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空耳妄言⑨-聞き流して良いが、誰かが囁いた方がいいような話もある

 

*川崎市老人ホームの老人転落死事件の意味すること
 2か月の間に80歳以上の老人が3人も、老人ホームで肩まであるフェンスを乗り越えて転落死した事件があったにもかかわらず、警察はこれを事故として扱い、これ以上は調査しないと決めたと発表があった時には、誰もがおかしいと思ったものだ。

 警察は初動捜査のミス隠しで殺人事件を闇に葬るのか、という世論をさすがに無視できなかったのか、警察庁あるいは検察庁の上部組織からの指導があったのか、あるいは警察官の中にも良心のある警察官が居て事件としての捜査を主張したのか分からないが、とにかくその後も捜査を続け、1年2か月ぶりに元職員を容疑者として逮捕した。この男は、3人の老人が特に手がかかり気に食わなかったから、殺そうと思って投げ落としたと供実したという。

 何とも気の滅入る事件である。
 マスコミの多くが言ったのは、犯人の非人間的な異常で残忍な犯行は許されないが、介護現場の過酷な労働と低賃金という特殊性が背景にあると言う論調であった。

 確かに容疑者の残酷な身勝手さはいくら糾弾してもしきれないものではあるが、では老人達を介護施設に入所させている私達シャバの人間はまったくイノセントと言えるだろうか。
 老人ホームという所は、昔は身寄りのない老人が一人で暮らせなくなって行くところではなかったか。今は普通の家庭でも、親がある程度の高齢になり手がかかるようになると当然のように施設に入れるようになった。この風潮こそ問題の原点ではないかと私は思う。
 老人ホームに入れるという時点で、いわば姥捨て山に捨てたようなもので、私達は老人を見捨て、間接的には殺しているのではないかというのが私の主張である。

 人の一生は皆それぞれ苦労の連続であり、若くしては勉学に追われ、成人になっては懸命に働き、子供を育て一人前にすると、知らぬ間に老いているものなのである。老いて自分の世代の役割を終えると、社会から用無し扱いにされ、生きる目標を失い深い孤独感に向き合うのである。
 昔ならそこで家族の長として大事にされ、孫の面倒を見ながら自分の人生の来し方を振り返りつつ孫に世代性を実感しながら孤独を癒すことが出来たのだが、現在のように家族から見離されて老人ホームに入れられ、そこでは丸で人間としての尊厳すら守られず、まるで物のようにただ管理される生活では老人の孤独は耐え難いものであろうことは容易に想像がつく。
 老人の最大の敵は孤独である。老人こそ団欒のある食卓が必要なのである。

 これは自分の母親の老人ホームでの生活を見て感じた実感である。

 私達は老人を、人生の先輩として、自分たちが今ある社会を過去から今に繋いでくれた恩人として、もう少しは敬意を払って良いのではないだろうか。儒教の教えにそうあろうがなかろうが関係なく、素朴にそう思うのである。そんな老人たちに人生の終末に臨んで、どうしようもない絶望的な孤独の中で死に追いやる社会が正しいとは僕には到底思えないのである。
 すべからく老人は、家族、地域の中で畏敬の念で遇されて人生を終えるべきであると思う。
 かつては高齢者が少なく、長生きしているということだけでも尊敬された時代と、平均寿命が90歳になり、100歳以上も決して珍しくない時代だと、皆を長老扱いなどできないというかもしれないし、家族もかつての大家族制ではなくなり、しかも共働きが普通になり、老人の面倒を見ることが出来る家族構成でないというかもしれないが、果たして、それだけで十分説明が付くだろうか?老人を施設に入れた方が、自分達が単に楽だからではないのか?どこかに赤信号、皆で渡れば怖くない、という後ろめたさがあるのではないだろうか。

 なぜこんな世の中になってしまったのか?
もう,昭和のような、ぬくもりのある家庭があちこちにあり、老いることを今ほど恐れる必要のない社会には戻せないのだろうか?
 科学が急速に進歩し、それに合わせて社会も変化した。インターネットで今人々は人類史上でかつてないほど、地球的規模で結ばれている。瞬時に誰とでも話すことが出来る。しかしこの連帯はどこか嘘っぽい。同時に沢山の人と手を繋いだが、電源を落とせば瞬時に切れてしまう泡沫のものであり、文明の進歩は、このような希薄な人間関係が普通な社会を作った。それは、今時の若者たちの友人関係の在り方にも見て取れるが、おそらくそのような対人関係の薄さが家族の人間関係にも影響を及ぼしているのだろう。

 人類は、基本的には宇宙という大自然の中で、より豊かに、より便利で平等な社会に向けて向上的に進歩して来たと思うし、これからもおそらく紆余曲折があっても、そうあるだろうとは思うが、老人を廃物のように大事にしない社会だけは根本的に間違いだと思う。

 老人を家庭、地域の中で介護し暮らせるように政治は動くべきである。
そのための予算を惜しむべきではないと思う。詰まるところ、社界の富の再分配の仕組みを変えれば済むことであるし、直近では福祉予算の配分を公平にすればよいのである。

生活保護費の出鱈目な使い方を改め、精神医療福祉予算の放漫な使いすぎを止めることで相当な税金が浮くはずと思う。
 先にも言ったが、精神病院の長期入院患者は障害者年金で支給された額を使い切れずに100~1000万単位の現金をプールしていることは珍しいことではない。また全国の精神病院経営者は、例外なく皆けた外れの資産家になっている。これらの資金源はすべて税金なのである。このように税金をかすめた金が個人の懐に、全国でどれくらい眠っているか、想像もつかない額であろう。
 同じことだが、介護施設に予算を厚くしても、無駄だと思う。介護ビジネス事業者は、そこには確実に税金が回ってくるといううま味に目ざとくビジネスチャンスとみた人が多いから、予算を厚くしても、経営者が太るだけで、介護師の待遇や施設の環境がそのまま改善されるとは到底期待できないと思うからである。

 介護ビジネスは精神福祉医療ビジネスと同様に税金を食い物にする一種の貧困ビジネスといえよう。

 介護を受ける老人の精神的な健康の面からも、税金の適正で有効な使い方から考えても、これからの老人介護は介護施設の充実を図るのではなく、家庭介護の方向で考えるべきであると思う。
 介護される人が各家庭に分散すれば、介護サービスの能率も悪く、質も低下するだろうが、それでも老人は介護施設より家族と共にいたほうが幸せに違いないと信じるからである。

今世界中の国家の社会が、この先の展望が描けず迷っている。世界の各地でテロという戦争が始まり、その解決の糸口すら見えない混迷の中にある。今、私達は、古代ギリシャの先人達や現象学のフッサールが言うように、行き詰まったら、一旦エポケーして考える、時には過去に退行してみるのも有用ではないかと思う。
 昔の社会の人間関係が旧式で陳腐とは限らないのである。

*ゲスの不倫騒動
 スキャンダル処女と言われたタレントのベッキーが不倫をして袋叩きにあい芸能界から姿を消した。

 昔から、不倫失くして文学は存在しなかったというほど不倫はそれほど珍しくもないことである。ただ、それが良いか悪いかについては、ここでは触れないでおこう。
 渡辺淳一の「失楽園」や森瑤子の「情事」は不倫ブームを引き起こしたし、最近では東野圭吾の「夜明けの街に」や辻仁成の「サヨナライツカ」がヒットした。有島武朗や太宰治、檀一雄などは小説内に留まらず、私生活も大波乱の人生を送っている。海外の古典的名作であるトルストイの「アンナカレーニナ」スタンダールの「赤と黒」などはいずれも不倫がテーマである。

 これに乗じて、「不倫は文化」と開き直ったチャラ男の芸能人もいた。
芸能界でも不倫は決して珍しくはないだろうに、なぜベッキーはあそこまで叩かれたのだろうか?実はそんな考察は僕にはどうでもよいことであって、ここではベッキーが再び浮かび上がる方法について私見を言おうと思う。
 それは不倫愛を貫いて結婚まで成就することである。結婚まですれば、略奪愛とか言われようが、段々その愛の一途さ、真剣さが賞賛されてくるだろう。なぜなら多くの人達の心の底に、そのような不倫願望があるからである。ベッキーはうまくすれば小説やドラマの主人公になれるかもしれないのだ。
 逆にここで、変に反省して良い子に戻ってしまえば、芯の無い軽薄な色ボケ女で片づけられてしまうだろう。

 その興奮冷めやらずのタイミングで、今度は自民党のMチャラ男議員が勘違いして登場してきた。よせばよかったのに、育メン宣言なんかして良い男ぶったりしてたもんだから四面楚歌の集中砲火を浴びた。どうも根っからの自己愛性勘違い男らしいが、精神科医片田珠美氏によれば、彼のような人を、自分は特別だという驕りで自滅する「ヒューブリス・シンドローム」傲慢症候群というそうである。
 どうでもいいが、精神科医は、何でも病名をつけたがるから困ったもんだと思う。特徴的な、ある精神状態に名前を付けるのは良いが、症候群は一般的には病名だから、病気だから仕方ないかと大目に見るようになってしまう。それは有名人が、都合が悪くなると病気を騙って入院するような方便を与えるようなものに似て思える。
 私が精神科医は本質的に体制護持派であると常々思う所以である。どうも精神科という所は、正常範囲をやや超えてしまうと、〇〇症候群、〇〇依存症と名前を与え病気にしてしまう習性があるようだ。パソコンやスマホをやり過ぎれば、ネット依存症、女とセックスが好きで生活が破綻すればセックス依存症、賭け事も度が過ぎればギャンブル依存症のようにである。

そうして精神科医療の市場は膨らむばかりだが、かと言って、社会復帰できるまでの治療効果は一向に上がらないにもかかわらずだ。

 M議員は、性格は異常に近いが、病気ではないだろう。彼は正規分布のカーブの端っこにあるだけの事なのだと思う。彼は、この件で全国区の有名人になれたのだから、彼はますます不倫歴を重ねるのではないかと邪推する。
 この手の男でも有名人ともなれば、その名前に弱い女性は決して珍しくはないと思うからである。

 

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