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熊本・大分大地震で思ったこと~災害一元的管理システムの常設(災害庁)こそ急務ではないか

今回の熊本・大分大地震災害で一番に印象に残った言葉は、熊本県知事だか市長の痛切な発言であった。「私達は最近でも阪神淡路大地震、中越大地震、東北大地震などを経験してきて、それなりの準備はしてきたつもりだが、自分事としての意識が無かった。今はすべてが後手、後手になっている。」と救援対策が効果的に上手く運ばないもどかしさの叫び声であった。
何処で何が起き、何が必要なのか、どこに何が(物質的、人的資源)あり何が出来るのかの全体状況が把握されていない事への怒りにも近い焦りの思いであったのだろう。
その時に政府(河野太郎防災担当大臣)はテレビに流れる避難所の状況が野天下であったことが、被災者が辛いだろうと思ったのか、あるいは、そんなシーンが諸外国に流れては体面が悪いと思ったのか、「全員を即刻、屋内に避難させろ」と、強く迫った。知事は「余震が強くて、屋内にいられる状況ではない」と反論し、政府の状況把握の甘さに呆れ怒った。政府の激甚災害指定は要請よ7日以上経ってからという足の鈍さであった。

要するに全体状況の把握が、発生後、時間がたっても出来ていないことが問題なのである。
これだけ多くの自然災害を経験していながら、その経験値を政府は殆ど生かしていないに等しいのだ。大変だ大変だで場当たりで過ごしてきて、落ち着けば忘れてしまう、我々市民の感覚と同じという訳だ。

災害が発生したら自動的に避難できるシステムを市町村の地方自治体は平時から構築しておき、災害が発生し住民が避難出来た頃には、県が県内の全体状況を把握する、同時に国の専門機関が各県に渡る全体状況を把握し、必要性の優先順位を立てて、最も効率的な救援の手順を設定するのだ。そのためには全国の県知事も警察も消防も、自衛隊も命令下における強大な権力が必要になるから、内閣官房にそのような機関を常設しておく必要があろう。災害が起きてから政府が特別対策本部を設置するのではシステム作りは間に合わない。
情報も活動も一元管理出来れば、崩壊したインフラやライフラインの再建にしても、どの順番にやるのが最も良いか青写真が作れるし、救援物資の配給にしても、被害の無かった近隣の県に屋根つきの野球場や体育館などに集配センターを設け、公的な物資も全国からの義援物資もすべてそこに集め、必要なところに必要なものを無駄なく分配する。民間の流通組織は既にそのノウハウを持っているから智恵を借りれば済むことだ。
ボランティアの人的資源も数カ所に合宿するように集め、適材適所で派遣するようにすれば行く方も受ける方も安心して早い時期から機能出来る。公務員用の施設をはじめ国民宿舎だのカンポの宿など半公的機関や大企業の保養所などを中心に、いざという時のために前もって契約をしておくのだ。状況によってそれが避難場所であったり、ボランティア宿泊施設であったりすればいい。

避難している人達の大きな不安は、自分たちの状況が行政に把握されているのかということではないかと思う。何が必要なのか理解されているのか、このまま待っていれば、救助、援助は来るのかという不安であろうかと思う。
そのためには可能な限り情報を提供し、官民が共有するしかないであろうから、災害地専用のテレビ局を開設すればよい。それは地元のテレビ局が全国ネットから外れて役割を果たせば済むことだ。24時間中央管理センターに集まった情報を詳細に逐一流すのである。「何々村の何々さんはどこどこにいて元気でした。」というように。
とにかく情報の一元管理をなるべく早く出来るよう日頃からそのようなシステムが発動できるように準備しておくことが大切であると思う。

マイケル・ポランスキーという、彼の業績で高校化学の教科書の半分は占めるという天才科学者でありながら後に生命科学、社会科学に転じた人がいるが、彼は「暗黙知と層の理論」で自然、社会現象を説明した。「部分として認識するのか、全体として認識するのか」の違いで答えが変わるというのである。層の一つ上では全体として把握でき、二つ上ではその意味が分かるというのである。例えば文章を考えると、文字の集まりが(上の層)は単語であり、単語の集まり(上の層)は文であり,文の集まり(上の層)は文章になる。このことは、文字の二つ上の文になって少し意味が分かり、単語の二つ上の文章になると本当の意味が分かることになる。文字は被災現場であり、単語は市町村であり、文は都道府県であり、文章は国であるとすれば、全体の意味が分かるのは小規模の災害でも県でなければ、大規模な災害となれば国家でなければその災害の意味が分からないことになる。この理論から言っても、今回のような大規模災害では自動的に政府が前面に出て一元管理するしかないことになる。

一時も早く政府はそのような機関(災害庁)を常設し、日頃からいつどこでもそのようなシステムが発動できるように体制を作るべきだと強く提言したいと思う。
それは全国の地方自治体行政、警察、消防はおろか自衛隊も命令下におけ、外国軍隊の援助を受けるかどうかの判断が出来るものでなければならないから、内閣直属の強権的な組織になるであろう。従って、それは国民にとっても両刃の剣にもなりかねないから、その権力機構の監視もおろそかには出来ないのではあるが、それでもそのシステムの益するところの方が大きいと思う。
同時に、その懸念のためにも今のマスコミの政府監視機能の体制を何とか健全なものにしなくてはならないのではあるが。

原発をなぜ停めないのか。
今回の地震に関連する地域に、国内で唯一稼働中の川内原発があるが、後から本震が来るような余震群発の危険な状況にあっても一時停止もしないでいる。それは、「これだけの地震でも安全であった。」と言いたいがために安倍内閣は、国民の命を賭けて、イチカバチかの賭けに出た結果なのである。政府は原子力規制委員会が大丈夫と言っているから停める必要はないという論法であるが、原子力規制委員会も再稼働時に想定外な規模の地震が来ても安全であると言い切った手前、震度7レベルの地震が来たからといって止めろとも言えないであろう。
こんな大事が、日本のマスコミでまた大きな問題にもされずにいるという奇妙な現象に外国のマスコミが再び疑念を示している。
政府の対応にきちんと批判したのは外国のマスコミだけであり、わが国ではNHKの会長は地震と原発に関わる報道は控えるように指示したし、大手新聞では一部が蚊の様な声でつぶやくのみであった。
まことに日本のマスコミは相変わらずクズである。

ではいざ福島の二の舞の事故が起きた時に何と言い訳をするというのか。
原子力規制委員会のメンバーは、きっと辞めれば済むくらいに思っているのだろう。これも永年、わが国では政治家や役人の結果責任を問わずに来た悪弊なのであろう。
原発を推進したい一念で国民の命を平気で賭けるような連中に自分達の国を任せて良いのか真面目に考えないと、日本人は国家に対して自虐的な民族であると諸外国に冷笑されかねないと、我々もそろそろ気づくべきと思うが、いかがであろうか。

今回の被災状況をみて、つくづく思うのは、この震度7レベルの地震であっても、もし東京に来たらどうなるのだろう、ということだ。最近の、20年以内70%の確立で起きると予測される震度7レベル直下型関東地震のシミュレーションでは死者数万、家屋を失う避難民数百万と言われているが、都庁も、霞が関も破損して機能停止状態になったら、どこが救助、再建の指揮をとるのか?そのような国家存亡の危機の備えは都にも政府にもあるのだろうか?先に述べた災害庁だけは、せめて安全エリアに置いた方が良いのではないかと思うが、対策はどこまで建っているのだろうか?まともに考えれば都民はオリンピックに浮かれている場合ではないだろうに。
まあ政府の連中も自分の命だけは欲しいだろうから、何処か安全な所に大本営だけは造ってあるのかもしれないが。

我々一般国民は、冷静に理性的に考えれば、東京から早く逃げ出すしかないのであるが、なぜかパニックが起きるどころか、東京の人口だけは増え続けているらしいのである。
やはり都民も熊本県民がそうであったように、いつかは来るかもしれないが、今日明日にも自分ところに来るという自分事には考えられないのであろう。

「わかっちゃいるけど、、、 。」人間とはそういうものなのかもしれない。

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