母親が齢、91歳を超え、アルツハイマー型認知症になり、
とうとう老人ホームに入ったとの知らせを受け、
7月の連休に愛知の田舎まで見舞い行った。
新東名高速を使って4時間で着いたのが、昼時であり、
兄夫婦が先に母親を迎えに行き、弟夫婦も一緒に合流し、
まず外で昼ご飯を食べる手筈になっていた。
久しぶりに会った母親は、
家人が母の日に送ったという帽子を目深にかぶり、
義姉に手を引かれており、実家に帰った時にいつも見せる、
ふくよかな満面の笑顔とは違い、ひとまわり小さくなった顔が、
僅かに微笑んで振り返ったのが、印象的であった。
母親は元来、健啖家であり、その日もウナギを息子たちと負けないくらい食べ安心させたが、ほとんど会話することはなかった。
その後、皆で老人ホームを訪ねた。
こぎれいな建物で、個室もまだ新しくきれいで、何もかも整頓されており、自分で作った刺繍の敷物があちこちに置かれ、実家の母親の部屋を彷彿とさせたが、なぜか冷蔵庫は置いて無かった。
聞くと、食べ物を自分で持つと傷んで、食中毒の原因になるから食べ物は自分では持てないのだという。
前日に、新宿伊勢丹地下で、少しづつ沢山の種類の菓子を目一杯買い、持って行ったのだが、無駄になった。
水も必要なだけは見図らって職員が飲ませてくれるから心配ないのだという。
小遣いを、使いやすいようにと、ピン札でない千円札にして用意して行ったのだが、現金はトラブルの元になるという事で、所持出来ないとのことで断られた。
欲しい時に、思うように水も飲めない、好きなもの一つも食べられない、
飴一つ、絵葉書一枚、買う自由もない生活である。
ホームというところは、きっと暮らす人間より管理する側の論理が優先するのだろう。
それに母親の性格からすると、自ら何かを要求することが出来ず、
何でも我慢してしまうに違いない。
僕の勤める精神病院でさえ、患者は支給される障害年金を所持金として持ち、自由に買い物が出来、皆メタボに悩んでいるというのにだ。
兄夫婦が先に帰り、家人が席を外して、母親と二人きりになった時に、
母親が、“家にいた時も一人ぽっちだったから、ちっとも寂しくなんかないよ”と、自分に言いきかせるように二度つぶやいた。
兄は、父親がゼロから始めた事業で、それなりに残した資産管理を生業とし、何不自由ない生活をしながら、母親の面倒を仕事のようにして見てきたから、母親は世間の老人に比べれば、豊かな幸せな生活をついこの間までは送っていたものとばかり思っていたので、その言葉は意外で、胸に刺さった。
母親があの老人ホームの一人部屋で、日暮れていく中を、一人でじっと椅子に座りながら、ただひたすら時間の経つのを耐えるかのように、団らんの無い夕飯を待っている姿を想像するとたまらなくなる。
父親が亡くなって、もう30年になる。
母親はきっと早く父親のもとに行きたいのだろうと思う。
父親が脳卒中で倒れ、人工呼吸器が付けられ死を待っていた時、
ベッドの脇に座り、ずぅーと父親の腕をさすり続けていた姿を思い出すとそんな風に思えてならないのだ。
人が、生きていくという事は、つまるところ孤独との闘いなのだと思う。
そして、その闘いに疲れ果てて、人は認知症に逃げるのではないか、
ならば、いっそのこと、母親も、もっともっと病気が進行して認知機能がとことん落ちてしまえば、寂しさも感じなくなり、楽になるのではないか、とさえ思ってしまう。
僕に出来ることは、多分、毎朝、母親の部屋に行って、
何をするでもなく、部屋の隅にでも座り、
本でも読みながら夕方まで一緒に時間を過ごし、
じゃまた明日、と言って帰るような生活をしてやることだけだと思う。
そうしてやりたいと思う。
また、その方が一日中家にいて家人にうっとうしがられるよりずっとましではないか。
が、実際には何もしてやれない自分が現実であり、そのふがいなさが情けないと思う。
そんなことを空想する僕は、家人がいつも言うように、やはりマザコンなのでしょうか。