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空耳妄言⑲―まるで「やくざ」と変わらない安倍内閣官房の精神構造

*空耳のように聞き流していいが、誰かが囁いたほうがいい話もある

しばらくブログを休みましたが、また再開しますのでよろしくお願い致します。

休むことによって、小さな出来事にいちいち反応しなくて済み、ものごとを少し余裕を持って見られるようになった気がする。
現在、大学入試の在り方を始め、教育改革の議論が中央教育審議会で進められているが、会長の安西祐一元慶応義塾塾長は、「受け身の教育から能動的な学びへの転換」を目標に掲げており、テストの方向も「事象を俯瞰し、情報を抽出・統合し、問題を発見し、理解する、問題の発見・解決プロセスの評価」になると言っている。(日経新聞2017.6.5朝刊)
この捉え方は世の中の様々な出来事の理解にも大事なことであり、この視点を踏まえて昨今の森友学園、加計学園問題を見てみようと思う。

結論から言えば、つまるところは、安倍内閣・官邸の度し難い体質に問題の根幹があったと言えよう。
森友学園の籠池氏や前文科省事務次官前川氏に対する官邸・官房の対応は、まるでやくざの振る舞いと同じだなと思ったとき、すべてが腑に落ちたのである。
忖度という無言の圧力は、「言わずとも、分かっているだろうな」というやくざの得意な強要であり、言うことを聞かなければ「ばらしてもいいのかい」という相手の弱みを握って脅しで支配しようとするところは、官僚のスキャンダルをネタに黙らせようとするのと酷似しているではないか。
これは官邸・官房のモラルの低さから来るが、それは、一つには現在の官邸・官房の最高クラスの権力者が揃って無教養であることも原因の一つであるかもしれない。
彼等は、日本の高卒以上の学歴ならまず誰でも知っている「瓜田に履を入れず、李下に冠を正さず」という君子行の一行すら知らないのではないかと思われる。言葉位は聞きかじりで知っているかもしれないが、少なくとも理解し身に付いていないことは確かである。
権力者は、とりわけ誤解を招かぬよう、人一倍慎重に身の振る舞いをすべきであると教えている。
法に触れる触れないという話ではないのだ。

何故このような二つのスクールゲイト事件が起きたかは、週刊新潮6月8日号のコラム「管見妄語」で、数学者の藤原正彦が簡潔に言い当てている。一つは2014年に内閣府・官房が各省庁の局長以上の人事権を握ったことである。これで憲法で国民の奉仕者であれとされた官僚の意識は完全に内閣への奉仕者に変わった。官房長官は高級官僚の生殺与奪の人事権と、スキャンダルを握ることで霞が関を完全に飼い犬化したのである。役人は内閣府・官房の意向を忖度してこそ出世の道が開かれるし、弱みを握られていては、何も抵抗できないであろう。
もう一つは、国家戦略特区という存在だ。これは小泉内閣時代に取り巻きの新自由主義者達がアメリカの要求に乗っかって作った超法規的な政策だが、パソナの竹中平蔵、オリックスの宮内義彦を始めトリクルダウン理論を唱えた当初のメンバーが今だに残っていて、利益相反お構いなしで、内閣府・官房の衣を借りて横車を押し利益誘導しているのである。

安倍内閣が何故これほどまでに強権的である理由を安倍首相と菅官房長官を病跡学的に見るのも面白い。
Wikipediaによれば、安倍晋三は元外務大臣安倍晋太郎の長男、昭和の妖怪と言われた岸元総理大臣の孫として生れ、成蹊小学校、中、高、大学法学部を卒業、カリフォルニアの英語学校から南カリフォリニア大学に留学するもあえなく中退。神戸製鋼に3年間勤務、その後父親の秘書官を1年勤め、父親の死に伴って世襲で衆議院議員に当選、その後はとんとん拍子で総理大臣になった。

著書「安倍三代」を書いた青木理によれば祖父寛、父晋太郎に比べ安倍晋三には書くべきエピソードが何も無かったという。思想・信条にも行動にも書くような履歴が何もないというのである。極めて凡庸で、ただ育ちのいいお坊ちゃんでしかなく政治信条は岸信介の劣化コピーでしかないという。要はサラブレッドの家系にありながら箸にも棒にもかからぬ劣等生であり、多少なりとも歪んだコンプレックスを持って成人したことは間違いないだろう。一方妻の昭江夫人は、森永製菓の創業家に生を受けたが、これまた聖心では有名な遊び人で落第生であったことは、聖心関係者では良く知られた話である。ま、ありていに言えば、安倍夫妻は超セレブ層のバカップルであったというところか。

菅官房長官は、大変な成り上がりである。秋田の農家の生まれで、地元の高校卒業後、集団就職のように上京し段ボール工場で働き始め、やがて政治家を夢見るようになり、金を貯め法政大学に入学、卒業し、同門の縁で政治家の秘書になり、横浜市会議員から国政に参入し、縁故、コネも無く、実力で内閣のナンバーツーに登りつめてきた人物である。
2人は生まれも育ちも違い、思いも違うだろうが、絵に描いたような優秀なエリートにコンプレックスがあると思うのは、あながち間違ってはいまい。小生は、このコンビが前川氏のような育ちも頭もいいエリート官僚をなりふり構わず力で抑えようとするエネルギーの源泉はそのコンプレックスにあるのではないかとみている。また年齢が、菅が8歳上なのもコンビのバランスがいいのであろう。

青木理によれば、劣化コピーに過ぎない世襲政治家である安倍晋三程度の人物に、なぜ戦後70年日本の政治が営々と守りぬいてきた平和への矜持がいとも簡単にくずされてしまうのか、どうしても理解出来ないという。

あえて言えば私の理解するところは、第一は野党の無能であり、第二は与党内政治家の無気力であり、第三はマスコミの無責任さである。特にマスコミの劣化は目に余るものがある。読売新聞が、内閣の広報機関であるばかりか、反政府的発言をする者のスキャンダルを記事にして、ブラックジャーナリズムに化すようでは何をかいわんやである。
TBSの政治記者のように、政府の提灯記事を書いてさえいれば、凖強姦罪も見逃されるような世の中であっていいのか。(週刊新潮6月8日号)
そういえば最近、元共同通信の田崎某のように臆面もなく露骨に安倍首相夫妻の肩入れをする政治評論家が現れてきたが、そのせいだろうか。

そして第四が国民のしらけである。このしらけが、安保法制も秘密法案も、共謀罪も強行採決を許してきた最大の原因である。このままでは憲法改正ですら、難なく成立してしまう恐れが出てきた。

ではどうするか。

まずは、わが国にもアメリカのような独立検察官制度を導入することである。行政から独立した調査機関を作らないと、「調査したが、見つからなかった。開示文章は真っ黒けののり弁状態。その必要はないと証人喚問の拒否。」などがまかり通り、現状はまるで容疑者に犯人探しの権限を与えているようなものだからだ。

そして我々がレジリエンス(心の逆境力、再起力)の一つである共感性を磨き嘘を見抜く力をつけることだ。
共感性とは、人が何を考え何を感じているかを心理的・感情的状態を示す非言語的情報、つまり顔の表情や声のトーン、ボディランゲッジなどから読み取ることである。
言葉の字面では何とでも言い繕えるのである。
例えば、この間の加計学園に関わる文科省の忖度要請文書の有無については、前川前事務次官の証言を信じるか、菅官房長官の談話を信じるかは、結局は共感力で判断するしかないのである。

そして根本的には我々が、自分達の明日の生活は政治が左右するという自覚を持つことだ。
気が付いた時には手遅れであったことは、しばしば歴史が教えるところである。

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