ホームへ戻る

空耳妄言③-誰かが囁いた方がいい話もある。

*万引き犯の映像ネット公開事件について
 鈴木正文氏が編集長を務める雑誌GQ11月号のエディターレターで、25万円の値札が付いたブリキの玩具の鉄人28号万引き事件の犯人ネット公開について書いている。

 アンティーク玩具屋の店主が、鉄人28号のフィギアを万引きした犯人とおぼしき人物を、いついつまでに自主的に返却しなければ防犯カメラに映った犯人とおぼしき人物の顔の映像をネット上で公開すると警告した事件である。犯人と法的に確定したわけでもない人物を、犯人と決め付け、ネットで顔を公開するという行為に対して、さすがに警察も介入したが、この店主の行為を支持する世論は圧倒的に多かったという。
 そこで鈴木氏は言う。防犯上とは言え、店主が来訪者全員の肖像を許可なく記録して、疑わしいという理由だけで、それを何の断りもなくネット上に載せて良いのかと。
 さらに警察権を持たない個人が、特定の人物を犯人と決め付け、その肖像を広く公開する権利があるのか、これは、犯罪は司法が判断をするという社会の決め事を無視した私的制裁であると。(もし犯人でなかったら、どうするのか?)
 そして、このような意見を述べたマスコミ、評論家、コメンテーターは皆無であったことを驚いている。
 このような、まっとうな意見が、一娯楽ファッション雑誌の編集長によって初めて表明されたことが、今の日本のマスコミ、言論界の貧困を物語っていると思う。
 筑紫哲也が生きていればどう言ったか、あるいは、何かと話題のジャーナリスト池上彰氏が、この件に対して、どのように説明したかは残念ながら耳に入ってこない。

*NHKクローズアップ現代放送の「ご飯がまともに食べられない貧困家庭の子供」と精神障害者医療福祉制度について
 生活保護を受けられない貧困家庭の子女で、弁当を持って行けないばかりでなく、朝晩もろくに食べられない子ども達が何万人もいるという。

 にわかに信じ難いが、今のこの日本の現実の一面である。子供が、インスタントラーメンの断片を掬い探す映像には涙が出た。

 一方で、メタボで悩む患者であふれる精神病院とは一体なんだろうかと、思わず考えてしまった。
 精神病院が無くなると、ホームレスが増えて困るだろうと、僕の勤務していた病院の幹部は言ったが、片や、欠食児童や栄養失調で孤独死する老人を放置する今の福祉行政はどこかおかしくはないか。

 入院している精神障害者の多くは障害年金受給者(国費の保証がないと入院させないので。)で、入院費で十分な栄養食を与えられているにも拘らず、毎日の買い食いで肥満となりメタボ状態でありながら、食事の不平を並べ立てるのである。それでも障害者年金が使い切れず、入院が長い者になると、数百万~数千万単位の金をため込んでいる者も決して稀ではない。
 これは精神障害者年金制度のメカニズムがそうさせるのであって、僕の知っている病院の特異的現象ではないだろうから、このような精神障害者は全国には何万、何十万人と居ることだろう。
 これは、まぎれもなく、精神障害者が働いて貯めたものではなく、障害者年金を使い切れ無かった税金そのものの蓄積である。当然のことながら、これらの余剰金は回収して、貧困で三度の食事もとれない子供たちや飢餓死しそうな独居老人達に再分配するのが妥当というべきものであろう。

 精神障害者年金は基本的に過剰供与なのである。

 なぜそれが是正出来ないか。理由は、簡単なことである。そのような声が精神福祉医療の現場から上がらないからである。
 精神福祉医療関係者は、今のこの制度が自分たちにとっても好都合であるから、誰もそんなことは公にしないのである。精神病院経営者をはじめとする精神医療福祉関係者は過去も現在も精神障害福祉制度から税金を吸い上げるだけ吸い上げて、医療業界で最も裕福に生きているのである。

かつて、私学の新設医大建設ラッシュの時、設立母体となったのは、莫大な資金を蓄えた精神病院が一番多かったことが、そのことを如実に物語っている。

 日本の精神病院経営は、医療の名を借りた貧困ビジネスでなくてなんであろうか、と思うのは偏見でしょうか?

 精神医学の表現を借りれば、彼等は患者と共依存の関係にあると言えよう。

*現代医学生気質について―
 僕の皮弁グループの大番頭である慶応大学医学部解剖学I准教授が、慶応義塾医学部新聞のコラム欄で当世医学部の学生気質について書いていたのを偶然読んで、思うところがあった。

 I先生は慶応の解剖学の学生教育を一手に引き受け、解剖実習の諮問の厳しさでも定評があるが、学生が選ぶベストティーチャーに選出されるなど学生の人望も厚い

 そのI先生は言う。
 最近の学生は、早くから最先端の研究に目を向け、海外にも積極的に出て行き、部活にも積極的な一見頼もしいのが多く、多くの教員は彼らを褒めるが、自分は褒めないと。
 なぜなら、学生の多くが、授業中に私語は止めない、教科書を持たない、調べるのはネット頼り、レポートはコピペ、携帯命で、一から十まで質問して片付けようとする、医学に真摯に向き合わない不誠実としか言いようのない性格の学生が目につくからとのことである。
 要するに、見てくれや形だけは整える要領だけは上手いが、本性は品位、品性の無い人物が増えているのである。
 昔、地方の病院で手術をした時に、近くの新設私立医大の若い麻酔科医と手術で一緒になったことがあったが、その態度、立ち居振る舞いが、余りに品性のないもので口をきく気にもなれず、手術が止まったことがあったが、とうとう慶応にもそういう医者が生まれるようになったのかと、愕然とするものがあった。

 I先生は、さらに学生の圧倒的な不器用さをあげている。目も当てられない不器用さは今に始まったことではなく、僕の10年位後輩からは顕著になった。
 今まで一度もナイフやノミ、金づちを持ったこともないような者が、人生で初めての経験が、手術で人体に対して使われるのであるから無理もないと言えば、そうであるが、臨床で、使われる患者にとっては良い面の皮である。
 一体、いつの頃からか、鉛筆を削る小刀が禁止になったのだろうか。全国の小中学校で刀狩りをしたのが、かくも人間をブキッチョにしたのだろうと思う。子供が小刀やナイフを持っていたからと言って、どれだけの刃傷事件が発生しただろうか。
 むしろ最近の方が子供による残忍な殺傷事件が多い。

 昔は子供は皆、入学時は鉛筆削りは下手で親が手伝ったりしたものだが、段々上手くなっていったものだ。
 そして、中学生になれば、設計図面を引いて、塵取り箱とか、ドライバーなどを作る工作の時間があった。休み時間は、近くの林に入って、枝の股を切り出しパチンコを作ったものだ。
 こうして、自然と生活に最低限必要な技術を覚え、今でいうDIYが身についたのだ。
 包丁もナイフも持たず、釘一本打ったことのない者が、いきなり屍体に向かって、皮膚をはがし、細い神経、血管を剥離しようとしても、絶望的に不器用に見えるのも当然かもしれない。

 だから、学生諸君の絶望的な不器用さは、本人の責任ではなく教育環境の賜物なのであろう、

 

将来外科手術は、ロボットがやるようになるだろうから、手先の器用さは必要ないという意見があるが、それは間違いであろう。
 手先の不器用な人は、概して頭も不器用であり、imagineする力が弱く、ロボット操作も下手に決まっているからである。

 昔から、外科では口ばかり達者で、実際の手術となるとからっきし下手なものをクチメスと言ってバカにしたものだが、間もなく医者は全員クチメスばかりになるのかもしれない。

 外科系臨床科に入局したら、まず毎日、鉛筆を削らせ、彫刻刀で表札を彫らせ、ノミで丸太でも刻ませるのが良いのかもしれない。
 魚を3枚におろし、大根のかつら剥きも良いだろう。

 一方で、最近の学生は外国語には長けている者が多いという。
 これは確かに大きな長所であろうが、仏文学者の鹿島茂は「外国語を良く使う学生で、本当に頭のいいのはいない。」と言っていたが、その意味するところ、真意は良くは分からないが、そのニュアンスは理解できる。

 英語が出来るというのは、時流に合ったスタイルであるが、学問の本質とは無関係ということか、あるいは、本質を求める者は、表現手段に過ぎない語学習得に使う時間がもったいないと思うから、と言う意味かは、語学を良くしない僕には分からないとしか言えない。

 

 

ログイン