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ラプラスの妄想

空耳妄言⑰―自分の腹は決して切らない自称‘武士’―都知事の責任の取り方など―空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうが良いような話もある

*都知事の責任の取り方
話題の豊洲市場移転問題について3月3日石原元都知事が記者会見をした。
会見を開いた動機について、「自分は坐して死を待つつもりはない。都議会百条委員会まで、とても待てない、一時も早く屈辱を晴らしたい」ということであり、会見に臨むにあたっては武士が果し合いに臨む心境だと話した上のことであった。都民のみならず全国民の注目の集まる記者会見になった。小生もテレビ中継を見た。

結果は、ご存知のように、何も新しい情報を出すでもなく、言い訳に終始し、責任を都庁の担当部署の責任者や承認した都議会に押し付けるもので終わった。
豊洲の安全性の判断や、移転決定に関しては、自分には専門性も何ら知見もないから担当部署の専門家の判断に従うしかないのではないか。瑕疵担保責任など政治的な判断が必要な所では、自分には話が上がってこなかったから知らなかった、あるいは覚えていない、という説明であった。
質疑応答で質問をした記者たちは皆通り一遍のことを聞くだけで、鋭く突っ込む記者は殆どいなかったが、最後に質問をした共同通信記者の質問は良かった。おそらくこの一問を繰り返し聞くだけで十分ではなかったかと思った。
「都が東京ガスに瑕疵担保責任を免除する取り決めをしたことを知事が知らなかったと言うなら、それはそれでいいが、誰がいつその取り決めをしたかの経緯が今一番問題になっているのだから、知事は今日の記者会見に当って、自らその経緯を調べて来て都民に報告する責任・義務があるのではないか」と尋ねた。それに対して石原氏は、「誰に聞けばいいというのか、私も知りたいくらいだ」とまるで当事者意識のない、無責任な発言に終始した。
都議会も承認したのだから、責任は自分だけではない、とも言ったが、そもそも知事を都議会とは別に直接選挙で選ぶ二元性の意味が何処にあるのかさえも認識していないかのような呆れた発言ではあった。もっとも、都議会をチェックする立場の知事が、都議会の実力者と結託してウィンウィンでいいようにやっていたのでは話にならない事ではあるだが。

豊洲問題に限らず、新銀行東京問題、オリンピック誘致問題、外遊などあらゆる機会を使って石原ファミリーと都議会自民党が、都税をいかに食い物にしてきたかを、現在、週刊文春が証拠をあげて暴いているが、その悪行ぶりは想像を超えるものである。

その本人が日本のモノノフ・武士の精神を我がことのように得意げに説いているのだから聞いて呆れる。
武士こそ、見苦しさをキライ、潔さを尊び、生き恥をさらさず、常に切腹の覚悟を持って生きるのではなかったのか。
他人には腹を切ることを説き、自分は決して腹を切らない、自己愛だけの権力者の常を見るようで胸糞の悪いものである。

そして、「坐して死を待つつもりはない」の真意は、「豊洲は科学的に安全であると言われているのに、移転しないで徒に税金の無駄使いをしているのは、すべて小池都知事の不作為のせいであり、責任を取るべきだ」との一太刀であったようだ。
恥の上塗りに気が付かないのだろうか。

我々はこの程度の人物に13年半もの間、首都東京の都政を任せてきたのだ。
そしてその後、猪瀬,舛添と小物ながら似たような人物を都知事に選び続けてきたのである。選ばれた者は選んだ者たちを映す鏡であると、今こそ自戒せねばならないだろう。

いつから日本はこれほど見苦しい国になったのか。
我々は政治家たちに『Noと言える国民』にもならねばならないと思う。

*ヤマトの値上げについて
クロネコヤマト宅急便の値上げが検討されているという。
小生は、昔から、宅急便という事業を起こした小倉昌男という人物を実業人として深く尊敬していることをまず明らかにしておこう。
実業とは彼のような理念で起こされるべきであると信じてやまないし、彼の拓いた社会サービスで社会の構造自体がどれほど変わり、国民がどれほど便利になったかについては説明の必要もないことであろう。特に、その実現の過程が、既成の業界や政府の岩盤規制との凄まじい闘いの連続であったことも敬愛の念が深まる理由である。

そして今や通販業界と組んで、本一冊はおろか、消しゴム一個でも即日、手元に届く時代になったのである。こんなに便利で有難いが、果たしてここまでサービスを受けて良いのかと、最初は戸惑った人も多いと思う。しかしすぐに慣れてしまうのも人の常ではあるが、一方が利益を受ければ、他方に犠牲が伴っているのも事実であろう。
宅急便の配達人が過酷であろうことは容易に想像がつくし、しわ寄せが宅急便業界に偏っているのなら、修正してでも宅急便というサービスが無くならないように守るのが先決であると思う。

基本的には、最少限の送料や配達時間、再配達に制限をつけるくらいは仕方ないと思う。
消費者も、サービスを受けるからには、それなりの対価を払うのは当然であると思うからである。
宅急便は、一人の偉人が生んだ日本が誇るべき稀有な社会サービスであると思うから、失ってはいけないのである。

空耳妄言⑯-「学会とは何か?」「アメリカはどうなる?」-空耳のように聞流して良いが、誰かが囁いたほうがいいような話がある

*学会とは何か?大学教授の役割とは何か?
一体全体、世の中に学会と名のつくものはいくつあるのだろうか?正統な学術学会から路上観察学会、漂着物学会のような珍奇な数名からなるもの、創価学会のように数百万を擁するものまで、人が二人以上集まれば学会になるほどであるから、浜の砂ほどの数があるに違いあるまい。
医学会だけでも数百はあるであろう。小生の所属する小さな臨床医学会でも、直接関連するものだけで5つや10はある。
学会とは何のためにあるのか?
第一には研究の成果を発表し、それについて意見交換をし、更なる進歩に繋げるためである。同時にこれは自分が一番先だというプライオリティをとるためでもある。もっとも最近は論文にしないとプライオリティはとれないとされているが。(それをいいことに人の発表を掠めて横取りするものがいる。そして、その手が世間的には出世していることが多い。)
第二は、研究者たちの親睦団体としてある。第3には、大学や研究所の教授たちの権力闘争の場でもある。大した利権はないが、理事長、会長と言う名誉欲が争点になるのだ。(うまくすれば勲章が貰える)そして多少の役得があるのだろう。第4には、会員の利権擁護団体としてギルドのような役割をもつ。医学会では多くは専門医、00医と言う資格を認定することで、多くも00士、00シュバリエ、00ソムリエというような資格を与え、その利権を守ることで、認定利権が生じる。
 さてそんな学会(特に医学会)の中心的な行事が学術集会というやつで、全国から、時には海外からも同業の士が数百~数千人集まり論文を発表したり聞いたりして勉強するのである。会員は諸々の資格獲得、保持のためには参加しなければ点数がもらえないので嫌でも参加する。

さてそんな学術集会のメーンテーマが開催半年前くらいまでには会員に告示され、参加を呼びかけられるのであるが、それを見れば最近の同業の学問の動向が読めるのである。
小生の所属する00外科学会の次回の年次集会のシンポジウムの筆頭テーマは「次なる00外科のbreakthroughは何か」である。奇妙なテーマである。これは、「自分たちは、今何をbreakthroughすればよいか分からないから話し合いましょう」という意味なのか?
学会の会長というのは、殆どが大学という研究機関の00部門の長である教授である。トップが、今breakthroughすべきものが何かわからずに何を指導しようとするのであろうか?研究の先端に入れば(いなくとも先端知識があれば)、いやでも課題は見えるものだ。
いや、これは教授たちのシンポではなく一般会員のためのものだよ、というかもしれないが、真剣に先端を走る研究者がわざわざ超えるべき課題(それが独創的であればあるほど)を他人に教えるはずもないし、人から教わろうともしないだろう。又そんな地平にいない会員にとってこのようなシンポジウムは必要ないであろう。

やはり、これは学問の先端を経験したことがない者たちのノー天気な発想というしかないだろう。言いかえれば、こんなテーマが堂々とまかり通る学会とは何かということである。
学会とはbreakthroughすべき課題をテーマにする処ではなく、(共通の暗黙の了解である)breakthroughするべく課題のbreakthrough する方法の先端を競い合うところであるべきであろう。

こんな使命感の欠けた教授達がリードする緊張感のない学会からどんな進歩が期待できるというのか。

*歴史学者の視点―トランプ政権を予測する
BSフジの「プライムニュース」が面白くなってきた。
同じように、ひとつのテーマを決めて、一家言を持つゲストを招いて話を聞き、問題を深めていくというスタイルの報道番組はBS読売の「深層ニュース」があるが、いかんせんMCの鋭さに差がありプライムニュースの方が断然面白く、ますます差が開いてきたように思う。

先日も、トランプ新大統領の今後のアメリカを予測する、というようなテーマで、歴史学者の熊本県立大学学長の五百旗頭真氏と同じく慶応大学法学部教授の細谷雄一氏が出ていたが、歴史学者の歴史分析的な視点は、政治家や評論家とは違い新鮮で面白かった。両氏とも個性的で、おそらく何かと批判する人もいるであろうが、両者を選んだプライムニュースの識見を感じさせるものであった。
曰く、アメリカの歴代大統領は、「秩序」と「正義」と「利益・力」の3つ核の間を振り子のように行き来しながらもバランスをとって世界の指導者として役割を果たしてきたが、トランプは世界の正義にも秩序にも全く関心がなく、あるのはアメリカの利益だけであり、損か得かでしか判断しないアメリカ史上初の大統領であり、過去例が無いだけに今後のアメリカの出方の予測は難しいという。英国も、オランダもフランスもドイツもイタリアも極右と言われるエゴイスチックな同じような指導者が生まれる気配があり、もしそうなったら、収拾がつかなくなると予測する。クラスの不良少年達がつるんで、力を持ってきた時、注意すべき先生が不良だったらどうしようもないだろうというのが、その例えであった。
歴史学者的な見方と言うのは、目からうろこの所があり、つまらぬ権力党的(田原総一郎的)な政治評論家たちの愚にもつかない解説よりももっと社会に評価されていいのではないかと、痛切に思った。
期を同じくして、地政学的な視点を売り物にして世界情勢を語る寺島実郎のBSTBSの「月刊寺島文庫」が、「アメリカの本質、日米関係の宿命」を放送した。そこではペリー提督とマッカーサー元帥を例にあげ、アメリカがアメリカンシーザーとして日本を統治しようとしながらも、「抑圧と寛容」の精神で、「自由と正義」という価値を与えようとしたが、トランプでその伝統も終わるかもしれないという。
トランプ就任後1週間が経ち、就任前の世界の期待も虚しく、彼の政策の判断基準が「アメリカの利益が第一になるかどうか」であることがはっきりしてきた。
世界は自国第一、自分第一の我欲の時代になって行くのだろうか。
それを誰よりも鋭く感じとって、我先にトランプにすり寄ったのがソフトバンクの孫正義であり、中国のアリババのジャック・マーであったのは象徴的であった。
また村上世彰みたいな(東大出て官僚になると国費で留学し、帰国後すぐに辞めてオリックスの宮内義彦をスポンサーにして投資ファウンドを作り、インサイダー取引に問われると「金儲けは悪いことですか」とせせら笑った。)のが、デカい顔して跋扈する嫌な時代が来るのであろうか。

空耳妄言⑮―「量子コンピュータが実現する」、「権力党という存在」など-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

*量子コンピュータ実現に不可欠な技術を東大が開発
正月のNHK BSニュースでとんでもないビッグニュースが流れた。東大の古澤教授グループが、量子コンピュータに不可欠な量子テレポーションを無制限に繰り返す技術の開発に成功したというのだ。
量子コンピュータは現在のコンピュータが100億年かかっても解けないような問題を数分、数時間で解く事も出来るという想像を絶する能力を持った夢のコンピュータと言われ、世界中の研究者がしのぎを削っている中での快挙であった。
この仕事の意義は、単にコンピュータの計算能力が飛躍的に高まったというにとどまらず、量子論の言う「重ねあわせ」と「量子テレポーション」という基本原理を実証し、その実用化に目途を付けたばかりか、宇宙が多数の宇宙の重ね合わせから出来ているという「多世界解釈」に正当性を与えるものと考えられるからだ。

古典物理学(相対性理論を含む)では、物質の状態(位置や運動量)はただ一つに決まっており、未来の状態も現在の状態に基づいて機械的に決まるとしているが、量子論では物質の状態は一つに確定しておらず曖昧であり、未来は複数の可能性があり、どれが実現されるかは確率的に決まるとしている。

シュレディンガーは物質の波動方程式を導いて量子力学を打ち立てたが、その解釈を巡って大きな論争が起きた。ボーア等のコペンハーゲン解釈では、ミクロの世界の物質(素粒子、電子)は見えない時は波の広がりの上のどこかに存在し、観察した時は波動上の位置による確率によって波が収縮して一点の粒子になるとし、観察していない時は電子は何処にあるかは確定されず、様々な場所にいる電子の状態が「重ねあわせ」の状態にあると説明した。
つまり電子の位置は、まるでサイコロを振ってその目に応じて電子の発見場所が決まるかのように確率的に、いわば偶然の要素で決まるとボーアたちは考えたのである。
これに対してアインシュタインは「神様はサイコロ遊びなどしない」と言い、また「量子論が正しいのであれば、月は我々が見たからこそあり、我々が見ていない時はそこにないことになる。我々が見ていない時も月は変わらずに同じ場所にあるはずだ」と言い、物理学は決定論でなければならないとした。
そしてアインシュタインはコペンハーゲン解釈では量子テレポーションという光速を超える速さの瞬間の情報伝達が量子間で起きなければならないことになり、それは相対性理論に反するから成り立たないとする「EPRパラドックス」を提唱し反論したが、アぺスが、ベルの不等式が成り立たないことを証明しアインシュタインが一敗地にまみえた結果になった。

一方、当のシュレディンガーも、ボーアたちのシュレディンガーの波動関数の意味する物質波の実在性を無視する考え方に反発し、電子の波や物質波は実在するとの立場から有名な「シュレディンガーの猫」と言う思考実験で反論し、そこではコペンハーゲン解釈がミクロとマクロの世界を分けて説明する矛盾を突いた。
彼は、波動方程式で1933年にノーベル賞を授賞したが、それでも「自分の人生で量子論に関わったことは悔やみきれない」と、その後の量子論の展開を忌み嫌った。後世は生物学に転じ、1944年には「生命とは何か」という、生命に対する深い洞察を含んだ名著を著し、その本に触発され、DNAの二重らせん構造を解明した分子生物学者のワトソンとクリックは生物学者になったというエピソードがあるほどである。

やがて現在のコンピュータの原理を生み出したフォン・ノイマンがシュレディンガ―の波動方程式では波は数学的に収縮しないことを証明し、コペンハーゲン解釈の言う波の収縮は「観察した人間が『観察したと』意識した途端に波の収縮が起きる」と結論付けたが、物理現象を人間の意識の中で発生させるのは無理があり、一般には受け入れられなかった。

そこで「波は収縮などせず,広がったままなのではないか」と言う考え方が生まれ、「多世界解釈」を生むことになった。
 
コペンハーゲン解釈では、観測される前の原子の位置については、「A点にいる状態」「B点にいる状態」「D点にいる状態」などが一つの原子の中で重なっていて、どこか一カ所だけにいるとは言えないとするものであったが、これに対して多世界解釈では観測する前の電子はどこか一カ所にいると考えるが、その代わりに、私たちの知らないうちに世界が複数に―「電子がA点にいる世界」「電子がB点にいる世界、「電子がD点にいる世界」に―枝分かれしていると考えるのである。

つまりコペンハ―ゲン解釈では一個の原子の中で『物質波上のそれぞれの場所にいる状態が重なっていると考えるが、多世界解釈では「電子がそれぞれの場所にいる世界」が重なって、同時並行的に存在していると考えるのである。
そして私たち観察者自身も、それぞれの世界に枝分かれして存在しており、それぞれの観察者は自分がどの世界にいるかは電子を観測するまでは断定できず、実際に電子を観測して初めて「私は『電子がA点にいる世界』にいるんだな」と判るという解釈である。  
これは、プリンストン大学の大学院生だったエベレットの「パラレルワールド論」が原点になっており、エベレットは量子論が自然界の基本原理であるなら、その原理は宇宙そのものにも適応されるだろうから、量子論に基づいてその可能性の数だけ(コペンハーゲン解釈で言う重ねあわせの数だけ)幾つにも枝分かれして来て、その一つが現在私たちがいる宇宙だと考え、私たちの知らないところに、別の宇宙が幾つも存在し、そこには「もう一人の私」たちが暮らしているとしている。そして「もう一つの宇宙、私たち」を見ることが出来ないのは、一度枝分かれした世界同士は互いに交渉が断たれ物理的に孤立してしまうからだと都合よく説明している。

多世界解釈の説明だと、波の収縮という仮定は要らず、シュレディンガーの猫の、生きている状態と死んでいる状態が重なりあって存在しているという摩訶不思議な矛盾はなくなりミクロとマクロの境界も取れパラドックスはどこにも存在しなくなるのである。

現在のコンピュータは、あらゆる情報を「0」と「1」の2進数の数字に置き換えて演算を行うので、二つの量子ドット(量子の入れ物)では「0」か「1」で情報処理をするが、量子コンピュータでは情報処理の単位に「0と1の重ねあわせの状態」を利用し、0でもあり1でもありで並列演算をするので、「0+0」「0+1」「1+0」「1+1」の4通りの演算を同時並行的に実行することが可能になる。従って量子ビットが10あれば2の10乗、1024通りの演算を一度に出来ることになる。量子ビットの数が増えれば演算能力は飛躍的に向上するが、それには量子間の情報が瞬間的に伝達すること(量子テレポーション)が無制限に繰り返せる技術が必須であり、それを今回古澤教授グループは開発に成功したのである。
古澤教授は1998年に2つの量子間のテレポーションを世界で初めて実現させているが、テレポーションを可能にする量子を連続して作り出せる数に限度があるのが課題であった。それを今回ブレイクスル―したのである。

この分野に門外漢である小生が量子テレポーションに関心があるのは、こころの存在と働き、つまりは心脳問題と関わりがあるからである。膨大な数の脳神経細胞の瞬時同時的な働きは電気信号だけの生理的な作用では説明出来ず、テレポーションのような説明が求められているし、ユングの言う「共時性synchronicity」や「意味のある偶然の一致meaningful coincidence」の説明に有用と思うからである。
事実、ボーアが量子論の示す物質観・自然観を相補性(相容れない筈の二つの事物が互いに補い合って一つの事物や世界を形成しているという考え)という言葉で説明しているが、ユングも意識・無意識、思考・感情、感覚・直観を始め相補的な思考が多い。(ラプラスの妄想「相補性と言う原理」2013.11.20参照)
ユングはまた「パウリの原理」で知られる著明な量子物理学者パウリとも親交があり(パウリはユングのカウンセリングのクライアントでもあった)、シンクロニシティについての「自然現象と心の構造」と言う共著を表すなど量子論への傾倒がみられる のである。

精神医学も心理学、脳科学も科学と言うには未だ面はゆい所があるが、量子コンピュータが実現すれば脳やこころの仕組みなどは革新的な発展が期待出来るし、今話題のAIもIOTも桁違いの進歩をとげるに違いない。

小生は、さほどにこのイノベーションをiPS細胞に勝る重大な出来事と考えるのだが、なぜか日本のメディアは殆ど取り上げていないように見える。NHKBSニュースが一度か二度程放送したに過ぎないようであるが、これは果たして誤報であったのだろうか。
Obokataワールドではないことを切に願うばかりである。

*公明党とは権力党なのか?
都議会の公明党が自民党との連携を解消し、今後は小池都知事と連携していくと発表した。
言うまでもなく、来る都議選を睨んでのことである。都議選で小池知事に刺客候補を立てられないようにして選挙を有利に戦うためと、新しい権力に寄り添うためである。そのために永年連携して組んできた自民党都議会を見限ったのである。

国政でもそうであるが、公明党という政党は、結局、常に権力側につくことを最優先する党派であるということは誰の目にも明らかで、平和主義をいいながら、最後は自民の政策、秘密保護法でも安保法制でも賛成に回るのである。最近のカジノIR法案でも、委員長は反対でも党として反対の立場は表明できず、議員個人の判断にまかせ自主投票にした体たらくである。

このような態度をとる政党は佐藤優が言うところの「権力党」と言うにふさわしいようである。(「僕らの頭脳の鍛え方」必読の教養書400冊、立花隆・佐藤優著、文春新書2009)
思想・信条に関係なく、時の権力から常に外れないように振る舞う権力党員から成る政党のことをいうらしい。
権力党員の条件は、権力の一番中心には入らず、権力に批判的な姿勢を取りながら、必ず権力の内側にいることで、批判者と言っても反体制的、左翼的にはならないことだという。堺屋太一や竹中平蔵などのように閣僚や政府の諮問委員になっては権力党員から脱落する危険性があると言う、権力はいつどこで入れ変わるか分からないからだ。

佐藤が例に挙げているのは、権力党員の典型は評論家の田原総一郎で、どんな時でも自分の立ち位置を確保する。立花隆と決定的に違うのは、立花はインテリゲンツィアだからだと言っている。インテリゲンツィアは、身の安全よりも自分の思想信条を優先し権力にとって都合の悪い存在で、日本には非常に少ないという。
けだし同感である。

彼の定義によれば公明党は権力党と呼ぶべきであろうと小生は思うが(ただし、公明党は常に権力の中枢、内閣に大臣の席を確保するが)、諸兄のご意見は如何なものであろうか。

*年末年始のテレビ番組に思ったこと
例年、小生の年末年始はテレビのチャンネルを動かしながらの寝正月である。
面白い番組があれば何時間でも見る。
今年は全般に不作であったような気がする。新しい企画が無く、最近の企画の焼き直しをするものだから、番組疲労を起こして、何ら新鮮な魅力が感じられないのである。
2年前は、あんなに面白がってみた「孤独のグルメ」も、もう色褪せている。
「酒場放浪記」も「鶴ベイの家族に乾杯」もそうである。

なぜだろうか?この手の番組の面白さは、主役以外が市井の一般人であり、その素人っぽい出会いの驚きが新鮮なのであるが、番組が売れてしまうと、登場する周辺の一般市民も今がテレビ撮影であることに直ぐに気が付き、とたんに素人でなくなり、変に意識した出演者になってしまうからかもしれない。それに主役も、変にすれて(プロがすれるというのもおかしいが)、タレント気取りというかスター気取りの振る舞いを取り始めるのである。酒場放浪記の吉田類や野天風呂を歩く山田べにこなどがその典型で、最近は変に多弁で、主役として仕切りたがるのが鼻につくのである。
「孤独のグルメ」では、もはやすべてを演出にしてドラマ化してしまったようである。

それでも見ごたえのある番組はいくつかはあった。
一つは、NHKBSの「グレートレース」で、第一部は日本アルプス、中央アルプス、南アルプスの主稜線を縦断し富山湾から駿河湾まで250㎞を走破するドキュメンタリーで、第二部はサハラ砂漠を走り抜けるという、信じられない過酷なレースのドキュメンタリーであった。意外だったのは選手の中心は40才前後で、20代はほとんどいなかったことである。体力、気力の最も充実するのは、それくらいなのだろう。

もう一つはNHKBS1スぺシャルで、「欲望の資本主義2017、ルールが変わる」,[伝説の晩餐会にようこそ]などは見ごたえがあった。
時間をかけた力作はやはりNHKの独壇場であるようだ。
前者は、資本が富を独占する‘成長’資本主義の限界を示すもので、後者はゴルバチョフ元ソ連書記長の回顧録であった。
前者の出演者トーマス・セドラチェクの著書「善と悪の経済学」とロバート・B・ライシュの著書「最後の資本主義」は、番組出演を売りにして、素早く正月明けの新聞に大々的に広告が載っていた。
トマ・ピケティの「21世紀の資本」同様に、いずれも高めの本だがベストセラーになるかもしれない。

今年も「追悼記事2016」が各誌に載った

大往生 001
年末になると、週刊誌やテレビの報道番組で、今年亡くなった著名人の追悼記事が載るのが恒例になっている。大体似たような内容だが、掲載順で、あるいは写真の大きさの扱いで、各誌の個性が出ているようである。
最初に目にしたのが週刊文春であったが、グラビアでトップに出たのは、纏のハッピを着た永六輔(83)で、蜷川幸雄(80)と同じく、写真一枚が一ページ扱いで載っていた。
次いで大橋巨泉(82)、平尾誠二(53)、デビッド・ボウイ(69)、モハメッド・アリ(74)、フィデル・カストロ(90)が1/2ページ扱いで、平幹次郎(82)、冨田勲(84)、中村紘子(72、田部井淳子(77)、三笠宮崇仁(100)、べラ・チャスラフスカ(74)などは小さな扱いで続き、最後がまた1ページ扱いで千代の富士(61)が載っていた。

週刊朝日はトップが千代の富士で、平幹二郎、永六輔、蜷川幸雄、戸川昌子、中村紘子と続き最後に大橋巨泉で締め括ってあった。加藤紘一(77)、鳩山邦夫(67)など政治家は名が知られていた割には比較的地味な扱いであった。

TBSのサンデ―・モーニングでは墓碑銘として、逝去した日時のカレンダー順で紹介していた。テレビだからサイズで差別出来ないし、放送時間の多少の長短はあったが、30名くらいが比較的同じように扱われていたように見えた。

週刊文春を見た時に、すぐに感じたことは、あれっ、野坂昭如が無いではないか?であった。不思議に思っていたが、朝日にも載っていないので腑に落ちず、調べてみたら野坂は昨年の12月9日が命日であった。おそらく昨年の追悼集には時間的に間に合わなかったのかもしれないが、すっかり失念していた。しかも自分でもここで確か「野坂昭如レクイエム」の記事を書いていた。(ラプラスの妄想2015.12.23)

認知の衰えはいかんともしがたいものだ。

野坂と永は、昔、三木鶏郎の冗談工房の仲間であった。野坂が亡くなった時に、小生は自分の昭和が終わったと書いたが、永が亡くなって小生の昭和の残滓がすべて消滅したように感じた。

NHKの「夢で逢いましょう」で思春期を過ごした者には,永六輔は何と言っても中村八大、いずみたく、渥美清、E.H.エリック、大橋巨泉、坂本九、黒柳徹子らと一緒のグループの人間である。
今や、この中で残っているのは黒柳徹子だけになってしまった。

永のベストセラ‐になった「大往生」を改めて読んでみたら、親友だった‘いずみたく‘と中村八大をほぼ同時に失った痛切な喪失感をページを割いて書いており、永が喋った気持ちのこもった弔辞が載っていた。
永の葬儀の弔辞は黒柳徹子が述べ、文春にも寄稿しているが、良い友達というものは、死んだときに本当の価値が分かるものだと思った。
だとすると、黒柳徹子が将来亡くなった時には一体誰が追悼の辞を述べるのだろうか。彼女が本当に別れを告げて欲しい人、長年の親友たちは既になく、最後に残された孤独さが目に見えるようである。

永六輔も大橋巨泉も‘むのたけじ(101)‘も戦争を肌で知る世代で、生き方は違っても「戦争だけはしてはいけない」と終生言い続けていた。
政治をする側も、それを監視する側も戦争を知らない世代になり、今や社会に向かって「戦争はいけない」と体験から肉声で言うのは天皇陛下だけになってしまった感がある。

蜷川幸雄のように亡くなる直前まで現役で活躍されていた方もいれば、小川宏のようにしばらく表舞台から遠ざかっていた方もおられるが、見れば皆わかる人達ばかりである。
彼等の人生と小生の人生が殆んど重なっている方達ばかりだからである。

小生は追悼記事に載ることは決してないが、それでも「そろそろだなあ」と実感する年の瀬である。

なぜ急ぐ?カジノIR法案成立-裏で動く黒い頭のネズミは誰だ?

たった6時間の審議でIR法案が衆議院内閣委員会で可決された。多方面から問題が多いと危惧された、実質カジノ法案が急いで強行採決された理由は、日経新聞によると「大阪維新の会」に自民党がおもねったためだという。改憲に向けて維新の協力をとるためには、賛成で意見を集約できなかった与党公明党との軋轢は覚悟の上であった。どうせ公明党は与党の立場を捨てられるはずはないと舐められたのだろう。また公明党は政党として賛成か反対かの立場を明らかに出来ず政党責任を放棄し,自主投票という姑息な手段でごまかすしかなかったのである。
IR法案の問題点は大きく3点であるという。
①その合法性について。刑法は「賭博」を禁止しているのに、宝くじや競馬などと同じようにカジノを公営ギャンブルにしても良いかという問題だ。
②経済効果があるかどうか。
③ギャンブル依存症対策をどうするか。

合法性はパチンコの景品を現金化する組織が警察機構の直轄団体になっている現実を見れば、法律論をまともに考えても無意味なのが、この国の実態だろう。我が国は政治の都合で何でも合法化できる国になっている。
経済効果について言えは、大型リゾート施設が決まれば、建築の需要と雇用が生まれるというが、これは新しいリゾート施設が決まれば必然的についてくる話で、何もそこにカジノが含まれている必然性はない話ではないか。
予想されるギャンブル依存症には万全の対策を尽くすと言うが、一体どんな対策があるというのか?、依存症になった患者に現在の精神科医療がどれだけ有効か実態調査でもしたうえでの話なのか?行き着くところは精神障害者年金と生活保護費を膨大に浪費することになるのは目に見えていることだ。
依存症の対策は原因となる対象を存在させないことに尽きるのだ。麻薬類が存在するから、薬物依存症は存在するし、ギャンブルがあるからギャンブル依存症が存在するのだ。そんな理屈は幼稚園児でも分かることだ。
ギャンブル依存症対策は、ギャンブルを根絶する以外に方法はない。IR法案とギャンブル依存症対策というのは根本的に自己矛盾でありブラックユーモアなのだ。
しかもこの問題の欺瞞性は、稼ぎは一部の特権的な組織が持って行くのに、そこで生まれた依存症患者の医療費や社会福祉費は税金で賄うという所にある。

カジノ法をめぐって、馬脚が現れたと言うか、見え隠れした問題点をいくつか言うと、
まず「維新の会」というのは、大阪の利益だけを考える利権団体だということだ。維新の会にとって、大阪都構想も2025年の国際博覧会誘致も、それに合わせて大阪湾の人工島、夢洲にカジノを誘致することもすべて大阪に利益を誘導するためであり、そのことが何よりも優先事項の党是とする団体に過ぎないということだ。そのためには政権にすりよって憲法改正で恩を着せカジノで取引をするというわけだ。
カジノはアベノミクスの成長戦略の柱の一ついうが、政府が賭博を奨励してテラ銭を稼ぐ国の品格とはどういうものかなどは、我が国の振る舞いを決める政府の政治家たちは一顧だにしないものだろうか?ただ世界中のどの国でもやっていることだから、それで外国からの観光客も増え外貨収入も増えているからと言う理由だけで、国の正義を決める刑法の理念を曲げてよいのか?
どの国もやっているからと言って我が国が真似をする必要が本当にあるのだろうか。
むしろ今となっては、カジノの無い国の方が希少で観光立国としてブランディングもし易いのではないか?
カジノは、法を守り行儀のよい優しい国民性と清潔で美しい国土という現在の日本のブランドの評価を下げることはあっても上げることにはならないだろうと思う。
さらにはモラルハザードの問題がある。国が認める施設の中ではブラックジャックはしてもよいが、家庭や職場で‘チンチロリン‘や‘おいちょかぶ‘を楽しんだら逮捕され刑務所に入れられるという構造は、どう考えたって国家のご都合主義であり教育的ではないだろう。それは博打が悪いから逮捕されるのではなく、カジノの特権を守るためとしか映らないだろう。判断基準が「国家が認めるか、認めないか」では道徳倫理の基準が失われ,モラルハザードは止めようがないだろう。
学校の先生には、博打の善悪を子供たちにどのように説明しろというのか、教育指導要綱にはどのように記載されるのだろうか?

物事の善悪の判断をすべて国家の都合で決める国とは何か、を今良く考えるべきではないかと思う。

さて最後に、一番肝心肝要な疑問がないがしろにされていないか不思議である。
それは、日本の社会の正悪を決める日本国の刑法がなぜ賭博を禁じているのか?そしてなぜ今それが改められようとしているのか?ということである。聞きたいのは、動機ではなく、改めて良い理由である。変更する法的な解釈は説明はつけられるだろうが、そうではなく、刑法を制定するとき、賭博は日本の社会、国民にとって良くないから禁止したのではなかったのか、その禁止とした理由を念頭に置いて、今回それを実質上、変更し許可するに至ったその理由を知ることである。
つまり、賭博が禁止されていた理由と、許可された理由の理解である。
後者の理由が、国の経済発展のため、国が収入が欲しいからという理由だけで変えてしまって本当に良いのか?
時代と共に社会の構造も生活のスタイルも変わり、国民の道徳観も変わる。賭博禁止は我が国の現代社会に合わなくなったから許可をすると言うならそれはそれでよい。
それならば、賭博は広く国民に自由に許可されるべきものだ。一部の特権組織だけが許され、他は駄目というのは憲法の保障する国民の自由・平等性に欠けはしないか。

賭博もパチンコ、競馬、競輪、競艇、ロトと実質骨抜きはいくつもある。
いずれも原初に立ち返っての本質論での説明は避けられ、小手先で実態を変更して来ている。
パチンコに至っては法の取り締まりの大本の警察が組織的に関わっている始末である。

カジノ法案は、売春禁止法を逆に行くようなものでもある。かつて売春行為も国が認めた場所(遊郭、赤線)、娼婦(公娼といった)であれば良くて、私的に行えば逮捕され処罰された。しかし1958年買春防止法でそのすべてを禁止したのである。
買春を賭博に置き換えれば分かりやすい。

小池知事が定例記者会見で、ある記者に「オリンピック会場を巡っては、結局は大山鳴動してネズミ一匹か?」と皮肉られた時、「それでもオリンピック会場でも豊洲市場でも、黒い頭をした大きなネズミが沢山居たことが明らかなり、それで経費は随分削減にされたではないか、それだけでも良かったではないか、」と切り返したが、おそらくカジノ解禁でも、裏で、頭の黒いネズミが巨利を狙って暗躍しているに違いあるまい。

ところで、先日のオリンピック4者会談で、森組織委員会長が、横浜アリーナ開催に関して小池都知事をなじったが、そのネタ元になった横浜市長から都知事宛の「横浜アリーナ開催での懸念」に関する手紙を都知事に上げずに、森組織委員会会長に見せた都の幹部職員がいたことが後日判明した。そんな頭の黒いネズミ達に内通する、いわば都民に弓引く不埒な輩は、名前を都民に公表し処分すべきと思うが、皆様のご意見はどうだろう?
その犯罪的職員の特定と公表こそがマスコミの責務であると思うが、またマスコミ各社はスルーを決め込むのだろうか。
この間の都政の不祥事を見て、つくづく思うのだが、都政の不正を防ぐには、都政、都議会の活動を詳細に報道する地方紙を作るのが最良の方法だと思う。全国紙では駄目である。健全な地方紙の存在は地方行政をチェックし社会を浄化する。少なくとも今までの元都知事、都議会自民のようなやりたい放題はブレーキがかけられるだろう。(マスコミの最大の役割は、行政の監視である、地方紙は地方行政を専門に監視する)
どなたか心あるジャーナリストが手をあげれば、クラウドファンディングで資金は容易に集まるのではないか。仮称「都民新聞」に投資しようとする都民は少なくないと思うがいかがだろうか。(個人的には、前都知事候補の宇都宮健児氏など適任だと思うのですが)

そういえば、カジノ解禁を最初に言いだしたのも、小生の記憶が正しければ、またもや例の石原元知事であったような気がする。東京都の湾岸地帯、豊洲、お台場の有効利用にはオリンピックとカジノが必要とか言っていたよね。

頭の黒いネズミは、悪い奴ほど嗅覚は優れていて、しかも図太くて逃げ足も速いようだ。
黒いネズミは身の安全が確保されると態度を豹変させると前にも言ったが、そのとおりになった。
小池都知事は、ネズミの正体を掴んでいるなら、こちらも是非フルオープンでお願いしたいものだ。

トランプ米大統領選出は本当にショックな出来事なのか?

次期アメリカ大統領にドナルド・トランプが選ばれた。当選確実と信じられてきたヒラリー・クリントンは惨敗であった。世界中のメディアも専門家もが票を読み違え、世論調査や出口調査の信憑性が問われることになった。現在、いろんな人が色んなことを言っているが、公約数的に言えば、喧伝された低学歴の白人中低所得層以外にも、人種差、男女差、年齢差、階級差を超えて予想外に多数の「隠れトランプ」が居て、票を読み違えたという所であろうか。
選挙キャンペーン中の様々な暴言もあって、トランプがなったら世界の終わりくらいの言い方がされてきて、当選が決まったときは世界中の人びとがショックでしばらく言葉を失ったかのようであった。小生も間違いなくその一人であった。民主主義とは衆愚政治だとアメリカ国民を愚弄した論調のコメントも少なくなかった。そこでは「政治的正しさ・ポリティカル・コレクトネス(political correctness) ]とか「反知性主義」とか、今までは余り一般的ではなかった用語が目につくようになってきた。

ポリティカル・コレクトネスとは、政治的・社会的に公正・公平・中立的で、なおかつ差別・偏見が含まれていない言葉や用語のことで、職業・性別・文化・人種・民族・宗教・ハンディキャップ・年齢・婚姻状況などに基づく差別・偏見を防ぐ目的の表現を指し(Weblio辞書より)、まさにトランプのとってきた言論、表現法とは逆のことを言うのだ。

今回の選挙で、民主主義社会における表向きの行儀のよさとか文化が綺麗ごとにすぎず、いかに無力で脆弱であるかが証明されたかのようであった。

資本主義が発展し、行きついたところが、ごく少数派による富と権力の独占であり、その結果として、生き甲斐や居場所を失いつつある中産階級の怒りと活路を求める声が、一方で多くの権力が特定のエリート階級に固定化することへの批判が「反知性主義」として若い知識階級の平等主義的な目覚めとしてあり、それらが結びついて前クリントン、オバマ民主党体制の継続に対し異議申し立てをしたのが今回の結果ではなかったかと思うのである。

これは世紀を跨いで続いてきた資本主義を中核とする政治経済体制の流れをストップさせようとする歴史的判断の始まりではなかったか、とすればショックではなくエポックメーキングな歴史的快挙とみることも出来るのではないかとさえ思うのである。

今回の選挙はアメリカの民主主義が健全に機能していることを証明したともいえる。なぜなら従来の政治的枠組みの中で十分に自分達の意思や利益を反映できなかった人々がテロやクーデターに訴えることなく平和裏に合法的に権力を転覆したからだ。

ビル・ヒラリー・クリントン一家のどこか信用できないエスタブリッシュメントの冷徹さ、あざとさを多くの米国民は見抜いていたのであり、そこをトランプは「30年も政界の中枢にいるのに、何故今も変革を訴えているのか」と皮肉ったのである。

また同時に米国を始め、世界中のマスメディアというものが、権力層の一翼と化し、一般国民の民意というものをいかに汲みとれないものであるかということを露呈した。

トランプの評価は未だこれからのことであり、皆が息をのんで様子を伺っている所であるが、マーケットは、政治的な混乱より、単純に金の廻り方だけをポジティブに評価し、早くも株価で好意的な反応を示している。当選後の今では、今後の思惑もあってか、マスコミも世論もネガティブキャンペーンはなりを潜めつつある。我が国においてもトランプをポジティブに評価しようする流れが政界を中心に生まれつつある。一部の政治家や評論家たちは、トランプは実業家であり、政治的には無知であるかもしれないが地頭が良いので政治というものをすぐに理解し現実的な対応をとるであろう。従って彼のこれまでの極端な暴言は杞憂となるであろうし、アメリカ経済は間違いなく良くなるであろうと楽観的である。

確かに彼は、あの言動にはふさわしくない高学歴であり、子供達も皆知的エリートである。ほんとうに優秀な遺伝子は継代するものであるから、彼が頭脳明晰であるのは事実であろうし、決して歴代大統領に見劣りするようなものではないようだ。

良く言えばトランプは、資本主義と言う疲弊した体制が崩壊しつつある現代に新しい秩序を築きあげるべく登場した時代の申し子的な人物なのかもしれない。丁度戦国時代を終焉させるべく織田信長が歴史の必然として現れ,スクラップアンドビルドを行ったかのように。

そう思ってみると、これから世界がどのように変わっていくかを見るのが楽しみでもあり、怖くもある。

小生の考えでは、短期的には中国、ロシアが勢いを増すが、やがて世界は覇権が失われ、混迷の時代に入るであろう。そして世界はスクラップアンドビルドが行われ新しい世界体制が出来るであろうが、それがどのようなものであるかは小生ごときには全く予測できない。

おそらく拡張を続けたグローバルな社会体制から、縮小に向かうローカルな社会体制に向かうのではないかと思う。概念的に言えば、原始共産制に向かい退行していくのではないか。人間は必要最小限に小さく群れて、その小社会で自己完結的に暮らすのが、ストレスが少なく幸せではないかと思うからである。

しかし、そこから、また再び同じような歴史を歩まないと言う保証はどこにもないのだ。

空耳妄言⑭-ボブ・ディラン、IOCバッハ会長、森五輪組織委員会長、石原元都知事のことなどー空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

*ボブ・ディランとノーベル賞のどちらが傲慢か?
ノーベル文学賞を選考するスエーデンアカデミーが、歌手ボブ・ディランが受賞の知らせに全く反応しないことに対して、無礼で傲慢と非難した。

さて傲慢なのはどちらだろうか?

ノーベル財団という所は、ノーベル賞は授与すれば誰でも欣喜雀躍、喜びの余りこおどりして参上して来るのが当たり前と考えているのだろうか。それこそが傲慢というものではないのか。

ディランの詩の真髄は既存の権威に対するレジスタンスであり反戦が根底にあるテーゼではなかったのか?
そのディランの作詞の文学性の高さを評価したスエーデンアカデミーが、ディランが喜んで尾っぽを振ってくると考えたとすれば、それこそ自家撞着・自己矛盾ではないのだろうか?

大体、人類史上、画期的な大量殺人兵器を作って、死の商人と言われながらも戦争で稼いだ巨万の富を基金とするノーベル賞が、なぜ今日のような世界最高の権威を持つようになったのか?振り返れば不思議な話ではある。
スエーデン政府が国会、王室をも動員して一大国家的イベントに仕立て上げ、高額な賞金の目減りを防ぐ努力をしているのも要因の一つになっているのだろう。

ノーベル賞の選考は、例えば精神病患者の脳の一部を切除するという治療法を考案し、後に科学的根拠の無さが証明され、その非人道性から中止になったロボトミー手術を偉大な業績とした1949年の生理学・医学賞のエガス・モニスとか、非核3原則で沖縄返還を実現したとされたが、後に核持ち込みの密約が露見した1974年の平和賞の元総理・佐藤栄作など、誤謬も少なくなく、選考が常に政治的に中立で、科学的にも普遍的な真理を見抜いているわけでもない。それは受賞対象者が生存中という条件があるため時期が限定される上、人が人を評価することであるから仕方がない面もあるが、それならそれなりの謙虚さがあってもいいのではないか。
それにしても1901年以来115年間で、受賞を辞退したのは1946年文学賞のジャン・ポール・サルトルただ一人で、世界中の国ぐにが年中行事のように騒ぎ立てるものだから、ノーベル財団が傲慢になるのも務べなるものかもしれない。

ディランは、彼の意図に拘わらず、ノーベル賞の権威の虚構を暴き出したのだ。
ノーベル賞のパロディ版であるイグ・ノーベル賞の来年の受賞者は、「本家ノーベル賞」に与えるのが相応しいと思うのだ、諸兄のご意見はいかがだろうか?
受賞理由は「傲慢なるものは、自分の意に沿わないものを傲慢呼ばわりする」ことを証明した功績によって。

*安倍首相の独裁者への道
国会の所信表明演説の際、安倍首相は前列に陣取る自民党若手議員を使ってスタンディングオベーションをさせた。それにつられて与党議員は皆立ち上がって拍手をしたという。(まるで戦前の翼賛国会ではないか)

また自らの自民党総裁すなわち内閣総理大臣の任期を延長しようと、その意を汲んで延長に前向きだった二階前総務会長を幹事長に仕立てあげ、まんまと3期9年まで総裁・総理を可能にした。(プーチンもそうしたし、今また習近平もそうしようと図っている)

今上天皇の生前退位の意向を、公務軽減を図ることで「平成一代限りの思いつき」でけりをつけようとしている。(憲法改正の邪魔をされたくないのだ)

この安倍晋三という人物は一体何を考えているのか。

巨大与党を作りあげ、この、時代の先の読めないアナクロ男を助長させているのは他ならぬ私たち国民であることを忘れてはならない。

*沖縄での機動隊員の「土人,シナ人」呼ばわりしたヘイトスピーチと、それを擁護した松井大阪府知事の低級さ。
たとえ腹の中で思っていても言ってはいけない立場があることが分からない低レベルの大阪府警機動隊員(ま、こちらは仕方ないか)と松井大阪府知事(政府与党に一目置かれて得意げなんだろうね)。両者には、職業論から遵法精神、道徳論までかなり初歩レベルからの教育的指導が必要だが、おそらく両人とも聞く耳を持つだけの知性も教養も欠けていそうだから、結局「バカにつける薬は無い」の例えが相応しいという落ちになるのだろうか。

*古狸の老獪さ―森五輪組織委員会会長と石原元都知事の所作
IOCのバッハ会長が来日し、僅か一日で五輪会場を巡るゴタゴタを裁いて見せた。
カヌー・ボート会場をめぐっては小池都知事と森五輪組織委員会会長の確執が伝えられたが、直近までは小池氏有利な展開であったが、最後になって森会長がバッハ氏を上手く使って土俵際でウッチャリを決めた格好になった。(森氏の側近に裏で根回しした知恵者が居たに違いあるまい、組織委員会には事務局長はじめ優秀な高級官僚が目白押しだし)
IOCも五輪組織委員会も所詮は体育会系なのだよ。体育会の絆は文系の理解を超える友情・利害で結ばれているものだ。小池氏のメンツを立てながら盟友?森氏を勝たせたバッハ氏の政治的手腕は相当なものだ。今後予定される4者協議会(都知事、組織委員会会長、政府五輪担当相、IOC代表)でも小池氏はもはやヘゲモニーは取れないだろう。

それでも五輪の諸費用に対しては、今や都民・国民は相当ナーバスになっているから、これまでのように、組織委員会のやりたい放題というわけにはいかないだろうから、小池知事の「見直し」は、それ相応の成果はあったとして都民・国民には評価はされるだろう。

一方、豊洲市場移転問題は、オリンピック騒動の陰に隠れて、石原元都知事は狡猾な振る舞いに出てきた。一連の疑惑に対する解明には全面協力すると言っておきながら、この期に及んで、手の平を返すがごとく、ボケを理由にヒアリングには応じず、文書で「忘れた、何も知らぬ」と返答したそうである。おそらく、自分には手は回らないと判断する材料が出てきたのだろう。我々一般国民にはうかがい知れない大きな力が働いたのではないか。おそらく裏では決着がついたのだろう。

我々一般国民には、石原元知事をお白洲の場に座らせて大岡裁きを見てみたい向きも多かっただろうに、と思うのだが。
都税を食い物にしてきた石原慎太郎、伸晃,宏高親子の悪行が白日の下に曝される日は来るのだろうか、前回の五輪誘致に続いて、またも隠蔽されてしまうのか。
お白洲である都議会百条委員会を作らせなかったのは自民・公明党であり,民進党も黙認した事実を私たちは忘れないようにしよう。

空耳妄言⑬-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

1.未曾有の地方政界疑獄になるか?-東京都庁の闇
豊洲移転問題が急展開しつつある。
あまりに不自然な経緯ではないか。
豊洲新市場の地下が空洞になっていた問題が発覚してからの決定当時の某元都知事の言動は余りに不自然である。

この問題は、豊洲移転に決定した経緯から、2016年度オリンピックの東京誘致運動を絡めて一体になって進んできた話であろう。合わせて数千億から兆に迫るような大きな予算が絡んだ話にトップの承認、あるいは暗黙の了解が無くて進みようがない話であることは誰しもが承知していることであろう。

TBSの昼番組、「ヒルオビ」に出演していた某落語家が辛辣な発言をしていたな。移転先を東京瓦斯の跡地に決定した余りに不自然な流れを、「豊洲という訳あり物件を不自然に高く買った」のであり、地下空洞に変更したのも、「誰か、心の汚れた人達が得をするために決めたことでしょう」とコメント。名指しこそしなかったが例の強面元知事と自民都議連の某ボスの結託したことではないか、と匂わせた。
小生もこの問題が表面化した直後から、くさい話だなあと思っていた。2016年度オリンピックに立候補した時の誘致費用の巨額使途不明金疑惑から、自民都議団と元知事の密約があるのではないかと睨んだが、築地市場移転も絡めば巨額な金が動くので桁違いな利権が生じ、なるほど、決定後に費用が何倍、何十倍にも膨れ上がるのは、豊洲もオリンピックも同じ構図である。
某元都知事は、最近になって、かつて政敵であった、ロッキード事件でピーナッツを食べた田中角栄元首相を褒めあげた著書を書いたのも、ユングの言う「意味ある偶然の一致」なのではないか。

一体、今度のピーナッツは一粒いくらだったのか、小池知事の側近になった元特捜検事の若狭勝衆議院議員の手腕を期待を込めて拝見したいものだ。
果たして小池知事がどこまで頑張れるか、それは、ひとえに国民の目にかかっている。
大手新聞やテレビなどの今のマスコミは端よりあてにはならない。彼等は、最後は権力に屈するというより、もともと権力と闘う気力など初めからありはしないのだから。
小池知事も所詮は政界の風見鶏といわれた政治家である。御身を見て、何処かで引き際を考えるだろう。とことん追求するには、やはり世論の厳しい目が継続することである。強烈な市民運動が、都庁の内部告発を誘発させ、行政・検察を突き動かして行くしか方法はないのかもしれない。

都が地下空間をマスコミに解放した時に、マスコミ関係者に地下水の持ち出しを禁じた時の都職員のセリフが笑止であった。「こちらで責任を持って検査するから、勝手に採らないように。」と言ったらしい。この段になって都を信じろというのは、社保庁の役人と、三菱自動車を信じろというに等しく殆どブラックユーモアであろう。

文春はかつて立花隆を使って田中角栄の不正を追いつめた。平成の立花隆が居なければ、都知事選にでたジャーナリストの上杉隆でも使って、都庁という不正の巣窟を暴いて欲しいものだ。どうでもいいような政治家や芸能人のゴシップ・不倫を追いかけるだけがジャーナリストの仕事ではないよ。

今回はロッキード事件以来の巨悪がうごめいているような気がしてならない。

2.天皇陛下の生前退位の真意
先に(ラプラスの妄想、2016.7.20)天皇陛下の生前退位の真意は、憲法改正への反対の意思表示ではないかと書いた。最近になって内田樹が同じような意見を週刊誌「アエラ」の巻頭コラムに書いていた。外国のメディアにもそのような見方があるそうだ。
なぜ日本のマスコミはそのような意見を報道しないのか?
安倍政権の元で骨抜きになっているのか?
あるいは、単に記者の感度が鈍いだけなのか?まさか、そんなことはあるまい。
こうして日本のマスコミは常に権力に協力して国民を誤誘導するのである。

3.福岡高裁の、辺野古埋め立てを巡る判決は司法の行政への介入ではないのか?
国が「翁長沖縄知事の辺野古埋め立て承認取り消し」の無効を求めた訴訟は国の全面的勝利となった判決であったが、問題はその判決理由である。法的な判断というより、文字通り政治的な判断をしたのだ。
いわく、国の安全保障対策は最も優先されるべき事項で、よほどの合理性を欠かない限りは、地方自治体はそれに従わなければならない。従って埋め立てを承認した仲間前知事の判断は正しい。故に翁長知事の承認取り消しは認められない、というものであった。
要は、地方は国の政策には従うべきだとするもので、露骨に現政府の政策を支持し、沖縄県政、県民の意思を無視するものであり、これが司法の行政への介入でなくて何だというのだろうか?
こんな裁判がまかり通っていても、誰も声を上げなくていいのか。

リオ五輪雑感-考えてみても意味の無いことですが

五輪に余り関心の無い人でも、いざ始まってみると、五輪のテレビ観戦で連日の夜更かしをして何となく体調を崩した人も多いのではないか。小生も体操とか、柔道、レスリングやバトミントンなど金メダルがかかった試合ではつい止められず、深夜3時4時まで観てしまったクチである。

まず思ったことは、これはともあれ、自分とは全く次元の違う世界だなあと、自分をそこに重ねることは、想像することすら出来ない世界であるという思いであった。例えば体操の演技を見ると、選手のする演技のどれ一つとして(例えば吊り輪などはぶら下がることすら)出来ないと思うようなものばかりで、それをこれでもかというふうに繰りだされると、同じ人間とは到底思えないのである。
卓球にしても、バトミントンにしてもそのスピードは神業としか思えないものであり、丁度ピアニストがすごい速さで鍵盤をたたく時に、どんなことがあっても自分には絶対に真似は出来ないなと思う気持ちと同じであった。
それは、陸上の100メートル競争でウサイン・ボルトがたとえ前人未踏と言われる速さで走っても、自分にはあのようなスピードで走ることは絶対に出来ないが、それでも100メートル先に到達することは出来る(要は速さの違いだけなのだ)と思えるのとの決定的な違いである。

もう一つは、参加選手たちの極限まで自分を追い詰め精進した姿を見るにつけ、自分はそこまで努力したことが無いなあという反省というか、無力感に襲われたことである。単に自分が怠惰であるに過ぎないのだろうが、多くの選手がそこまで燃焼する機会が持てたことに少々羨ましくも思ったりしたのである。

*日本のメダルラッシュの要因
日本の選手たちは予想以上の活躍で、記録的なメダル獲得数であるという。今までの五輪は、概して期待を裏切られるのがほとんどであり、今回のように期待以上の活躍をするのも珍しい。
さてそれは何故か?であるが、おそらく2020年の東京五輪の影響であろう。開催国はなぜかメダル獲得数が例年より急増するのが恒例である。その為に今回は早くから強化予算がついており、環境に恵まれたのも理由の一つであろうが、もう一つは国民全体の五輪に向けての得体のしれない上昇機運のムードに乗ったのだと思う。
国民の「気」が動いて後押しをしたのである。このような国家的な動向というものは、「景気」と同じで、基本的に政策など人為的な操作では上手く動かすことは出来ず、結局は国民の「気」で動くものだということを示していると思う。

*女子レスリング吉田沙保里選手の銀メダルが教えること
メダリストのインタビューでは一様に誰もが、「負けても後悔しないだけの練習をしてきたこと、周囲のサポート、応援があったこと」を挙げるのが普通であった。それはともすれば、「努力すれば報われる」「メダルが取れないのは努力が足りなかったのだ」という風潮にならないでもないが、では吉田選手に努力が足りなかった、応援が足りなかったと思う人はまずいないだろう。
第一、努力がいつも報われるのなら、全員が金メダルになるだろう。
吉田選手の敗因について、また彼女の敗戦後の号泣について、いろんな人がいろんなことを言っているが、みんな言っても意味の無いことばかりであった。

量子論は、森羅万象すべてのことは誰にも予測できない、ただ予測できるのは確率だけであり、最後は神が決めることだと教えている。練習努力は勝つための必要条件であるかもしれないが、十分条件ではない、というより十分条件などは元より存在しないのである。

*男子柔道73キロ級大野将平選手の金メダル
今回日本は、柔道の全階級でメダルを取るというⅤ字回復をなしとげた。なかでも73キロ級の大野将平選手の強さは際立っていた。
彼は「美しい柔道を見せる」と言い、技だけでなく、試合終了後のお辞儀も深く、勝っても決してガッツポーズは見せなかった。それは敗者への礼節であると言う。
ほんとうに強い者だけが言いうる、スポーツに精神性があることを久しぶりに見た気がした。

*陸上400Mリレーの日本の銀メダル
陸上競技は、特に練習努力の効果が報われない種目、努力しても天性には及ばないのはすべての競技に共通してはいるが、もっとも顕著なのが陸上競技ではないかと思う。どんなに練習しても、生まれつきにはかなわないのである。そんな資質に乏しい日本人が短距離リレーで銀メダルを取った。小生はこの事実をどう理解すべきか分からない。
神のいたずらか。

*サッカー、ブラジルの金メダル
サッカー王国ブラジルが、母国開催の五輪で、初めて金メダルを手にした。エース、ネイマールがPKを決めると6万を超える観衆の歓喜でスタジアムは地響きで揺れた。
そして表彰式では、表彰台の選手も観衆も大きな声で、泣きながらブラジル国歌を歌った。
こんな国歌もあるのかと思った。

*小池都知事の「技あり」
小池都知事がリオ五輪の閉会式に出席して、五輪旗を受け取るべく出掛けた。同時に東京と日本のアッピールをして来ると自信に溢れた笑顔で言っていた。
まるでその後を追うかのように安倍首相も閉会式に参加するために機中泊で急遽出かけた。ここで小池知事にリオで日本代表のような顔をされたら、東京五輪の主導権は完全に取られてしまうと恐れたのか、はたまた今後の政局を考えれば、外交的に自分の存在感を示しておかねばと考えたのか、安倍首相は急遽リオ行きを決めたらしい。外交に腰の軽いのは評価できるが、思いつきのようなスタンドプレーが外国受けしたからと言って調子に乗らず、国家の品格というものを常に念頭に置いて行動すべきであることを森組織委員会会長共々知るべきであろう。
ここはやはり金帯を締めて勝負に出た小池氏に、都知事選に続いて「技あり」だろう。

*五輪後進国開催の意味
ブラジルに五輪が順調に運営出来るか?という心配が直前まであった。治安やジカ熱など衛生面の不安もあったのだが、競技場の建設も間に合ったし、競技の運営も目立ったトラブルもなかったようだ。多少の脅し、タカリのような強盗事件、おまけに米国選手の強盗狂言事件もあったが、心配の多くは杞憂に終わったようである。
今後は先進国の大都市以外での開催が、引き続き検討されるようになるだろうが、問題は開催費用の高騰である。もはや後進国の国家予算では賄えなくなってきている。事実上、開催不可能なのである。
一方でIOCでの開催国決定には巨額な賄賂が飛び交いIOCの巨額な利権が問題視されるようになってきた。個人が数十億円単位の賄賂を取っているというのだ。
そこで、五輪事業の利権で上がる金で運営費を捻出したらどうか、と思うのである。主として放映権料と企業の協賛広告費であろうが。そのすべてをIOCの管轄にして、それで基本的に開催費を賄うのである。その範囲で行えばよいのである。
ただ、その際には今のIOCの体質を改め、透明化がなされなければならないだろう。
そうすれば、利権に群がって事業費高騰を招く開催国のフィクサー、政治家、業者の利権は無くなり、異常な開催費用高騰も抑制されるであろう。
利権が大きいから高額な賄賂を使ってでも誘致するようになる。

日本の「国体」が日本中の各都道府県を巡ることで、日本中にスポーツ施設が造られスポーツ振興に役立ったように、五輪が後進国を含めた世界中の国ぐにのスポーツ振興の中心的役割を果たせば、それこそ五輪精神にかなうものと言えるのではないか。

*スマップの解散騒動と五輪
五輪開催中にスマップの解散騒動があった。
メンバーの一人は、五輪に迷惑をかけたと謝罪したという。
解散に至った理由はどうでもいいことだが、芸能スターというものは、スターが作る虚像をファンが共有することで成り立っているものである。
スターがその虚像を作れなくなったり、ファンがそれを共有できなくなった時に両者の関係は終わり、スターは消えて行くのである。
今回は前者であり、自分達は今までのように虚像を作ることは出来ないから辞めると言ったのである。
後者は、スターの実像が暴露され、虚像との乖離にファンが付いていけなくなった時である。昨今の例でも、例えば、麻薬をやっていたとか、買春やわいせつなど破廉恥罪や性犯罪など重罪を犯したとか、ゲス不倫をしていたとかが、そのきっかけになる。
それだけのことであり、大騒ぎして、利のあるのは芸能界とマスコミだけなのである。
ファンも早く忘れるに過ぎないと思うが、いかがなものであろうか。

空耳妄言⑫-空耳のように聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある―都知事選、天皇生前退位を巡って

都知事選挙が行われているが、それにまつわる風潮について一言言っておこう。

*新都知事に実務経験は必要なキャリアか?
都知事候補者に実務経験が問われているが、本当に必要か?実務経験とは何を指すのかよくわからないが、書類の印鑑の押方やサインの仕方ではあるまいから、お役所という所は独特の仕事のペースがあって、それを乱すと、役人と軋轢が生じ、上手く行かないよ、ということであろうか。知事候補は、いずれも社会人経験があるから、仕事をする上での組織のシステムというものは知っているであろうし、一通りの社会性は身に着けているはずであるから、ここで改めて実務経験というからには、都庁独特の役人のシステムを指すのであろうが、そんなものは知らなくて良いし、役人が意地悪さえしなければ、すぐに理解できる程度のことに決まっていよう。某知事経験者がテレビでのコメントで、およそ1か月もあれば十分仕事はつかめるものだ、と言っていたし、知事がもし改革を進める気があるのなら、むしろそんな既成の風習に染まることはマイナスでしかないだろう。
多少の時間がかかっても、新知事が、何をやろうとしているかが、どれほどか重要ではないだろうか。

*都政と国政は別物である、というが本当か?
都知事に国政は関係ないと、主に自公与党から、野党候補に向けた反キャンペーンであるが、地方行政が国政から独立したものであると考えるお人よしは、それ程居ないと思うが、如何であろうか。
例えば、沖縄を見ればよくわかることである。米軍基地移転問題は、国の重要な政治課題であるが、沖縄県民にとっては、生活そのものがかかわる沖縄県政の問題でもある。だからこそ、沖縄では市長も知事も、今回の参議院選挙(つまり国政)でも、揃って見事に反基地派が勝っている。県政が守る県民生活は、国政に直結していると沖縄県民は判断しているのである。
東京都は、今は大きな政治問題が無く、顕在化していないだけのことであり、いつ顕在化するかは分からない。例えば横田基地のオスプレイ配備の問題などは、国政とのスタンスを考えて知事を選ばないと、政府の決定が、そのままフリーパスで都議会を通り都政に反映され、都民の意思が国政に歪められてしまう可能性が生じてくるのである。
また、政府与党は地方県政、都政は国政とは関係ないと言いながらも、知事の選挙運動では、人気者の新人国会議員から、幹事長、閣僚まで応援に躍起なのは矛盾していないかは、ちょっと考えてみればわかることだ。
これこそ都政が国政に関連しており、双方が影響しあうと考えている証左ではないのか。

*宇都宮健児という人物
おそらく、最も都政を研究し、自分なりの政策構想を明確にもっているのは、土壇場で立候補を断念した元日弁連会長、宇都宮健児氏であろう。強い信念で支援者と一緒に都政を5年に渡りウオッチし続けて来て、この場に及んで、身を引いたのは、おそらく断腸の思いであったろうが、まさしく自公に都政を渡さない為の一念で、大人の判断、決断であったと思う。
鳥越俊太郎氏は、単に知名度で残っただけと自覚して、宇都宮氏に三顧の礼を尽くし、政策等は教えを乞い、彼の都政への思いを代わりに実現するくらいの覚悟が必要であると思う。
穏やかな物言いと静かな表情の裏に、とても強い意志が見える。そして筋を通す現代では稀有な逸材であると思う。

*鳥越俊太郎氏への軽い失望―勉強不足と練習不足
迷いに迷ってギリギリの決断であったにせよ、彼の勉強不足は目に余るものがある。都政のことならまだしも、ジャーナリストとして、一般社会人としても、とても知識教養が深いとも思えない。演説にも政治のヴィジョンは見えないし、彼の人格のコアとなる人生哲学らしきものも希薄な印象で、人の心を掴む力が弱い。要するに演説の準備、練習が出来ていないのである。これらは、正直に言えば、彼への期待の軽い失望である。
ただ田舎者の実直さは見えるから、今後の努力のいかんでは、歴代に比べて都民目線の名知事になる可能性はあると思う。同時に、迷知事に終わる可能性も同じようにあるが。

*新知事は、舛添、猪瀬、石原元都知事経験者の税金の使い方、とりわけ知事関連の使途金を明らかにするべし
舛添前知事が自分の疑惑については、自ら明らかにすると見得を切っておきながら、辞職するや、そのまま放置しトンズラしている行動は都民を舐めきっているとしか言いようがない。首に縄を付けてでも百条委員会に引っ張り出し、行状を白日の下に曝さなければならないだろう。
日本の行政の一番悪いところは、結果責任を問わないところにある。年金の濫費問題も年金横領不明金問題も一人として責任を問われていない。
ましてや当時の社保庁の役人を年金機構に横滑りさせるのだから、意識も行状も改まるはずもないのだ。
舛添前知事もこのまま逃げ得にすれば、今後の都政に示しもつかない。
韓国では大統領が変わると、殆どの前任者が逮捕され囚人服を着せられ法廷に出頭する姿が放映されるのが常である。日本人の心情からすると、そこまでするかという思いが無いではないが、そこまでしも最高権力者の個人的な利権流用や汚職はなくならないのだから、何もしないわが国では、石原都政に始まった税金濫費、私的流用などはとどまるところを知らないのは無理からぬことである。
今後の歯止めをかけるためにも、流用の実態や手口を明らかにする必要があるし、それに寄生して甘い汁を吸ったファミリー企業、業者や役人の罪も問うべきであろう。

候補者の誰がなろうとも、税金の不正使用については、きっちりとけじめをつけなければならない最優先課題であろう。

誰なら本当にそれが出来そうか見極めることが大事だと思う。

*天皇陛下の生前退位表明の真意深読み

平成天皇が退位の意思を表明された。
在位期間中、つまり平成の時代に天皇が、いくつかの思い疾病を抱えられながらも、太平洋戦争の激戦地へ戦没者慰霊の巡行をされ続け、国内の災害に当っては、常に皇族の先頭に立って、頻回に慰問に出かけられてきたことを国民は皆良く知っているので、退位され休養されることに、多くの国民に異論のない所であろう。

報道によれば、もう4,5年前からそのような基本構想は考えておられたようである。
さて、ではなぜ、このタイミングでそれが国民に表明されたのであろうか?

小生の考えは、今回の参議院選挙で与党が2/3を獲得し、憲法改正の可能性が現実的になったことに関係があるのではないかと推測するのである。
つまり、天皇は自分の在位中に平和憲法が改正されるのは堪えられなかったから、任を下りて、自ら署名する事態は避けようとされたのだ。これは憲法改正反対の、特に9条が骨抜きになることを拒否する、との意思表示ではないかと思うのである。

憲法改正に関して、直接自分の意見を表明することは、現在の憲法上出来ないから、退位という形で意思表示をされたのではないかと思う。

また皇室典範の改正が必要になれば、安倍政権が目論む憲法改正も時間的に先送りにならざるを得なく、実質安倍政権下での憲法改正は阻止されることになるという効果もお考えだったのかもしれない。(これは、まさに深読みかもしれないが)

先の政府の戦後70年談話が、戦争についての侵略性と責任について直接言及を避けた時、天皇の談話では、戦争における我が国の責任について、かなりはっきりとそのことについて触れられ、内外に対する日本国民の意志の中和をはかられた。安保法制が強行採決された時にも、何かのタイミングで平和の大切さを強調された。

天皇が歴史から非戦の大切さを学んでおられるのは確かである。それが現在の反戦平和の強い思いに繋がっているように思える。

天皇は、非政治性の原則的な立場からは政治的な発言には極力慎重で控えながらも、行動で反戦平和の考えを示されてきた。先の戦争の激戦地を執念のように廻って、戦没者の慰霊を続けることで天皇家の贖罪を示し、国内の戦没者慰霊や原爆慰霊の行事には何よりも優先して参加され、地震や豪雨の被災地への心情のこもった慰問では、天皇・皇室は常に、国家権力ではなく国民の側にいるということを示されてきた。

天皇は、基本的に9条を重んじた護憲派に近いお考えであり、わが国が憲法改正に進んでいくことを強く憂慮されているのは間違いないであろう。そこで天皇の出来る唯一の意思表示の方法として、生前退位をこの時期に発表されたのではないか、と小生は推測するのである。

おそらく心あるジャーナリストはそのことに気付いていると思われるが、なぜか言及出来ないでいる。無論、政府も気づいており、政府は、このような考え方が国民に広く流布しないように隠ぺいしようとするし、また皇室典範の改正にまで行かないように密かに策を巡らすであろう。
小生の憶測が正しいかどうかは今後の政府の対応を見れば明らかになるであろう。

今回の天皇の生前退位の意向も、その真意をおもんぱからなくては、政治もメディアも国民も怠慢ではないかと思う。

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