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新国立競技場ドタバタ劇で明らかになったこと

 本来なら、このような記事は“空耳妄言のコラム”として書くところであるが、一つの記事にしたのはそれなりの理由がある。
 これは妄言として聞き流してほしくはないからである。
 その理由は我々は、政府の意図には敏感に反応し、これからの安倍内閣の行動を注意深く見て行かなければならないと思うからである。

あまりに見え透いた安倍内閣のダメージコントロール

 ダメージコントロール(damage control)とは、物理的な攻撃・衝撃を受けた際に、そのダメージや被害を必要最小限に留める事後処置を指す。通称「ダメコン」などと呼ばれる。自動車分野、医療分野、格闘技などのスポーツ、軍事分野などで使われるが、政治の世界でも使われる。
 一つの政策やスキャンダルなどで内閣の支持率が低下した時(ダメージ)に、国民の目をそらすような手を打ったり、国民に受けの良い政策を打ちだし、支持率の低下を防ぐようコントロールすることを言う。

 今回、安保法案強行採決で、大きく支持率が低下した中で、その歯止めとして、世論で批判の強かった新国立競技場案の白紙撤回という国民受けのする手を打ったのである。もしこのままこれも強行すれば、内閣が失速しかねないという政治的判断に依るものであるという。

 文科相もJSC(日本スポーツ振興センター)も、現案を変更することは国際公約上できない、たとえ変更するにしても時間が足りない、費用は 2500億で妥当であるとして、最終的には政府決定したにも関わらず、首相のツルの一声で覆った。これはダメージコントロールの政治判断以外の何物でもない事を示している。

 しかし、強気の安倍首相のことだから、今回の安保法案強行採決だけのダメージコントロールが目的であったとは僕には到底思えないのである。
 なぜなら、第一に彼はポピュリズムと言われるのをもっとも嫌がるからである。彼が尊敬心酔する祖父岸信介元首相は「国民とは愚かなものであるから、今は反対しても2,30年もたてば正しかったことがわかる」と言い、彼もそれを信じているようであるし、それに岸内閣の60年安保に比べれば、今回の安保法案反対運動は桁違いに小さいものであった。
 そして何より安倍首相は「Grace under pressure」(プレッシャーの中で優雅に振る舞う)というJ・F・Kennedyの言葉を座右の銘にしているというから、反対されればされるほど、自虐的、自己愛的に耐える力があると思うからだ。

 つまり今回のダメージコントロールは、安保法制の他に別の狙いがあると思うべきなのだ。次なる企み、覚悟があって、そのために今回は一つ譲ってみせておこうという訳なのだ。

 それは何か?
 ズバリ沖縄だろう。これは辺野古基地移転への不退転の決意の意思表示と見るべきだろうと思う。

 つまり、沖縄は手ごわいと感じ取っていて、第二の成田になるのさえ覚悟しているのではないか思う。沖縄県民はオール沖縄で一枚岩になりつつあり、オール沖縄の行動原理がオール日本の思想行動原理に伝播するのを恐れて、そうならないよう分断作戦の一つとしてダメージコントロールをしておこうと考えたのではないか、それが今回の白紙撤回の真相ではないかと私は思う。

 彼が何故そこまで安保法制,辺野古基地移転にこだわるか?は、前にも言ったが彼特有の劣等感と、エリート意識がないまぜになって、歴史に名を残したいと言う単純な功名心に駆られているのではないかと思う。
 彼に深い教養に基づく哲学、歴史観とか、国を思うような高邁な憂国の志があるようには到底感じ取ることは出来ないからだ。
 ほぼ同じような意見を、先日の日本テレビの「深層ニュース」に出演した田中真紀子氏も話していた。

 最後に確認しておきたいが、民主主義は多数決が原則だからと言って、多数政党が何をしても良いことにはならない。
 ましてや、自民党は圧倒的多数の議席を持ってはいるが、自民党の得票数は全投票数の3割に過ぎず半数にも達していないのだ。
 反対する少数派をどれだけ納得させることが出来るかが、民主主義政治の質であることを忘れてはならない。

 *政府見解の正当性はどうにでも変えられるということ

 つい先日まで政府の見解は、1)現案の新国立競技場のデザインは、IOCでの選考理由の一つであり、国際的な公約のようなものだから変えられない。2)設計のやり直しをするには時間が足りない、間に合わない。3〉再検証しても建築費2500億は妥当である、とする文科省とJSC(日本スポーツ振興センター)の説明を支持するものであった。
 ところが安保法案強行採決後の政府の政治的判断で、それらの説明は一転反故になった。つまり今までの理由はすべて虚偽であったと認めたのだ。

 まず政府は、今までの見解の欺瞞性を国民に説明すべきではないか。

 つまり内閣政府と言う政治権力は、政策の正当化の為なら、どんな嘘でも平気でつくということなのだ。
 これは安保法制や沖縄辺野古基地移転でも決して例外ではないだろう。

 *諸悪の根源は森喜朗元首相

 日本ラグビー協会はW杯開催に当たり、森喜朗元首相主導の元で新国立競技場を初使いし国民の関心を少しでも集めようとした。つまりはオリンピックにタダ乗りしようとしたのだ。森氏がオリンピック組織委員長になったのをモッケの幸いに漁夫の利を得たとほくそ笑んだに違いない。一方、森元首相もこれをキッカケに日本、国際ラグビー界での立場を不動のものにできるとほくそ笑んだのだろう。

 しかし、新国立競技場建設費の不明朗な急騰で世論の猛反発を受け、世論調査(週刊文春7.16号)でも建設をめぐる迷走の一番の原因は森元首相のラグビーW杯使用への固執であると言われるようになり、又アスリートを始めとするスポーツ界からも「国立競技場建設期限はラグビーW杯開催にこだわるべきではない」という意見が噴出し出すと、状況不利と判断、手のひらを返すかのように「自分は元もと新国立競技場での開催にこだわってはいない、第一あの生ガキのようなデザインは好きではない。」などと臆面もなく発言し態度を翻した。
 それに安倍首相の直接交渉に応じれば、政府に貸が作れる、W杯に多額の資金援助も取れると計算したのだろうか、安倍首相の説得にすぐに応じたようである。

 森元首相に知性にまつわる話は似つかわしくないだろうが、知っておいた方が良い話もある。
 人間にはライフサイクルでいわれる年齢に相応しい生き方の指標がある。
 論語あるいはユダヤ教のタルムードの箴言の中にある「人間の年表」などが知られている。
 論語では「70にして心の欲するところにしたがいて矩を超えず」、つまり70にもなれば、心は自由自在にあっても節度を失うような振る舞いはしなくなるものだ、と言い、タルムードでは「60歳で長老(英知)、70歳は白髪」といい、6、70歳になれば、人は死にゆく準備として、人としての英知を極めるように生きるものだ、と言っている。
 精神科医エリクソンは、ある物事を主体的に成し遂げてきた人物は、ライフサイクルの最後の段階では、人生は着底するものであることを受け入れ、自我の統合性をめざすものだという。

 社会は生命の連続性で成り立っており、新しい命の新規参入と老いた命の退場は同等の重要性を持つのが社会的組織の論理である。新しい生命が登場し参加してくるには老いた古いものはその場から退場しなければならない。退場したくないなら、かつての場に固執せず、新しい別の境地を開いて転出すべきであろうと思う。

 森元首相も、何かのはずみで総理大臣になってしまったので、人生の統合性が得られず、勘違いの思考経路がそのまま残ってしまっているのかもしれないが、これは国民にとっては二重、三重の災難であった。

 (私の近辺にも、何代も前の教授が現役の教授の教室運営に今だに口出しをするような姿を垣間見るが、傍からは老害の醜悪さでしかないように見える。自分の教授時代から今に至って、自我の統合性が得られていないのなら、自ら新天地を開いて自己実現を目指して余生を全うすべきであると思うが、その手の人達には、それだけの思慮も能力も無いのであろう。)

 その後、森元首相は「日本国家なら2500億くらいどうにでもなるだろう。」、と未練たっぷりの発言をした。自分が国民に与えてきた迷惑や国家的損失には一顧だにできない資質。オリンピック組織委員長としての責任なんて言葉は脳細胞の一個分も無い無神経さ。
 ここまで愚昧な人物が、一時でも我々の国家のリーダーであったことは怖ろしいことであり、誠に恥ずかしいことでもある。

 *安藤忠雄氏の素顔

 今回の、建築家ザハ・ハディド女史のデザインを決定した建築家、東大名誉教授の安藤忠雄氏は、多くの批判が湧き上がる中で開催された最終決定をする有識者会議を欠席し、非難を浴びると記者会見をし、「自分はデザインを決めた責任はあるが、建設設計や建設費用決定には一切関わっていない。なぜそこまで跳ね上がったのか自分も聞きたいくらいだ。」と開き直った。
 建築家というものは施主の予算,工期を一切考慮しないでデザインを決めるとでも言うのだろうか。
 あらかたの見積もりも工期も当然見立てて契約するに決まった話ではないかと思うのが常識的ではないか。

 もっとも安藤氏の設計デザインは、「造りにくい」、「使いにくい」、「住みにくい」と3本調子が揃っていることでは、つとに有名である。
 あくまでもデザイン重視で、あとは好きに作ってくれという建築屋泣かせらしい。
だから自分の経験からザハ・ハディッドがunbuildの女王と言われていても、日本のゼネコンなら何とかうまく作ってくれるだろうと甘く考えたのではないかと思う。
 彼の、高卒でプロボクサーを経て、世界を放浪しながら独学で建築を勉強し、「住吉の長屋」で建築学会賞をとるや、破竹の勢いで世界的な建築家に成長し、最後は東大教授にまでなったという有名すぎる履歴は、学問的基礎が足りず、基礎計算には弱いという言い訳にでもしようというのだろうか。

 しかし、彼はこの騒動では、一つの大きな社会貢献をした。
「どうしてここまで跳ね上がったのか僕も分からない。僕も聞きたいくらいだ。」
「ゼネコンも利益を度外視して、お国の為に一肌脱げば納まるのではないか」
と発言し、900億円もの積み増し金が建築費用以外のものであることを暗に言ったのである。

 つまり、公共事業の実態を暴露したのである。

 大きな公共事業の建築物を多数手がけてきた彼の発言の意味の信憑性は高いと言えるだろう。

 *白紙撤回は隠ぺい工作

 では、何故今回は見直しでは無く、ゼロベースの白紙撤回になったのか?
本当は原案修正で建築費用を元の予算まで下げれば無駄も少なく、工期も無駄に伸びず一番良かったのではないか。
 しかし、そうすると,どこに無駄な費用が積み上がったのかを明らかにしなければならず、そうなるとどこかに具合の悪い人たちがいたのではないかと勘繰りたくもなる。
 2500億に膨らんだ原因を究明できない理由が何処かにあったに違いない。

 大事なことは、公共事業というものはすべてそういうものだということを我々は知り、忘れずに弾劾しなければならないということだ。
 民主党時代に中止になり、自民党復活で蘇った、八ッ場ダムは予算2000億から始まって、やがて4000億になり、今や9000億に膨れ上がっているそうである。(TBSテレビ「ひるおび」から)

 それにしても、新たにデザインコンペからし直す必要があるだろうか?今回のコンペの次点。次次点とか、計画見直し派(槇文彦代表)が出した案などから選べばよいではないか。そうすれば数か月の短縮になり、我々も工期をやきもきしなくて済むというものだ。

 *マスコミは又しても国民の為には機能しなかった。

 新国立競技場の建設をめぐる、この間の国を挙げての迷走に対してマスコミは、その役割をきちんと果たして来たか?国民の為に政府の動きを監視し正確に報道して来たか?
 まず、政府の見解に虚偽が無いか全力を挙げて検証して来たか?
 権力の虚偽を暴くのがマスコミの第一の使命であるはずなのに、政府の言うがままを容認し、反証もしないうちに、結局政府が自ら虚偽を白状する形になったが、IOC,JOCもデザインの国際公約なんか存在しないと言っていることを早く報道し、見直しの機運を高めても良かったのではないか。

 森元首相の暗躍が見直しの障害になっていることを、マスコミ自身の取材で真実を明らかにし、広く国民に知らせても良かったのではないか。

 建築予算急騰の実態を究明しようとするような報道姿勢があっても良かったのではないか。結果をただ垂れ流すだけで、からくりの真相を究明する姿勢が見えない今のマスコミはやはり無用の長物だ。
(今からでも遅くはないから、マスコミに良心があるなら真相を明らかにすべきだ。)

 安藤忠雄氏の沈黙を通した道義的責任はウヤムヤニせず、ハッキリさせても良かったのではないか。

 要するに、今回の新国立競技場建設をめぐる騒動で明らかになったことは、政府と言う権力は、自分の都合の良い方に世論操作をするものであるということ、そのためには平気で嘘でもつくし、隠ぺいもするということ、公共事業というものは有象無象の手で100億単位の公金が、いいようにかすめ盗られて行く、ということである。

 

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