ホームへ戻る

ラプラスの妄想

空耳妄言㉒:安倍首相をいだいてしまった日本国民の悲劇ー空耳のように聞き流してよいが、誰かが呟いたほうがいいような話もある。

*「北朝鮮に対して戦略的敗北を認めて直接対話する以外方法はない」とトランプ大統領を説得することしか日本の首相にするべきことはない

北朝鮮の金正恩が、国際世論の非難や自国民の疲弊にも目もくれず、最優先で核爆頭とICBMの開発を急ぐ理由は、核保有国として認められて、アメリカと対等に不可侵交渉をしたいがためだとされている。それが北朝鮮、金正恩が生き延びる唯一の方法であると信じているからである。
もう既に核弾頭も小型化しICBMも開発済みだといくらアッピールしても、アメリカが交渉のテーブルに乗ってこないものだから、最近はグアム近海に複数のミサイルを同時に打ち込むなどと威嚇し、挑発している。それに対して、トランプ大統領は売り言葉に買い言葉のように、「やれるものならやってみよ、一瞬で火の海にして殲滅するぞ」と挑発する。

言葉だけでなく北朝鮮がさらに軍事的な挑発をエスカレートすれば、いつ戦争になってもおかしくないのが現状だと思う。

戦争になれば、日本、韓国の国民と在日、在韓を始め在アジアの米国軍人・軍属の多数が犠牲になるから、まさかアメリカが先制攻撃はしないだろうという楽観論が一般的であるが、小生は逆にそうであるからこそ、アメリカの武力行使の可能性は高いと思うのである。
つまりアメリカ本土と大多数の米国人を犠牲にせず北朝鮮を叩けるのは、今が最後のチャンスと多くのアメリカ人は考えているはずだと思うからだ。
全体の利益のためなら少数の犠牲は仕方ないと目をつむろうと考えるのは、アメリカを始め欧米諸国のテロ対策で明らかであるし、広島・長崎の原爆投下による大虐殺も、戦争を終結させるためには正しかったと、米国民の大多数は信じている。それらから考えると、アジアの島国の二つくらいが犠牲になることは彼らの良心をそれほど傷つけることはないのではないかと思えるからである。
言いかえれば、日米安保条約なんて米国にとっては、そんな程度のものでしかないのだろう。

つまり日本、韓国の一般国民の命は風前の灯状態だと言えよう。

それにも関わらず、日本の首相は、世界に先駆けて、繰り返しトランプの強硬姿勢を支持し、自ら強行成立させた安保法制・集団的自衛権のもと、「グアム攻撃はわが国の存亡の危機状態である」として、積極的にアメリカの先制攻撃やミサイル防衛に加担しようとしている。

世界中の軍事の専門家は、米軍の総力をもってしても、北朝鮮の全ミサイルを一瞬のうちに全滅させることは不可能で、必ず撃ち漏らしたものが報復的に日韓に飽和状態で飛来し反撃して来るであろうという。それとても全部は迎撃出来ないから日韓の首都や大都市、米軍基地は火の海となり、相当数の犠牲者は必然であろうという。
このような状況下では、日本の政治責任者はは米朝の軍事衝突、米国の先制攻撃は絶対に避けるように必死に外交努力するのが当然ではないのか。

所が不思議なことに、政府はおろか、野党やマスコミ、世論まで、「日本は今こそ米朝の間に入って、話し合いへ向けての外交努力をすべきである」と主張する意見はほとんど聞こえてこない。安倍首相に倣って、イージス艦が足りない、サードが必要だなど、威勢のいい意見ばかりである。
まるで開戦前夜のようなイケイケドンドンの風潮である。

アメリカは対北朝鮮の外交・軍事戦略で間違いを犯し、外交的に敗北したのである。それを事実として冷静に認め北朝鮮との直接交渉に応じるべきである。今となっては北朝鮮を核保有国として認め、相手の望むように話し合いのテーブルにつき、外交的な折衝で有利な解決を模索するべきと覚悟しなければならない。
もちろん米朝が平和条約を締結しても北朝鮮はさらなる軍拡を進めるであろうが、それはもう止めようがないのである。
今になって、「北朝鮮の核放棄が、交渉の前提条件だ」など通るはずもないのであって、米国が本気でそう考えるなら、米国の状況認識が甘すぎるのである。
北の核保有阻止については、米国は折衝・交渉の時機を逸し外交的に敗北したのである。

北朝鮮、ならびにその背後にいる中国、ロシアの軍事力に対抗するには、アメリカや西側同盟諸国は、どんなに自国の経済が疲弊しようと、さらにそれを圧倒する軍事力を保有するしかないのであるが、それもまた仕方のないことなのである。
なぜなら、世界はこれまでのとどまることのなかった戦争の歴史の中で、世界平和を保つためには、「力の均衡」という手段を選んでしまったのだから。
(小生は、どんなに綺麗ごとと言われようが、世界平和実現のためには世界中の武力放棄以外方法はないと信じているが、、。)

国民の生命・財産(それも何十、何百万人に及ぶ恐れのある)よりも自分の政治的野望(日米同盟最優先で戦争のできる国に復帰するという)が優先する首相とは、国民にとって一体何者か?
国民の命を軽んじる点では戦前の軍事内閣の首相達と同じではないか。
これは、国民の安全・安心よりも自分の嗜好、欲望を優先させた稲田前防衛相人事と同じ心理によるものだろう。
この首相にとっては、まずは自分のしたいことありきで、国民の存在は常に二の次なのだ。

一方、この存在が許されない非民主的、不正義の独裁安倍内閣を退陣に追い込む昨今の絶好のチャンスを自らの手で葬り去って、新党首選出で国民の信頼を得ようと考える民進党の状況を読めないバカさ加減を見るにつけ、民進党のレーゾンデートル(存在理由)はどう見ても無いと小生は思うのだが諸兄のご意見はいかばかりのものでありましょうや。

日本の国土と国民を心より愛おしみ、国民の生命と財産を最優先で守ろうとしない首相をいだき、それを相次ぐ自失で倒せず国民を裏切り続けた野党と、権力に屈して報道の使命を放棄したマスコミを持ってしまった日本国民は、またぞろ戦前の悲劇を被らないと誰が断言できようか。

空耳妄言㉑―今、小池都知事、稲田防衛大臣、安倍首相について辛言する

空耳のように聞き流してよいが、誰かが囁いたほうがいいような話もある

*小池都知事は当初の政治公約を守って疑惑追及を止めるな

都議会議員選挙の直前は、小池都知事を決められない知事であるとか、豊洲の維持費が毎日数百万かかり血税の無駄使いをしているとかの批判が出ていた。
「危険で直ぐに使えないような代物を作ったのは誰だ」、という根本的な責任論をすり替えるもので、その言を、豊洲作った当事者の石原元知事が大見得を切って言うのは盗人猛々しいと思ったものだ。

さて都議選で小池都知事が率いる都民ファーストが圧勝して支持を受けたのだから、今こそオリパラも豊洲も原点に返って誰が膨大な経費の水増しを行ったか、そのどれだけを誰が掠めたかを明らかにすべきではないか。オリパラの問題の本質は、会場の選定ではなく、いつの間にか何倍にも膨れ上がった経費の問題である。豊洲も盛り土がいつ中止になったかというより、その予算分は何処に消えたか、また全体の建設費も、いつの間にか数倍にも膨れ上がったか、誰がそれを決定して誰と誰が費用のどの分を掠めたかの犯人探しの方が重要であると小生は思う。小池都知事が言った、あの黒い頭のネズミは一体誰であったのか今からでも明らかにしてほしいものである。

また石原以降の歴代知事の莫大な都税の濫費、私的流用の実体を明らかにしてほしいものである

自民都議会のドンが追いつめられて辞めれば済むという話でもあるまい。
このままウヤムヤニしてしまうのなら、小池知事も所詮は自民と同じ穴のムジナということになりはすまいか。

*稲田防衛大臣が辞めるべき問題の本質

稲田防衛相の虚言、失言から大臣の資質が問われている。
だが、その問題とされる資質の本質については、未だ誰もハッキリ言っていないので言っておこうと思う。

問題は彼女の言動というより、彼女の人格・風格・存在自体が国民の命を守るというポジションにふさわしくないのだ。防衛相にはバッドルッキングなのである。彼女の立ち居振る舞いから国民は安全・安心というより危険・不安を感じ取ってしまうのである。そこに防衛大臣の資質の問題の本質があるのである。

おそらく防衛省のトップから末端の自衛官まで自分達の長として仰ぐには不満で、全員の士気が上がらないのではないか。

一般国民が描く理想的な防衛大臣は、国家・国民の安全・安心を第一に考え、制服組の暴走はコントロールするが、常に隊員を思いやりながら、冷静でかつ豪胆な決断力と、すべての責任は一身に負う度量があり、いざ戦争となれば制服に負けない毅然さを示すくらいが理想的なイメージであろう。

稲田大臣に対しては、おそらく自衛隊という組織全体としても、大臣との心理的な乖離が極限状態になっていているのではないか。それが最近出てきた陸幕制服組からの情報漏洩の理由ではないかと思う。

*安倍晋三首相の問題はパーソナリティにあるか?

数年前から幾度となく、小生はこの欄で安倍首相の根源的な問題性を批判し、なぜそうなるかを彼のパーソナリティの面から述べてきた。
彼の精神性の基本は学業の劣等性と、祖父・岸信介へのコンプレックスにあるのではないかとして、それが思想性の無い右翼的な政治行動の原動力になっているとした。
それはそれで今でも間違っているとは思わないが、このところの森友、加計問題でもう少し見えて来たものがある。
それらから病跡学的、発達心理学的な考察をしてみると、
優秀な家系環境に生まれながらも、凡庸で学業成績も周囲の期待に応えられず(青木理著「安倍三代」から)、幼少期から余り褒められる経験なくして生育し社会人になったが、突然父親の世襲で政治の世界に入ると、思わずとんとん拍子に出世してとうとう政権をとるまでになり、それも一強という巡りあわせを得て、何でも自分の思うようになるという優越感、快感を知ってしまった。元々勉学が得意ではないから、教養としての政治学も実際の政治のあるべき姿も政界で勉強して来なかったが、秘書官などの周りの知恵者に従っていれば何でもうまく行ったので、調子に乗り過ぎて夫婦して政治を私物化するようになった。また幸運なことに強いライバルがいなかったこともあり、まわりが忖度でそれを支えてきたというのが現状ではないか。妻の昭江夫人も似たような生育環境であったから夫婦して、成長期の抑うつ感を跳ね返すように権力の快感を味わったのである。行き着くところ、政治も自分の思うように、好きか嫌いかで判断してよいと錯覚するようになったのだ。だから意図的というより当人的には自然な帰結であるから、そこに不正義や恣意的なものを自ら感じ取ることはないのだ。要は無知と幼稚が基本構造だから、そうそう改めようがないということなのだ。

それに若い頃はともかく、政権を取るようになってからの安倍晋三氏は自己愛性パーソナリティの特徴をよく体現している。権力を持つようになって、本来のパーソナリティが目覚めたのかもしれない。

自己愛性パーソナリティの特徴は、
1)過剰な自信を持ち、自分は特別な存在だと思い自己を誇大化してみせ、特別扱いを当然視する。―これまでの戦後の歴代民主内閣には無いような強硬で独裁的な政権運営を押し通してきたし、自民党総裁3選を可能にするよう党規約を変更させた。野党質問に対して、自分は血筋が違うと言わんばかりの傲慢な応答態度をみせる。
2)自己中心的で傲慢、取り巻きを求め君臨したがる。―お友達優先で、自分を持ち上げてくれる自分好みの人物で周りを固め、常にお友達内閣を作って来た。
3)他人の思いに無関心で共感性が乏しく、他人を利用価値だけで見る冷酷さがあるー利用価値が無い、自分に利益をもたらさないとみれば、自己責任だとしてISイスラム国に拉致された後藤健二氏はじめ日本人ジャーナリストを何人も見殺しにした。その他安倍内閣は全般に弱者に冷淡である。

発達心理学的にみれば、おそらく幼少時の分離個体化の頃に「誇大自己」が「親のイマーゴ」で満たされず自己愛を上手く育てられなかったのだろうが、それに強い親族コンプレックスが重なり、強い顕示承認要求となり現在のパーソナリティを作ったのではないか。
またⅰ)強がりを言う、ⅱ)平気で嘘を言う、ⅲ)言葉が軽く簡単に前言を翻す、など反社会的パーソナリティの要素は成長期に虐げられた過去の経験に根ざすものかもしれない。

そのようなパーソナリティと幼稚な性格が、防衛大臣の選任に当っても国家・国民の安全・安心というより目線より自分の都合、好みが優先してしまうし、大臣を罷免するかどうかの判断も国民、自衛隊のためというよりも自分の政権延命になるかどうかでしか考えられない現在の状態を招いているのだ。

都議選以後大手マスコミも、潮目が変わった安倍政権のマイナスになるような記事を載せるようになったが、安倍一強に楔を打ち込んだのは、元はと言えば週刊誌やネットの中で一部のジャーナリストが活躍した結果である。
大手マスコミは安倍政権維持に加担し続けてきたのである。

今気を付けなければならないことは、大手マスコミがフェイクニュースを流し世論が盛り上がったところで、政府が証拠を上げてそれを否定し、それで世論が動揺してしまい安倍内閣官房が復活するというシナリオである。
それほど既成の大手ジャーナリズムは信用できないのである。

今日にも行われるという予算委員会集中審議で安倍内閣官房は防衛省の日報非公開問題でのどんでん返しの秘策を持ち、それで追い詰められた森加計問題を逃げ切ろうとしているかもしれないのだ。

自己愛性パーソナリティのもう一つの特徴は、強気な割には実は内面が弱く打たれ弱いことである。石原慎太郎元都知事は自己愛性パーソナリティの典型であるから、責められた時の反応、情けなく逃げ回った、あの打たれ弱さを見ればよく分かる。
安倍首相も第一次内閣では世論に攻撃されると簡単に内閣を放り投げた過去がある。

さて今度はいつまで耐えられるか見ものではある。

ところで森友・加計学園問題は、韓国の朴元大統領の弾劾、逮捕、訴追案件と基本的に同類ではないか。
我が国では安倍首相の退陣、逮捕、訴追される可能性が話題にもならないのも不思議でではないか。

空耳妄言⑳ 安倍政権内閣官房は基本的に存在悪である ー聞き流しても良いが、誰かが呟いたほうがいいような話もあるー

安倍政権、安倍内閣官房を巡る問題が噴出していて、森友問題はいつの間にか影をひそめ、加計学園獣医学部問題も稲田防衛相失言やら下村幹事長代理の不正献金問題や都議選やらでうやむやになりそうな気配になってきた。
一つ問題が起きると、つられるようにまた新しい問題が発生し、それが前の問題を消滅して行く現象は、量子論で粒子、反粒子が瞬時に生じて、瞬時に消滅していく対生成・消滅現象を想起させるが、安倍問題はプラスマイナスの対ではなく、すべてがマイナス因子であるところが根本的に異なっている。
大事なことは安倍内閣官房の一挙手一動、個々の事象に関心を奪われ過ぎるのではなく、起きてくる事象に共通して通底するものを見出し、彼等の行動原理を見つけ問題の本質を見定めることが重要であろう。

国民世論や野党の意見を力ずくでねじ伏せて国民の総意である平和主義や国民主権を脅かすような特定秘密法、集団的自衛権の行使容認、安保関連法案、原発再稼働、沖縄米軍軍事基地紛争の弾圧,共謀罪等を強行する。また不公正な行政の在り方にいくつもの疑惑が生じても、認めない、調べない、謝らないというカエルの面3原則で事実を隠ぺいし、民主主義の根幹である「事実」の開示をしないし、説明責任を果たそうともしない。

また政治の命ともいえる言論を軽んじ、安倍内閣官房の言葉は耐えられない程軽い。
首相は、国会の質疑でも本質ははぐらかし、相手を揶揄し侮辱し、あげくには野次を飛ばす品性の無さ。つい最近も、「国民の疑問には丁寧に説明していく、真摯に説明責任を果たす」と言いながらも実際には、行政文書は開示しないし、証人喚問も、閉会中審議も拒否している。稲田防衛相の憲法違反発言釈明も下村幹事長代理の不正献金弁明も余りに薄っぺらい強弁、詭弁に終始している。
民意に耳を傾ける、言ったことは守る、事実は伝える、という民主主義を成立させる根本的な姿勢が全く見られないのである。

一部の側近を重用し、お友達やお気に入りを優先させ権力を夫婦で私物化する。(森友、加計では自ら手を汚さないよう、私意を忖度させ、そのあげく非難されれば、じゃあいくつも獣医学部を作ればいいんでしょと、側近の入れ智恵が無いとトンデモナイ方向違いなことを言いだし、何でも自分の意向でまかり通ると思っていたりする、要するに幼稚なのである)すべてが身内、お友達、お気に入り優先の不公平さをごり押して恥じるところが無い。(秘蔵っ子と言われる萩生田官房副長官や稲田防衛相は守るが、大したお気に入りではない大臣や官僚はすぐに切リ捨てる)。

いとも簡単に司法に介入して臆するところが無い。(原発再稼働裁判への人事介入、森友捜査の検察圧力、TBS元局長の凖強姦事件の検察もみ消し圧力等)
結論的に言えば、民主主義における3権分立の重要性の認識がまるで無く、もっといえば正義感が欠如しているのだろう。

一方でアメリカのトランプ政権と同様にマスコミを敵視し、分断をはかりお気に入りメディアを使って支配しようとする。マスコミ業界の人事に介入して圧力を掛け、マスコミを利用して世論操作をはかる。

これらから安倍内閣・官房の政治行動に共通して見えてくるものは、1)民主主義を守る姿勢が全くない、2)自分の意向を忖度する取り巻きだけを重用して、権力を私物化して臆するところが無い、3)監視社会を作って相手の弱みを握り、脅し・すかしのヤクザまがいの強権支配をしようとする、4)ジャーナリズムを敵視し、一部のお気に入りメディアを使って情報を支配しようとする4)どんなに乱暴な国会運営をしても、国民は時間が経てば忘れて支持率は回復すると考えている(成功体験として)、などである。

安倍内閣官房のこの様な体質は、安倍チルドレンという子飼い議員たちにも良く浸透しているのか、未公開株の武藤貴也、育休不倫の宮崎謙介、長靴の務台俊介、ガン患者の大西英雄、自己責任の今村復興大臣、暴言・暴力の豊田真由子議員と愚挙、暴挙に枚挙にいとまがない。
そして、稲田防衛大臣の自衛隊発言、下村幹事長代理の政治資金不正献金問題に対する国民を舐めきった弁明と政府の対応である。
これらすべての出来事も安倍内閣の政治姿勢の本質を見れば、大きく違和感は感じない。

安倍首相,菅官房長官はじめ政権トップには、まず民主主義とは何か、なぜ民主主義が生まれて来たかを歴史学、社会学、政治・経済学の初歩から勉強して頂くしかないだろう。さしあたり義務教育からやり直すしかないのではないか。
そして、嘘をつくことは恥ずかしいことだということを学んでもらわねばなるまい。
お勉強が済むまでは政治の場から退出して頂くのが最も国民のためになる政治行動であろう。

安倍一強の陰りを受けて、後ガマを狙っているのが麻生副首相と石破元地方再生相という。
麻生氏は、官僚の書いた原稿を読むための国語の勉強が優先されるべきであろうし、あの傲慢さと知性の低さはもう勘弁と思う国民も少なくないであろう。
石破氏も、この民主主義と平和主義の国家的危機というのに、三白眼で上目使いして、お題目をぼそぼそ言うだけで、安倍首相の顔色をうかがうばかりでは、国民の信頼は得られないであろう。
今求められるのは民主主義を信条とし、国家国民のために信念を持って公平な政治を担う人物だ。この好機に自民党内でクーデターを起こせないような人物では駄目なのだ。

安倍内閣が馬脚を露呈したと同時に、誰の目にも明らかになったことが、マスコミの時の権力におもねるという体質だ。読売、産経は既に周知のことにしても、他社もいよいよの段になると論調を変え、矛先を移して火消しに走る。国会閉会後の、マスコミ各社の論調を見よ、国民の関心は未だ高いと言うのに、加計問題はすっかり影を潜めてきた。
そして現在、安倍内閣のファッショ的政権の問題性を、永田町(政治、内閣官房)と霞が関(官僚組織)の権力闘争に刷り変えようとしているように見える。
時には権力に批判的な論調を張るテレビのキャスターにしろ評論家、知識人にても同様である。所詮彼らは新聞社や放送局の会社員であったり大学の教員であり、組織の中で上手く出世して今のポジションを得てきた人であり、また評論家達も今の体制の中で立場を確保し収入を得て生活しているのだから、その生活を失う危険を冒すほど信条・信念を貫かないのは無理からぬことかもしれないが、、。それでも上杉隆や青木理のように信念を貫く、節操のあるジャーナリストも居ないわけではない。

では我々国民はどこから判断材料となる事実ファクトを得ることができるのか。
民主主義を守るためには、権力に屈しないで、事実を掴み国民に提供してくれる報道機関が必須であるが、既存のマスコミに期待できない今、権力に屈しないピュアなジャーナリズムを自ら育てるしかないだろう。国民の1パーセントが読者(会員)になりクラウドで資金を募れば十分可能ではないか。それにこたえるジャーナリストは必ずいるはずだと信じたい。上杉隆や東京新聞の望月衣塑子記者などを見ると、少ないが可能性が見えてくる。

悪事、都合の悪いこと、不公正なことが事実、あっても、無かったと言い張るのが正解なんて世の中に、大人から子供までがそう思うような社会になったら、この国はどうなってしまうのか。
それが、安倍晋三の言う「美しい日本」なのか。

戦争というものをまるっきり知らず、かといって歴史からも学ぼうともしない(せいぜいお爺ちゃんから聞いたくらいの知識で)、かつ哲学、自然科学、社会、政治、経済学などリベラルアーツを軽んじる政治家たちが、今の日本の政治を牛耳っているのだ。
日本国民は、義務教育レベルの民主主義すら理解できない愚昧で、嘘を恥じない品性の無い人物たちに、一体いつからこの国を任せてしまったのだろう。

致命的なのは、それでも危機感持つことなく、政権を変えようとしない国民なのだ。
既成秩序に反抗し、社会の不正に怒って、まず行動を起こすのは、いつの時代も若者の特権のはずだ。日本の若者は一体どこに行ってしまったというのか。

(2017.7.2.都議選開票直前に記)

空耳妄言⑲―まるで「やくざ」と変わらない安倍内閣官房の精神構造

*空耳のように聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいい話もある

しばらくブログを休みましたが、また再開しますのでよろしくお願い致します。

休むことによって、小さな出来事にいちいち反応しなくて済み、ものごとを少し余裕を持って見られるようになった気がする。
現在、大学入試の在り方を始め、教育改革の議論が中央教育審議会で進められているが、会長の安西祐一元慶応義塾塾長は、「受け身の教育から能動的な学びへの転換」を目標に掲げており、テストの方向も「事象を俯瞰し、情報を抽出・統合し、問題を発見し、理解する、問題の発見・解決プロセスの評価」になると言っている。(日経新聞2017.6.5朝刊)
この捉え方は世の中の様々な出来事の理解にも大事なことであり、この視点を踏まえて昨今の森友学園、加計学園問題を見てみようと思う。

結論から言えば、つまるところは、安倍内閣・官邸の度し難い体質に問題の根幹があったと言えよう。
森友学園の籠池氏や前文科省事務次官前川氏に対する官邸・官房の対応は、まるでやくざの振る舞いと同じだなと思ったとき、すべてが腑に落ちたのである。
忖度という無言の圧力は、「言わずとも、分かっているだろうな」というやくざの得意な強要であり、言うことを聞かなければ「ばらしてもいいのかい」という相手の弱みを握って脅しで支配しようとするところは、官僚のスキャンダルをネタに黙らせようとするのと酷似しているではないか。
これは官邸・官房のモラルの低さから来るが、それは、一つには現在の官邸・官房の最高クラスの権力者が揃って無教養であることも原因の一つであるかもしれない。
彼等は、日本の高卒以上の学歴ならまず誰でも知っている「瓜田に履を入れず、李下に冠を正さず」という君子行の一行すら知らないのではないかと思われる。言葉位は聞きかじりで知っているかもしれないが、少なくとも理解し身に付いていないことは確かである。
権力者は、とりわけ誤解を招かぬよう、人一倍慎重に身の振る舞いをすべきであると教えている。
法に触れる触れないという話ではないのだ。

何故このような二つのスクールゲイト事件が起きたかは、週刊新潮6月8日号のコラム「管見妄語」で、数学者の藤原正彦が簡潔に言い当てている。一つは2014年に内閣府・官房が各省庁の局長以上の人事権を握ったことである。これで憲法で国民の奉仕者であれとされた官僚の意識は完全に内閣への奉仕者に変わった。官房長官は高級官僚の生殺与奪の人事権と、スキャンダルを握ることで霞が関を完全に飼い犬化したのである。役人は内閣府・官房の意向を忖度してこそ出世の道が開かれるし、弱みを握られていては、何も抵抗できないであろう。
もう一つは、国家戦略特区という存在だ。これは小泉内閣時代に取り巻きの新自由主義者達がアメリカの要求に乗っかって作った超法規的な政策だが、パソナの竹中平蔵、オリックスの宮内義彦を始めトリクルダウン理論を唱えた当初のメンバーが今だに残っていて、利益相反お構いなしで、内閣府・官房の衣を借りて横車を押し利益誘導しているのである。

安倍内閣が何故これほどまでに強権的である理由を安倍首相と菅官房長官を病跡学的に見るのも面白い。
Wikipediaによれば、安倍晋三は元外務大臣安倍晋太郎の長男、昭和の妖怪と言われた岸元総理大臣の孫として生れ、成蹊小学校、中、高、大学法学部を卒業、カリフォルニアの英語学校から南カリフォリニア大学に留学するもあえなく中退。神戸製鋼に3年間勤務、その後父親の秘書官を1年勤め、父親の死に伴って世襲で衆議院議員に当選、その後はとんとん拍子で総理大臣になった。

著書「安倍三代」を書いた青木理によれば祖父寛、父晋太郎に比べ安倍晋三には書くべきエピソードが何も無かったという。思想・信条にも行動にも書くような履歴が何もないというのである。極めて凡庸で、ただ育ちのいいお坊ちゃんでしかなく政治信条は岸信介の劣化コピーでしかないという。要はサラブレッドの家系にありながら箸にも棒にもかからぬ劣等生であり、多少なりとも歪んだコンプレックスを持って成人したことは間違いないだろう。一方妻の昭江夫人は、森永製菓の創業家に生を受けたが、これまた聖心では有名な遊び人で落第生であったことは、聖心関係者では良く知られた話である。ま、ありていに言えば、安倍夫妻は超セレブ層のバカップルであったというところか。

菅官房長官は、大変な成り上がりである。秋田の農家の生まれで、地元の高校卒業後、集団就職のように上京し段ボール工場で働き始め、やがて政治家を夢見るようになり、金を貯め法政大学に入学、卒業し、同門の縁で政治家の秘書になり、横浜市会議員から国政に参入し、縁故、コネも無く、実力で内閣のナンバーツーに登りつめてきた人物である。
2人は生まれも育ちも違い、思いも違うだろうが、絵に描いたような優秀なエリートにコンプレックスがあると思うのは、あながち間違ってはいまい。小生は、このコンビが前川氏のような育ちも頭もいいエリート官僚をなりふり構わず力で抑えようとするエネルギーの源泉はそのコンプレックスにあるのではないかとみている。また年齢が、菅が8歳上なのもコンビのバランスがいいのであろう。

青木理によれば、劣化コピーに過ぎない世襲政治家である安倍晋三程度の人物に、なぜ戦後70年日本の政治が営々と守りぬいてきた平和への矜持がいとも簡単にくずされてしまうのか、どうしても理解出来ないという。

あえて言えば私の理解するところは、第一は野党の無能であり、第二は与党内政治家の無気力であり、第三はマスコミの無責任さである。特にマスコミの劣化は目に余るものがある。読売新聞が、内閣の広報機関であるばかりか、反政府的発言をする者のスキャンダルを記事にして、ブラックジャーナリズムに化すようでは何をかいわんやである。
TBSの政治記者のように、政府の提灯記事を書いてさえいれば、凖強姦罪も見逃されるような世の中であっていいのか。(週刊新潮6月8日号)
そういえば最近、元共同通信の田崎某のように臆面もなく露骨に安倍首相夫妻の肩入れをする政治評論家が現れてきたが、そのせいだろうか。

そして第四が国民のしらけである。このしらけが、安保法制も秘密法案も、共謀罪も強行採決を許してきた最大の原因である。このままでは憲法改正ですら、難なく成立してしまう恐れが出てきた。

ではどうするか。

まずは、わが国にもアメリカのような独立検察官制度を導入することである。行政から独立した調査機関を作らないと、「調査したが、見つからなかった。開示文章は真っ黒けののり弁状態。その必要はないと証人喚問の拒否。」などがまかり通り、現状はまるで容疑者に犯人探しの権限を与えているようなものだからだ。

そして我々がレジリエンス(心の逆境力、再起力)の一つである共感性を磨き嘘を見抜く力をつけることだ。
共感性とは、人が何を考え何を感じているかを心理的・感情的状態を示す非言語的情報、つまり顔の表情や声のトーン、ボディランゲッジなどから読み取ることである。
言葉の字面では何とでも言い繕えるのである。
例えば、この間の加計学園に関わる文科省の忖度要請文書の有無については、前川前事務次官の証言を信じるか、菅官房長官の談話を信じるかは、結局は共感力で判断するしかないのである。

そして根本的には我々が、自分達の明日の生活は政治が左右するという自覚を持つことだ。
気が付いた時には手遅れであったことは、しばしば歴史が教えるところである。

空耳妄言⑱―アメリカは日韓を見殺しにし、政府は国民を見殺しにする北朝鮮危機―空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

*アメリカのご都合主義と安倍首相の冷酷さー北朝鮮の脅威が我が身に及ぶとなってようやく腰を上げたあげくは、、。
北朝鮮が核弾頭付大陸間弾道弾ICBMの完成が間際になった今、アメリカ本土に直接的な危険が及ぶとなってトランプ大統領も、本気になって核潰しの先制攻撃を考えるようになった。今なら北朝鮮の反撃も韓国と日本止まりで済むから今のうちだというわけである。韓国や日本という同盟国は、もう既にしばらく前から北の核の脅威に曝されていたにも拘わらず、アメリカはなにもしようとせずにいたし、今我が身に危険が及びそうになってようやく腰を上げ、それも韓国と日本を盾にしてやろうというわけだ。これが彼らが考える同盟国の位置づけの現実である。「アメリカは100パーセント共に居る」という甘言に騙されてはいけない。
また呆れたことに、安倍首相は事前協議の申し入れをしたとのことであるが、「アメリカが先制攻撃をすれば、どれほどの日本国民が犠牲になるか分からないから、それだけは止めてくれ」という声はつゆほども聞こえてこないのである。それどころか「アメリカの戦争をも辞さない態度を支持すると、いち早く再三に渡り表明した。
こんな危機的状況でも政府は国民に危険・生命の回避策を全く指示しないで放置したままなのである。政府の要人とその家族は、もう既に身の安全を守る核シェルターは確保されているのであろう。政府発表は信用できないから、安倍首相にGPSをつけて、その動向をテレビでモニターするのが戦争勃発を一番早く察知できる確実な方法ではないか。安倍首相が首都圏を脱出した時が危ないのである。彼はいかにも一番最初に、昭江夫人共ども逃げ出しそうではないか。今度は森友事案より巧妙に逃げ出すから良く監視せねばなるまい。
日本国民の命を犠牲にしてもトランプ大統領との友情を優先する姿勢を一貫として示してきたが、さすが常識的な一国の首相としては表向きのポーズであると信じたいところであるが、そうでもないように(本心)思えてしまうところが、この人物の人間性の限界であろう。

―このブログが出た時に、日本が未だ戦禍にまみえず平和であることを心より願いつつ。

*安倍内閣の国民の生命と幸福を守る本気度―稲田防衛大臣を筆頭に愚昧大臣を並べて、国民の安心感はどうでもよいのか?
稲田防衛大臣で現在の我が国存亡の危機が乗り切れると任命権者の安倍首相は本当に思っているのだろうか?彼女はゴールデンウィークは東南アジアに外遊する予定だというノー天気ぶりである。
所詮彼女には能力、資質とも全く無いのは折込済みであり、大臣なんて居なくとも優秀な文官、武官がいるから心配ないというのであろうが、では国民の安心感は大事ではないのか?自衛隊員の士気は大事ではないのか?
現在のわが国では、首相のつまらぬ蚤のような意地が国民の生命、安心より優先するのである。

*ゾゾタウンの富の源泉―詐欺まがいに年会費を掠め取る企業倫理観
気が付いたら1年間もの間、クレジットカードからゾゾプライムとかいう見覚えのない所から月350円の会費が引き落とされていた。通販会社ゾゾタウンがプライムクラブとかの月会費を引き落としていると判ったのでゾゾタウンに連絡を取ろうとしてもサイトでは電話番号は容易に見つからない仕組みになっていて埒があかないのである。そこで、カード会社に引き落としを止めるように問い合わせると、それを止めることはできない、例えカードを解約しも通帳に残高がある限りは払ってしまうという。不思議なことをいうなと思った。銀行は顧客の利益を軽んじて、詐欺まがいのゾゾタウンの行為に協力するというのである。顧客の不利益を優先するというのである。
仕方ないから何とか、ゾゾタウンに問い合わせると、小生がゾゾタウンのサイトで買い物をした時に、自分の意思でゾゾプレミアムに入会したことになっているという。巧妙な手口で誘導したのだろう、ネット上には「知らぬ間に会員にされ、会費を引き落とされた」という、書き込みが山のようにあった。
個人の被害額が少額とは言え、何十万という会員数からみれば、これほどの怪しい手口が何故社会問題にならないのか、不思議であると思い、会社の経営者を調べてみると、人物像から、きっとマスコミ、行政に手をまわしているのだろうと思った。彼はフォーブスの長者番付に載るほどの資産家らしいが、少しでも安いものを買おうとする庶民から詐欺まがいの金をかすめ取ってあげた利益がその原資の一部であるのなら、恥を持って知るべしであろう。(もっともこの手の人物に「恥」の感覚はないのであろうが)
ゾゾタウンはその企業倫理からして社会から指弾を受けるべき会社の一つであると思うのは小生だけであろうか。

空耳妄言⑰―自分の腹は決して切らない自称‘武士’―都知事の責任の取り方など―空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

*都知事の責任の取り方
話題の豊洲市場移転問題について3月3日石原元都知事が記者会見をした。
会見を開いた動機について、「自分は坐して死を待つつもりはない。都議会百条委員会まで、とても待てない、一時も早く屈辱を晴らしたい」ということであり、会見に臨むにあたっては武士が果し合いに臨む心境だと話した上のことであった。都民のみならず全国民の注目の集まる記者会見になった。小生もテレビ中継を見た。

結果は、ご存知のように、何も新しい情報を出すでもなく、言い訳に終始し、責任を都庁の担当部署の責任者や承認した都議会に押し付けるもので終わった。
豊洲の安全性の判断や、移転決定に関しては、自分には専門性も何ら知見もないから担当部署の専門家の判断に従うしかないのではないか。瑕疵担保責任など政治的な判断が必要な所では、自分には話が上がってこなかったから知らなかった、あるいは覚えていない、という説明であった。
質疑応答で質問をした記者たちは皆通り一遍のことを聞くだけで、鋭く突っ込む記者は殆どいなかったが、最後に質問をした共同通信記者の質問は良かった。おそらくこの一問を繰り返し聞くだけで十分ではなかったかと思った。
「都が東京ガスに瑕疵担保責任を免除する取り決めをしたことを知事が知らなかったと言うなら、それはそれでいいが、誰がいつその取り決めをしたかの経緯が今一番問題になっているのだから、知事は今日の記者会見に当って、自らその経緯を調べて来て都民に報告する責任・義務があるのではないか」と尋ねた。それに対して石原氏は、「誰に聞けばいいというのか、私も知りたいくらいだ」とまるで当事者意識のない、無責任な発言に終始した。
都議会も承認したのだから、責任は自分だけではない、とも言ったが、そもそも知事を都議会とは別に直接選挙で選ぶ二元性の意味が何処にあるのかさえも認識していないかのような呆れた発言ではあった。もっとも、都議会をチェックする立場の知事が、都議会の実力者と結託してウィンウィンでいいようにやっていたのでは話にならない事ではあるだが。

豊洲問題に限らず、新銀行東京問題、オリンピック誘致問題、外遊などあらゆる機会を使って石原ファミリーと都議会自民党が、都税をいかに食い物にしてきたかを、現在、週刊文春が証拠をあげて暴いているが、その悪行ぶりは想像を超えるものである。

その本人が日本のモノノフ・武士の精神を我がことのように得意げに説いているのだから聞いて呆れる。
武士こそ、見苦しさをキライ、潔さを尊び、生き恥をさらさず、常に切腹の覚悟を持って生きるのではなかったのか。
他人には腹を切ることを説き、自分は決して腹を切らない、自己愛だけの権力者の常を見るようで胸糞の悪いものである。

そして、「坐して死を待つつもりはない」の真意は、「豊洲は科学的に安全であると言われているのに、移転しないで徒に税金の無駄使いをしているのは、すべて小池都知事の不作為のせいであり、責任を取るべきだ」との一太刀であったようだ。
恥の上塗りに気が付かないのだろうか。

我々はこの程度の人物に13年半もの間、首都東京の都政を任せてきたのだ。
そしてその後、猪瀬,舛添と小物ながら似たような人物を都知事に選び続けてきたのである。選ばれた者は選んだ者たちを映す鏡であると、今こそ自戒せねばならないだろう。

いつから日本はこれほど見苦しい国になったのか。
我々は政治家たちに『Noと言える国民』にもならねばならないと思う。

*ヤマトの値上げについて
クロネコヤマト宅急便の値上げが検討されているという。
小生は、昔から、宅急便という事業を起こした小倉昌男という人物を実業人として深く尊敬していることをまず明らかにしておこう。
実業とは彼のような理念で起こされるべきであると信じてやまないし、彼の拓いた社会サービスで社会の構造自体がどれほど変わり、国民がどれほど便利になったかについては説明の必要もないことであろう。特に、その実現の過程が、既成の業界や政府の岩盤規制との凄まじい闘いの連続であったことも敬愛の念が深まる理由である。

そして今や通販業界と組んで、本一冊はおろか、消しゴム一個でも即日、手元に届く時代になったのである。こんなに便利で有難いが、果たしてここまでサービスを受けて良いのかと、最初は戸惑った人も多いと思う。しかしすぐに慣れてしまうのも人の常ではあるが、一方が利益を受ければ、他方に犠牲が伴っているのも事実であろう。
宅急便の配達人が過酷であろうことは容易に想像がつくし、しわ寄せが宅急便業界に偏っているのなら、修正してでも宅急便というサービスが無くならないように守るのが先決であると思う。

基本的には、最少限の送料や配達時間、再配達に制限をつけるくらいは仕方ないと思う。
消費者も、サービスを受けるからには、それなりの対価を払うのは当然であると思うからである。
宅急便は、一人の偉人が生んだ日本が誇るべき稀有な社会サービスであると思うから、失ってはいけないのである。

空耳妄言⑯-「学会とは何か?」「アメリカはどうなる?」-空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話がある

*学会とは何か?大学教授の役割とは何か?
一体全体、世の中に学会と名のつくものはいくつあるのだろうか?正統な学術学会から路上観察学会、漂着物学会のような珍奇な数名からなるもの、創価学会のように数百万を擁するものまで、人が二人以上集まれば学会になるほどであるから、浜の砂ほどの数があるに違いあるまい。
医学会だけでも数百はあるであろう。小生の所属する小さな臨床医学会でも、直接関連するものだけで5つや10はある。
学会とは何のためにあるのか?
第一には研究の成果を発表し、それについて意見交換をし、更なる進歩に繋げるためである。同時にこれは自分が一番先だというプライオリティをとるためでもある。もっとも最近は論文にしないとプライオリティはとれないとされているが。(それをいいことに人の発表を掠めて横取りするものがいる。そして、その手が世間的には出世していることが多い。)
第二は、研究者たちの親睦団体としてある。第3には、大学や研究所の教授たちの権力闘争の場でもある。大した利権はないが、理事長、会長と言う名誉欲が争点になるのだ。(うまくすれば勲章が貰える)そして多少の役得があるのだろう。第4には、会員の利権擁護団体としてギルドのような役割をもつ。医学会では多くは専門医、00医と言う資格を認定することで、多くも00士、00シュバリエ、00ソムリエというような資格を与え、その利権を守ることで、認定利権が生じる。
 さてそんな学会(特に医学会)の中心的な行事が学術集会というやつで、全国から、時には海外からも同業の士が数百~数千人集まり論文を発表したり聞いたりして勉強するのである。会員は諸々の資格獲得、保持のためには参加しなければ点数がもらえないので嫌でも参加する。

さてそんな学術集会のメーンテーマが開催半年前くらいまでには会員に告示され、参加を呼びかけられるのであるが、それを見れば最近の同業の学問の動向が読めるのである。
小生の所属する00外科学会の次回の年次集会のシンポジウムの筆頭テーマは「次なる00外科のbreakthroughは何か」である。奇妙なテーマである。これは、「自分たちは、今何をbreakthroughすればよいか分からないから話し合いましょう」という意味なのか?
学会の会長というのは、殆どが大学という研究機関の00部門の長である教授である。トップが、今breakthroughすべきものが何かわからずに何を指導しようとするのであろうか?研究の先端に入れば(いなくとも先端知識があれば)、いやでも課題は見えるものだ。
いや、これは教授たちのシンポではなく一般会員のためのものだよ、というかもしれないが、真剣に先端を走る研究者がわざわざ超えるべき課題(それが独創的であればあるほど)を他人に教えるはずもないし、人から教わろうともしないだろう。又そんな地平にいない会員にとってこのようなシンポジウムは必要ないであろう。

やはり、これは学問の先端を経験したことがない者たちのノー天気な発想というしかないだろう。言いかえれば、こんなテーマが堂々とまかり通る学会とは何かということである。
学会とはbreakthroughすべき課題をテーマにする処ではなく、(共通の暗黙の了解である)breakthroughするべく課題のbreakthrough する方法の先端を競い合うところであるべきであろう。

こんな使命感の欠けた教授達がリードする緊張感のない学会からどんな進歩が期待できるというのか。

*歴史学者の視点―トランプ政権を予測する
BSフジの「プライムニュース」が面白くなってきた。
同じように、ひとつのテーマを決めて、一家言を持つゲストを招いて話を聞き、問題を深めていくというスタイルの報道番組はBS読売の「深層ニュース」があるが、いかんせんMCの鋭さに差がありプライムニュースの方が断然面白く、ますます差が開いてきたように思う。

先日も、トランプ新大統領の今後のアメリカを予測する、というようなテーマで、歴史学者の熊本県立大学学長の五百旗頭真氏と同じく慶応大学法学部教授の細谷雄一氏が出ていたが、歴史学者の歴史分析的な視点は、政治家や評論家とは違い新鮮で面白かった。両氏とも個性的で、おそらく何かと批判する人もいるであろうが、両者を選んだプライムニュースの識見を感じさせるものであった。
曰く、アメリカの歴代大統領は、「秩序」と「正義」と「利益・力」の3つ核の間を振り子のように行き来しながらもバランスをとって世界の指導者として役割を果たしてきたが、トランプは世界の正義にも秩序にも全く関心がなく、あるのはアメリカの利益だけであり、損か得かでしか判断しないアメリカ史上初の大統領であり、過去例が無いだけに今後のアメリカの出方の予測は難しいという。英国も、オランダもフランスもドイツもイタリアも極右と言われるエゴイスチックな同じような指導者が生まれる気配があり、もしそうなったら、収拾がつかなくなると予測する。クラスの不良少年達がつるんで、力を持ってきた時、注意すべき先生が不良だったらどうしようもないだろうというのが、その例えであった。
歴史学者的な見方と言うのは、目からうろこの所があり、つまらぬ権力党的(田原総一郎的)な政治評論家たちの愚にもつかない解説よりももっと社会に評価されていいのではないかと、痛切に思った。
期を同じくして、地政学的な視点を売り物にして世界情勢を語る寺島実郎のBSTBSの「月刊寺島文庫」が、「アメリカの本質、日米関係の宿命」を放送した。そこではペリー提督とマッカーサー元帥を例にあげ、アメリカがアメリカンシーザーとして日本を統治しようとしながらも、「抑圧と寛容」の精神で、「自由と正義」という価値を与えようとしたが、トランプでその伝統も終わるかもしれないという。
トランプ就任後1週間が経ち、就任前の世界の期待も虚しく、彼の政策の判断基準が「アメリカの利益が第一になるかどうか」であることがはっきりしてきた。
世界は自国第一、自分第一の我欲の時代になって行くのだろうか。
それを誰よりも鋭く感じとって、我先にトランプにすり寄ったのがソフトバンクの孫正義であり、中国のアリババのジャック・マーであったのは象徴的であった。
また村上世彰みたいな(東大出て官僚になると国費で留学し、帰国後すぐに辞めてオリックスの宮内義彦をスポンサーにして投資ファウンドを作り、インサイダー取引に問われると「金儲けは悪いことですか」とせせら笑った。)のが、デカい顔して跋扈する嫌な時代が来るのであろうか。

空耳妄言⑮―「量子コンピュータが実現する」、「権力党という存在」など-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

*量子コンピュータ実現に不可欠な技術を東大が開発
正月のNHK BSニュースでとんでもないビッグニュースが流れた。東大の古澤教授グループが、量子コンピュータに不可欠な量子テレポーションを無制限に繰り返す技術の開発に成功したというのだ。
量子コンピュータは現在のコンピュータが100億年かかっても解けないような問題を数分、数時間で解く事も出来るという想像を絶する能力を持った夢のコンピュータと言われ、世界中の研究者がしのぎを削っている中での快挙であった。
この仕事の意義は、単にコンピュータの計算能力が飛躍的に高まったというにとどまらず、量子論の言う「重ねあわせ」と「量子テレポーション」という基本原理を実証し、その実用化に目途を付けたばかりか、宇宙が多数の宇宙の重ね合わせから出来ているという「多世界解釈」に正当性を与えるものと考えられるからだ。

古典物理学(相対性理論を含む)では、物質の状態(位置や運動量)はただ一つに決まっており、未来の状態も現在の状態に基づいて機械的に決まるとしているが、量子論では物質の状態は一つに確定しておらず曖昧であり、未来は複数の可能性があり、どれが実現されるかは確率的に決まるとしている。

シュレディンガーは物質の波動方程式を導いて量子力学を打ち立てたが、その解釈を巡って大きな論争が起きた。ボーア等のコペンハーゲン解釈では、ミクロの世界の物質(素粒子、電子)は見えない時は波の広がりの上のどこかに存在し、観察した時は波動上の位置による確率によって波が収縮して一点の粒子になるとし、観察していない時は電子は何処にあるかは確定されず、様々な場所にいる電子の状態が「重ねあわせ」の状態にあると説明した。
つまり電子の位置は、まるでサイコロを振ってその目に応じて電子の発見場所が決まるかのように確率的に、いわば偶然の要素で決まるとボーアたちは考えたのである。
これに対してアインシュタインは「神様はサイコロ遊びなどしない」と言い、また「量子論が正しいのであれば、月は我々が見たからこそあり、我々が見ていない時はそこにないことになる。我々が見ていない時も月は変わらずに同じ場所にあるはずだ」と言い、物理学は決定論でなければならないとした。
そしてアインシュタインはコペンハーゲン解釈では量子テレポーションという光速を超える速さの瞬間の情報伝達が量子間で起きなければならないことになり、それは相対性理論に反するから成り立たないとする「EPRパラドックス」を提唱し反論したが、アぺスが、ベルの不等式が成り立たないことを証明しアインシュタインが一敗地にまみえた結果になった。

一方、当のシュレディンガーも、ボーアたちのシュレディンガーの波動関数の意味する物質波の実在性を無視する考え方に反発し、電子の波や物質波は実在するとの立場から有名な「シュレディンガーの猫」と言う思考実験で反論し、そこではコペンハーゲン解釈がミクロとマクロの世界を分けて説明する矛盾を突いた。
彼は、波動方程式で1933年にノーベル賞を授賞したが、それでも「自分の人生で量子論に関わったことは悔やみきれない」と、その後の量子論の展開を忌み嫌った。後世は生物学に転じ、1944年には「生命とは何か」という、生命に対する深い洞察を含んだ名著を著し、その本に触発され、DNAの二重らせん構造を解明した分子生物学者のワトソンとクリックは生物学者になったというエピソードがあるほどである。

やがて現在のコンピュータの原理を生み出したフォン・ノイマンがシュレディンガ―の波動方程式では波は数学的に収縮しないことを証明し、コペンハーゲン解釈の言う波の収縮は「観察した人間が『観察したと』意識した途端に波の収縮が起きる」と結論付けたが、物理現象を人間の意識の中で発生させるのは無理があり、一般には受け入れられなかった。

そこで「波は収縮などせず,広がったままなのではないか」と言う考え方が生まれ、「多世界解釈」を生むことになった。
 
コペンハーゲン解釈では、観測される前の原子の位置については、「A点にいる状態」「B点にいる状態」「D点にいる状態」などが一つの原子の中で重なっていて、どこか一カ所だけにいるとは言えないとするものであったが、これに対して多世界解釈では観測する前の電子はどこか一カ所にいると考えるが、その代わりに、私たちの知らないうちに世界が複数に―「電子がA点にいる世界」「電子がB点にいる世界、「電子がD点にいる世界」に―枝分かれしていると考えるのである。

つまりコペンハ―ゲン解釈では一個の原子の中で『物質波上のそれぞれの場所にいる状態が重なっていると考えるが、多世界解釈では「電子がそれぞれの場所にいる世界」が重なって、同時並行的に存在していると考えるのである。
そして私たち観察者自身も、それぞれの世界に枝分かれして存在しており、それぞれの観察者は自分がどの世界にいるかは電子を観測するまでは断定できず、実際に電子を観測して初めて「私は『電子がA点にいる世界』にいるんだな」と判るという解釈である。  
これは、プリンストン大学の大学院生だったエベレットの「パラレルワールド論」が原点になっており、エベレットは量子論が自然界の基本原理であるなら、その原理は宇宙そのものにも適応されるだろうから、量子論に基づいてその可能性の数だけ(コペンハーゲン解釈で言う重ねあわせの数だけ)幾つにも枝分かれして来て、その一つが現在私たちがいる宇宙だと考え、私たちの知らないところに、別の宇宙が幾つも存在し、そこには「もう一人の私」たちが暮らしているとしている。そして「もう一つの宇宙、私たち」を見ることが出来ないのは、一度枝分かれした世界同士は互いに交渉が断たれ物理的に孤立してしまうからだと都合よく説明している。

多世界解釈の説明だと、波の収縮という仮定は要らず、シュレディンガーの猫の、生きている状態と死んでいる状態が重なりあって存在しているという摩訶不思議な矛盾はなくなりミクロとマクロの境界も取れパラドックスはどこにも存在しなくなるのである。

現在のコンピュータは、あらゆる情報を「0」と「1」の2進数の数字に置き換えて演算を行うので、二つの量子ドット(量子の入れ物)では「0」か「1」で情報処理をするが、量子コンピュータでは情報処理の単位に「0と1の重ねあわせの状態」を利用し、0でもあり1でもありで並列演算をするので、「0+0」「0+1」「1+0」「1+1」の4通りの演算を同時並行的に実行することが可能になる。従って量子ビットが10あれば2の10乗、1024通りの演算を一度に出来ることになる。量子ビットの数が増えれば演算能力は飛躍的に向上するが、それには量子間の情報が瞬間的に伝達すること(量子テレポーション)が無制限に繰り返せる技術が必須であり、それを今回古澤教授グループは開発に成功したのである。
古澤教授は1998年に2つの量子間のテレポーションを世界で初めて実現させているが、テレポーションを可能にする量子を連続して作り出せる数に限度があるのが課題であった。それを今回ブレイクスル―したのである。

この分野に門外漢である小生が量子テレポーションに関心があるのは、こころの存在と働き、つまりは心脳問題と関わりがあるからである。膨大な数の脳神経細胞の瞬時同時的な働きは電気信号だけの生理的な作用では説明出来ず、テレポーションのような説明が求められているし、ユングの言う「共時性synchronicity」や「意味のある偶然の一致meaningful coincidence」の説明に有用と思うからである。
事実、ボーアが量子論の示す物質観・自然観を相補性(相容れない筈の二つの事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成しているという考え)という言葉で説明しているが、ユングも意識・無意識、思考・感情、感覚・直観を始め相補的な思考が多い。(ラプラスの妄想「相補性と言う原理」2013.11.20参照)
ユングはまた「パウリの原理」で知られる著明な量子物理学者パウリとも親交があり(パウリはユングのカウンセリングのクライアントでもあった)、シンクロニシティについての「自然現象と心の構造」と言う共著を表すなど量子論への傾倒がみられる のである。

精神医学も心理学、脳科学も科学と言うには未だ面はゆい所があるが、量子コンピュータが実現すれば脳やこころの仕組みなどは革新的な発展が期待出来るし、今話題のAIもIOTも桁違いの進歩をとげるに違いない。

小生は、さほどにこのイノベーションをiPS細胞に勝る重大な出来事と考えるのだが、なぜか日本のメディアは殆ど取り上げていないように見える。NHKBSニュースが一度か二度程放送したに過ぎないようであるが、これは果たして誤報であったのだろうか。
Obokataワールドではないことを切に願うばかりである。

*公明党とは権力党なのか?
都議会の公明党が自民党との連携を解消し、今後は小池都知事と連携していくと発表した。
言うまでもなく、来る都議選を睨んでのことである。都議選で小池知事に刺客候補を立てられないようにして選挙を有利に戦うためと、新しい権力に寄り添うためである。そのために永年連携して組んできた自民党都議会を見限ったのである。

国政でもそうであるが、公明党という政党は、結局、常に権力側につくことを最優先する党派であるということは誰の目にも明らかで、平和主義をいいながら、最後は自民の政策、秘密保護法でも安保法制でも賛成に回るのである。最近のカジノIR法案でも、委員長は反対でも党として反対の立場は表明できず、議員個人の判断にまかせ自主投票にした体たらくである。

このような態度をとる政党は佐藤優が言うところの「権力党」と言うにふさわしいようである。(「僕らの頭脳の鍛え方」必読の教養書400冊、立花隆・佐藤優著、文春新書2009)
思想・信条に関係なく、時の権力から常に外れないように振る舞う権力党員から成る政党のことをいうらしい。
権力党員の条件は、権力の一番中心には入らず、権力に批判的な姿勢を取りながら、必ず権力の内側にいることで、批判者と言っても反体制的、左翼的にはならないことだという。堺屋太一や竹中平蔵などのように閣僚や政府の諮問委員になっては権力党員から脱落する危険性があると言う、権力はいつどこで入れ変わるか分からないからだ。

佐藤が例に挙げているのは、権力党員の典型は評論家の田原総一郎で、どんな時でも自分の立ち位置を確保する。立花隆と決定的に違うのは、立花はインテリゲンツィアだからだと言っている。インテリゲンツィアは、身の安全よりも自分の思想信条を優先し権力にとって都合の悪い存在で、日本には非常に少ないという。
けだし同感である。

彼の定義によれば公明党は権力党と呼ぶべきであろうと小生は思うが(ただし、公明党は常に権力の中枢、内閣に大臣の席を確保するが)、諸兄のご意見は如何なものであろうか。

*年末年始のテレビ番組に思ったこと
例年、小生の年末年始はテレビのチャンネルを動かしながらの寝正月である。
面白い番組があれば何時間でも見る。
今年は全般に不作であったような気がする。新しい企画が無く、最近の企画の焼き直しをするものだから、番組疲労を起こして、何ら新鮮な魅力が感じられないのである。
2年前は、あんなに面白がってみた「孤独のグルメ」も、もう色褪せている。
「酒場放浪記」も「鶴ベイの家族に乾杯」もそうである。

なぜだろうか?この手の番組の面白さは、主役以外が市井の一般人であり、その素人っぽい出会いの驚きが新鮮なのであるが、番組が売れてしまうと、登場する周辺の一般市民も今がテレビ撮影であることに直ぐに気が付き、とたんに素人でなくなり、変に意識した出演者になってしまうからかもしれない。それに主役も、変にすれて(プロがすれるというのもおかしいが)、タレント気取りというかスター気取りの振る舞いを取り始めるのである。酒場放浪記の吉田類や野天風呂を歩く山田べにこなどがその典型で、最近は変に多弁で、主役として仕切りたがるのが鼻につくのである。
「孤独のグルメ」では、もはやすべてを演出にしてドラマ化してしまったようである。

それでも見ごたえのある番組はいくつかはあった。
一つは、NHKBSの「グレートレース」で、第一部は日本アルプス、中央アルプス、南アルプスの主稜線を縦断し富山湾から駿河湾まで250㎞を走破するドキュメンタリーで、第二部はサハラ砂漠を走り抜けるという、信じられない過酷なレースのドキュメンタリーであった。意外だったのは選手の中心は40才前後で、20代はほとんどいなかったことである。体力、気力の最も充実するのは、それくらいなのだろう。

もう一つはNHKBS1スぺシャルで、「欲望の資本主義2017、ルールが変わる」,[伝説の晩餐会にようこそ]などは見ごたえがあった。
時間をかけた力作はやはりNHKの独壇場であるようだ。
前者は、資本が富を独占する‘成長’資本主義の限界を示すもので、後者はゴルバチョフ元ソ連書記長の回顧録であった。
前者の出演者トーマス・セドラチェクの著書「善と悪の経済学」とロバート・B・ライシュの著書「最後の資本主義」は、番組出演を売りにして、素早く正月明けの新聞に大々的に広告が載っていた。
トマ・ピケティの「21世紀の資本」同様に、いずれも高めの本だがベストセラーになるかもしれない。

今年も「追悼記事2016」が各誌に載った

大往生 001
年末になると、週刊誌やテレビの報道番組で、今年亡くなった著名人の追悼記事が載るのが恒例になっている。大体似たような内容だが、掲載順で、あるいは写真の大きさの扱いで、各誌の個性が出ているようである。
最初に目にしたのが週刊文春であったが、グラビアでトップに出たのは、纏のハッピを着た永六輔(83)で、蜷川幸雄(80)と同じく、写真一枚が一ページ扱いで載っていた。
次いで大橋巨泉(82)、平尾誠二(53)、デビッド・ボウイ(69)、モハメッド・アリ(74)、フィデル・カストロ(90)が1/2ページ扱いで、平幹次郎(82)、冨田勲(84)、中村紘子(72、田部井淳子(77)、三笠宮崇仁(100)、べラ・チャスラフスカ(74)などは小さな扱いで続き、最後がまた1ページ扱いで千代の富士(61)が載っていた。

週刊朝日はトップが千代の富士で、平幹二郎、永六輔、蜷川幸雄、戸川昌子、中村紘子と続き最後に大橋巨泉で締め括ってあった。加藤紘一(77)、鳩山邦夫(67)など政治家は名が知られていた割には比較的地味な扱いであった。

TBSのサンデ―・モーニングでは墓碑銘として、逝去した日時のカレンダー順で紹介していた。テレビだからサイズで差別出来ないし、放送時間の多少の長短はあったが、30名くらいが比較的同じように扱われていたように見えた。

週刊文春を見た時に、すぐに感じたことは、あれっ、野坂昭如が無いではないか?であった。不思議に思っていたが、朝日にも載っていないので腑に落ちず、調べてみたら野坂は昨年の12月9日が命日であった。おそらく昨年の追悼集には時間的に間に合わなかったのかもしれないが、すっかり失念していた。しかも自分でもここで確か「野坂昭如レクイエム」の記事を書いていた。(ラプラスの妄想2015.12.23)

認知の衰えはいかんともしがたいものだ。

野坂と永は、昔、三木鶏郎の冗談工房の仲間であった。野坂が亡くなった時に、小生は自分の昭和が終わったと書いたが、永が亡くなって小生の昭和の残滓がすべて消滅したように感じた。

NHKの「夢で逢いましょう」で思春期を過ごした者には,永六輔は何と言っても中村八大、いずみたく、渥美清、E.H.エリック、大橋巨泉、坂本九、黒柳徹子らと一緒のグループの人間である。
今や、この中で残っているのは黒柳徹子だけになってしまった。

永のベストセラ‐になった「大往生」を改めて読んでみたら、親友だった‘いずみたく‘と中村八大をほぼ同時に失った痛切な喪失感をページを割いて書いており、永が喋った気持ちのこもった弔辞が載っていた。
永の葬儀の弔辞は黒柳徹子が述べ、文春にも寄稿しているが、良い友達というものは、死んだときに本当の価値が分かるものだと思った。
だとすると、黒柳徹子が将来亡くなった時には一体誰が追悼の辞を述べるのだろうか。彼女が本当に別れを告げて欲しい人、長年の親友たちは既になく、最後に残された孤独さが目に見えるようである。

永六輔も大橋巨泉も‘むのたけじ(101)‘も戦争を肌で知る世代で、生き方は違っても「戦争だけはしてはいけない」と終生言い続けていた。
政治をする側も、それを監視する側も戦争を知らない世代になり、今や社会に向かって「戦争はいけない」と体験から肉声で言うのは天皇陛下だけになってしまった感がある。

蜷川幸雄のように亡くなる直前まで現役で活躍されていた方もいれば、小川宏のようにしばらく表舞台から遠ざかっていた方もおられるが、見れば皆わかる人達ばかりである。
彼等の人生と小生の人生が殆んど重なっている方達ばかりだからである。

小生は追悼記事に載ることは決してないが、それでも「そろそろだなあ」と実感する年の瀬である。

なぜ急ぐ?カジノIR法案成立-裏で動く黒い頭のネズミは誰だ?

たった6時間の審議でIR法案が衆議院内閣委員会で可決された。多方面から問題が多いと危惧された、実質カジノ法案が急いで強行採決された理由は、日経新聞によると「大阪維新の会」に自民党がおもねったためだという。改憲に向けて維新の協力をとるためには、賛成で意見を集約できなかった与党公明党との軋轢は覚悟の上であった。どうせ公明党は与党の立場を捨てられるはずはないと舐められたのだろう。また公明党は政党として賛成か反対かの立場を明らかに出来ず政党責任を放棄し,自主投票という姑息な手段でごまかすしかなかったのである。
IR法案の問題点は大きく3点であるという。
①その合法性について。刑法は「賭博」を禁止しているのに、宝くじや競馬などと同じようにカジノを公営ギャンブルにしても良いかという問題だ。
②経済効果があるかどうか。
③ギャンブル依存症対策をどうするか。

合法性はパチンコの景品を現金化する組織が警察機構の直轄団体になっている現実を見れば、法律論をまともに考えても無意味なのが、この国の実態だろう。我が国は政治の都合で何でも合法化できる国になっている。
経済効果について言えは、大型リゾート施設が決まれば、建築の需要と雇用が生まれるというが、これは新しいリゾート施設が決まれば必然的についてくる話で、何もそこにカジノが含まれている必然性はない話ではないか。
予想されるギャンブル依存症には万全の対策を尽くすと言うが、一体どんな対策があるというのか?、依存症になった患者に現在の精神科医療がどれだけ有効か実態調査でもしたうえでの話なのか?行き着くところは精神障害者年金と生活保護費を膨大に浪費することになるのは目に見えていることだ。
依存症の対策は原因となる対象を存在させないことに尽きるのだ。麻薬類が存在するから、薬物依存症は存在するし、ギャンブルがあるからギャンブル依存症が存在するのだ。そんな理屈は幼稚園児でも分かることだ。
ギャンブル依存症対策は、ギャンブルを根絶する以外に方法はない。IR法案とギャンブル依存症対策というのは根本的に自己矛盾でありブラックユーモアなのだ。
しかもこの問題の欺瞞性は、稼ぎは一部の特権的な組織が持って行くのに、そこで生まれた依存症患者の医療費や社会福祉費は税金で賄うという所にある。

カジノ法をめぐって、馬脚が現れたと言うか、見え隠れした問題点をいくつか言うと、
まず「維新の会」というのは、大阪の利益だけを考える利権団体だということだ。維新の会にとって、大阪都構想も2025年の国際博覧会誘致も、それに合わせて大阪湾の人工島、夢洲にカジノを誘致することもすべて大阪に利益を誘導するためであり、そのことが何よりも優先事項の党是とする団体に過ぎないということだ。そのためには政権にすりよって憲法改正で恩を着せカジノで取引をするというわけだ。
カジノはアベノミクスの成長戦略の柱の一ついうが、政府が賭博を奨励してテラ銭を稼ぐ国の品格とはどういうものかなどは、我が国の振る舞いを決める政府の政治家たちは一顧だにしないものだろうか?ただ世界中のどの国でもやっていることだから、それで外国からの観光客も増え外貨収入も増えているからと言う理由だけで、国の正義を決める刑法の理念を曲げてよいのか?
どの国もやっているからと言って我が国が真似をする必要が本当にあるのだろうか。
むしろ今となっては、カジノの無い国の方が希少で観光立国としてブランディングもし易いのではないか?
カジノは、法を守り行儀のよい優しい国民性と清潔で美しい国土という現在の日本のブランドの評価を下げることはあっても上げることにはならないだろうと思う。
さらにはモラルハザードの問題がある。国が認める施設の中ではブラックジャックはしてもよいが、家庭や職場で‘チンチロリン‘や‘おいちょかぶ‘を楽しんだら逮捕され刑務所に入れられるという構造は、どう考えたって国家のご都合主義であり教育的ではないだろう。それは博打が悪いから逮捕されるのではなく、カジノの特権を守るためとしか映らないだろう。判断基準が「国家が認めるか、認めないか」では道徳倫理の基準が失われ,モラルハザードは止めようがないだろう。
学校の先生には、博打の善悪を子供たちにどのように説明しろというのか、教育指導要綱にはどのように記載されるのだろうか?

物事の善悪の判断をすべて国家の都合で決める国とは何か、を今良く考えるべきではないかと思う。

さて最後に、一番肝心肝要な疑問がないがしろにされていないか不思議である。
それは、日本の社会の正悪を決める日本国の刑法がなぜ賭博を禁じているのか?そしてなぜ今それが改められようとしているのか?ということである。聞きたいのは、動機ではなく、改めて良い理由である。変更する法的な解釈は説明はつけられるだろうが、そうではなく、刑法を制定するとき、賭博は日本の社会、国民にとって良くないから禁止したのではなかったのか、その禁止とした理由を念頭に置いて、今回それを実質上、変更し許可するに至ったその理由を知ることである。
つまり、賭博が禁止されていた理由と、許可された理由の理解である。
後者の理由が、国の経済発展のため、国が収入が欲しいからという理由だけで変えてしまって本当に良いのか?
時代と共に社会の構造も生活のスタイルも変わり、国民の道徳観も変わる。賭博禁止は我が国の現代社会に合わなくなったから許可をすると言うならそれはそれでよい。
それならば、賭博は広く国民に自由に許可されるべきものだ。一部の特権組織だけが許され、他は駄目というのは憲法の保障する国民の自由・平等性に欠けはしないか。

賭博もパチンコ、競馬、競輪、競艇、ロトと実質骨抜きはいくつもある。
いずれも原初に立ち返っての本質論での説明は避けられ、小手先で実態を変更して来ている。
パチンコに至っては法の取り締まりの大本の警察が組織的に関わっている始末である。

カジノ法案は、売春禁止法を逆に行くようなものでもある。かつて売春行為も国が認めた場所(遊郭、赤線)、娼婦(公娼といった)であれば良くて、私的に行えば逮捕され処罰された。しかし1958年買春防止法でそのすべてを禁止したのである。
買春を賭博に置き換えれば分かりやすい。

小池知事が定例記者会見で、ある記者に「オリンピック会場を巡っては、結局は大山鳴動してネズミ一匹か?」と皮肉られた時、「それでもオリンピック会場でも豊洲市場でも、黒い頭をした大きなネズミが沢山居たことが明らかなり、それで経費は随分削減にされたではないか、それだけでも良かったではないか、」と切り返したが、おそらくカジノ解禁でも、裏で、頭の黒いネズミが巨利を狙って暗躍しているに違いあるまい。

ところで、先日のオリンピック4者会談で、森組織委員会長が、横浜アリーナ開催に関して小池都知事をなじったが、そのネタ元になった横浜市長から都知事宛の「横浜アリーナ開催での懸念」に関する手紙を都知事に上げずに、森組織委員会会長に見せた都の幹部職員がいたことが後日判明した。そんな頭の黒いネズミ達に内通する、いわば都民に弓引く不埒な輩は、名前を都民に公表し処分すべきと思うが、皆様のご意見はどうだろう?
その犯罪的職員の特定と公表こそがマスコミの責務であると思うが、またマスコミ各社はスルーを決め込むのだろうか。
この間の都政の不祥事を見て、つくづく思うのだが、都政の不正を防ぐには、都政、都議会の活動を詳細に報道する地方紙を作るのが最良の方法だと思う。全国紙では駄目である。健全な地方紙の存在は地方行政をチェックし社会を浄化する。少なくとも今までの元都知事、都議会自民のようなやりたい放題はブレーキがかけられるだろう。(マスコミの最大の役割は、行政の監視である、地方紙は地方行政を専門に監視する)
どなたか心あるジャーナリストが手をあげれば、クラウドファンディングで資金は容易に集まるのではないか。仮称「都民新聞」に投資しようとする都民は少なくないと思うがいかがだろうか。(個人的には、前都知事候補の宇都宮健児氏など適任だと思うのですが)

そういえば、カジノ解禁を最初に言いだしたのも、小生の記憶が正しければ、またもや例の石原元知事であったような気がする。東京都の湾岸地帯、豊洲、お台場の有効利用にはオリンピックとカジノが必要とか言っていたよね。

頭の黒いネズミは、悪い奴ほど嗅覚は優れていて、しかも図太くて逃げ足も速いようだ。
黒いネズミは身の安全が確保されると態度を豹変させると前にも言ったが、そのとおりになった。
小池都知事は、ネズミの正体を掴んでいるなら、こちらも是非フルオープンでお願いしたいものだ。

ログイン