお坊ちゃんでしかなく政治信条は岸信介の劣化コピーでしかないという。要はサラブレッドの家系にありながら箸にも棒にもかからぬ劣等生であり、多少なりとも歪んだコンプレックスを持って成人したことは間違いないだろう。一方妻の昭江夫人は、森永製菓の創業家に生を受けたが、これまた聖心では有名な遊び人で落第生であったことは、聖心関係者では良く知られた話である。ま、ありていに言えば、安倍夫妻は超セレブ層のバカップルであったというところか。

菅官房長官は、大変な成り上がりである。秋田の農家の生まれで、地元の高校卒業後、集団就職のように上京し段ボール工場で働き始め、やがて政治家を夢見るようになり、金を貯め法政大学に入学、卒業し、同門の縁で政治家の秘書になり、横浜市会議員から国政に参入し、縁故、コネも無く、実力で内閣のナンバーツーに登りつめてきた人物である。
2人は生まれも育ちも違い、思いも違うだろうが、絵に描いたような優秀なエリートにコンプレックスがあると思うのは、あながち間違ってはいまい。小生は、このコンビが前川氏のような育ちも頭もいいエリート官僚をなりふり構わず力で抑えようとするエネルギーの源泉はそのコンプレックスにあるのではないかとみている。また年齢が、菅が8歳上なのもコンビのバランスがいいのであろう。

青木理によれば、劣化コピーに過ぎない世襲政治家である安倍晋三程度の人物に、なぜ戦後70年日本の政治が営々と守りぬいてきた平和への矜持がいとも簡単にくずされてしまうのか、どうしても理解出来ないという。

あえて言えば私の理解するところは、第一は野党の無能であり、第二は与党内政治家の無気力であり、第三はマスコミの無責任さである。特にマスコミの劣化は目に余るものがある。読売新聞が、内閣の広報機関であるばかりか、反政府的発言をする者のスキャンダルを記事にして、ブラックジャーナリズムに化すようでは何をかいわんやである。
TBSの政治記者のように、政府の提灯記事を書いてさえいれば、凖強姦罪も見逃されるような世の中であっていいのか。(週刊新潮6月8日号)
そういえば最近、元共同通信の田崎某のように臆面もなく露骨に安倍首相夫妻の肩入れをする政治評論家が現れてきたが、そのせいだろうか。

そして第四が国民のしらけである。このしらけが、安保法制も秘密法案も、共謀罪も強行採決を許してきた最大の原因である。このままでは憲法改正ですら、難なく成立してしまう恐れが出てきた。

ではどうするか。

まずは、わが国にもアメリカのような独立検察官制度を導入することである。行政から独立した調査機関を作らないと、「調査したが、見つからなかった。開示文章は真っ黒けののり弁状態。その必要はないと証人喚問の拒否。」などがまかり通り、現状はまるで容疑者に犯人探しの権限を与えているようなものだからだ。

そして我々がレジリエンス(心の逆境力、再起力)の一つである共感性を磨き嘘を見抜く力をつけることだ。
共感性とは、人が何を考え何を感じているかを心理的・感情的状態を示す非言語的情報、つまり顔の表情や声のトーン、ボディランゲッジなどから読み取ることである。
言葉の字面では何とでも言い繕えるのである。
例えば、この間の加計学園に関わる文科省の忖度要請文書の有無については、前川前事務次官の証言を信じるか、菅官房長官の談話を信じるかは、結局は共感力で判断するしかないのである。

そして根本的には我々が、自分達の明日の生活は政治が左右するという自覚を持つことだ。
気が付いた時には手遅れであったことは、しばしば歴史が教えるところである。

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