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今年も「追悼記事2016」が各誌に載った

大往生 001
年末になると、週刊誌やテレビの報道番組で、今年亡くなった著名人の追悼記事が載るのが恒例になっている。大体似たような内容だが、掲載順で、あるいは写真の大きさの扱いで、各誌の個性が出ているようである。
最初に目にしたのが週刊文春であったが、グラビアでトップに出たのは、纏のハッピを着た永六輔(83)で、蜷川幸雄(80)と同じく、写真一枚が一ページ扱いで載っていた。
次いで大橋巨泉(82)、平尾誠二(53)、デビッド・ボウイ(69)、モハメッド・アリ(74)、フィデル・カストロ(90)が1/2ページ扱いで、平幹次郎(82)、冨田勲(84)、中村紘子(72、田部井淳子(77)、三笠宮崇仁(100)、べラ・チャスラフスカ(74)などは小さな扱いで続き、最後がまた1ページ扱いで千代の富士(61)が載っていた。

週刊朝日はトップが千代の富士で、平幹二郎、永六輔、蜷川幸雄、戸川昌子、中村紘子と続き最後に大橋巨泉で締め括ってあった。加藤紘一(77)、鳩山邦夫(67)など政治家は名が知られていた割には比較的地味な扱いであった。

TBSのサンデ―・モーニングでは墓碑銘として、逝去した日時のカレンダー順で紹介していた。テレビだからサイズで差別出来ないし、放送時間の多少の長短はあったが、30名くらいが比較的同じように扱われていたように見えた。

週刊文春を見た時に、すぐに感じたことは、あれっ、野坂昭如が無いではないか?であった。不思議に思っていたが、朝日にも載っていないので腑に落ちず、調べてみたら野坂は昨年の12月9日が命日であった。おそらく昨年の追悼集には時間的に間に合わなかったのかもしれないが、すっかり失念していた。しかも自分でもここで確か「野坂昭如レクイエム」の記事を書いていた。(ラプラスの妄想2015.12.23)

認知の衰えはいかんともしがたいものだ。

野坂と永は、昔、三木鶏郎の冗談工房の仲間であった。野坂が亡くなった時に、小生は自分の昭和が終わったと書いたが、永が亡くなって小生の昭和の残滓がすべて消滅したように感じた。

NHKの「夢で逢いましょう」で思春期を過ごした者には,永六輔は何と言っても中村八大、いずみたく、渥美清、E.H.エリック、大橋巨泉、坂本九、黒柳徹子らと一緒のグループの人間である。
今や、この中で残っているのは黒柳徹子だけになってしまった。

永のベストセラ‐になった「大往生」を改めて読んでみたら、親友だった‘いずみたく‘と中村八大をほぼ同時に失った痛切な喪失感をページを割いて書いており、永が喋った気持ちのこもった弔辞が載っていた。
永の葬儀の弔辞は黒柳徹子が述べ、文春にも寄稿しているが、良い友達というものは、死んだときに本当の価値が分かるものだと思った。
だとすると、黒柳徹子が将来亡くなった時には一体誰が追悼の辞を述べるのだろうか。彼女が本当に別れを告げて欲しい人、長年の親友たちは既になく、最後に残された孤独さが目に見えるようである。

永六輔も大橋巨泉も‘むのたけじ(101)‘も戦争を肌で知る世代で、生き方は違っても「戦争だけはしてはいけない」と終生言い続けていた。
政治をする側も、それを監視する側も戦争を知らない世代になり、今や社会に向かって「戦争はいけない」と体験から肉声で言うのは天皇陛下だけになってしまった感がある。

蜷川幸雄のように亡くなる直前まで現役で活躍されていた方もいれば、小川宏のようにしばらく表舞台から遠ざかっていた方もおられるが、見れば皆わかる人達ばかりである。
彼等の人生と小生の人生が殆んど重なっている方達ばかりだからである。

小生は追悼記事に載ることは決してないが、それでも「そろそろだなあ」と実感する年の瀬である。

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